第1章⑧――彼女にとってはお遊戯
空き教室の電気が点いていた。
「…………」
寒気がして、全身がそそけだった。自分を落ち着かせるために七秒吸って、五秒息を止める。そしてその倍の時間吐く。トウカさんから教えてもらった、落ち着く深呼吸のやり方だ。あまり効かなかった。うろ覚えだったから、どこか間違っているのかもしれない。心臓をどきどきさせながら、私は扉に近づいて嵌めガラス越しに中を覗いた。机と椅子が後ろに下げられていること以外、普通の教室と変わらない。と、そこで気付く。教卓だ。誰かが行儀悪く足を教卓に乗せて、肘掛椅子に座っている。板状のものを両手に持って。あれは何だろう。板から伸びている線はその人物の耳に繋がっていて、確かイヤホンと言ったはず。着ているのは制服ではなく寝間着らしい。身長から察するにレナトスだろうが、ならば服務規程違反である。とりあえず幽霊ではないと分かって胸を撫で下ろした。つまり幽霊騒ぎは、この不良生徒が正体だったのだ。そう安心した私が覗くのを止めるのと、不良生徒が板から顔を上げるのはほぼ同時だった。私は二度見した。教卓からシズクがじっとこちらを睨んでいたからだ。
「…………」
何秒か経った。不意にシズクが耳から線を抜き、板を教卓に置いた。そしてちょいちょいと手招きをした。私はおっかなびっくりしながら扉を開け、教卓まで歩いた。
鉄面皮のシズクは足を下ろし、片手を挙げた。
「やあ」
「…………」
「どうした? こんな時間に」
「……ええと、ほら、これを取りに」
とっさに手提げから本を取り出す。シズクは、ああそういうこと、と平坦な口調で言った。納得しているようには思えなかった。
「なるほどな。読書家なんだ。珍しい」
「うん、そうなんだ」
「で、なんで覗いてた?」
「それは……ほら、もう遅いのに電気が点いていたから、気になって」何か疑われているなと思った。話を逸らすために付け加える。「あと、教室棟でジャージは禁止だよ」
ふ、とシズクは笑った。「禁止だから、何?」
「え?」
「それであんたが何か害を被るわけ?」
「いや……でも、見つかったら怒られるのはそっちだよ」
「私はいいんだよ」シズクは不敵に言い放った。「大将のお気に入りだからね」
「大将? 大将って……」
「あいつだよ。ササムラ」
「ササムラ……まさか、長官のこと?」
「うん。だからパジャマ着てても怒られない。この教室の鍵だってもらったんだから」
ササムラ長官はこの基地の司令官であり、つまり最も強い権限を持つ、レナトス上がりの人物である。にわかには信じがたいが、確かに鍵が無ければ教室には入れないだろうし……。
この端末だって大将から貰ったんだよ、とシズクは言った。
「端末?」
「昔、流行った携帯だよ。でも発表されてすぐに世界崩壊したから、生産が終了しちゃった」
シズクは端末と呼ばれる板を掲げた。小さめの缶ペンケースくらいの大きさで、見れば片面がモニターになっていた。携帯と言うより小型テレビのようである。私が見たことある携帯はボタンのついた折り畳み式のもので、違和感があった。
「脆かったし、材料が高価だから駄目だったんだろうね。世相に合わないから廃れたんだ」
「……その端末で何してるの?」
「オトゲー」
オトゲー、と私はオウム返しした。寡聞にして知らなかった。基地に入ってから、私の常識知らずが白日の下に晒されたわけだが、これはどっちだろうかと考える。つまりは、いわゆる誰でも知っている常識か、あまり一般的ではないマニアックな知識か。
「音楽の音に、ゲームで、音ゲー」見かねたシズクが教えてくれる。そこまで不審そうではなかったから、後者ということらしかった。「ゲーム持ってるやつが少ないからな、今は。私もゲーム機が欲しかったんだけど、大将が贅沢すんなって言ってこの旧時代の遺物をくれたんだよ」
「音ゲーね……」音楽ゲームの略だったら、オトゲーじゃなくて、オンゲーじゃないかと思った。「でも、つまり端末って携帯の一種ってことでしょ? そういうのもできるの?」
「うん。電話もできないしネットにもつながらないけど、ゲームが何個か入ってるんだ」
「それは……」
もう携帯ではなくゲーム機だろう。
「古いからすぐに熱くなってバッテリー上がっちゃうんだよね」
とまあこんな感じで甘やかされてるわけだ、とシズクは言った。
「教室も勝手に使えるし、何着てようが怒られない。頼めばなんだって……とりあえず、ゲーム機以外は手に入る」
「…………」
シズクが何を言いたいのか測りかねた。彼女はにやっと口角を曲げる。
「どうしてか分かる?」
「……それは……」
聞かれて考えるが、どうしてだろう。皆目見当がつかない。先ほどから聞いている限り、その甘やかしは、かなり度を越しているように思える。基地の長から寵愛を受けるその理由……。
「分からない?」
シズクが挑発する。私はなんとか捻り出す。
「……強いから。つまり、兵士として役に立つから……」
彼女は頷いた。「うん、まあ、それもあるかな。実際強いし」
