急
自室のベッドで目が覚めた。息が荒い。
「はあっ、はあぁ。」
深呼吸を一つして、気持ちを落ち着かせる。暫く見ていなかった悪夢を久方ぶりに見たので、心臓の鼓動が激しい。
「兄貴、どうしたの?大丈夫?」
「おお晶、ちょっと悪い夢を見てな、って毎晩毎晩俺の布団に潜り込んでくるのやめてくれよ!」
「いやだって、兄貴苦しそうだったし。」
「それはそうだが…」
まあ、思い出したくない忌まわしい記憶が夢に出てきてはな。
「まあ、もう遅いから早く自分の部屋に戻りなさい。」
「やだ、もっと兄貴にくっついていたい。」
「……睡眠不足だとエンサムで俺に負けるかもしれないぜ?」
「大丈夫、兄貴にくっついて寝ればグッスリできるよ。」
おうおうおう、これぞ処置無し。
そのとき、スマホがピコンと通知音を立てた。
「何なんだこんな時間に?」
早速メッセージアプリを開いて内容を確認する。すると目に飛び込んできたのは様々な文字の羅列であった。
「何これ……」
晶がそう呟く横で涼太はかつての様に暗号を生きた情報を持つ有機体に変換していく。
「兄貴………………?」
晶がそう尋ねる横で、涼太は眼の光を失わせていた。
「…………何でもないぞ、晶。ただのスパムメールだ。」
そう涼太は自然に笑って見せたが、その笑顔に晶は笑わなかった。
翌日、電車に乗り大型ショッピングモールに涼太は赴いた。
フードコートに入り、スパムメールに似せた暗号メッセの解読通りの席に着いた。
男が現れたのは暫くしてからだった。
「お久しぶりです、コーディネーター。」
実のことを言うと、この男の名前を涼太は知らない。でもこれがこの世界の常である。
「久々だな、メンデル。」
メンデルとは涼太のコードネームである。「メンデルの法則には血が通っていない」という涼太の言葉からつけられたコードネームである。
「お前が辞めてからはや一年チョイ、こうして接触するのが懐かしい。」
「そうですね。で、本題は?」
男は懐から葉巻とライターを取り出し火をつけようとした。
「ここ禁煙ですよ。」「そうか失敬失敬。」
男はいそいそと煙草を仕舞う。
「ちょっとはニュースを見ていたら知っているだろうが、こないだ国会で省庁改編法案が通過した。そこで内務省情報庁が設置されることになったが、そこに各省庁の情報機関が吸収合併されることになった。陸自からは極秘裏に我が別班が吸収されることになった。そこでメンデル、貴様に情報庁の乙種情報員になって欲しい。」
暫くの間があった。
「別班は一年前に辞表を叩きつけた筈ですよ。」
「要は戻ってこいってことだ。実績があるじゃねえか。」
「…………それが原因で辞めたんですよ。」
事の経緯を簡単に言うとこうである。
武力衝突の少し前、中国政府は日本やアメリカ等の情報当局の現地中国人協力者を一斉検挙した。それにより西側各国の情報収集能力は大きく低下、基本的に情報収集は衛星写真頼みとなった。そこで逮捕を免れた情報員達も中国側の警備強化と顔バレのリスクにより容易に基地周辺に行けなくなった。
情報収集について各省庁間の協力体制が確立していなかった日本はこれにより他国より情報収集及び分析能力が低下、在中日本公館は混乱し中国軍の部隊移動の兆候を掴むことに失敗した。
ところが、涼太が上げた報告には部隊が移動した証拠が多くあった。それにより中国軍の動きを事実上殆ど掴めていない日本政府は万一に備え自衛隊に対して防衛出動準備を発令。その結果準備時間を稼げた自衛隊は日本の領域防衛に成功した。
つまり涼太は日本を護った陰の功労者と言える。
「確かに多分に運がいいという事は否定できない。だがそれでも運の良さも実力だ。それに英雄である貴様が入れば士気が上がる。それに貴様はこの業界ではちょっとした有名人だしな。」
「…………俺の背中は何本十字架を背負っていると思いますか?」
「どうした、出し抜けに?」
「五百二十三」
「…あの衝突の死者数の合計か。でも気に病む必要はない。お前がいなかったらもっと多くの人命を失ってしまったかもしれない。」
「だから…………………」
「だが今回は死傷者には民間人が一人もいない。」
「だからと言っても正当化できないだろッ、俺が導いた結果をッ!」
思わず大声で叫び、衆目の注目を集めてしまった。
「すみませんすみません。」と周囲に平謝りをして席に着いた。
「もう俺には家族がいるんです。確かに血のつながりは義母や義妹はおろか、親父とすらありません。でも家族なんです。」
涼太は声の大きさに気を付けながら話を続ける。
「もう彼らは俺にとってかけがえのない人なんです。だから守りたい。泣いてほしくない。」
涼太の目には知らず知らずのうちに光るものが溢れそうになっていた。
「去年の冬に偶々再会した中学の同級生がいるんですよ。そいつの親父は南西諸島に展開していた陸自高射特科の下士官で、中国軍の攻撃によって弾薬庫ごと吹っ飛んで骨も残らなかったと言っていました。いい親父だったそうです、基本的に毎晩電話をくれたりしていたらしいので。」
男は黙って涼太の話を聞き続ける。
