うどんの声が聞こえる

吉田定理

本文

 物心ついたときから、うどんの声が聞こえる。

 コンビニやスーパーの麺類の棚に近づいたとき。うどん屋の前を通ったとき。ドラマで登場人物がうどんを食べているとき。

 俺にはうどんの声が聞こえている。うどんが語りかけてくる。

 俺の異常な能力が発覚したのは三歳のときだ。

 俺はスーパーの棚に並ぶうどんをじっと見つめ、何かと喋っていたという。

「二度とうどんとしゃべるんじゃない!」

 母は俺の両肩をつかみ、周りの客が全員振り返るような大声で叱責し、逃げるようにスーパーを出た。


 その日から、俺――淵井(ふちい)瑠衣(るい)の人生はめちゃくちゃになった。


 茹でる前の乾麺から、丼に盛られた肉うどんから、開封前のカップうどんから、声が聞こえる。

 だが、決してうどんの声に返事はしなかった。母に怒られるのが怖かったから。

 母は、俺がスーパーで麺類の棚のほうを見た、と言っては激怒し、車の窓から見えたうどん屋に行きたそうな顔をしていた、と言っては号泣した。

 父は俺が物心ついたときには、すでにいなかった。だから家庭では母と俺の二人きりであり、俺に逃げ場はなかった。

 俺は母を怒らせないように、うどんを可能な限り避けた。

 厄介なのは、学校の給食だった。

 教室では三十人分のうどんの声が耳に入ってきて気が狂いそうになった。そんな日は保健室に避難したが、あるときお節介な委員長が俺の分のソフト麺をわざわざ取っておいて、保健室で寝たふりをしている俺のところまで届けてくれやがった。

 それ以来、給食がうどんの日は欠席することにした。クラスメイトは給食がうどんの日だけ俺が休む法則に気づくと、「うどん休暇」と言って面白がった。

 母は俺の「うどん休暇」について何も言わなかった。ただ、「うどん休暇」の日は、母は学校から配布された給食の献立表をテーブルに置き、その周りに蝋燭を立てて塩をまいて、お祓いをしていた。

 決定的な問題が起こったのは、小学校六年のときだった。

 その日の給食の献立は、麦ご飯や酢豚など平和なものだった。しかしいざ給食が教室に運ばれてくると激しい胸騒ぎを覚えた。

 教室の前方を見ると、給食当番の一人が、重たそうなプラスチックケースを配膳台に下ろすところだった。たいていソフト麺が入っているケースだ。

 なぜ? 俺は取り乱した。

「今日は麦ご飯だよな? な? そうだよな間違いなく麦ご飯だよな?」

 俺は友だちにつかみ掛かる勢いで質問した。

 友だちは、

「おまえ麦ご飯大好きかよ?」

「変わったんじゃないのー? あ、今日うどんの日だー」

「あれっ? おまえうどん休暇は?」

 俺が献立表のうどんの文字を見落とすなんてあり得ない。

「今日は麦ご飯のはずだ! 今朝もちゃんと確認した!」

「見間違えたんじゃないのー?」

「そういえば、この前のお便りに、大雨のせいで材料が届かないから変更って」

「書いてあったかもー?」

 教室前方の配膳台の上では、給食当番たちがせっせと給食の準備をしている。例のケースのふたが開くと、ざわめきが耳に飛び込んできた。

「ふざけんな!」

 俺は我を忘れて立ち上がり、机を叩いた。教室中の生徒が俺を見る。

「そんなお便り見てねーよ! ちゃんと俺にも配れよクソが! 誰だよ! 何やってんだよ!」

 給食当番の手から何かがこぼれ落ちた。

 うどんであった。

 給食がうどんの日に俺が登校した、と母にバレたら?

