プロローグ



 廃墟の間を歩いていると、向こうで怪物の鳴き声が聞こえた気がした。顔を上げたら、鳥がぼろぼろのビルの合間を丸く飛んでいるところだった。太陽がまぶしくて、ジェリービーンみたいな光の粒が網膜に焼き付く。幻聴だろうか。最近は自分でもびっくりするくらい飢えているから、勘違いも仕方ないと、足元の石を蹴りつつ思った。


 瓦礫はとても危ない。ごつごつしていて、硬いから。ずっと家に引きこもっているようなやつも、自分の血を見たことがない意気地なしも、見るだけで危険だって分かる。でもどれだけ危なっかしくても、所詮は動かないんだ。触らなければ風景なんだ。砕かれたまんまの姿で、朝も夕方も暗い夜もずーっと道に転がってじっとしている。もしかしたら地球がぶっ壊れても変わらずそこにあるかもしれない。そんな気がする。


 なんとなく嫌だったから、私は髪を縛るゴムを外して地面に投げた。黒い輪っかはひび割れたアスファルトの、角張った瓦礫の脇に落ちる。握り飯くらいの石ころ。気に入らなく思って、それを再び思いっきり蹴る。トーキックで。ごつい軍靴も負けないくらい硬いから、子供の細い足でも痛くない。ごろごろ転がって、他の瓦礫にぶつかって止まる。


 雑草、ガラスの破片、浮かんだ埃を照らす日光。


 どれも景色だ。面白くない。廃墟は動かないから、何も興味が沸かない。


 こんな大きい建物なのに、なんて詰まらないんだ。大きいんだから、それに見合った何かがあれよ。糞が。


 私は道路を歩く。壊れて停止した廃墟を歩く。ガラスが割れて窓枠が空いているビルに、図体だけが立派の、私が四十人くらい肩車してやっと踏めるコンクリートの箱。がんがんに日焼けして読めなくなった看板。ぎしぎしに錆びて今にも倒れそうな鉄骨の塔。


 静かなだけましか。


 うるさいよりはいいか。


 音を立てるもの。食器、エアコン、車輪、チョークもだし、ラジカセ……砂利? ページをめくるかしゃかしゃ、犬、靴底とか、衣擦れ……。あとは……ええと、なんだろう。


 ああ、一番うるさいやつがいる。


 親、クラスメイト、教官。つまり他人。私以外の人間。


 あいつらは楽しくないことだけ要求してくる。私が望んでいないことをやれという。


 面倒臭い。本当に。


 瓦礫を蹴る。こいつだけを蹴ろうとルールを作る。私の歩く経路から、遠く外れてしまったら負け。何が駄目かは私が決める。考えて、目の前の哀れな瓦礫めがけて、右足を振り上げる。


 ふうわりと。


 砂埃が、回遊魚みたいに流れて。


 私は楽しい気配を感じ取り、振り上げた足を静かに戻す。


 嗅ぐだけで脳が痺れるいい匂いがする。


 ずしんずしんという地鳴りと共に、そいつはビルの横から顔を出す。


 良かった。今度はリアルだ。


 目が痛いほど真っ白な肌。


 建物と比肩する巨大な体。


 そして、私を殺す鋭い牙。


 おぎゃあ、と鳴いて、


 うるさいけど。


 楽しいから、クリーチャーは別。


 小さい女の子扱いなんてしないし。


 例えば、触るだけで暖かくて気持ちよかったり、腹が膨れるものがあったら、まったく心が小さくかさかさになってしまうと思う。砂糖だけ舐めていたら頭がぼうっとしてしまうみたいに。でも、瓦礫やガラスの切っ先みたいにちくちくしていればいい、というわけでもない。これが人生の難しいところだと思う。私の慎ましい、十四年の人生から言わせてもらうと、そんな感じ。まだまだ舐め始めの飴玉みたいなものだから、変わるかもしれないけど。


