第1章⑤――雨粒の処世術
国の刊行した白書によれば、去年の十四歳以下の就学率は九十七・一パーセントである。ほんの十数年前で三十パーセント以下だったから、大躍進と言えるだろう。終末と呼ばれたその日から十五年の間、人類は壊された家屋を、インフラを、技術を、持続的な生存が可能な程度まで回復させ、ほぼクリーチャーの生態の解明を終えた。あとは奪われた土地を取り戻すだけだった。更に十五年で人類の文明は著しく回復し、クリーチャーに支配された土地の五分の二を奪い返した。当時の絶望的な状況を考えると、破竹の勢いである。人類は復活した。再び地球の支配者になるため、地獄の底から這い上がってきた……。
……教科書を要約するとこの通りである。しかし私は知っている。人権を持たない人たちの掃きだめ、スラムの街並みを。復興特別区から弾かれ、無視されたごみ箱の奥底を。あそこで生まれた子供たちは戸籍を持たない。だから非合法の、人間が思いつく限り最もあくどい仕事に従事することになる。飲み屋で生臭い息を撒いている親父どもが、話していたのだ。石綿を吸いながら働く少年、労働力を産む少女、大人の汚物の処理……。白書に計上されることのない人間たち。グラフの下の注意書きによって、辛うじて存在を認められる彼らの虫けらのような生涯と比べ、スラムでの私の蟄居生活は幾分かましだったと思わねばなるまい。苦しかったことに変わりはないが。
「……などの後進国において、特殊民間人が戦闘員として戦場に出るといった事態が増加したんだな。もともと少年兵については、一九七七年のジュネーブ条約追加議定書による十五歳未満の戦争参加禁止を皮切りに、その後の国際条約においてさらに年齢が……」
授業中の教室らしく、紙面を炭素がなぞるむず痒い音が乱立していた。蒸し暑いと思った。スカートと椅子の間に汗が溜まり、擦れてひりひりする。私は下敷きで思い切り扇ぎたい衝動に駆られたが、教師が振り返ると面倒なので、寸でのところで思い止まった。教室には暑い空気が、気怠い退屈と混ざり合って醸造されていた。
「これはいかんということで、国連が中国海南省で締結したのが海南条約であり……」
手持ち無沙汰で教科書をめくる。あるコラムに目が留まった。〈レナトゥスの名前の由来について〉と題されたコラムだ。
『レナトゥス【Renatus】は、「再生者」を意味するラテン語で、特殊民間人を口語で示す際の呼称である。どのようにしてそう呼ばれるようになったか諸説あるが、最も有力な起源として、「4.14」の日に亡くなった被災者の……』
なかなかロマンチックなことが書いてあるコラムだった。これで面白そうな箇所は最後だった。私は諦めて前を見る。しかし黒板はそのまま教科書を引用しただけで、新しい情報は載っていない。これをノートに孫引きすることに何の意味があるのか。私は欠伸して、桂馬飛びの席に視線を移した。二週間の謹慎処分から帰ってきたばかりの、シズクの凛々しいうなじが、樹木のように真っ直ぐ黒髪を貫いている。彼女は隣の席のやつとは違い、忙しくシャーペンを走らせることなく、ただ姿勢正しく座っていた。
「海南条約の締結により、事実上十九歳以下の特殊民間人は、戦争行為への参加が認められなくなったんだな。青少年の保護と同時に、領地奪還の促進が締結の理由として提出されたが、これには矛盾があると指摘する声もあり……」
彼女がこの酷い退屈を破ってくれないかと凝視していたが、何も起きなかった。シズクは仏像のように超然と前を向いていた。仕方ないから授業に耳を傾けるふりをした。
「……とまあ人権以外に、奪還した土地の取り扱いに関しても、条文に含まれるんだ。奪還した土地が元は他国のものであっても、報酬として自国の版図に加えられるようになったわけだ。これにより元は他国の領土だった土地を奪うという、特殊民間人を使った代理戦争が……」
鐘が鳴った。途端に教室の空気が緩み、凝り固まった時間が動き出す。号令の後、自由になった少女たちは思い思いの方向へ動き出した。クラブ活動に行くもの、談笑しに一人の机に集まるもの、外の廃屋に生えた百日紅を眺めるもの……。私は鞄に教科書を詰め込みながら、シズクを盗み見た。彼女も素早い手つきで帰り支度をしていた。私もそうだが、娯楽のない基地に住むレナトスでは珍しく、クラブに所属していないはずである。
どこに行くのか無性に気になった。
シズクが先に教室を出た。私はカノンにバイバイしてから、後を追うように教室を出る。歩く方向も同じだった。別に尾行しているつもりはないのだが、後ろめたい気分になった。
しばらく合成ゴムタイルの白っぽい通路を歩く。基地は一階しかなく、長い廊下の側面に教室がくっついたような形状をしている。廊下は平行に四本並んでおり、その上下をまた廊下が繋いでいる。きっと上空から見れば巨大な檻に見えるだろう。
横から遠い歓声が聞こえた。向くと中庭でバレーを楽しむ集団が見えた。青と黄色の鮮やかなボールが跳ね上げられて、白雲を背景にきわやかに映えた。……違和感を覚えて前を向くと、シズクがいなかった。足を止める。いつの間にか目的の教室の前だった。私はほっと溜息を吐いた。話しかけようか逡巡していたのだが、それが無理になったので、重責から解放された気分になったのだ。扉を開ける。彼女が一番後ろの席に座っていた。
「…………」
……思い切り目が合ってしまった。固まる私をよそに、シズクは鷹揚に視線を手元に戻した。まるで何も見ておらず、教室に自分一人しかいないような振る舞い方で。これで私の手は封じられたに等しかった。それは明らかな無視であり、拒絶の意思であったからだ。