外れてはいないが核心でもないらしい。シズクの顔を見て私は思った。もしかしたらこれは試験ではないか。シズクが私を認めるか否かの。つまり答えは、私が彼女に感じたものに由来しているのでは。本当に似ているのか確かめようという魂胆を、その胸の内に隠しているのではないか……。そうであったら嬉しかった。挽回のチャンスだからだ。前の邂逅では似ていることに意味はないと言っていたが、もしかしたらその重要性に気付いたのかもしれない……。
だが、いくら考えようとも思いつかなかった。私には二人の類似性が、いかに長官の心を動かしたのか分からなかった。……耐えかねたように、シズクは口を開いた。
「一年の時、男の兵士とパーティがあったじゃん。覚えてる? 互いのことをもっと知ろうみたいなふざけた名目で。思いついたやつ死ねばいいのに。それで、隣の席のやつがしつこく話しかけるものだから、会場から離れて外に出たんだ。そしたらそいつが追って来て、木の陰に押し倒されて強姦されたの。そいつ佩刀してて、式典用の小っちゃいやつだけど、喉元に突き付けられたからサングイスも使えなかった。終わって、そいつが脅すようなこと言ってる時に、そいつの局部を切ってやった。で、ぎゃーぎゃー喚くから警備の人が来て、他の一年とかにはばれなかったけど大事になって……知らなかっただろ? まあつまり、お詫びの印ってこと」
「ごめん。私、途中入隊だから一年生の時のことは分からないの」
聞き終えて、まずシズクの勘違いを訂正する。話ぶりから、私と一年から基地にいると思いこんでいることが伺えたからだ。そんなパーティなど私は知らないし。どうやらクラスメイトに気を配る人間ではないらしい。
そしてシズクの話した内容だが、これには反応に迷う。共感した方がいいのか、しかし、これが私と彼女の類似性であったとしたら、あまりにもお粗末すぎるのだ。悲しんでいる様子もないし、慰めるのも何か違う気がした。
「……私もされたことあるよ。シズクと違って、知らない人じゃなく、お父さんだけど。あれは本当に嫌だよね。でもまあ自分の仕事だと思って我慢してたけど。あの人、家事とか料理とか全部してくれたし……」
一応、共通の体験をしていることを伝える。私の場合、シズクと違って恒常的にだが。
「…………」
シズクは黙ってしまった。これはどちらだろうか? 試験の合格ではなさそうだ。それにこれが二人の共通点であったら堪らない。この微妙な雰囲気には覚えがあった。カノンとの会話で、私がずれたことを言った時だ。あの空気感だ。
「えっと、シズク……」
「……お前、ちょっと……」そこまで言いかけて、シズクは言葉を止めた。そして片手で頭をノックした。「……いや、なんでもない。……そうだね。あれは嫌なもんだ」
「だよね」
よく分からない反応だった。でもとりあえず芳しくないことは確かである。
「あの、ごめん。私が似てるって言ったのは、多分このことじゃなくて……クリーチャーを目の前にするとさ、こう、武者震いするというか、居ても立ってもいられなくならない? 殺し合いたくなるような。私はそうなんだけど、同類というか、シズクもそうなんじゃないかなって」
「…………」シズクは放心していたが、すぐに気を取り戻した。「……それは、そうかも。だから似てるってことか」
「うん、まあ、規則とか恥とかかなぐり捨てている分、シズクの方が程度は強いと思うけど」
「言えてるな」
そう言って彼女は笑った。初めて心から笑ってくれた気がして嬉しかった。が、それも一瞬のことで、すぐに真面目な表情に戻った。
「でも、もうあんなこともできない」
「どうして?」
「四月にもやっちゃったんだよ。だから前ので三回目」
「その話は聞いたことあるよ」
「なら激甚化させたことも知ってるだろ? あれでこっぴどく怒られて、でも強姦の件で強くは言えないんだなあっちも。で、反省した私は、今度は激甚化する前に殺してやったんだ。でも三回目で、次はないって言われた。だから自重するしかない」
「もしかして、補習も罰?」
「うん、本当は一週間って約束だったけど、お前が面倒臭いからすっぽかしちゃった。おかげで大将から怒られたよ」
「それは……ごめん」
謝ってから、自分は悪くない事に気づいた。シズクは首を傾げて溜息を吐いた。
「……それで、聞きたいんだけど、お前の望みは何なの? 結局」
「だから、友達に」
「それは聞いた」シズクは力強く言った。「違くて、友達は経過だろう? 途中だ。つまり聞きたいのは、友達になって何をしたいのかってこと」
「お話したりとか……」
お話、とシズクは大きな声で言った。「お話だって、一体なにを?」
「それは……」
私は言い淀んだ。それは自分の考えをまとめるための時間であったが、シズクは
「考え無し」と判断したようで、顎で私をしゃくった。
「てかさ、もういるじゃん、いつもつるんでるやつ。転入生? ……名前は分からないけど、小さいやつ。あいつじゃ駄目なの?」
「カノンは……」
親友だが、違うのだ。求めるものが異なるのだ。同類なのはシズクだけなのだ。
はあ、と彼女は再び溜息を吐いた。そして側頭部を両手で押さえながら顔を上げた。私の唾液を飲みこむ音が、大きく頭に響いた。
そうだな、とシズクは言った。
「一応、遊んでみるか」
「遊ぶ?」
聞き返した瞬間、眼前が赤く染まった。
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