 恐怖や不安が俺を押し潰す。

「やめろ! 俺にうどんを見せるな! 近づけるな! どっかに捨てろ! あああああっ!!」

 俺はわけの分からない言葉や奇声を連発し、クラスメイトをののしり、机や椅子を薙ぎ倒して教室を飛び出していったという。

 気がつくと俺は自宅にいて、布団をかぶって震えていた。

 俺は学校に行かなくなった。



 学校に行かずに一生部屋にこもっていられるほど、我が家は裕福ではなかったし、母は寛大ではなかったし、世の中は甘くはなかった。

 俺はなんだかんだで、きちんと高校を卒業し、絶対にうどんとは縁のなさそうな中小企業に就職した。一人暮らしを始めたため、母から離れることもできた。周辺にもうどん屋はなく、うどんの声はまったく聞こえてこない。初めての平穏な生活。

 気をつけなければならないのは、同僚との食事である。

 一緒に外食はしない。

 昼食を外で買ってくるヤツは、うどんを食べる可能性があるので要注意だ。

 逆に、毎日自分でお弁当やおにぎりを持参しているヤツは安心だ。

 だが、予想外の悲劇が起こった。

「淵井先輩、昼ご飯、一緒にどうですか」

 入社三年目のある日、後輩から飯に誘われた。

 いつも弁当を持参している彼は、今日も弁当を入れた巾着袋を手に持っていた。彼は新婚で、毎日奥さんが愛妻弁当を作っていることは、社内でも有名である。

 だから俺は誘いに乗って、一緒に会社のそばの公園へ向かった。休憩室などの社員が集まる場所は、うどんとの遭遇確率を高めてしまうからだ。

 公園へと歩きながら、俺はなぜかうどんの声を微かに聞いたような気がした。だが、たまたまうどんを持った人とすれ違ったのだろう、くらいにしか思わなかった。

 それが失敗だった。

 俺たち男二人は公園のベンチに並んで座った。新婚の彼ののろけ話を聞きつつ、持参した弁当を広げる。

 このとき俺は何かがおかしいと思っていた。うどんの声が消えてくれないのだ。近くにうどんを食べている輩がいるわけでもないのに、どうしてうどんを感じるのか分からない。だが後輩の前で変な行動をするわけにもいかなかったので、無理して自然に振る舞っていた。

「今日は何かなっ」

 彼は子供のような顔で弁当箱のふたを開けた。

 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた焼きうどん。

 焼きうどんの大声が、俺の頭の中に反響した。


 ……ねえ、どうして、見捨てたの?


 ……ねえ? なんで?


「うわああああっ!」

 俺は驚いてベンチから転げ落ちた。

「先輩!? 大丈夫ですか!?」

 後輩が青ざめて見下ろしている。

「やめてくれ! うどんを見せるな! 近づけるな! 愛妻弁当が焼きうどんなんて、ふざけるな! 捨てろ! あああああっ!」

 気がつくと俺は自宅にいて、布団をかぶって震えていた。

 俺は会社に行かなくなった。



 半年ほどアパートにこもったが、じきに生活が破綻することは明らかだった。預金残高は減るばかりで、これが尽きる前に働くか、母の支配する実家に帰るかである。

 俺は途方に暮れた。

 うどんの声が聞こえるせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ。どうしてたかが炭水化物ごときに、一生を台無しにされなければならないのか。

 俺はうどんへの憎しみゆえに、「ツマッター」でうどんを貶める投稿を毎日繰り返した。「うどんが人体に与える悪影響」、「99%の日本人が知らないうどんの闇」、「そばよりうどんが好きな男がモテない100の理由」などのデタラメな情報を拡散させ、うどん派だった人々がそば派に改宗していくのを見てはほくそ笑んだ。

 心のどこかでは、こんなことをしても意味がないと分かっていたし、胸がチクチクと痛むこともあった。それでも俺は、この新しい唯一の生き甲斐をやめることができなかった。



 ある日、部屋のチャイムが鳴った。

 玄関ドアを開けると見知らぬ女性が立っていた。

 年齢は俺とほぼ同年代の、二十代前半くらい。ファッション雑誌から抜け出てきたみたいな、「私って美人でスタイルもセンスも良くてごめんね☆」とでも思っていそうな美女だった。実際、スタイルもファッションも完璧だが、少しギャルっぽかった。

