第1章⑥――暖色の闖入者、そして予兆



 次の日、シズクは補習に来なかった。私はますます意味が分からなくなった。来なくなった理由は、まあ私のせいなのだろうけど。


 昼時の第一食堂は雨の日の水たまりのように賑やかだ。私は人いきれのする人混みの中に目を凝らした。予想していたことだが、今日もいない。毎日探しているのだけれど、いつもシズクを見つけることができない。一年から三年まで使う大きい食堂なので、もちろん見逃している可能性もあるのだが、こうも見つからないと最初からいないのではと思ってしまう。あり得る話だった。どこか別の場所で食べているのだ。教室棟において、食堂以外での飲食は禁止だから、当初の想像よりシズクはかなり不良なのかもしれない。


 横から腰を突っつかれる。察してトレイを持ち、前の人との隙間を埋める。配膳されたのは鯖の煮込みだった。隣でカノンが牛蛙のようなうめき声をあげた。


「またこれだよ。私の投書、届かなかったのかな?」


「止めなよ。聞こえるって」


 配膳口の向こうに目を遣る。料理人が忙しなく動いている。


「だってオレンジ煮だよ。鯖のオレンジ煮。鯖とオレンジって、そんなの、合うわけないじゃん。作る前から分かりそうなものなのに」


「分かったから、私が半分食べてあげるから」


 なだめすかすが、席に着いても不機嫌は治らなかった。きっと愛情深い両親に不自由なく育てられたのだろう。料理に文句を言うなど、私の育った場所では考えられなかった。


 私はスープを啜った。このぬめり気のある五角形の野菜は、そう、確かオクラと言ったはず。名前を知ったからどうということもないが。それと豚肉の塩漬け、ベーコンだ。味がしてとても美味い。私が嚥下を終えたのを見計らってカノンは言った。


「もうちょっとだね。掃討戦」


「うん。緊張してる?」


「少しね」カノンはちょっぴりはにかんだ。


 軍の統計によれば軽微な怪我はあっても死ぬことは少なく、初陣での死亡率は一パーセントほどである。これは掃討戦だから相手が丁級であるのに加え、緊張がいい方に作用するからと見られている。しかし初めての戦闘なのだ。怖くないわけがない。


「油断しなきゃ大丈夫だよ」


「……そうだね。でも、生きて帰っても、続いていくわけじゃん。卒業するか、死ぬまで」


「それは、そうだけど」


「一回の作戦で十人以上死ぬこともあるって先生も言ってたし」


「それは油断する慣れ始めでしょ? なんか、あの人は車の運転に例えてたけど、つまり気を引き締めれば死なないって意味で言ってるわけでさ」


 カノンは納得しかねるように箸でスープを掻きまわした。私は次にかけるべき言葉を探した。……向こうからにこにこした顔で迫ってくる人影が見えた。黄色い眼鏡がトレードマークの、つまりキイロだった。双子の姉のアオイと違って、スラックスを履いているから間違いない。またアオイの無気力な伏し目と違い、興奮したように瞼をかっぴらかせているというのも判断基準だ。あの姉妹の肉体的な違いはそこしかない。敵を察知し、私は臨戦態勢に入った。


「隣いいかな?」


「あ、キイロ。いいよ」カノンが答える。


 お邪魔しまーす、とキイロがカノンの横に座った。私は座り直して前屈みになった。


「……一体どういうつもり? 嘘なんか言って」


「ん?」キイロはナムルに伸ばしかけた箸を止めた。「何の話?」


「赫耀のクルークスなんて馬鹿みたいな名前を広めてさ」


 私が言うとキイロは納得したように大きく頷いた。


「あー、あれね。ニコがすごく気に入ってたやつ」


「気に入ってない。嘘つかないで、質問に答えて」


「あれはその、私なりのリスペクトだよ。早い話」


「リスペクトって、シズクに? あれがリスペクトになるの?」


「珍しいね、こっちに来るなんて」カノンが話題を逸らした。


「うん、なんか、掃討戦前だからお姉ちゃんもリンも気が立ってて。ピリピリしてるの好きじゃないから逃げてきた」


 殊にリンは特待生を狙ってるからね、とキイロはお預けを食らっていたナムルを食べた。リンの父親は軍部で重要な役職らしく、また姉が特待生であったから、重圧を感じているらしいと前にキイロから聞いたことがあった。特待生制度はレナトスの士気向上を目的として定められた制度である。戦闘、またペーパーテストの両方で、優秀な成績を修めたものは特待生となり、名誉と報奨金、そしていつでも行使できる外出権が与えられる。薄給で、しかも年度末しか基地を出られないレナトスにとって、これらの賞与は喉から手が出るほど欲しい。プライドの高いリンは名声が目当てだろうが。特待生はレナトスにとって目標であり、憧れの的であった。


