第1章⑨――私にとっては試練
「一応、遊んでみるか」
「遊ぶ?」
聞き返した瞬間に、眼前が赤く染まった。
風圧も気配もなく。
それがシズクのサングイスであることに気づいても、鼻先に向けられた意図が、私にはわからなかった。
「殺し合いが好きなら」
これがいいんだろう、と。
一度、縦に大きく振りかぶって。
鈍い私は、その言動の意味をようやく理解する。
「シズクっ」
心臓が止まるような鈍い高音が鳴る。初めて聞く不思議な音。椅子と教卓が倒れる振動。しかし、痛みも衝撃もない。瞑っていた目を開ける。黒板の前、先ほど座っていた位置から少し後ろに、シズクは十字架を掲げながら立っていた。振り下ろさなかったのか? 否だ。弾いたのだ。だからあの耳障りな金属音がしたのだ。
シズクと私を隔てるように、半透明に薄紅色の六角形が浮かんでいた。
「それが、」
お前のサングイスか、とシズクは言った。
私のサングイス。目の前に浮遊する、私が顕現させたそれを見る。小さく薄い、赤い多角形のタイルが集まって、幾何学模様の壁を形作っている。私はその壁を、例え触れなくとも自在に動かせる。組み合わせ方やタイルの角数を変えれば、サッカーボールのような立体物も可能だ。数センチ程度の、三から六まで多角形を随意に操る能力。正六角形を作るのが精神的に楽だから、いつもタイルをそうしているに過ぎない。
命の危険で反射的に顕現させた壁が六角形なのも、そんな理由だ。
……壁。
つまりは盾、スクートム。
その役目は守ることで、クリーチャーを倒すどころか、傷つけることすら能わない。シズクの十字架と比べることもおこがましいなまくら。
願いとは真逆だが。
暴力を嫌悪する私に、似つかわしいサングイスである。
「いいサングイスじゃねーか。おもいっきり殴ってもびくともしない。反応もいいし、もっと本気になった方がいいのか?」
シズクが恐ろしい言葉を言って、私は我に返る。
「……ちょっと待って。冗談……」
後ずさりながら、そんな可能性はないと思い直す。あれは殺すための一撃だった。死なないにしても、当たれば確実に体が欠損するような一撃。彼女はグラディウスなのである。その一振りは日常生活の枠を超えた、冗談では済まされない攻撃に相違ない。
どん、と背中に何かぶつかる。
机だ。ここは狭い教室である。
あはあ、と。
彼女は膝と足首を曲げ、姿勢を落とし、
十字架を持った片手をだらんと下げ、
しかし踏み出す足は力強く。
「冗談じゃねえよ」
次の瞬間には私のサングイスの横を通り過ぎ――
吐息の混ざった風圧が皮膚を薙いだ。
頭が凍るように冷たくなって、危険信号で視界が青みがかる。足を滑らせて転ぶ瞬間を思い出した。今は転ぶだけじゃ済まないが。
死。
はっ、と呼吸する。
死んで――いない。
避けたのだ。スウェーバックではなく、屈むような体勢で。考える間もなく、反射で無理矢理だったから、無様に転ぶ。何かが砕かれるすさまじい音。私の背後にあった机と椅子が吹き飛び、残骸がばらばらと床に落ちたのが見えた。
「休んでる暇ないよ」
地面のボールを打ち上げるように、シズクがサングイスを振り上げていた。
振り子の要領で。
「敵意しかないから」
とんでもない打撃が私を打ち抜く。
骨と骨が打ち合って共鳴するような、小気味いい音。
重力が二転三転しつつ、全身を鈍い衝撃が何度も殴った。途中ガラスが割れる音もした気がする。揉みくちゃになりながら転がり、無様な呻き声をあげて私はようやく止まった。
「いてて……」
痛みに耐えながら体を撫でまわし、怪我がないか確認する。スイングが私のみぞおちにめり込む前に、なんとかサングイスを滑り込ませられたようだ。球体にして体を包むようにしたから、大事な怪我もない。見渡すとどうやらゴルフボールのように打ち上げられ、窓を割って中庭まで飛ばされたらしい。
「クリーチャーは。他に何の感情も持ち合わせてない。疲れないし油断もしないから、お前みたいにぽうっとしてたら」
すぐに殺されるよ、と。
シズクは窓から外へ出ると、そう喋りながら近づいて来た。私はサングイスから脱出して立ち上がり、もう一度、壁のように前へ展開する。そう何度もボール状にして打たれたら、たまったものではない。
夜である。中庭はバレーコートほどの広さで、灯りとして中央に外灯が一本ある。恐らく黒っぽい金属でできていて、とても高い。他は数本の木とベンチくらい。障害物がないから逃げるのは難しそうである。月も出ていて、暗さに乗じることもできなさそうだ、と考えをまとめる。
つまり、なんだ。私のサングイスは武器になるようなものではないから……。
防御し続けるしかない、ということか。誰かこの異常事態に気づくまで。もしくは、彼女が飽きるか諦めるまで。私が死ぬまで。
ちょっと素敵なことに思えた。
胸が熱くなる昂揚感。脳味噌に血流の乗る充足。
シズクが与えてくれると言うのだろうか? クリーチャーではなく。
地面を蹴る音。
「反撃しろよ」
闇を割いて、真紅の刃が目前に迫る。
考える間もなく。
「私をクリーチャーだと思ってさあ」
内臓まで震えるような激しい炸裂音。
私の盾が弾かれる。
