第1章③――十字架の向かう先
「こちらキイロ。十時の方角、ビルの二階辺りにクリーチャー発見。どうしますか?」
「階級と型は?」キイロの通信にトウカさんが返す。
「丁級だと思われます。八十八パーセント。角が見えたので、恐らく獣型かと」
「掃討漏れだね。運がいい。よし、やる気のあるやついる? 丁級だから、キイロでもカノンでもいけるよ」
「私はいいです。グラディウスに譲ります」
「私も遠慮します」カノンが小さくキイロに追随する。
「消極的だなあ。じゃあどっちがやる?」
「こちらリン。私がやります。いいでしょ? アオイ」
「いいよ。ご自由に」
一連の会話は私抜きで行われた。それは陰湿な暗黙のものではなく、公然とした一つの陰りもない了解だった。この事実を喜ぶべきか恨むべきか、私はまだ考えあぐねていた。というのも、この血の資質によって戦禍を免れたのは確かであると同時に、同類であるはずのシズクは真反対のものを持っていたからである。ここにも身を引き裂くような自己矛盾が存在していた。私はこの能力を祝いながら、呪ってもいたのである。
分隊は廃墟の階段を登った。元は雑居ビルだったようで、外殻にはけばけばしい看板がいくつも貼ってあった。それぞれがどのような商いをしていたのか、看板からは判別不能だった。歩くたびに足元が煙って、粉っぽい空気が鼻腔をくすぐる。カノンのものらしい、抑えたくしゃみがしょっちゅう後方から聞こえた。一応、一階も調べてから、本命の二階に上がった。クリーチャーは荒廃したオフィスの奥まったところにいた。割れたモニターやファイルが投げ出されたデスクの上に、その体を横たえていた。
キイロの言った通りの獣型である。四足と背中を丸め、睡眠の姿勢を保っている。頭部に三日月型の角があったから、モデルは山羊だろうと思った。クリーチャーは表面がつるりとして毛並みが見えないから、こういう判読は結構難しい。今回は獣型だから、動きが素早いので注意が必要である。
「エストルスではないようだね」
トウカさんが部屋を覗きながら言った。エストルスとは、敵対化せずとも襲ってくる危険なクリーチャーだったはず。頭で授業の内容を反芻しつつ、私はトウカさんの後ろから顔を出す。じっと見ていると、クリーチャーはひょいと頭をもたげた。表情は分からなかったが、目が合った気がした。途端に身体が震える。シズクが騒動を起こした日と同じだ。私は今すぐに駆け出したい衝動に揺さぶられた。でも、その後どうするのだろうと思った。私のサングイスで、なにができるというのか。
…………。
「リン、クリーチャーとの戦闘で最も留意すべき点は?」
部屋に入る前にトウカさんは質問した。背嚢を降ろしたリンは、澄ました顔で短く、「激甚化です」と答えた。教科書通りの無難な答えだと思った。トウカさんはほとんど間髪入れずに続けた。
「自分の身の安全よりも?」
その言葉に、少しだけ気持ちの悪い間が空く。リンはおずおずと口を開いた。
「……基本的には。身の安全を優先した結果、被害が拡大する恐れがありますので」
「どんな時だい?」
「他のレナトスと戦闘中のクリーチャーがいるとして、何かの拍子で私に攻撃が飛んできたとします。その時サングイスを使って身を守れば、激甚化が起きてしまい、二人とも死んでしまうかもしれません。使わなければ一人の損失で済みます」
「そうだね」トウカさんは頷いた。「あいつらはサングイスの使用に非常に敏感だ。たとえ身を守るための使用であっても、クリーチャーにとっては敵対に等しい。しかし、激甚化が起きても十分に二人で対応可能な実力を持っていれば、どうかな?」
「……その場合は、サングイスを使うべきだと思います。しかし……」
リンは言い淀む。トウカさんは後の言葉を待たずに続ける。
「そもそも、その例えの中で、君はどうして戦闘中のクリーチャーに近づいたりしたんだい?」
「仮定の話です。現実ではそんな軽率な行動はしません」
トウカさんはそこで破顔した。まるで規定の叱責を受けた子供を安心させるように。
「ならいいんだ。ところで君は、功名心から難しい相手に挑んだりしてしまうタイプかい?」
「いいえ」リンはすぐさま否定した。
「クリーチャーを視認したらまず何をする?」
「階級と型、誰と敵対しているかをゴーグルで解析し、その位置を仲間に連絡します」
「なんのため?」
「仲間が敵対状態のクリーチャーに誤って攻撃を仕掛け、激甚化するのを防ぐためです。また位置が分かっていれば遭遇しても慌てずに済み、生存率を上げられます」
「激甚化を防ぐことは目的? それとも手段?」
「それは……はい、手段です。生きて任務を全うするための」
「最初の質問。クリーチャーと闘う上で留意する点は?」
「……死に繋がる可能性を潰すことです」
「じゃあ部屋の中のあいつに勝てる? 死人を出すことなく。つまり、あなたが負けて、誰かが敗戦処理をしなきゃいけない場合、その誰かは丙級を相手取らなきゃいけないのだけれど」
「そんな事態にはなりません。正直、余裕だと思います」
ならいい、とトウカさんは言った。そして扉を開け、リンだけを部屋の中に入れた。
