第1章②――私の中で震えるもの

 


 一週間前にクリーチャーを倒す様子を見学した。式典会館には基地のレナトス全員が集められていた。ホールの座席は扇形をしており、演台に近い方から下級生が段々と詰められ座っていた。初めて見る人類史上初の共通の敵に、前列の一年生はそれなりに湧き立っていたが、上級生は冷静なものだった。軍隊にこんな施設が必要なのかと訝ったが、勲章の授与やら名誉を讃える葬儀やらに必要なのだろう。詳しくは知らないが。


 座席に座って待っている間、同室のカノンがいろいろ教えてくれた。クリーチャーには基本的な四つの階級があること、激甚化を避けるため、このように遠くの席で見ざるを得ないことなど。


「激甚化ってなんだっけ? 実は、まださわりしか教えてもらってなくてさ」 


 カノンは私より小柄で、綺麗な卵型の顔を持ち、バレリーナを思わせる涼やかな目鼻立ちをしていた。笑顔が素敵で、目と口をいっぱいに細めて笑うのが最高にキュートなのだ。唇からちょこんと覗く八重歯はご愛嬌である。彼女は他の基地からの転入生で、しかも同室だったから、自然と仲良くなった。大切な心の支えであり、夢にまで見た初めての友達である。


「クリーチャーの階級が上がること」隣の席でカノンは指を立てて言った。「階級にはそれぞれ討伐に適切な人数があって、上級になるほど多いんだけど、その人数を超えると激甚化が起きるの。例えば適正人数が二人だった場合、そのクリーチャーに三人以上でかかるとかね。上級ほど強いから、激甚化させないのが一番だね」


「つまり、大人数で袋叩きってことはできないわけだね」


「そういうこと。怪物の癖に、公平さを求めるなんて変な話だよね」


「ヒグマの生態より、バスケットボールのルールの方が近いわけだ」


 カノンは笑った。ジョークを言ったつもりはなかったが。


「確かに。面白いこと言うね」


「馬鹿にして」


「いやいや、褒めてるんだよ」


 私は肩をすくめた。


「で、クリーチャーはどういう基準で敵を判断してるんだっけ? サングイス?」


「それもあるけど、もちろん一般人が普通に攻撃しても敵対化するよ」


「なるほどね。……見て、始まるみたい」


 静寂を促すアナウンスが響き、会場から音が取り払われる。しばらくするとライトアップされた舞台の袖から、一人の若い女性が現れた。耳が見えるほどベリィショートのレナトス。アナウンスが彼女の名前と、三つ上の先輩であることを述べた。先輩はマイクを手に取り、簡単な自己紹介と挨拶をする。そびやかした胸には徽章がいくつも付けられていた。高位のクリーチャーを倒した印だとカノンが補足してくれた。


「……形式的な挨拶はこれくらいにしておきます。みなさんも早く見たいでしょうし……」そう言って舞台袖の方に体を向ける。先輩が指を鳴らすと、それは姿を現した。「これがクリーチャーです。もっとも、低級のほとんど害のないものですが」


 完全な白色が、先輩の胸の高さほどに浮遊していた。照明によって陰影がつけられ、辛うじて球体であることが分かる。直径一メートルほどの真球。凹凸は目まぐるしく空を掻いている二本の腕のみで、鼻や眼球などは見当たらなかった。例えるならビリヤードの手球に、やせ細った人間の腕を付けた感じである。ただ指は三本しかなく、爪は鋭いかぎ形である。


「クリーチャーと一口に言っても、全てがこのような姿をしているのではありません。これは不定型と呼ばれる型のもので、他にも虫型、人型、獣型、魚類型、植物型などもあります。形が異なれば対応の仕方も変わります。階級が上がれば当然サイズも大きくなります。甲乙丙丁の四階級で、これは最も下の丁級ですね。適正人数は一人です。今は私と敵対しているので、もし誰かがここでサングイスを顕現させたら激甚化が起こり、一つ上の丙級に……」


 淡々と説明する先達の横で、純白の怪物は明らかにもがいていた。二本しかない腕を振り回して。そうさせる原因は誰の目から見ても明白だった。血色の平たい紐がクリーチャーに巻き付いていて、それを取り外そうと四苦八苦しているのだ。まるで野球ボールの縫い目のように白肌を波打ちながら貫き、哀れな怪物の行動を制限しているのだった。


