魔王と呼ばれた結界師は王女様がお好き

緋村燐

魔王と呼ばれた結界師は王女様がお好き

(心臓がバクバクしているわ)


 十六にしては少々控えめな胸は、大きい鼓動に叩かれて小刻みに震えている。

 なのに呼吸は浅くて、うっすらと開いた唇からはかすかな吐息しか漏れてはこなかった。


 座り込んでしまった床は石造りで、部屋着のドレス姿ではひんやりとした冷たさを完全に遮ることは出来ない。

 その冷たさは、この塔の主でもある目の前の男と同じだと思った。


 雪がしみ込んだような銀髪をゆったりと一つに結んでいる男。

 赤い虹彩こうさいは血の色に似ているのに、温かみはまったく感じられない。


 その冷気が乗せられているような眼差しで、男は自分を見下ろしていた。


 ジェラール・ラギエ。

 今年二十となる彼は、世界中の誰もが知る強大な力を持つ結界師だ。


 結界師とは世界中にはびこる魔物たちが国や街に入って来ないように守りの結界を張る者たちのこと。

 でも、ジェラールはその力を私利私欲に使っているのだそうだ。


 許可なく他国に入ろうとして問答無用で国の結界を壊したり。

 その結界を新たに張ってやるから多額の報酬を寄越せと脅して来たり。

 そのようなことを繰り返していたため、いつの間にか魔王結界師として有名だ。


 今も、自分を城から攫って閉じ込めようとしている。


『大国ナヴァルの末姫・ユリア王女。ナヴァルを手に入れるため、私と結婚してもらう』


 そう言ってこの境界の塔にユリアを連れてきたのだ。


 この境界の塔は国と国の境目、結界で守られていない魔物だらけの土地に佇んでいる。

 こんな場所、助けに来ようと思えば軍隊でも引きつれて来なければ不可能だ。


(お父様たちなら、それでも助けようとしてくれるでしょうけど……)


 脳裏に家族の顔が次々と浮かぶ。

 両親に、三人の兄と二人の姉。

 いつも誰かしら側にいてくれた人たちを思い出し、ユリアの翠の目に涙が滲んだ。


 末の姫だからか、たくさん守られて甘やかされて育ったユリア。

 蝶よ花よと大切にされ、大人しく優しい姫となった。

 ストレートの金の髪をふわふわな毛皮で作られた髪留めで飾っていることから、貴族たちはもちろん平民からも《ウサギ姫》と呼ばれている。


 今も寒さと恐怖に震える様はウサギを連想させるのだろう。

 塔に着いてから初めて口を開いたジェラールからもその呼び名が出てきた。


「愛らしいな、まさに《ウサギ姫》と言ったところか。……だがそのままでは冷える。こちらへ」


 魔王と呼ばれているとは思えない程優雅な仕草で手を差し出すジェラールに、ユリアは数拍迷う。

 この手を取って良いものか、と。

 だが、冷えるのは事実だし震える足では自力で立ち上がるのも難しそうだ。

 恐ろしい相手ではあるものの、結婚を望んでいるのならそれほど酷いことはしないだろう。


「……ありがとうございます」


 手を取り立ち上がって、少し迷いつつ礼の言葉を口にする。

 自分を拉致した相手に礼を言うのは何とも複雑な気分だった。


「……いや」


 だが、冷たさしか感じなかったジェラールの口元に笑みが浮かぶ。

 僅かに細められた赤い目には優しさが垣間見えた気がした。


 そのままエスコートされて暖炉に火がついた温かな部屋へと案内される。

 丸いサイドテーブルと共に置かれた椅子に座るよう促され、いつの間にか用意されていたティーセットで紅茶を淹れてくれた。


「……」


 思っていたより手厚いもてなしに、ユリアは驚き出された紅茶をまじまじと見る。

 フルーティーな香りの紅茶は高級なものだとすぐに分かる。

 独特のこの香りは城でも何度か飲んだことのある茶葉だ。

 春にしか味わえないもので希少性が高く、毎日飲めないのを残念に思ったのを覚えている。


「どうした? 飲まないのか?」


 カップに注がれた琥珀色の水面をジッと見ているだけのユリアに、ジェラールは眉を寄せた。

 その方眉が軽く上げられたかと思うと、赤い目が冷たく細められ口元には悪い笑みが浮ぶ。


「なんだ? 媚薬でも入れられていると思ったか?」

「えっ⁉」

「だが、それもいいかもしれないな。貴女が私のものとなるなら」


 紅茶を注いだポットを置き、ジェラールはユリアに覆いかぶさるように椅子の背もたれに片手をついた。

 もう片方の手の長い指が、ユリアの顎を軽く捕える。


「や、やめてください」

「私が怖いか? だが、離してやるつもりはない」


 クツクツと喉を鳴らす様はもはやウサギを狩るキツネの様だ。

 いや、そのまま食らおうとする姿勢はオオカミの方が近いだろうか。


「まずはその愛らしい唇を頂こうか?」


 流石魔王というべきか。

 怯える《ウサギ姫》にも容赦はなく、唇に食らいつこうとその美しい顔を近づけてくる。


「だ、だめ……」


(唇にキス? それだけは!)


