第4話
二人は崖の上にいた。空は快晴、暖かい風の吹く朝だった。遠い地平線の近くには鳥が飛んでいて、足元に広がる森は風に揺られてざわざわと騒いでいるようだ。レオの両翼にはシシィが作ったカバーが着けられている。牛の革を使ったカバーだ。風の魔法がかけられたそれは、飛び立つのを今か今かと待っている。
「少し助走をつけたほうが良いかもな」
シシィが言った。
「分かった。走るのは得意だから、向こうの方から走ってくるね」
「しっかりジャンプするんだぞ。俺は空で待ってるから」
「うん!」
崖から遠ざかるように歩いていくレオは、くるりと向き直った。
「ねぇ、シシィ」
「なんだ?」シシィは杖に乗って空に飛び立とうとしていた。
「ありがとう」
そう言って、レオは再び歩いて行った。シシィはポリポリと鼻の先を指でかくと、あっという間に空に飛び上がった。
二十〜三十メートルほど崖から離れたレオは、目の前に広がる光景を感慨深く見渡した。いつも恨めしくて、愛おしくて、大嫌いで、それでもやっぱり手を伸ばしたかった大きな空が、今日はいつもより身近に感じる。どこまでも青いその空を、今日こそ飛んでやるのだ。ぱたぱたっと翼を軽く動かし、四本の脚も順番に動かした。これで準備運動も万全だ。崖の先の空で、シシィが待っているのが見える。駆け出そうとしたレオの脳裏に、崖から落ちた時の記憶がちらついた。躊躇ってもじもじしていると、空の上からシシィが叫んだ。
「おい! ダラダラするな! 待ちくたびれたぞ!!」
相変わらず短気だなぁと思ってレオは思わず笑ってしまった。だがおかげで体の緊張が解けた。足先の爪でしっかり地面を掴み、体をかがめた。次の瞬間、レオは飛び出した。太い脚で土を蹴る。低い足音が響く。風を切るように走り、あっという間に崖先までやってきた。「飛べ!」シシィが叫ぶ。それに合わせて、地面を思い切り蹴って飛び上がった。レオの体が宙に浮く。小さな翼がしっかりと風を掴んでいるのが分かる。ふと隣をみると、杖に乗ったシシィが目を丸くしてこっちを見ていた。飛んでいる!
「やった! 成功だっ!!」
思わず両腕を突き上げたせいで、シシィは危うく杖から落ちかけた。慌てて両手を杖に戻してバランスを取る。レオは嬉しさのあまり翼をたくさん羽ばたかせ、右に行ったり左に行ったり、ぐるりと一回転してみたりした。それでも、落ちない。しっかり飛べている。
「これならどこへでも行けそうだよ!」
そう言って、レオは満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり俺は天才だな。魔女一族の中で一番の魔法使いかもしれない」
「そうだよ! シシィは天才だ」
レオの言葉に、シシィは調子が狂ったようだった。照れくさそうに目を逸らす。
「ま、当たり前だな。もう少し飛んでみるか?」
「うん! せっかく飛べたんだ、もうちょっと空を楽しみたいよ」
「了解」
二人はそのまま湖の方に向かって飛び立った。青々とした森も、花咲く草原も、太陽の光を反射する湖も、いつもは地面から見るばかりだった風景が、空の上からだと格別に思えた。そうして湖を越えようとした時、バチッと強い静電気のような音がした。レオは、またシシィが魔法でも使ったのかと思って彼の方を見た。すると、シシィが青い顔をしてこっちを見ていた。何が起きているのか理解するより先に、体がぐらりと傾いた。突然バランスが取れなくなり、視界がぐるりと反転する。
「ーーレオ!!」
レオはそのまま落下し始め、ぐるぐると回転しながら落ちていく。杖に乗ったシシィが慌てて後を追いかけてくるが、必死に伸ばした手がレオを掴むことは無かった。ばしゃん、と音をたててレオは湖に落ちた。気絶する前に彼が見たのは、水面に煌めくさざなみと、沈む自分とは対照的に浮き上がっていく気泡と、突然水に落ちてきた竜に驚いて逃げていく小魚の姿だった。