 キイロは鯖を一口食べると、ううんと唸った。


「天才だね、これ。鯖とオレンジってのが斬新で秀逸」


「で、さっきの話なんだけど」私は促す。


「うん」キイロは水を一口飲んで流し込む。「私さ、好きなんだよね。グラディウス。花形だし、何よりかっこいいじゃん。思わない?」


 ちらりとシズクの姿が浮かんだ。確かにキイロの言う通りだと思った。


「まあ、そうだね」


「だから憧れがあるわけよ。自分もそうなりたいってわけじゃなく。単純に、応援したいっていうか。あの人たちが活躍すると自分のことのようにうれしいっていうか。分からない?」


「それは……」


 分からなかった。構わずにキイロは続ける。


「祭り上げたいんだよ。憧れてはいるんだけど、自分もそうなりたいっていう意味じゃなくて。崇拝って言葉の方が近いかも。……私たちが生まれる前にはさ、アイドルってのがいたんだ。顔の綺麗な男女が歌ったり踊ったりして、観衆はそれを応援して楽しんでたんだ」


「聞いたことある。詳しくは知らないけど」


 カノンが頷く。私も薄っすら記憶にあった。父が寝物語で話してくれた覚えがある。


「うん。昔は文化と言うか、そういう娯楽が、今よりいっぱいあったんだな。知らないなら分かんないだろうけど、あんな感じかな、私の感覚的には」


「……だから、私に嘘ついたのね。噂とか二つ名を広めるために」


「嘘じゃないよ」


「誰も知らなかったじゃない。なに、さも周知の事実みたいにさ」


 本当はカノンにしか聞いていなかったのだが。キイロは反駁する。


「それはそっちが勝手にそう思っただけでしょ。私は最初から騙すつもりなんてなかったよ。ただニコがこの話をみんなにして、広まってくれればいいなっては思ってたけど」


「故意犯じゃないの」


「それは、そうだけど。ごめんって。騙すつもりはなかったんだってば」


 合掌して悪びれた顔をする。言葉の通り悪気はなかったのだろう。


「許してあげれば?」


 カノンが言った。私は渋々頷いた。途端にキイロの顔がぱっと明るくなる。いつも仏頂面をしている双子のアオイと違って、表情が豊かである。


 仲直りしたところでさあ、とキイロは言った。


「一緒にシズクを応援しようよ。まあ、応援って言ったって、声を張り上げたりしないけど」


 応援ってなにと問うても、キイロは聞こえていないのか長広舌を続けた。


「また見たいなあ。颯爽と十字架に乗って来て、一瞬でのしちゃって。かっこよすぎるよほんと。あーいう分かりやすいのもいいけど、アジキさんのサングイスも渋くていいよね。ほら、式典会館で実演してくれた、シズクに邪魔された先輩。五年の特待生なんだけど、甲級も倒してるんだから。しかも剣道部! かっこいい! 彼女みたいな特待生の戦闘を近くで見るのが夢なんだ。いつか一緒のチームに……まあ、学年が違い過ぎて無理なんだけどね……」


 キイロはオーバーにうなだれた。私とカノンは彼女が話している間、黙々と食を進めた。


「でもね」勢いよくキイロは顔を上げる。「私は夢を諦めてない。シズクも特待生になれる素質が充分あると思うんだ。だから夢をかけるならシズクだと思ってる。で、同じチームに私も入って、一緒に戦う。……ここだけの話、お姉ちゃんはともかく、リンはいい線いってると思うんだけど、やっぱりシズクには届かないんだよね。二年生で特待生になるだけのスター性とか実力とか、持ってるのはシズクしかいないと思うんだ。これ内緒だよ。私が言ったって聞いたら、あの人怒っちゃうから」


「言わない言わない」カノンがご飯を頬張りながら言った。


 釘を刺さなくとも言うはずないだろう。


「でも悲しいかな、私はマレウスなんだ。彼女たち、グラディウスが必死に切り裂いて、肉の間に覗いた核を壊すのは、私たちの役目なんだ。敬愛する彼女たちから最後のいいところだけ奪ってしまう、なんて罪深い女……。私もニコみたいなサングイスがよかったなあ。身を挺して彼女たちを守るなんて犠牲的な行為、全く光栄に思えてならないんだ」


「そう、残念だったね……」


 普通ならこのキイロの発言は私に対する侮辱と捉えて差し支えないだろうが、彼女は本気で羨ましいと思っているのだろう。つくづく変なやつである。


 久しぶりに会話が止んだ。壁の時計に目を遣りつつ、この隙に私はご飯をかきこむ。


「そうだ。あれ聞いた? 誘拐の話」


「なんだって?」カノンが驚いた声をあげる。


 終ったと思ったが、演説はまだ続くらしい。本当にこの席に着いてから喋り詰めである。


「誘拐? 誰が?」


 カノンの反応に、キイロは仔細らしく咳払いした。


「ニュースでもやってたじゃん。ほら、今だって報道してる」そう言って食堂に唯一設置されている壁掛けテレビを指さす。「他の基地でレナトスの誘拐事件が起きたんだって。で、その犯人も、非合法のレナトスの組織らしいんだけど」


「非合法のレナトスの組織? そんなのあるわけないでしょ。レナトスは病気とか特別な場合を除いて、基地に入らないといけないんだから」


「スラム出身のレナトスで構成されているらしいよ」と、ちらりとキイロは私を見た。「あそこは無法地帯だから、住人の子供はほとんど戸籍ないじゃん。でしょ? だからレナトスが生まれても把握が難しいんだ」