 彼女は、これが私のサングイスです、と言った。


「一年生のために説明しておきます。サングイスは五種類のタイプに分けられます。主戦力となるグラディウス、核の破壊に適したマレウス、遠距離が得意のアルクス、守備力特化のスクートム、個性豊かなスペシャルです。私のは攻撃特化のスペシャルですが、戦闘に適さないものも多いですね。基本的に先に挙げた四種類に分類できないものがスペシャルと……」


 先輩の台詞はここまでだった。本来であれば、彼女のサングイスがクリーチャーを切り裂いて丹念に中身を剥き出し、矢じり形の核を破壊する過程を見せる、そんな段取りだったのだろう。しかし結果的に予定は果たされなかった。私は卒然と立ち上がった。その時はまだ秩序は保たれていたから、カノンが怪訝な顔で諫めたのを覚えている。混乱は直後に起こったのだ。しかし立ち上がった理由は、混乱の予知ではなかった。呼ばれた気がしたのだ。あの赤い糸を纏った白色の異形に。それは奇妙な感覚であった。私の理性は近づくなと叫んでいるのだが、その赤色信号は、本来は本能によるものではならなかった。燃え上がる炎を見れば、知能の低い獣でも逃げ出す。常識的に、クリーチャーは人間の持ちうる本能によって忌避されるはずだった。だが実際は、理性の煩瑣な手続きを受けてやむなしに恐れたに過ぎなかった。クリーチャーの不思議な魅了が、恐怖心を上回ったのだ。


 騒乱は左方の座席から波及していった。私たちの席からそう離れていなかっただろう。つまりこの騒ぎの首謀者は同じ学年ということだ。声にならない悲鳴と絶叫。出しやがった、とか、またやったか、とかの言葉が辛うじて聞き取れた。


 阿鼻叫喚の中心から、血色の十字架が飛び上がった。信じられないことに、十字架の上には一人の少女が立っていた。クルークスだと誰かが叫んだ。私の目は釘付けになった。少女は下界の混乱など少しも気にしていないように見えた。その顔は真っ直ぐ舞台の方を向いていた。つまりはクリーチャーの方を。


 それは一瞬の出来事だった。上官の制止も間に合わないくらいの短い時間。クルークスと呼ばれた彼女は、逃げ惑う観衆の目前でクリーチャーを殺した。激甚化が起きる間もないほど素早く、自分の身長ほどある十字架を軽々と振るい、とどめをさした。


 足元を支える十字架と、手に持った十字架。


 赤いが二つで、赫い。


 精確には、彼女は赫耀のクルークスと呼ばれていた。確かに壇上の少女は、スポットライトに照らされ、光り輝いて見えた。


 …………。


 ……酷い悪路を歩きながら、泣いている私は、彼女のことを思い出していた。


 彼女の名前はシズクといった。同じクラスであるから、顔と名前だけはよく知っている。しかめっ面で、物静かな子というイメージくらいしかない。いつもああなのだろうか? まるで目に映るもの全てが嫌いだという、つまらなそうな表情を崩さないのだろうか。硬質的に結ばれた小さな唇。吊り目がちの顔からは冷たい感じを抱いた。だから、どうもイメージが現実とそぐわない。嚙み合わないのだ。


 クラスでもぱっとしない子が、どうして大衆の面前であんなことを……。


 騒動の後にカノンも言っていた。いつもは真面目でいい子なのに、と。狂逸な行動に出るのは、決まってクリーチャーに関する時らしい。二つ名まで付けられているのだから、前にもこんな事件があったのだろう。考えてみれば、他のクラスメイトに避けられているからこそ、私の印象に残らなかったのかもしれない。空気としての扱いがシズクに馴染んだから違和感がなかったのだ。ということは彼女も少なからず空気扱いを望んだことになる。彼女に反抗の意思があれば、そこには必ず不協和音が生まれる。歪みが無かったということは、やはり彼女は望んでいたのだ。触れられないことを。


 しかし彼女の意思に反して、私はシズクへの接触を期待していた。シズクと私はどこか似ているという妄想めいた確信が、ここ一週間の間、頭の中をぐるぐる回って離れないのだ。感性を同一とする友人が欲しいのは、自然な流れではないだろうか? 私は私の苦しみや、衝動を理解してくれる同士が欲しかったのだ。贅沢なことに、私は二人目の友人を欲したのである。