それからレオの意識は暖かい何かに包まれて微睡んでいた。夢の中なのか、それとも違うどこかなのか分からない場所を、意識が行ったり来たりしていた。「レオ」と不安げに呼ぶ声が聞こえた気がして、暖かい海のような場所から彼の意識はゆっくりと浮上していった。
「……レオ? 目が覚めたの!?」
青くてふわふわの塊が、レオの鼻先にとまっていた。チッチだ。
「チッチ。どうしてここに?」
眠そうな声でレオが聞いた。
「どうしてもこうしても! 泳げないのに、レオが湖に落ちたっていうから心配で様子をみにきたのよ! もう、どうしてこんな無茶を」
「……空が飛びたかったんだ」
「へ?」
ゆっくりと起き上がると、分厚い布団が落ちた。どうやらベットに寝かされていたらしい。レオが横になれるほど大きなベットは初めてだ。四本足で立ち上がりベットから降りると、脚がズキズキと痛んだ。大人しく床に座り込んで辺りを見回すと、梁の見える天井に大きな暖炉、本がたくさん詰まっている本棚、くすんだ色のカーペットなどが目に入った。すぐそばの木製テーブルには読み古した本がたくさん載せてあり、その脇には緑色の液体が入った瓶が置いてある。窓から見える空には星が煌めいていて、本来ならピッピが寝ている時間だと気がついた。ピッピはレオの頭の上で丸くなり、時々うとうとしながらもレオの様子を心配そうに見ていた。
「気がついたのか」
ドアの向こうからシシィが現れたのは、ピッピが一度眠りに落ちた後だった。びくりと体を震わせて起きたピッピは、シシィを見て安堵したようだった。
「シシィも無事だったんだね」
「俺は平気だ。空を飛ぶのは毎日のことだしな」
シシィの髪が濡れたままであることに気がついていたが、レオはあえて指摘しなかった。
「この男が、私を呼びにきてくれたの。レオが湖に落ちて目を覚まさないって、酷く慌てた様子で」あくびをしながらピッピが言った。
「別に慌ててない」
「ふうん。ま、別にいいけど。とにかくレオが無事で良かったわ……ふわぁ。もう無理、限界。私は先に寝るね。明日の朝には仲間のところに帰らなくちゃ」
レオの頭から飛び立つと、大きなベットの枕の上にとまった。それからピッピは青い羽毛をうんと膨らませて、その目を閉じた。
「食べ物を持ってくる。暖かいミルクも……ミルク、飲めるか?」
「うん。ありがとう」
部屋を出て行ったシシィが再び戻ってくるのに、そう時間はかからなかった。「テーブルで食べるか?」と聞かれたが、洞穴で暮らすレオにとっては床の方が居心地が良かった。ミルクの入った皿と果物を床に置いてもらった。
「ここ、素敵なお家だね。暖かくて、いろんなものがあって。少し古びているけど、子供のころから住んでるの?」
ミルクを飲み干した後、レオが言った。
「ああ。そうだ。元は両親と俺が住んでたが、両親は貴重な薬草を取りに行くってしばらく旅に出てる。おかげで俺は気楽だよ。女の子と遊んでようが酒飲んでようが文句一つ言われないからな」
「ふうん。でも、なんだかちょっと羨ましいな。僕も洞穴にベットがあったら、今よりすこし寂しくないかも」
「ベットがあってもそこは変わらないだろ。少し寒く無くなるくらいでさ」
「そっかぁ。確かに、そうかも」
「まったく……呑気なやつだな。脚、多分捻挫してるから薬は塗っておいた。魔女特性の薬だけど、流石にすぐには治らない。しっかり歩けるようになるまではこの家に居ろよ。ここなら人間も近づけないからな」
「なんだか、何から何まで悪いなぁ」
レオはむしゃりと果物を頬張った。