 なるほどと思った。キイロの言う通り、私のような例はレアケースである。


「でもなんのために……ていうか、基地から誘拐なんてできるのかな」


「外出中だったらしいよ。ほら、特待生になったら貰えるじゃん。外出権。あれで街に出てた三人組が、時間になっても帰ってこなかったんだって。まるっと三人ともいなくなったんだ。で、なんのためかは」


 キイロの言葉はそこで止まった。機械が異常をきたしたような、耳障りな警告音が鳴り響いたからだ。それは明らかな非日常だった。私もカノンもキイロも、音の鳴った方を向く。私たちだけではなく、食堂のほとんどが会話を止め、異常の方へ体を傾けていた。


 テレビ、であった。食堂の角、ウォーターサーバーの近く、青々としたパキラの鉢植えの上。


 モニターはいつもニュースで固定されている。この時間帯であれば、そのはずだ。


 しかし、そこには点描が乱舞している映像しかなかった。


 ざあざあざあ。


「なんで、砂嵐……」


 カノンが呟く。周囲が騒めき始める。


 われわれは、と。


 再び異常が場を支配した。電波が悪いのか、ガラスを幾枚も隔てたようなくぐもった声だった。


「レナト……を、解放……」


 ぶつぶつと途切れながら、砂嵐の画面は私たちに語り掛けてきた。


 声質は男のようでもあるし、女のようでもある。加工されているのかもしれない。そういう演出なのだろうか? 番組としては注目を集めることに成功しているが、ノイズが酷くていまいち内容が伝わらない。それでは駄目だろう、と思った。


「……世界中……、……くさ……。……」


 電波ジャック、とカノンが言った。「これ、もしかしてキイロの言ってる……」


「う、うん」キイロは否定とも肯定とも取れない相槌をうつ。「分かんないけど」


 二人の会話と食堂の雰囲気から、これが日常からかなり逸脱した事態であることを理解する。もしや先ほどキイロが話していた内容と関係あるのだろうか。


 ざあ、と一際大きな不協和音が鳴った。そして数秒だけ、放送がクリアになった。


「……騙されている。君たちは。レナトスに対するとても……」


 ぱつん、と。


 砂嵐は急に元の画面に切り替わった。慌ただしく、見慣れた男性キャスターがお詫びの言葉を述べる。なるほど、やはりテレビ局側も想定の範囲外だったようだ。電波など機械のことはよく知らないが、カノンの言葉から推測するに、ああやって放送を一時的に乗っ取ることができるらしい。


 食堂が元の騒がしさを回復した。耳を澄ますと、ほとんどが今しがたの奇妙な番組についてだった。私は箸に摘まんだままだった米を口へ運ぶ。米粒は既に冷たくなっている。


「……何だったんだろうね、今の」奇妙な沈黙を破ったのはカノンだった。


「恐らくは国家転覆の人員集め」


「え?」


 レナトスって言ってたじゃん、とキイロ。「解放とか。今のが、たぶん、そうだよ」


「はあ? レナトスを使って? 国家転覆?」


「馬鹿みたいな話でしょ」とキイロは言った。私もそう思った。


「それって」カノンは箸を置いた。「昔あったって聞いたことあるけど。新興宗教みたいな? レナトス新人類論みたいな」


 カノンの言う通り、レナトスを教義に組み込んだ宗教団体が、世間を賑わしたことがあったらしい。私も野菜を包んでいた古新聞で読んだことがある。教化されたレナトスが一般人に能力を使用したり、逆に中世の魔女狩りらしき騒動があったそうだ。今ではニュースでそんな話は聞かないし、下火になったと思っていたが。


 カノンの言葉に、キイロはちょっと違うかなと返した。


「教義とか教祖とかそういうのはなくて、反政府団体みたいな。今の国に不満を持つレナトスの集まりって感じかな。本人たちが言うには、レナトスは圧政から自由になるべきだって。私らみたいに強制的に戦わせられているのは人権の侵害だって。そういう組織は昔からあったんだよ。今の電波ジャックもそいつらだよ。それっぽいこと話してたし」


「本人たちって?」


「その組織の人でしょ。詳しくは知らないよ」


「情報元は? ネット?」


「そんなもの当てにならないでしょ。情報統制されてるんだから」


 電話でリンが父上様から聞いたんだって、とキイロは返した。リンの父は軍の上層部らしいから、まあ信用はできるだろう。キイロがリンに揶揄われていなければの話だが。


「レナトスの脱走とかはよく聞くじゃん。この基地でも前に何回かあったらしいんだけど、それの手引きもしてるって噂だよ。まっ、眉に唾つけて聞いてね。又聞きだし、リンのお父さんだって娘に何もかも喋るわけないんだから」


「誘拐事件に、国家転覆ね……」


 カノンが呆れたように呟いた。その時、鐘が鳴った。授業開始五分前を知らせるチャイムだ。私たちは顔を見合わせ、急いでご飯をかきこんだ。

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