 何よりも目を引くのは、うどんのようにさらさらと流れる銀髪だった。

「あなたが淵井(ふちい)瑠衣(るい)?」

 女は出し抜けに尋ねてきた。俺を品定めするように頭から爪先までじろりと見る。

「そう、だが」

 俺はわけが分からぬまま答えた。

「あたしは姫川(ひめかわ)雪乃(ゆきの)。単刀直入に言うわ。あたしと一緒に『うどんワールドカップ』に出て」

「うどん……ワールド……?」

 この女は何を言っているのか。

「知らないの? 四年に一度、うどん界のナンバーワンを決める世界大会よ。今年は四十年ぶりに日本の倉敷で開催される。賞金総額は三億ドル。まあ、あたし賞金には興味ないから欲しかったら全部あげるわ。見たところあまりいい生活はしてないようだし。そういうわけで明日の朝また迎えに来るから、荷物まとめておいてくれる?」

「ちょ、待ってくれ、うどんの世界大会だかなんだか知らないが、俺は二度とうどんには関わらない!」

 ギャルっぽい美女……雪乃の顔が曇った。

「あなた、淵井瑠衣で間違いないわよね? うどんに関わらないって、どういうこと?」

「文字通りの意味だ」

「うどんの声が聞こえるのに、その力を活かさないなんて信じらんない」

「!?」

 なぜ俺の能力を知っている!? 「誰にも言うな」という母の命令を、今日まで守ってきたのに。

「何を驚いているの? あなたを探すのに、十年以上かかったんだから。あたしには、あなたが必要なのよ」

 なんだ、この女は。

 他人に俺の能力がバレたことが母に知られたら、母はいよいよ爆発するかもしれない。まずい。

「どうして俺のことを知っているんだ」

「十年以上前に『ツマッター』に投稿された、このツイート」

 雪乃が見せてきたスマホの画面には、スーパーの麺類コーナーでうどんを凝視している子供の写真。

「俺だ……」

 写真とともに投稿された文章は「うどんとしゃべってる子供がいて怖いんだけど」。

「この投稿から俺を見つけ出したっていうのか!?」

「手がかりがこれしかなかったから、時間がかかってしまったわ。あなた、うどんと話せるんでしょう?」

「こんな不確かな情報で……馬鹿げてる」

「否定しないのね。あたしとあなたが組めば、世界大会での優勝も確実よ。明日の朝、あたしと来て」

「俺の人生はうどんのせいでめちゃくちゃなんだ! 全部、うどんに壊されたんだ!」

 俺は思わず感情的になり、大声を張り上げた。

 雪乃は少しも動じないどころか、憐れむような瞳で俺を見つめている。

「何を言っているのかしら? うどんは誰の人生も壊さないわ。うどんは、うどん以上でも以下でもなく、ただ存在するのみよ」

「何も知らないくせに、適当なことを言うな!」

 俺は無意識のうちに雪乃の肩につかみかかっていた。軽すぎる身体。雪乃が後ろにバランスを崩し、俺も勢い余って覆い被さるように倒れてしまう。

 気がつくと、雪乃の顔がくっつきそうなほど近くにあって、うどんのような白銀の髪が地面に広がっていた。シャンプーの甘い香り。

 ただちに謝罪し、身体をどかさなければ。

 そう思ったのに、俺の身体は動かない。

 雪乃の深く碧い瞳と見つめ合ったまま、時が止まっているかのようだ。

 だが心臓だけが激しく早鐘を打つ。

 雪乃の表情は一ミリたりとも崩れていない。冷静で鋭い目をわずかに細めて、俺の心を見透かしたように囁く。

「あなたの人生は、うどんに壊されたわけじゃない。あなた自身、分かっているはずだわ。それにまだ、人生は終わったわけでもない。むしろこれから、あたしと一緒に始めるのよ」