「別にいいんだよ。親が帰ってくるまではどうせ一人だし。それに、今回のことは流石に俺が悪かったからな」
「え? どうして? シシィは何も悪くないよ」
「どうして? お前に怪我をさせたからだよ。丈夫な地竜じゃなければ、死んでもおかしくなかった。本来なら魔女は失敗したものは人に譲らない。嫌いなやつは例外だが。ーー俺は魔法が完璧じゃないと気がつくことすらなく、疑いもせずにお前に翼のカバーを渡した。その結果があれだ。もっと上手くやれると思ってた。簡単なことだって。それがあのザマ。これでもしお前がーーいや、やめとくわ。とにかく、あまりにも浅薄だったよ。もう二度とあんなことはしない」
はぁ、と大きなため息をつくと、シシィは顔を手で覆った。
「ねぇ、シシィ。僕は楽しかった。空を飛ぶのがあんなに気持ちが良いって初めて知ったんだ。森も草原も湖も全部きれいだった。そりゃあ落ちた時は死ぬ!って思ったよ。でも本当に本当に楽しかった。なんならもう一回飛びたいかも」
「相変わらずバカだなぁ、お前は」
シシィは苦笑する。
「それにね、お母さんとお父さんを探すためにもやっぱり飛ばなくちゃ」
「別に歩いていったって探せるだろ」
「あ……たしかに」
なぜ飛べなければいけないと思い込んでいたのだろう、とレオは思った。空を飛べればどこにでも探しにいけると思っていたのが、いつのまにか、空を飛べないと両親を見つけられないと思い込んでしまっていた。だがレオは地竜だ。どんな動物にも負けないくらい速く、長い時間走り続けることができる。
「別に飛ばなくてもさがしにいくことはできるよね。僕、もしかしたらここを離れるのが怖くて、探しにいけない理由が欲しかったのかも」
「そんなの、誰だって一緒よ」
いつから話を聞いていたのか、大欠伸をしながらチッチが言った。
「というか、お母さんとお父さんを探しにいきたかったのね。全然知らなかった」
「どうせ無理だって、思ってたから」
「もう、レオったら。でも、まだ大人じゃないのよ。大人じゃないレオが新しい場所に行くのを怖がったりするのは当たり前。最初の一歩を踏み出せないのはレオだけじゃない。だから、あなたがやってきたことは当たり前のことだし、悪いことでも間違ったことでもないわ」
「ありがとう、チッチ」
「それにね! どうしても寂しいっていうなら私がついていってあげる!」
「え? でもチッチには仲間がいるじゃない」
「そりゃあ少しは寂しいけど、鳥っていうのはね、どこにでもいるものよ。新しい鳥のグループを見つけたらきっと仲良くなれる。仲良くなれなくっても、またここに戻ってくればいいもの。だから、あなたの家族を探す間くらい離れたってなんの問題もないわ」
「チッチはすごいね。心強くて、大人びてて。もし本当にチッチがついてきてくれるなら、僕はお母さんとお父さんを探しにいける」
「ーーよし! じゃあ行きましょう! 飛ぶのは一旦なし。飲み物と食べ物を少し準備したら、明日にでも出発よ!」
「え、明日!?」
「待て待て」逸るチッチを、シシィが嗜める。「レオはまだ脚が治ってない。いくならせめて一週間後だ」
「え〜。待ちきれないかも。ま、いっか。私も仲間に一時のお別れを伝えないといけないしね」
「それがいい」
それから一週間後の朝。
レオが長い間過ごした巣穴はもぬけの殻となり、しんと静まり返っていた。巣穴からすこし離れた青い草が生い茂る平原には、悠々と歩く地竜の姿が見えた。彼の頭には青い小鳥がのっており、さらに上空の雲に近い場所を、杖に乗った魔法使いが飛んでいた。
飛べない竜 @rintarok
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