第2話
ナダが、独立するにあたりだした条件は四つ。
一つ、独立後も『真珠軟膏(あかぎれや霜焼けの軟膏)』についての権利はジノンにあるものとすること。
一つ、ナダが作った『真珠軟膏』については、原価と同じ値段でジノンに卸すこと。
一つ、今後何があってもヨノと離縁しない。
一つ、そのかわり、独立以降にナダが作った薬ついてはナダに権利があるものとする。
これを、息子は両手を上げて、父親は渋々飲み、ナダはヨノと所帯をもつに至ったのである。
さてさて。
ナダとヨノの祝言はきちんと挙げられた。
ヨノは二度目だからと尻込みしたのだが、ナダの傍若無人ぶりは問屋仲間の間でも広まっていたものだから、何もせずに二人を出しては、「ジノンは出戻り娘を不良薬師に押し付けて厄介払いした」のだとひそひそされかねない。
それでは、いささか都合が悪い。
これから店を継ぐことになる若い息子夫婦にとっても、姉を追い出した冷血者と味噌がつくのは避けたいことだった。
商売というのはやはり信用から成り立つものであるからしてそこが崩れると弱いのだ。
よって、父親は伝手を辿って三年ほど買い手のなかった都の西の外れにある空き家を一つ買い取り、そこをナダとヨノの新居とするよう勧めた。
これにヨノは一層尻込みしたが、ナダは頭を下げて受け取った。
「自分だけではせいぜい長屋の裏店を借りるのが精一杯ですから。旦那様のおかげでお嬢さんを隙間風の吹く中に住まわせずに済みます」
誠にありがとうございます、と述べるのだ。
ヨノの父親は卒倒しかけた。
あのナダが!
いつもいつも生意気な目をして下から見下してくるナダが!
こんな話、お店の者たちに話しても誰も信じやしないだろう。
ここまでくると父親は少し薄気味悪さすら感じてナダに尋ねた。
「お前、どうしてまたヨノにそんなに惚れ込んだんだね」
父親は不思議でならなかったのだ。
ヨノは娘である。親の欲目も入れていいなら気立は抜群にいい子だが、それだけだ。
他の娘や息子のように、人目を引くような器量はないし、おつむりが弱いわけではないと思っているが、算盤も書取りも他の子のやり切るのに倍時間がかかったのは確かだし、裁縫や料理の腕も妻曰く可もなく不可もなくごくごく普通。
昔から何事もおっとりのんびりしていて、口さがない者たちに皮肉を言われてもにこにこしてるもんだから親の目から見ても「おまえ、さすがに今のは怒りなさいよ」と呆れ、ヤキモキさせられたことも一度や二度ではない。
対してナダはといえば、歩けば何も知らない町娘がキャアキャア騒ぎ、相手が一の皮肉を撃てば、十の皮肉で撃ち返すほど頭が回り、他の薬師が一刻かかって終わらせる作業を半刻で済ませて「ノロマ」と罵る。
一時が万事キリキリした男である。
父親は息子に押された手前、なかなか口に出せないが、本当にこんな男に娘を任せてもよいもんか心配でもあったのだ。
まさか、手を挙げることはないと思いたいが、ヨノのもたもたした動作に腹を立てて辛くあたったりしないもんか。
これに、ナダは切れ長の目をちょいと伏せて考え──。
「自分にないものを全て持ってらっしゃるので」
一言、ヨノの父親を見てまっすぐ答えた。
これには、父親の方も当てられて「そ、そうかい」としか言えず、この話はこれきりになった。
こうして、迎えた嫁入り当日。
ヨノが「やはり二度目だから」と恥ずかしがったので、賑々しい花嫁道中こそしなかったけれど、お店は馴染みの料理屋に頼んだ箱入りの祝いの品をしっかり配り、花嫁に真新しい絹の着物を着せた。
ヨノも花嫁から厄を祓う桃花の一枝を持ち、送り役を担ってくれたごま塩頭の番頭に手を引かれて、薬問屋ジノンの正面玄関から送り出された。
***
花嫁のヨノが、番頭に「お嬢さん足元に気をつけてくださいよ。いつもより長く拵えてまふから、しっかり裾を持って。ハレの日に泥がついたらいけませんからね」と口うるさく心配されながら新居に向かう一方。
ナダは一足に先に入った新居にて花嫁を迎え入れる準備をしていた。
といっても、必要なものはヨノの母親たちが何から何まで用意してくれているので、特別何かすることはない。
せいぜいが、戸を開けて風を入れ部屋を清めるくらいである。
ヨノの母親たちは祝言の宴まで手配しようとしていたが、それは断った。
ナダはどちらでも良かったが、ヨノが遠慮したためである。
小さな縁側から眺める庭にはこれまた背の低い梅と桃と桜が華奢な枝を伸ばしている。今は桃の盛りだ。
ここが空き家になる前。この家の住人は娘が産まれるたびに花木を植えていたんだそうだ。華やかに健やかに育つように願ってのことだったが、娘たちは全員七つを超える前に儚くなったと聞く。
二親の嘆きは深く、もうここには住んでいられないと家移りし、それでこの家は空になったのだ。