なす術なく私は一番前の、彼女の列から一つずれたところに座った。道具を取り出しながら考える。この補習は私のような、一年生の授業を履修していない生徒が対象である。つまり彼女が受ける必要はないのである。
おかしいと思った。私は、シズクが何かしらのアクションを起こしに来たのではないかと妄想した。彼女も私に感じるものがあったのだ。無視は何かの手違いで、振り向けば彼女が照れ笑いを向けているのではないか……。
……特に何も起きなかった。期待していた彼女との二人きりなのに、そこには苦痛な沈黙があるだけだった。しばらくするといつも通り教師が入ってきて、シズクについて何ら言及せず、普段と同じ補習が始まった。私は落胆した。
「……このように丁級は適正人数が一人なんだ。だから丁級に二人が敵対すると一つ上の丙級になってしまう。丙級の適正人数は二人、乙級は四人、甲級は五人だな。適正人数の超過によってクリーチャーは上級に激甚化するが、いきなりホールから甲級が排出、って場合もある。時間の経過による自然な激甚化があることも忘れないように。この期間は完全に個体差で、まだよく分かっていないのが現状だ。関連して、敵対状態の解除についても触れようか。基本的に敵対状態の解除は、敵対中のレナトスの死亡か、時間の経過でしか起きないんだ。これはけっこう重要で、例えば適正人数が四人の乙級に対して、交戦していた四人のうち一人が戦闘から離脱した後、新たに違う一人が敵対した場合、激甚化が起こってしまうんだな。逃げてもクリーチャーの中では敵対状態が残っているわけだ。昔はクリーチャーの挙動から敵対状態の有無を判断していたが、誤って激甚化を引き起こすケースも多かった。今ではDCゴーグルの開発で、そんなことも大分減ったな。ゴーグルがクリーチャーを即座に解析、その日集めたデータと照らし合わせることで、階級どころか何分前に誰と交戦したかまで……」
空虚な一時間半だった。補習中、頭の中がぐらぐらして考えがまとまらなかった。見れば外はすっかり闇の帳が降りていて、いつの間にか補習は終っていた。
号令を終え、広げたノートと文房具を片付ける。まだ動揺しているのか、ペンを二回も取り落としてしまった。やっと支度を終えて立ち上がると、扉の開く音がした。見ればシズクの乱雑に結ばれた団子髪が、扉の向こうに消えていった。私は急いで後を追った。
廊下を早足で進む彼女を呼び止める。
「ごめん、ちょっと」
「なに?」
シズクは物憂げに言って足を止めた。とても眠そうな顔をしていた。呼び止めたのを申し訳なく思ったが、会話を続けなければと自分を振るい立たせた。
「私、ニコっていうの。同じクラスなんだけど」
「ああ」シズクは意外に頬を綻ばせた。「ニコね。あんまり話したことないけど、どうした?」
一つ、ばれないように深呼吸する。
「……前の演習、あなたの活躍を見て、かっこよかったから」
言ってから、よく分からない理由だと思った。いや、理由にもなっていない。だから何だという話だ。どうやらまだ混乱しているようである。
シズクは苦笑して「ありがとう」と言った。
「あそこにいたんだ。ごめんね、迷惑かけて」
「そんな、迷惑なんて、別に」
私の言葉に、シズクはないしょの告白をするように付け足した。
「あれね、自分でも分からないんだ。記憶が飛んでるっていうか。気付いたら手が出てる。ほんと困ってるんだ。レナトスだけに発病する、新手の病気かもしれない……で」
もういいかな、とシズクは言った。最低限の礼節は果たしたぞと主張しているように聞こえた。私は首を横に振った。ここで逃したらいけない気がした。
「その、つまり、ついクリーチャーを殺しちゃうのは、自分の意思じゃないってこと?」
「そうだね。説得力ないかな?」
「まあ、うん」私は頷いた。
「姉が殺されたんだよ。クリーチャーに」
と、シズクは事もなげに言った。あまりにも淡々としていたので、思わず信じてしまいそうになった。それ以上のことを聞くと危ないと、シグナルを焚いているようだった。
「だから?」
「うん、あんまり話したくなかったんだけど……」許しを請うように彼女は言った。
いい手を使うと思った。ばれやすい嘘の影にそれらしい真実を用意する。大抵の者はそこで怯むか納得するか、己の良心を誇示したいがために身を引かざるを得ないだろう。
「それも、嘘だよね」
シズクは初めて真顔になった。が、すぐに不機嫌に口端を歪ませた。周辺の空気が薄くなって、きっと、宇宙と大気の狭間はこんな感じなのだろう、と思った。
「……ニコっていったっけ」
「うん」
「お前、なに?」
少し迷ってから、友達になりたいの、と言った。言ってから、どうも照れ臭い気持ちになった。
「誰と……私と?」
「うん、そう」
「なんで?」そう聞く彼女は、口は尖らせていたが、目元がにやついていた。
軽蔑したようなにやつき。
「似てるから」
私とあなたが。
そう、と。
シズクは無表情に戻っていた。空気も元の濃度を取り戻した。
やっと呼吸ができると思った。
「そう、似てるの。でも、それがなに? あなたは似た者同士くっつくのが大好きみたいだけど、私は別に要らない。片方が拒否すれば、この手の話はおしまいだ。いいよね? もちろん」
私は首肯することしかできなかった。シズクは笑顔を張り付けて頷くと、踵を返して歩いていった。私は一人、暗くなりかけた廊下に取り残された。しかし不思議と彼女の拒絶は不愉快ではなかった。この激しい拒絶が、彼女が大切にしているものの価値を、そのまま表していると思ったからだ。その大切なものが私と同じであればいいなと思った。
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