「本当にごめんなさい、だけどこれ以上十字架を背負いこむのはごめんです。」
男ははあっと息を吐き、冷徹な眼差しでこう言った。
「そうか、では君の言う家族の安全を我々は保障できないな。」
「何、だ、と、」
今までに無いぐらいに涼太のこめかみに青筋がくっきりと表れた。
「じゃあ入るか?」
涼太は深呼吸一つして返答する。
「俺の家族を脅かすのは許さない。そうなるぐらいなら俺は「ちょっと待ったーーッ!」」
突然この会話に乱入する人間が現れた。
「げっ、西山⁉」
この会話を一番聞かれたくない奴に聞かれてしまった。あと聞かれたくない奴には西山とか西山とか西山とか。
「先輩、自分がピンチなのを分かってますか?それなのに開口一番『げっ』は無いですよ。」
するとぞろぞろと見知った顔が出てきた。
西山や伊藤をはじめとする演劇部の連中や光惺、ひなたちゃん、そして晶と晶の親父の健さんだった。
そして、次に口火を切ったのは健さんだった。
「貴様!うちの娘の兄貴を侮辱するとはいい度胸だな。」
そう言いながら腕をボキボキ鳴らす。
男は顔面蒼白であった。
「どうしてあなたがここに⁈」
「どうもこうも、そこにいる晶の親父だからだよ。」
一方で涼太は光惺に平手打ちを食らわされた。
「おい光惺、何でひっぱたいたんだ⁈」
「お前ちょっと抱え込みすぎだ。もうちょいひなたとかこのチンチクリンを頼れ。」
「光惺は?」「メンドイからパス。」「オイ。」
次はひなたちゃんが話しかけてくる。
「今までごめんなさい!」
何か突然謝られた。
「えっ、何で⁈」「だって、かなり辛い思いを涼太先輩はずっとしてきたじゃないですか。それなのに私はお兄ちゃんのしょうもない相談や愚痴ばかりで…」
「いやいやいや、こっちこそ助かったよ。メンタルの維持は結構きつかったからそうやって普段通りにしてくれるととても助かる。」
「でもごめんなさい。」
終わりの見えない謝罪合戦が続く中、晶はそっと一冊のノートをカバンから出した。
「これ、兄貴の机にあったよ。」
それは先の武力衝突で亡くなった方たちのことを事細かに涼太がまとめたノートであった。
無論まだ殉職した自衛官全員分についても書き終わっていないが、それは記録の中に人の人生を残しこの世に少しでも生き続けられるようにという涼太なりの贖罪の表れであった。
「晶…」
そのノートを晶は男に差し出した。そしてこう続けた。
「これが兄貴の気持ちです。」
男は最初は受け取ることを拒否しようとしたが、健さんが「おい、受け取れやゴラァ。」という本職のヤクザ顔負けの強面で迫り、無理やり受け取らせた。
そして「ボウズ、後で返してやるからこれを借りるぜ。」と言って健さんは男と二人で消えていった。
そして西山たちも「私たちは多分お邪魔でしょうから消えますね。」と言って演劇部員と消えていった。西山相手に要らん借りを作ってしまったことは痛恨の極みである。
その場に残ったのは涼太、晶、ひなた、光惺の四人であった。
そして四人は場所を変え、涼太は過去をすべて洗いざらい話してしまった。
「…という事なんだ。ここまで話して何だが、このことは秘密にしておいてほしい。」
真っ先に口を開いたのは光惺であった。
「んじゃ借り一つな、と言いたいところだが今回はいささか話が大きすぎる。バラしたらかなり危ないし、今まで散々苦しんできたんだ。これは借りとはしねえよ。」
「光惺ぃ…」
「あっ、やっぱ借り一つで。」
「オイ。」
結局光惺は安定のド畜生であった。
「涼太先輩、今度は私たちにも相談してくださいね。」
ひなたちゃんが満面の笑みで涼太に語り掛ける。
「ありがとう。」
久々に本当の笑顔が作れたような気がする。
「兄貴、ちょっと来て。」
ここで晶が涼太を手招きして呼んだ。
「何だ?」と近づくと、いきなりぎゅっとされた。
「あっ、晶⁈」
光惺はやれやれとした顔で、ひなたちゃんは相も変わらず聖女の様な笑顔と眼差しを向けてくる。
「兄貴、もし兄貴がいなかったら僕たちは今生きていないのかもしれないよ。」
絶句した。
「確かに兄貴は五百二十三人の十字架を背負っている。だけどね、兄貴は確かにたくさんの人を救ったよ。それはもうたくさんの、天使の輪を貰ったんだ。倖せの、空に浮かぶ天使の輪を。」
そして晶はゆっくり語り続ける。
「だから兄貴、安心して。」
その瞬間、涼太は年甲斐もなく晶の腕の中で泣き始めた。
先ほどのショッピングモールの駐車場に止まっている一台の白色のセダンの中で健さんと男は座っていた。
「引っ張られるとき痛かったですよ。」「ははは、すまんすまん。」
健さんは少し豪快に笑った。
「で、班長どうします?メンデルの再勧誘は?」
少し考えてから健さんは言った。
「もう別にいいだろ。自衛隊員の服務の宣誓を忘れたか?」
男はふっと笑った。
「そうでしたね、姫野一佐。」
そう言われて、陸上自衛隊運用支援情報部別班班長姫野健一等陸佐は車のアクセルを踏んだ。
じつは兄貴の過去を知ってしまいまして… 考えたい @kangaetai
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