 俺の世界を覆っていた薄い氷の膜が、一気に溶けていくような気がした。

 金縛りが解け、俺は雪乃から離れた。まともに顔を見ることができない。

「本当は何があったの?」

 雪乃が起き上がる気配。

 自分でもどうしてか分からないが、俺は封じ込めていた記憶を掘り起こし、語り出していた。

「物心ついたときから、うどんの声が聞こえた。母は俺を気味悪がって、うどんの声を聞くなと言ったが、耳を塞いでも声はやまなかった。それでも俺はできるだけ母に従った。ある冬の日、小学校からの帰り道でうどんの声が聞こえた。工事現場のそばの塀の上に、コンビニのうどんが手付かずのまま置いてあった。きっと工事のおっさんが、そこに置いて忘れたんだと思う。周りには誰もいなかった。うどんの声は弱々しかった」

「なんて言っていたの?」

「……『寒い。誰か助けて』。俺は母の言いつけを守って、無視した」

「辛かったでしょうね」

「ああ、声の感じから、かなり辛かったんだと」

「違うわ。あなたがよ」

 ハッとして雪乃を見た。

 ……俺が、辛かった?

 そうか、俺はあのとき、うどんを見捨てたことが苦しくて堪らなかったんだ。

「俺はひどい人間だ。うどんに関わる資格なんてない」

「しかも、うどんと向き合うのを恐れている」

「ああ、その通りだよ。うどんが怖い。だからそっとしておいてくれるか」

「それは逃げであり、何も解決しないわ。あなたはうどんの声が聞こえるにもかかわらず、その声を無視したことを後悔している。だったら、あたしは、あなたが聞いたうどんの声を無駄にしないと誓うわ。これからは、あなたがうどんの声を聞いて、あたしがうどんを救うのよ」

「うどんを救う?」

「そう、うどんを救うの。あなたにできる贖罪はそれしかない。とにかく、そんなふうにしょぼくれてないで、ビシッとしなさい。あなたはあたしとタッグを組んで、うどんワールドカップで優勝するのだから。明日の朝、迎えに来るからちゃんと覚悟を決めて、荷物をまとめておくこと」

