第0章

第0章――罪悪を運ぶ車



 白茶けた幌の隙間から、空を眺めていた。夜の濃紺を背景に、二匹の鳥が踊るように飛んでいる。がたんがたんと揺れる車体。同乗している少女たちの話声が一瞬だけ止むが、すぐに再開する。この世界でただ一人、孤独を独り占めしている気分。誰かが近くにいる方が孤独を感じるなんて、変な話だと思った。


 少女たちを乗せたトラックは廃墟となったビルや家屋の間をひた走る。私は彼女たちから離れた窓際に座っていた。一匹は降りたのか見えなくなったが、もう一方の鳥はまだ飛んでいる。その奥に、一等輝く星が見える。宵の明星、金星だ。家を出る直前に読んでいた本を思い出す。確か黄道十二宮では、天秤宮と金牛宮のサインはこの金星である。神秘的なカバラの思想で金牛宮は性の統一、いわゆる両性具有を表すと、占星術の本に書いてあった。……思い出して、少しだけ家が恋しくなった。置いてきた本たちは、果たして主人の門出を祝ってくれるだろうか。幌の隙間から顔を出しながら、そんなことを考えた。


 外は暗いが晴れていたし、別に私は歩いてもよかった。けれど彼らは勝手な推量で、私たちを車に押し込んだ。ガソリンは貴重なのに。復興は進んでいるが、それは特別区だけの話で、切り捨てられたスラムに陽は当たっていない。燃費の悪いトラックで移動するエネルギーを、そっちに費やしてあげればいいのに。優しさというよりかは、ご機嫌取りなのだろうと思った。


 私たちしか頼れるものがいないから。私たちの士気が下がるといけないから……。


 はっとして、私は振り返る。玉を転がしたような、小さなくすくす笑いがしたのだ。生まれ育ったスラムでは決して聞けなかった可愛らしい声。振り返ると、彼女たちは急いで口元を手で隠した。私と同じ仲間たち。性別も年齢も変わらない少女たち……。


 正直な話、彼女たちの態度に対して、私はとても戸惑っていた。


 スラムでは日中、つまり父が仕事で家を空ける間、外に出ることを禁じられていた。カーテンを開けることすら許されていなかったから、太陽に対して渇望に似た感情を持った。同様に友達を欲するのも、自然な流れだった。


 楽しみ、だったのである。本の中でしか登場しない彼ら、彼女らは一体、どんな気持ちを私に与えるのだろう。若い心を通い合わせる快感は、飲み屋で親父どもを相手しても味わえない。刺激し、対立し、和解し、高め合う。そんな仲間を物語で知った私は、ありふれたその言葉を宝物のように思っていた。家の本だけが私の人生の潤いだったのだ。例え空想であったとしても。


 それがどうだろう。いざ目の前にしてみれば、若々しい肌の裏には、ちくりと刺す棘が群がって生えていた。和やかな目玉の曲線すら、その美を持って私を射抜き、非難していた。限りなく近しい私たちであるのに、そこには鮮烈な溝が通って分けていた。


 四面楚歌を作り出す原因には心当たりがあった。そうである。広まっていないわけがない。特にレナトスが起こした事件は、国民感情を大いに揺さぶる可能性があるから、基本的には隠蔽されるとカウンセラーは言っていたが、状況が状況である。


 漏れたのだ。私の罪悪について、彼女たちは知っている。


 曇天のような寒気がした。せっかく日の元に出られたというのに。


 いや、仕方ないのか……。


 それだけのことをしたのだ。


 …………。


 諦めよう、と思った。


 私が手を伸ばしても、活字の海に浮かぶ彼女らは蜃気楼に過ぎないのだから。


 巨大な蛤が気を吐く映像が脳裡に明滅した。私は床に置いた手を持ち上げた。付いている砂を払うと、痘痕のような窪みが散らばって残った。


 自身の短い指を見て、先日のカウンセラーとの対話を思い出す。暴力的な香水の匂いを振りまく商売女と違って、彼女の指には知性があった。机上でしなやかに揃えられた、社会への奉仕を厭わない指……。悪とラベルを貼られるのが恐ろしくて、私は彼女に笑いかけたかった。襲い掛からないことを保証する、懐柔の笑みを浮かべたかった。けど状況がそれを許さなかった。経験の浅い私でも、その状況における笑顔が不適切であることに、容易に気がついた。だから終始、眉間を絞って反省していたのだ。取調室で、自らの罪の反省を。


 ……反省? 反省なんてしていないと、すぐさま私は自己欺瞞を是正する。


 罪を犯した時点で、私は幸福だったのだ。一つも黒い感情は見当たらなかった。非難だけが澄んだ水面に投げ入れられた木の枝。自由に対する不愉快な掣肘……。自分の罪を意識したのは、一夜明けて檻の外に朝日を見出した時だ。堅牢な檻や真っ平な壁は罪の実体であった。四隅に備え付けられた機銃や剥き出しの便器が眉間の皺を強いたのだ。周囲の世界と折り合いをつけるため、私は唇を噛みしめて、ことの経緯をばつが悪そうに説明したのだ。


「あなたは罪に問われません」


 穴すら空いていない強化アクリルの向こうで、話を聞き終えたカウンセラーの女は言った。私は彼女の薬指に輝く、簡素な銀色の指輪を見つめていた。宝石さえ象嵌されていない、つるりとしたリング。