リンは堂に入った歩き方でクリーチャーに近づいていった。キイロが扉の一番前を陣取り、楽しみだあ、とはしゃいだ。私やカノンやアオイも後ろから様子を窺った。
「あまりくっつき過ぎないように。あとキイロ、前に出ない」トウカさんが注意する。
「大丈夫ですよ」リンが歩きながら言う。「遠いですし、すぐに終わりますから」
トウカさんは溜息を吐いた。キイロは聞こえていないのか、ずっと前を向いていた。
歩みはクリーチャーとリンを隔てる、ひしゃげたデスクの前で止まった。山羊はぴくんと耳を立てたが、それだけだった。自然界の動物と同様に、外敵のいない環境に安らぎを感じていた。恐らく手を伸ばせば、同様に嫌がるだろう。野生との違いは敵意に対する対応だった。人間が襲ってくれば猛然と反撃し、それが複数人であれば激甚化が起きるのだ。またレナトスに関して言えば、サングイスを顕現するだけで敵対の条件を満たしてしまうのである。
また今回は一番低級のクリーチャーだが、階級が上がるともっと巨大になる。それこそこの雑居ビル以上に。彼らは食物を摂らない。だが動き回るだけで街を破壊し、文明を破壊し、命を破壊するのだ。放っておけば、このクリーチャーだってそれくらいに成長してしまう。だから殺さねばならないのだ。それがレナトスの、私の使命なのだ。
…………。
……リンのぶら下げられた右手には、いつの間にかサングイスが握られていた。彼女はそれを中段に構え、刃先をクリーチャーに突き付けた。
一見すると柄がないから、薙刀のようである。しかしその刀身は長く、リンが握っている端から先がほとんど刃だ。全長が二メートル弱あることを、ゴーグルが教えてくれた。狭い室内では扱いにくそうだなと思った。そのまま振り回せば、天井やデスクに引っ掛かりそうな印象を受けたからである。
リンがそれを軽く縦に振るうと、目の前にあった壊れかけのデスクが真っ二つに割れた。奇妙なことに天井に当たることなく。「わお」キイロが感嘆の声を漏らした。
明らかな戦闘の意思表示に、クリーチャーは数回身震いした。そして四肢をもって立ち上がり、床に降りた。対峙する一人と一体。誰かが唾を呑み込む音がした。丁級の強さなどたかが知れているし、誰もがリンの勝ちを確信していたが、どうも緊張してしまう。いくら小さくても相手はクリーチャーなのだ。三十年前、幾億の死と、文明の後退を引き起こした張本人。
後ろでトウカさんの声がした。緊迫した場面が目前で繰り広げられていたが、私を含めた何人かが反射的に振り向く。どうやら他の分隊と通信しているらしかった。あっ、とキイロの声が上がって、意識がクリーチャーとリンの方に戻る。動きがあったようだ。見ると山羊がリンに向かって突進していた。危ないと思う暇もなく、合わせるように真紅の刃が振り落とされる。山羊は寸前でそれを避け、横に飛び退いた。当たらなかったように見えたが、よく見ると真っ白な胸の穹窿が裂け、中の核が露わになっている。透明な拳大の矢じり形で、中心が青白く濁った核。見ればリンのサングイスは元の真っ直ぐな形ではなかった。湾曲してたわみ、少し揺れてさえいる。どうやら鞭のようにしなる性質があるらしかった。だから先ほどデスクだけを切れたのだ。
「またですかっ」
今度のトウカさんの大声には、戦闘に集中していたキイロまで振り向いた。リン以外の全員が大声の理由に気を取られ、トウカさんの次の言葉に注目する。上官の中でも温和と言われている彼女は滅多なことで怒りを見せないし、もちろんこんな悲鳴のような声も出さない。
トウカさんは、先ほどの叫びを取り繕うこともせず、呆れの感情を剝き出して言った。
「また、クルークスが――」
言葉尻が爆音でかき消される。リンの方だ。私は音のした方に振り向く。何が起こったのか、今のトウカさんの言葉ですぐに察しはついた。想像された光景は、ディテールは違えどもほとんど忠実に再現されていた。
もうもうと上がる煙は、彼女が着弾したからだろう。きっと十字架に乗ってきたのだ。埃の舞う中で、リンは呆然とした横顔を見せていた。その顔の先、座り込んだクリーチャーの胸元には、陽に照る血のように赤い十字架が深々と突き刺さっている。元の姿のままだったから、今回も激甚化の起きる間もない一瞬の出来事だったらしい。
煙が晴れる。私は目を瞠った。
一人と一体の間に割り込む形で、シズクは立っていた。なぜかユニフォームは着ていなくて、真っ白なアンダーシャツに下着が透けていた。その開けっ広げな姿が妙に似合っていた。彼女は一つ溜息を吐くと、山羊から巨大な十字架を引き抜いた。そしてサングイスを消し、倒れたクリーチャーの死にゆく様を眺めた。私はその官能的な溜息や、引き抜く際に感じただろう手ごたえに、いちいち羨ましさを感じた。
破壊された核は一片の霧になってどこかへ飛んでいった。残りの亡骸も、この世を名残惜しむように徐々に消えた。後には獲物を横取りした少女と、された少女が残った。
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