 ふわりと銀髪が舞い、雪乃はつかつかと去っていく。その背中に、

「俺はあんたと行くなんて言ってないぞ!」

 叫んだが、雪乃は振り返ることもなかった。



 翌朝、雪乃がアパートにやってきた。

「荷物はまとめてあるわよね?」

 雪乃の後ろには黒服の男たち。

「あなたたち、荷物を運び出して」

「荷物はない」

 俺はきっぱりと答えた。

「ない?」

 雪乃の整った顔の、眉が片方だけわずかに上がる。

「聞き間違いかしら? あたしは昨日、荷物をまとめておくように、と……」

「この部屋にあったものは全部捨てた。必要なものは自分で持ってる。だから荷物を運ぶ必要はない」

 雪乃はよほど驚いたのか、形の良い唇をぽかんと開けたが、すぐに失態に気づき、クールな面持ちを取り戻した。

「来て」

 俺は黒服たち……雪乃のボディーガードに囲まれ、車へと案内された。

「あなた、どうして来る気になったの?」

「来ないと思っていたのか?」

「必ず来るという確信はなかったわ」

 案外、この女は完璧ではないのかもしれない。そのほうが人間らしくていい。

 だから俺はあえて雪乃が想像していなかったであろう理由を答えた。

「来月の家賃が払えないんだ」

「は?」

「来月の家賃が払えないから、行くことにした」

 意外にも、雪乃は腹を抱えて「あっはっは!」と豪快に笑った。

 俺は雪乃という美女に、俄然、人間としての興味がわいてきた。

 雪乃は笑いをおさめて、

「あたしのことは、雪乃と呼んでくれていいわ」

「分かった。俺のことは瑠衣でいい」

「瑠衣、よろしくね」

「雪乃、こっちこそよろしく。だが、うどんワールドカップで俺は何をするんだ?」

「当然、最も歴史と権威ある職人部門に出場するわ。究極のうどんを打って、世界を驚愕させるのよ」

「待ってくれ、俺はうどんなんて作ったことがない」

 雪乃は余裕の微笑みを浮かべて言い放つ。

「言ったじゃない? あなたがうどんの声を聞いて、あたしがうどんを打つのよ」



 俺は姫川雪乃の豪邸に転がり込んだ。雪乃はとんでもなく金持ちだった。

 見た目こそモデルのような美女だが、そんな外見からは想像がつかないほど、うどんへの情熱を持っていた。

 実際、モデルの仕事をしているらしく、家を留守にすることも多かったが、忙しい仕事の合間を縫ってうどん作りに励んでいた。厨房に立つ雪乃は真剣そのもので、徹夜でうどんを打っていることもあれば、難しい顔をして何時間も小麦粉とにらめっこしていることもあった。あらゆることに妥協を許さない、まさに職人だった。

 俺はというと、まず、うどん恐怖症を克服する必要があった。ずっとうどんを避けてきた俺にとって、うどんに近づき、うどんの声に耳を傾けるのは、精神的に辛かった。

 だが、雪乃のうどんに対する情熱や誠実さを目の当たりにすると、こんなことで諦めてはいけないという気がしてくる。雪乃は俺に「タッグを組む」と言ったのだ。こんな俺を必要としてくれたのだ。だから、雪乃をひとりでワールドカップの舞台に立たせるわけにはいかない。

 やがて俺はうどんに素手で触れるほど、うどん恐怖症を克服し、うどんを打つ雪乃の隣に立てるまでに成長した。

「このうどんは、なんて言ってる?」

 作務衣(さむえ)姿の雪乃が、うどんの生地を素足で踏み踏みしながら聞いてきた。

 俺は傍らに腰掛けて、その様子を眺めている。

「気持ちいい。もっと踏んでほしい、と」

「当然ね。あたしに踏まれたら誰だって嬉しいに決まってる」

「……」

「もっと気持ち良くしてあげるわ。ここ? ここがいいの? ほらほら、それともこっちがいいのかしら?」

 そんなこんなで、俺たちはうどんワールドカップの日を迎えた。

 


 岡山県倉敷市。

 巨大なホールに集まった世界中のうどん職人たちと、大勢の観客。

 今日、ここでうどん職人の頂点を決めるうどんワールドカップが開催される。

 職人たちは会場に設置されたそれぞれのブース、つまり厨房で、同時にうどんを打ち始める。できあがったうどんを審査員が試食し、味や見た目を評価して順位を決定する。



 雪乃は力強くうどんをこねる。その隣で俺は雪乃にうどんの声を届けるのが役目だ。

「瑠衣、あなた大丈夫なの? うどんの声は聞こえてるの?」

 雪乃はうどん生地と格闘しながらも、横目で俺のことを気にしている。なんせ、大舞台を経験したことのない俺は朝から緊張で腹が痛い。

「ギリギリ聞こえるんだが、会場中のうどんの声が混ざって聞こえにくいんだ。観客もうるさい」

「全員条件は同じよ、なんとか集中して」

「分かってる」

 だが集中しようとするほど、頭の中で無数の声が反響して、吐き気を覚えた。

「瑠衣、あなたは下がって休んでて」

「だけど、それじゃあ、うどんの声が」

 雪乃は涼しい顔で、なんでもないことのように言い放つ。

「みくびってもらっては困るわ。うどんの声が聞こえなくても、究極のうどんの打ち方はあたしの全細胞に叩き込んであるんだから」

 俺は勘違いをしていたらしい。

 そもそも雪乃は世界トップクラスの職人の技術を持っている。しかも、他のチームは三人で作業を分担しているのに、雪乃だけは一人ですべての工程をこなすつもりだ。

「作業は全部あたしがやる。そうやって勝つことに意味があるのよ」

 試合前にもそんなことを言っていた。うどんに対してはどこまでも完璧主義者なのだ。俺のサポートがなくたって、優勝してしまうかもしれない。

 俺は必要ないのでは?