距離が詰まる。
死が迫る。
赤壁の向こうで、シズクが縦に振りかぶっているのが透けて見えた。
「そんな薄いので守ってんじゃねーよ」
上から一撃。
角度の違いか、今度は歯が浮くような重低音だ。
自分の盾に押しつぶされる。
次、甘い角度で受けたら、体勢を崩してしまう。
呼吸を整える。
受けきらねば。それだけに集中しようと心を決める。
六角形の中心で受け流すか、弾き返すように。
半円を描いた斬撃が、水平に私の体を薙ぎにくる。
「あっ」
十字架があらぬ方向に跳ね、シズクが声をあげる。予想外と言ったような。あまり舐めないで欲しいな、と私は思った。スクートムなのだ。盾職なのだ。殺すより守る方が得意なのだ。哀しいことに。
シズクはしばし剣先を見つめ呆然としていたが、すぐにキッと私を睨みつける。
「戦いたいんじゃねーのかよ!」
ぐるりと。
盾相手じゃ埒が明かないと思ったのか、芝生を蹴って回りこんでくる。
目を奪われるようなフットワークで、私のふところに。膝を猫科動物のように畳んで、次の瞬間には低い姿勢から十字架が突き出される。受ける。思わず後退。後ずさりながら、シズクの目線が足元に向いているのを確認。予想通りの足払いがきて、サングイスを下げる。受ける。素晴らしいスプリントだ。左にいたかと思えば既に右へスイッチしている。身長くらいある刃物を担いでいるのに、息切れしていない。受ける。受ける。また受ける。夜風が火照った体を癒して。
申し訳ない、と思った。こんななまくらで。
だからシズクは怒っているのだ。彼女のサングイスから怒りが伝わる。荒々しく、手を変え品を変え、多彩に殴りつけてくる。恐らくそれが私の憧れるものだ。死を招く膂力と質量を振り回して、クリーチャーを殺す。クリーチャーも同じようにしてくれる。余計な感情もなく。
殺意のみで互いに他の感情を抱き得ない関係、というのが大事かもしれない。だから人間ではなく、クリーチャーなのだ。あの式典会館で感じた殺意。先輩に対する、無機質でごみのない敵意。それ以外に考えることもないのだろう。
刃を交える以外、対話の方法がなければ、私の希望の条件を満たすようだ。あとは、そう、私の感情の問題。例えばシズクは怒っているようだけど、私は怒ってなどいない。ゆえに戦う理由などない。シズクは私と同じような感性を持っている気がするから、友人になりたいのだ。
けれどもし、私に力があって。
彼女も怒りであれなんであれ殺意を持って。
私と対等に、親身になって刃を向けてくれるのであれば。
殺し合うこともやぶさかではない。
と、夢想する。無理な話だ。対等なんかじゃない。私の盾では殺せない。それに、普通は殺されるのなんて嫌だ。人の嫌がる暴力は好きじゃない。
「……しゃらくせえなあ!」
盾が十字架をもろに受け、私の体ごと殴りつける。考え事で集中を一瞬、切らしてしまった。均衡が崩れ、一撃ごとに後退する。夜露に濡れた芝生が滑って、踏ん張りがきかない。薄い装甲だから、今にもばらばらに壊れてしまいそうだ。一本だけの外灯が彼女の顔を照らす。眉間に皺を寄せて、怒っているような。でも、なんか、落胆というか、呆れというか。
なぜだろう。
がん、と。
放ちかけたシズクのサングイスが跳ね返った。私の盾に触れる前に。怒りで周りが見えなかったのか、外灯の支柱にあたったようだ。ぐわんぐわんと豪快な音が鳴って照明がゆれる。切れると思ったが、意外に大丈夫であった。あの十字架をまともに受けたのに。これなら外灯を壁にしつつ、シズクと追いかけっこした方がよさそうである。
「くそが、なんでこんなところに立ててんだよ!」
叫ぶシズクと反対方向になるように、外灯を回る。
ぐるぐるぐるぐると。
互いの呼吸音が聞こえる近さで、回り続ける。
「逃げんなよっ」
逃げたくないよっ、と叫ぶ。私だって。
もし盾じゃなく剣だったら、こんなことしないよ。
「サングイスは倒すためにあるんだろっ」
その通りだ。
痛いほど正論。
でも、よくそんな残酷なこと言えるね。
私のサングイスを見た後で。
「お前本当にわかんねーよ。何がしたいんだよ。どうしたいんだよまじでカス」
なんでそんなに怒っているのだろう。
もしかして、何か期待でもしていたのかな。
私が同類だっていう。
だから、シズクの表情から落胆を読み取れたのかもしれない。
ごめんね。
支柱の向こうで、十字架を担ぎながらシズクが走っている。私も追いつかれないように逃げる。なんだか、ちょっと楽しいな、と思った。鬼ごっこってこういう遊びなのだろうか。偶に逆回転したり、フェイントを入れられて。カノンも私もインドア派だから、こういう体を動かすような遊びはしたことない。本で読んだだけで、体験したことがないことはたくさんあるのだ。数えきれないほど素敵なこと。
支柱越しに見つめ合いながら、私たちは回る。
支柱。外灯の支柱をじっと見る。走りながら。
微妙に凹んでいて、これは先ほどシズクが殴った箇所だ、と思った。他に大きな傷はないし、恐らくそうだろう。それは細長い棒でつけられたような凹みだった。例えばバットのような。
バットで殴られたような。
凹み?