『唇へのキスは特別なもの。いつかユリアだけの王子様が現れたときのために取っておくのよ?』


 母や姉が優しく髪を撫でながらいつも話してくれた。

 そんな特別なキスを会ったばかりの――しかも魔王と呼ばれる男に奪われるわけにはいかない。


(ほ、頬ではダメかしら? 頬なら兄様や姉様たちといつもしているし!)


 唇は特別だからダメだけれど、頬は親愛の証だからと毎日一度はみんなの頬にキスをしていた。

 ジェラールに親愛の情など無いが、それでも唇を奪われるよりはマシだ。


(女は度胸って姉さまたちも言っていたし!)


 意を決したユリアは、顎を捕らえていたジェラールの手を両手で掴み逃れる。

 そして近づいた白磁の様な肌理きめの細かい頬にその愛らしい唇をくっつけた。


(……あら? 度胸ではなくて愛嬌だったかしら?)


 ふと言葉の違いを思い出しながら離れると、思ったより驚いた表情があった。

 少なくとも意表はつけたらしい。


「そ、その……会ったばかりですし。……これではダメですか?」


 小首を傾げて問いかける。

 彼の手を取っていたため、お願いしている様にも見えたかもしれない。


「っ! あ……なっにを⁉」


 ダメに決まっている、とでも言われると思ったが、その薄い唇から出てきたのは戸惑いの声。

 そして、白い肌がみるみる真っ赤に染まっていく。


(まあすごい、人の顔ってここまで赤くなるものなのね)


 ものの見事に赤く染まった顔に驚く。

 だが、ここまで赤いと発熱でもしているのではないだろうかと少し心配になった。

 魔王と言えども、病人なら優しくしなくては。


「あの、大丈夫ですか?」


 熱を測ろうと手を伸ばすと、バッと距離を取られた。

 自分から近付いてきたというのに、真逆のことをされてユリアは目を瞬かせて驚く。


「こ、こんなに積極的だとは思わなかった」


 少しは顔の赤さを落ち着かせて、ジェラールは口元に手を寄せて呟く。


「え? 頬へキスしただけですが……?」


(唇にキスしようとしていたのはあなたですよね?)


「頬へキス、“しただけ”⁉」


 事実を口にしたら驚愕された。

 本当に何なのだろう?

 自分からもっとすごいことをしようとしていたはずなのに……。


(あ、もしかして自分からするのは良いけれど相手からされるとものすごく照れるタイプの方なのかしら?)


 思いついたことを確かめるように、ユリアは立ち上がってジェラールに近づく。

 だが、一歩近づくと一歩下がられ距離は縮まらない。


「……」


(……なにかしら。立場が逆転したような気分だわ)


 《ウサギ姫》と呼ばれる自分が魔王と呼ばれる男を追い詰めているとは……。


(あらやだ。ちょっと楽しいかも……)


 ニヨッと歪む口元。

 それを隠すように手を添えたユリアは、出来るだけ優しく見えるように笑みを浮かべる。


「そんなに怖がらないでください。私は《ウサギ姫》ですよ?」

「こ、怖がってなどいない。ただ、その……積極的な姫ならば対応を変えねばと思っていただけだ」

「積極的って……あなた様は唇にキスをしようとしたではありませんか」


 流石に呆れて指摘すると、また赤さを取り戻した顔で叫ばれた。


「するフリに決まってるではないか!」

「え?」

「あなたを攫うためにここまで抱きかかえてきただけでも緊張したというのに、その上美しく愛らしい唇に触れるなど……爆死しそうだ」

「はい?」


(爆死って……流石に大げさでは?)


「と、とにかく! キスはもう少し仲を深めてから――」

「では手でもつなぎましょうか? ハグでも良いですよ?」


 本当にハグまでするつもりはないが、試しに言ってみた。

 すると案の定。


「は、は、ハグ……⁉」


 ジェラールの顔は先ほどと同じくらい赤くなる。

 もはや顔から湯気が出てきそうだ。


「……」


(どうしましょう……これは、ちょっと本気で楽しいかも)


 口元の緩みが抑えられないほどになる。

 表情を取り繕うことが出来なくなり、クスクスと笑ってしまった。


「と、とにかく今日はここで休むといい。この先のことはまた明日話すとしよう!」


 赤い顔のまま表情だけは取り繕って、ジェラールはユリアを残し部屋を出て行った。

 閉じられたドアを見つめながら、ユリアは思う。


(助けが来るのは時間がかかりそうだし、ちょっとくらい楽しんでもいいわよね?)


 末姫で甘やかされたユリアは、実はイタズラ好きでもあったのだった。


END

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