 そんなことを考えたとき、

「だからって最後まで休んでていい、ってことじゃないから。うどん打つのって重労働なんだから、瑠衣の力で少しはあたしに楽をさせなさい」

 素直じゃないところが雪乃らしい。

 だけど嬉しかった。そんなことを言われたら、なおさら俺だけ休んでいるわけにはいかない。

「俺は大丈夫だ、試合が終わるまでは意地でも倒れたりしない」

 雪乃は俺を横目で一瞥しただけで何も言わなかった。

 俺は雪乃が全身全霊で打つうどんの声だけを無数のノイズの中から拾い上げる。

「雪乃のうどんは喜んでる。問題ない」

「当然ね」

 ここまではほぼ完璧。

 だが俺の体調は、うどんの生地をねかし、伸ばし、一本一本の麺に切っていく工程に入っても改善しなかった。

 ときどき目を閉じ、耳を塞いで、ノイズを軽減させながら、だましだまし雪乃の隣に立ち続けた。

「あとは茹でるだけよ」

 いよいよ終わりが近づいてきた。

 雪乃は沸騰した鍋に、パラパラと麺をほぐしながら入れる。再び沸騰したら、吹きこぼれない程度に火を弱め、高い温度で茹で上げる。

 俺はいっそう集中してうどんの声を聞いた。


 ……寒い。


 どくん、と心臓が跳ねた。

 あの冬の日に見捨ててしまったうどんへの後悔が蘇り、めまいがした。

「瑠衣? うどんはなんて?」

 うまく呼吸ができず、調理台に両手を突いてしまう。

「瑠衣!? ホントに大丈夫なの!?」

 俺がここで倒れれば、雪乃は試合続行どころではなくなる。俺たちは強制的に棄権とされる可能性さえある。

 俺が恥をかくだけならいいが、雪乃に恥はかかせられない。雪乃は腐りかけていた俺に救いの手を差し伸べてくれた恩人だから。そして、雪乃が今日まで、どれほどの努力をしてきたか、俺だけは知っているから。

「寒いって言ってる。雪乃、火力をもう少し上げられるか?」

「これ以上火力を上げたら鍋が吹きこぼれるわ。それで火が消えたら目も当てられない」

 雪乃の主張はもっともだ。

 火力を上げるのはリスクが高すぎる。雪乃のうどん作りを見てきた俺はよく分かっている。

 俺の個人的な感情で、この試合を台無しにするわけにはいかない。


 今回も、救えない。


 だけど、それで俺は後悔しないのか?


「だけどね」「だけど」

 二人の声が重なった。俺は雪乃に先を譲る。

「瑠衣と会った日に、あたしはこう言ったでしょう? 『あたしは、あなたが聞いたうどんの声を無駄にしないと誓う』と。だから、うどんが『寒い』と言っているなら、火力を上げる。その一択よ」