不自然が胸を突っつく。
シズクはグラディウスだ。剣だ。剣は切り裂くものだ。剣は鋭いものであるはずだ。
ということは。
ああ、本当にお遊戯であったのだ。ならばこんなの、無駄である。私は走るのを止める。シズクも減速して、私のすぐ横で止まった。そして舌打ちしてサングイスを大きく振りかぶる。少し待ったけど、振り下ろされることはなかった。なんでだよ、と彼女は言った。
「なんで戦わねんだよ。なんで逃げるんだよ。なんで止まるんだよ」
分からない、とシズクは吐き捨てて、サングイスを消す。
「……いや、もういいよ。分かったよお前のことは。サングイス持ってても行使できない意気地なしなんだな。なにが似てるだよ、同類だよ。全然ちげーじゃねえか。嘘つき。……時間の無駄だったかよ、くそが。いいか、二度と私に話しかけるな。ちょっとでも近づいたらその頭かち割って――」
「潰してるんでしょ、刃」私は言った。
「あ?」
「殺す気なんかなかったんだよね。だからサングイスをなまくらにしたんだ。ほら、外灯だって切れてない。いつものなら両断してるはず。きっと、私を殺さないようにしてくれたんだね」
「はあ? お前……」
優しい人だ、と思った。サングイスを消したのも、興が削がれたからだろう。私に期待したものがなかったから。
やっぱり、人間は殺し合う相手に相応しくない。
思いやりも感情もある、血の通った暖かい人。
だからクリーチャーが適格なのだ。シズクみたいな優しい人間とは戦うべきではない。
そう思った。
「……待てよ、お前本当に……」
「なに?」
私は聞き返す。シズクは、まさか、と深刻な表情で呟いたかと思うと、は、と息を漏らした。瞼に手をやり、何回か肩をひくつかせ、そして天を仰いで、すぐに大笑いへと変わった。
「あは、は、ふっ、……あはははははは!」
困惑する。なにがそんなにおかしいのか。でも、
シズクは真面目な顔も素敵だけど、笑った顔の方がいいなと思った。
「いいよ」彼女は笑いの余韻を滲ませながら言った。「いい。おもしれーから。いいよ、友達になってやる」
「へ、いいの?」
「ああ」
「本当に?」
「しつこいなあ。いいって」
状況が理解できなかったが、冗談ではないらしかった。
「えと……やった!」
そう叫んで、私はばっと両手を挙げる。私とシズクに近しい物があるという事実を、今の一連の試合で認めてくれたのだろうか。そう思うとうきうきして、熱した蜜を胸に流しこまれたような気持ちになった。友達になって、教えてもらうのが夢だった。クリーチャーに刃を突き刺す手触り、手ごたえを。雲散霧消する彼らを葬送する風情を。私の手にできないもの、憧れがどんな素晴らしいものに向いているのかを。
聞いて、諦めがつくのが心配である。
でも、まあ、とりあえず。
「やった、友達。増えた!」
しっ、とシズクは唇に人差し指を当てる。「うるさくするな。ふけるぞ。派手にやったから、いくら夜とはいえ誰かが……」
そこでシズクの声は遮断された。ウーウーというけたたましいサイレンが、夜空に鳴り響いたからだ。この音色は敵性の緊急事態を知らせる合図だ。私とシズクは顔を見合わせる。敵襲か、クリーチャーか。もしくは……。
強い口調でアナウンスが読み上げられる。
「……居住棟よりレナトス三名の脱走あり。サングイスの顕在化も確認。アルクス、スクートムで、もう一人は不明。こちら側に負傷者在り。繰り返す、負傷者在り。レナトス三名脱走。サングイス顕在化も確認。アルクス、スクートムで、もう一人は不明。遭遇しても決して……」
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