以来、この家ではどこからともなくきゃらきゃらと遊ぶ幼女の笑声が聞こえくるのだいう。
ナダはつい、と薄青い春の空を見上げた。
はたして、ヨノはこの話を知っているだろうか、と考える。
おそらくあの薬問屋の旦那は娘にわざわざ知らせたりはしないだろう。
かと言って、あのどこまでも鈍臭く人を疑うことを知らない世間擦れしてないお嬢様は、ナダのように自分で調べるということもしないはずだ。
だから、ナダのような男に彼女は利用されるのだ。
憐れとは思わない。
心も動かない。
腹を立てる価値すら感じない。
ナダはずっと一人になりたかった。
ナダには、生まれたときから父親がいなかったし、母は働き過ぎが祟ったのかある日頭が痛いと布団に横になったまま、二度と目を覚さなかった。
引き取り手がなかったために、住んでいた貸家の大家に売られて、人買いの元で二年いろんなことをして、生きた。二年目に人買いがお役人に捕まったので、食い扶持がなくなってしまい、困っているところを見かねた役人が、小さな薬屋を紹介してくれて、そこで働くことになった。
調剤は、面白かった。読み書き計算は人買いのところで覚えていたのが、幸いした。教えてもらったわけではなく、見て覚えただけだと言うと小さな薬屋の主人は驚いていたが、なにがそんなに驚くことなのかナダにはわからない。
ナダは師となる薬師と二人きりの薬屋での生活にそこそこ満足していたのだが、師はそう思わなかったようだ。
「おまえは、もっと外を知るべきだ」
そう言って、嫌だと言ったのに、ぽいっと薬問屋に修行に出されたのだ。
そっからはもう最悪だった。一番大きな薬問屋だというからお抱えの薬師たちもそれは立派なのだろうと思っていたのに。
まず、我慢ならなかったのは分業制だ。
ジノンは大きな問屋だから、量を用意するために、赤、橙、黄、緑、青、紫と人員を階級分けし、一目でわかるように階級にあった色の布を腕に巻かれる。
その上で、一番下っ端の赤の者は薬草にすら触れない。ひたすら掃除だ。橙になってようやく、薬草の棚分けを任され、黄で目方を測れるようになり、緑でようやく調合の下準備まで許され、実際に調合できるのは青になってからである。
薬師の下で調合までしていたナダだが、お店では新参者だからと赤に分類された。
これまあ、仕方ない。幸い掃除は嫌いじゃない。むしろ、調合する場に埃一つでも落ちている方が不愉快だ。そう割り切ってせっせと掃除していたわけだが、そうするとそれぞれの色に分けられた者たちの仕事が見えてくる。
まず、薬草の品質が悪い。薬草は番頭が仕入れているのだが、安く大量に入れるから状態の悪いものが混じってくる。これを薬師の方で見極めて避けなければならないのに、それをしない。ナダは目を疑った。
さらに、ナダより年上の橙が薬草の棚分けを間違えているのを目撃した。似ているものならいざ知らず、根と枝の違いもわからないのかと問いただしたい。
次に、黄が目方を計り間違えていた。さすがに見ていられず口を出して揉めた。曰く、それは緑の仕事なんだそうだ。それなら早くやれ。
かく言う緑の下準備は手早いが擦りが甘い。粉薬として出すのにそれでは患者が飲みづらいではないか。
この時点で、ナダの中から一応仮にも世話になった師の顔を立て他方がよかろうという気持ちは砂粒ほどにまで縮小し吹いて消し飛んだ。
つまらないものを見たくさくさした気分でいっぱいになった胸から息を吐き出し、考えた。
さて、どうやってこの店を出て行こうか。
雇われの薬師が独立しようと思ったら、相応に準備がいる。あちこちに挨拶をして筋を通さねばならないし、当たり前に金がかかる。
だが、ナダにはそれだけのものを用意できる伝手がまるでなかった。
かと言って、ただ暴れて咎められ追い出してもらうには、ジノンという店は大きすぎる。ジノンのような名の通った店から追い出された薬師に仕事を依頼する医者はいないし、薬売りのように売り歩くにもお国の許可がいるのだ。これも後ろ盾がないと厳しい。
ならば、どうするか。
つ、と考えてナダはさっさと階級を駆け上がることにした。
まずは調合をさせてもらわねば話にならない。幸いこれはさして難しいことではなかった。
これもさすが大店というところか、番頭も上に立つ監督役の薬師たちもナダをけんけん嫌うことはしてもそれで仕事の出来を貶すことはなかったのである。
よって、ナダはたった半年で青の調剤まで上り詰めた。
それでもナダにとっては長い月日だったが、その間にいいこともあった。
ヨノが婚家から出戻ったのである。
不良薬師の嫁取り @ktsm
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