 雪乃は真剣な表情で、俺をまっすぐに見つめていた。

「……雪乃、ありがとう」

 俺は素直に頭を下げた。

「それに、火力の調整はあなたがやりなさい」

「いや、待て、作業はぜんぶ雪乃がやるって……」

「仕方ないでしょ。うどんが満足できて、かつ吹きこぼれないギリギリの火力を維持するなんて繊細な作業は、瑠衣がうどんの声を聞きながら直接やるしかないじゃない」

「……いいのか?」

「あたしは究極のうどんで圧勝することにしか興味がないの。あなた、あたしの相棒だったら、一秒でも早くやりなさい」

 雪乃ににらまれ、俺はコンロの前に立った。

 深呼吸すると頭が少しすっきりした。

 俺は母が怖かった。だけどあの冬空の下に放置されたうどんを見捨てたのは、他ならぬ俺の選択。

 俺がうどんワールドカップに出場したなんて知ったら、母は鬼のように怒るに違いない。

 だけど、俺はもう後悔しない。

 後悔するような選択は、二度としたくない。

 自分の頬を叩いて気合いを入れた。つまみをわずかに回して火力を上げる。鍋の様子を観察しつつ、さらにゆっくりと回していく。まだだ、もう少し。鍋は激しくぐつぐつと音を立て、泡が鍋のフチまで浮かび上がる。まだだ、あと少し!

 うどんが喜ぶ声が聞こえた。鍋は今にも吹きこぼれそうだ。わずかにあふれた湯が鍋のフチを伝い落ちるが、コンロの火は消えない。

 俺はうどんの声と鍋の様子と、つまみを握る指先とに全神経を傾け続けた。

「上出来よ」

 雪乃が歩み出た。

「ご苦労様、あとは任せて」

 麺を茹で終わったのだ。

 俺はふらふらと後ろに下がり、床に尻もちを突いた。集中しすぎて頭がくらくらする。ふと見上げると、麺をザルに上げ、水洗いする雪乃の頼もしい背中があった。

 なんだか懐かしさを感じながら、俺は目を閉じた。



「ただいま」

 居間に入ると、こたつで母がお茶を飲んでいた。

「私の言いつけを破ってうどんワールドカップに出るなんて、どういうつもり?」

 母は座ったまま静かに尋ねてきたが、明らかに怒りで震えていた。

「父さんは、実はうどん職人だったんだな。しかも、過去にうどんワールドカップに出場するほどの腕だった」

 ワールドカップの日に感じた懐かしさの正体は、父のかすかな記憶だったのだろう。うどんを作る雪乃の後ろ姿が、父の背中と重なったのだ。

 ガンッ!

 母がテーブルを叩いた。

「あの男は家族よりうどんを選んだクズだよ。うどんのせいで私の人生はめちゃくちゃだ!」

「母さん、うどんは誰の人生も壊さない。うどんは、うどん以上でも以下でもなく、ただ存在するだけだ」

 母が立ち上がって、つかみかかってきた。

「知ったような口をきくな! 出て行け! お前の顔なんて見たくもない! お前もあの男と同じだ!」

 母は俺にビンタを食らわせたかと思うと、うずくまって泣き始めた。

 ひどく哀れに見えた。

「……出て行くよ。だけど俺は家族を捨てたりしない。毎月お金を送る。ときどき様子も見に来る。じゃ」

 母に背を向けて、その場をあとにした。

 玄関ドアを開けると、雪乃が待っていた。

「ごめんなさい、声が聞こえちゃったんだけど、本当にこれでいいの?」

 雪乃にしては、すっきりしない表情。

「いいんだ、今はこれで。だけど、いつかきっと母さんと一緒にうどんを食べるよ。俺自身が打った、究極のうどんを」

 俺は歩き始める。青空を見上げながら。

 その後ろを付いてくる雪乃の足音。

「だったら、特訓しなきゃね」

「ああ、いろいろ教えてくれ」

 雪乃が急に走り出し、俺を追い抜いて振り返った。その顔には意地悪な笑み。

「教えてください雪乃様、でしょ?」

 そうだ、今や雪乃は誰もが認める世界一のうどん職人。多少偉そうでも許されるだろう。

 それに俺は、雪乃に救われた。雪乃と出会って、自分とも、うどんとも向き合えた。

 だからどこまでも雪乃についていくと決めたのだ。

 俺はわざとらしく、かしこまった口調で答える。

「世界一のうどん職人の技を、教えてください雪乃様」


おわり

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