 で、シズクなのだが、その抜擢はいささかこじつけが過ぎるというのも分かっている。根拠と言えば、あの騒動の日、私が「立ち上がった」という、それ一つだけであるのだから。私はその場で立ち上がり、シズクはサングイスを出してクリーチャーに跳びかかった……。二つの行為は天と地の差ほどあれ、根は同一であるとどうやって信じさせるか。同族を嗅ぎ分ける本能的な確信と、それに猜疑の目を送る理性とが、心中で絶えずせめぎ合う……。彼女は一体、どういうつもりでクリーチャーに向かったのだろうか? 彼女こそ純粋培養されたレナトスであり、その使命にしか針が向かないのだろうか。葛藤は? ないに違いない。だから迷いなく軍法を犯せたのだ。いつもは真面目なシズクが、内なる衝動に身を任せるまでの心の変遷……その逸楽……。


 …………。


 ……全て私の妄想である。ただ想像力の羽ばたきこそが小さな体躯を司る動力だったから、前に進むには必要だった。シズクに接触することがとりあえず前進に違いなかった。無意味だとしても、そう信じるしかなかったのである。


 ……ようやく涙が止まってきた。回想を終了し、私は目尻を乾かすように面をあげた。轍の凹みに溜まった雨水が、魁偉な真夏の入道雲を映していた。水溜まりは風景の反射でその存在を担保しているのだと思った。


 灰色に寂れた廃墟群と、草の発する濃厚な生命の匂い。


 三十年前の大きな攪乱を受けて、人間は居住区を彼らに明け渡した。しかし人間は嫉妬深いから、またこうして奪い返しに来る。何度も何度も執拗に。ここももうじき人の手が入る。ガラスのばらまかれた地面は敷均され、根も張れない冷徹な道路となる。建物は一度取り壊され、プレハブ小屋が林立する。レナトスは居住区奪還の急先鋒だった。銃弾の効かないクリーチャーを、その血紅色のサングイスで打ち倒すことが使命だった。誰もがそれを望んでいたが、私は暴力を嫌悪していた。誰だって痛いのは嫌なものだ。けれどあの時、確かにクリーチャーを目の前にした私は立ち上がったのだ。まるでこちらに注意を向けてくれと言わんばかりに。生命を脅かしてくる怪物に対してである。身を犠牲にする勇気も義侠心も私には存在しないのだから、不思議な話だ。


 私には使命感が欠落していた。ではシズクは使命感からクリーチャーを殺したのか? 整然と論理立てられた。いや、規則や外聞をあっさり捨て去るほどの強烈な使命感は、理性に飼いならされているとは言い難い。ならばやはり本能か? レナトスの本懐を遂げようという。その考えは、私にはしっくりこなかった。果たして彼女はそうなのだろうか……。


『なぜあの時、クリーチャーを殺したのか?』


 目下、この問いを伝えることが私の使命だった。今日は五日間の謹慎が晴れ、シズクが懲罰房から授業に戻ってくる日だった。だが運の悪いことに解放は一日演習と重なってしまった。会えるのは明日以降ということになる。


 ……ふと視線を感じた。横を見ると、十メートルほど先、鼠色のユニフォームに包まれたカノンと目が合った。丈が短いから、背負うというより背嚢に背負われている感じである。カノンはハーネスから手を離したかと思うと、胸の前で握った。どうやら励ましの挙措のようであり、その可愛らしさと無骨な衣装が不釣り合いで、つい噴き出してしまった。泣いている所を見られて気まずかったが、そんな気持ちも吹き飛んでしまった。


 視界の隅で光が点滅したので、頷き合って目線を切った。確認するとリーダーのトウカさんだった。人懐っこい柔和な声が、まるでそばにいるかのようにクリアに響く。


「全体、ついて来てる? 落石に気を付けて。ここら辺の建物は劣化が進んでいるから……」


 形だけの点呼が取られる。私、カノン、キイロ、リン、アオイの順で、五人がゴーグルを通して返事をした。


「あと少し。頑張って……」


 まめまめしいトウカさんの声かけが、横入りして来た通信に阻まれる。今度はキイロだった。


「こちらキイロ。十時の方角、ビルの二階辺りにクリーチャー発見。どうしますか?」

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