「ですが、これからは軍に入っていただき、我々の指揮下で働いてもらいます」


「それが、罪の清算ですか?」


 そう、聞いたと思う。私の質問にカウンセラーは机上で組んでいた手を解くと、ゆるゆると首を横に振った。優しい否定だった。


「いえ違います。レナトスとして生を受けた人間の義務です。……よくご存じかと思いますが、三十年前の終末の日、真っ黒なホールが地球上にいくつも現れました。そしてホールは巨大な、怖ろしいクリーチャーを何体も排出しました。それまで人類が支配していた土地も、文明も、誇りも、そして大量の人命も奪われました。人類の再興のためには、レナトスの活躍が不可欠です。それはレナトスにしかできない仕事です」


「なるほど……仕事、義務ですか」


「私個人としては、使命という言葉の方が好きですけれどね」


 使命。確かに。


 ここで私はすぐに戦うのか質問したはずだ。レナトスの使命は知っていたが、この時まだ自分事として充分に認識していなかったので、怖かったのだと思う。


「すぐに、というわけではありません。実戦への投入は一年の訓練期間をおいてです。軍と言いますが、学校のようなものです。授業だってありますし、同年代のレナトスと一緒に生活できます。少ないですが給料も出ます」


 話し相手は背もたれの方に、少しばかり体重を移動させた。彼女は丁寧な話ぶりだったが、それは気安さを排して壁を作るためではない気がした。むしろそれは思いやりからのように思えた。一人前に扱い、敬意を表することで私に気遣っているのだ。罪を犯したというのに。悪いことをした気はなかったが、私は心配になった。


「……ではつまり、これまでが清算だったということですか?」


 カウンセラーは移した重心をすぐに戻さなかった。注意深く、まるで気取られることを恐れるように、ゆっくりと前屈みになった。そして若干、相好を崩した。


「それも、違います。最初に言ったでしょう? 安心して。もとよりあなたに罪はありません」


 この言葉に救われたと思ったからには、微量でも悪の意識があったのだろうか。私にも。


 がたがたがたと。


 車輪の振動が、意識を過去から現実に引き戻す。


 私たちを乗せたトラックは進んでいく。奪還された土地、クリーチャーに蹂躙された廃墟を縫って走る。空を区切るたわんだ電線に、数匹の烏が佇んでいる……。死人の影が漂う戦場跡を見せつけられながら、子供たちはフロントラインに送られる。そう言えば最近、トラックに運ばれるアメリカ兵の話を読んだ。第二次世界大戦下の若者たちを題材にした小説。私の大好きな小説家の短編で、読み終えるのがもったいなかったから、途中で読むことを止めてしまった。彼らは無事にダンス会場まで行けただろうか? そうであったらうれしい。私も彼らみたいに、いつかダンスを踊れるだろうか。途中下車することなく……。


 ねえ、と誰かが言った。幼い声帯を無理に締め上げたような声だった。私は幌の隙間から顔を外した。一人の女の子がいつのまにか傍に座っていた。私と同じ年齢らしい、ややおでこの広い少女。髪を後ろでまとめていたから、余計に額の白さが目立っている。ひよこのような形の良い鼻が可愛いらしい。


「私、リンっていうの」


 いきなりのことに呆然としていると、リンは困ったように付け足した。


「あなたは?」


「……ああ、えーと、名前だよね?」


「もちろん」彼女は頷く。 


「ニコ……ニコって、周りから呼ばれてたけど……」


 だよね、と彼女は言った。


「だよね?」


「いやなんでも。ニコって、可愛い名前だよね」


「ありがとう」


 微笑んだつもりだが、上手くできた自信が無い。リンは特に反応せず続ける。


「一年の時は見なかったから、途中入隊だよね。ニコは何歳? 私と同じ二年生?」


「二年生なのかな。まだ四月だけど、誕生日があったばかりで、もう十五歳なんだ」


「おかしいね」リンはなぜか口元をにやつかせた。「前に途中から来たやつは一歳上だったけど、私たちと混ざって授業を受けてたよ。一年生を通らないでいきなり二年生なんて、普通はあり得ない。二年になると、戦闘にも参加するんだし」


「ああ、確かに訓練するとか聞いた気がする……つまり何かの手違いじゃないかな? もしくは、車の区分が学年じゃなくて、生まれ年によって決まっているとか」


 ふふ、と彼女は笑った。


「いや、ニコは二年生だよ」


「え?」


「ニコは強いからね。だからすぐにクリーチャーと戦えるんだ」


 よかったね、と。


 会話中、私は彼女の目を見ていた。それは自発的にではなく、つまり強制的に見させられているのだった。視線を外したら何かある、そう思わせる狡猾な瞳だった。不意にリンがしな垂れかかってきて、私の耳が熱くなる。彼女の口元がそこにあった。車体に大きな揺れは無かったから不思議に思って、リンの肩に手を遣る。柔らかい。頭に病気の可能性がよぎった。


「人殺し」


 背筋が粟立つ。


 鼓動が早まる。


 熱い吐息が耳元から離れた。柔らかい肉体が、突如として恐ろしい意味を得た気がして、急いで肩から手を離す。目だけが背けられない。


「人殺し」


 あどけない口が開いて、もう一度。


 噛んで含めるように。


 それは、確かに、明らかな、


 悪意。


 少女は笑みを浮かべた。


「戸籍がないから、途中入隊なんだよね。スラムで卑しいことしてたんでしょう? 育ちが悪ければ、人を殺してもしょうがないよ。それにレナトスなんだし、私たち……」


「あ……」


「大丈夫、あの子たちには言ってない。ただ忠告はしてる。近づいたら危ないって」


 人殺しだもんね、と。


 リンはそう言って、あの子たちの車座に戻っていった。私は一人、幌の隙間の前に取り残された。絶え間ない小刻みな振動と、偶の切り裂くような笑い声だけが、辺りを支配していた。

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