 とりあえず現時点で、私は瓦礫を割りたいのだ。ただの瓦礫じゃない。俊敏で狡猾で強烈に手ごわい、壊れるなんて夢にも思っていないような、自分勝手で傲慢な瓦礫。


 割った中には、きっと宝石が包まれているだろう。それは硬ければ硬いほどいい。硬度の高い宝石ほど、きらきら綺麗だし、味なんかもいいと思う。


 宝石を守る瓦礫はごつごつしているし、反撃してくるから、触ると刺さって痛いかもしれない。死にそうになっちゃうかもしれない。でも、レンチでかち割れるようなガラクタには興味ないから、それでいいのだ。


 痛くなければ、皮が剥けなければ、意味がないのだ。


 破れた外皮の下の、柔らかい部分で空気に触れよう。


 きっと気持ちいいから。


 そんな予感。


「……あは」


 おぎゃあ、と再び叫び声をあげて、鯨くらいに大きいそいつは突っ込んでくる。一歩ごとに地震が起きて、道路に足跡のクレーターができるくらい。私は期待に汗ばむ頭皮を掻きつつ、自動車を踏みつぶしながら迫ってくるクリーチャーを見遣る。


 五メートルほど、討ち漏らした丙級か。サングイスを出す前に襲ってきたから、エストルス確定。百体に一体だっけ? 珍しい。型は……よく分からない。二足歩行だが、霊長類ではないということしか判断できない。私は動物の種類に詳しくないから。例えるなら大昔の映画に出てくるような、あの怪獣かな。前脚は小さく胸の前に揃えられ、両足はとんでもなく太い。顔は鰐みたいに口が飛び出て、牙が顎から覗いている。尻尾は漫画に出てくるロケットみたいだ。掠っただけで私のか弱い体は、花吹雪みたいに骨と肉に分かれて散ってしまうだろう。あの前脚は使い物にならないだろうけど、この尻尾は脅威だ。どう戦えばいいか……。


 いや、考える必要はない。これまでもそうやってきたんだから。


 むしろ、思考は感覚を鈍くする。


 あらゆるものを感受する意識だけがあればいい。


 私の右手には剣のように、赤い十字架が握られている。


 装飾も施されていないシンプルなもので、刃渡りは人間くらいに大きい。


 顕現させると、いつも体中の肉汁が炭酸になったような気分になる相棒。


 血液そのもののように真っ赤な、巨大な十字架。


 私の武器、サングイス。


 振るえば幸せになれる。


 でも、一人だと意味がない。


 私と踊ってくれる相手がいなければ。


 魂をぐちゃぐちゃにしてくれるような、痛みを与えてくれなければ。


 もっと強い。


 もっと素早さを要求してくれる相手を、欲している。


 ぎゅらぎゅら鳴いて、戦闘開始の合図。


 怪獣は私に向かって象みたいな足を踏み出す。


 タイミングよく、その膝を踏んで真上に跳ぶ。


 そうか。


 もう、私と混ざりたくて仕方ないのか。


 でもさ、足の裏じゃなくて、もっとすごいところがあるんだ。


 ばっくりと。


 怪獣はバイオレンスに大口を開けて、突っ込む私を迎え撃つ。


 舌先を私に向けて、食べるようだ。


「……ははは!」


 単純なやつは好きだよ。


 楽しもうね。


 呟いて。


 空中でもう一本の十字架を顕現させる。


 二本目の十字架。


 私はそれに素早く足を乗せる。


 スケートボードみたいに。


 空間に摩擦で火花が散るほど急ブレーキ。


 ばくん、と私の数センチ先で怪獣の口が閉じる。


 風圧で、前髪がカーテンみたいにぶわっと膨れる。


 空気の味は美味しいかい? 


 煽った私はぷっかり浮いて、既に怪獣の頭より高い。


 空中は、地面にいるときより自由に感じる。


 半回転して、重力も反転。


 陽を背に感じて、クリーチャーに落ちた影を見遣る。


 私には爪も牙もないけれど、こいつらがある。


 肉を切り裂き、宙を舞う一対のサングイス。


 その片方、手に握った真っ赤な十字架を、眼下の真っ白な怪獣に向かって掲げる。


 雨粒のように急降下。


 顔面の皮膚が空気に押し突けられる。


 サングイスに乗り、クリーチャーへ飛び込みながら思う。


 死ぬとか生きるとか面倒臭いことを考えずに。


 その瞬間を共に感じてくれるようなやつが、現れてくれればいいな……。

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