一人ではいられないので、二人きりにしてくださいね
紫鳥コウ
一人ではいられないので、二人きりにしてくださいね
浮遊する主体は永久的であり、永久的であるがゆえに、地上から何度も観測され審議される。この場合の審議というのは審判を導出するためのものであって、批評の余地を外部にさえ残さない。批評と審判の違いは弁証法の果てに統一される二組のテーゼを、それぞれ内部に抱えながらも、半永久的に決勝戦を先送りにしている。それ故に、最終的な統一は常に延長され…………
「……はい、もしもし」
『わたしの人生はここまでのようです。いままで、ありがとうございました。大好きでした先輩』
「ちょっ、ちょっと!」
『先輩とらぶらぶな結婚生活を送り、最愛の子供とともに幸せな家庭を作っていきたいと思っていたのですが、どうやらここまでのようです』
「どっ、どうしたの? なにがあったの?」
知らず知らずのうちに不安や悩みを抱えていたのだろうか。ぼくは忙しさにかまけてそれをフォローできていなかったのだろうか。だとしたらすべてはぼくの責任だ。いますぐにでも駆けつけなければ!
『きゃあああああああっっっ』
「大丈夫かっ!
『もう……もうムリですっ! せんぱーい!』
わんわんと泣き出した莉莎子が訴えるところによると、風呂から上がってダージリンティーを飲みながら読書をしていると、視界の端でなにか動くものを見つけた。
眼鏡を外してぎゅっと目をつむり、もう一度かけ直すと、そこには紛れもなく「あのごそごそ動く黒い虫」がいた。あわあわとしているうちに、それは本棚の下へと逃げてしまい、本を読むことはもちろん眠ることもできず、身動きすらぎこちなくなっているとのことで……まあ、想像を裏切ってくれて安心した。
『はやく、きてください……』
ちらと机の上の時計を確認すると、日が改まるまで時間がなかった。
「いまからかあ」
『きて……』
「わかったよ。ちょっと待ってて。すぐ行くから」
『えっ? きてくれるんですか?』
「べつに、なにかしているわけでもないし」
『部屋の掃除とかしてないんですけど……』
「いまそれができるなら、こんな苦労しなくてすむんだけどね……」
来週までに提出する書きかけの批評文を保存し、バックアップを取る。迷ったけれどパソコンの電源も切る。
『少しくらい、嫌いになりそうなところを残してくれると、こっちも助かるんですけどね……』
「なんか言った?」
『いえ、なんでもないですよ』
「そう」
冬の夜だ――下着をヒートテックに変えて、着込めるだけ着込み、ラムネ色のマフラーを巻いて、鍵を片手に下宿を飛び出した。
* * *
「どうでしたか? いましたか?」
「うーん。どこにもいなかったけど」
「そんなはずがないです。もっと探してくださいっ!」
「はいはい……」
莉莎子の部屋を「物色している」ような形だし、気が引けるのだけれど。というか、見ちゃいけないもの(だと思う)だってあるし。
あらためて部屋に入り、本棚の隙間や机の下や、テレビの後ろなどをくまなく確認していく。懐中電灯で照らしてもホコリひとつないのは、この前に大掃除をしたかららしい。自分も見習わなければいけない。ずっと締め切りを抱えているとはいえ、ロクに掃除ができていない。
ドアの向こうから、莉莎子が呼びかけてくる。
「せんぱーい! いましたかー!」
ご近所さんの迷惑になるから、大声を出すなよ――と思うのだが、今回ばかりは大目に見てほしい。莉莎子にとっては、生死の境にいるような心地らしいので……。
しかし、こんな綺麗な部屋なのに、あの虫が出るだろうか。見間違いじゃないのか。
で、そのもっともな感想は、実際そうだったわけで――
「ほんとうに、この
「だって、読みかけの本に使っていたこの黒色の栞が、本棚の下から見つかったってことは、そういうことじゃないの?」
「でも、栞が自ら動くわけがないじゃないですか!」
「暖房じゃない?」
「えっ?」
莉莎子は眼をしばたたかせて、ぼくの次の言葉を待っている。
「エアコンの位置的に、強い風が送られてきてもおかしくないというか……お風呂上りに暖房をつけたんだったら、部屋の温度が一定のところにくるまで、風量が大きくなってもおかしくないし」
ぼくの説に納得しかねるのか、莉莎子はうーんとなにかを考えている。と思ったら、「よし」と小声で呟き、こんなことを言いだした。
「もう終電がないですよね?」
「うん。でも、それを見越して自転車で来たから」
「来てません」
「えっと……?」
「先輩の理屈は説得力に欠けるので、わたしはまだ安心できないんです。だから……」
莉莎子は突然、ぼくの胸にとびこんできて、ぎゅっと抱きしめてくる。そして、ちらっと上を向く。顔をほんのりと赤らませて。
「今日は、泊まっていってくださいねっ!」
一人ではいられないので、二人きりにしてくださいね 紫鳥コウ @Smilitary
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