第9章 黄金の来訪者

 観客たちの群がる闘技場の「晒し台」から、出場口のそばの簡易整備場まで機体を歩かせて、ケイは〈エントーマβ〉を慎重に停止させた。少し早めの移動だったが、準備することがいろいろあったのだ。


 ヘルメットに付いているつまみで、目のウオッシャーとワイパーの動作をチェックする。それから、頭にかぶっていたペリスコープを外し、胸部ハッチを開けた。昇降スイッチを操作してサドルを上げると、機体の中からケイの体が引き抜かれるように持ち上がった。整備士たちが押し出してきた作業用の足場に飛び移り、そこから機体の背中に回って、自分の魔剣をエンジンから引き抜き、完全に停止させる。


「調子はどうじゃ?」


 機体の足元で鎧姿のアンドリューと話し込んでいたシオンが、ケイを見上げて声を掛けた。その声を聞いて、ケイは、かなり体調が戻ってきたようだ、と感じた。


「機体に問題はないようです。必要な道具も、ちゃんと準備してもらいましたし」


 作業台のステップから床へ飛び降りて、ケイはシオンの顔を見た。そして、頬の血色を確認して、少し安心した。


「師匠、試合を観戦するのはいいんですが、あまり興奮して暴れちゃダメですよ。姫さまから注意するように言われてるんですから」


「おぬしら、私をいったい何だと思っておるのじゃ! 他人ひとのことを、借金まみれでなけなしの金を全てトーナメントの大穴に賭けた人生終了寸前のオヤジか何かみたいに言うな! まったくこの、口の減らない不肖の弟子めが!」


 美しい眉の角度が、きゅうっと深くなった。負傷していない左腕の拳を突き上げて、シオンはまくし立てた。それから、微笑んでいるような、くすぐったがっているような、奇妙で中途半端な感じの表情で、ケイの顔をぴたりと見据えた。


「ふ、確かにおぬしは不肖の弟子じゃ。不肖の弟子とは、師匠にちっとも似ておらん弟子という意味じゃ」


「いちいち説明しなくていいです!」


「とはいえ、私の最初の弟子であることもまた、確かなことじゃ」


 ケイは驚きをもって、自分の師匠の目を見返した――それは、彼が今まで、知らなかったことだった。


 それから、何年も前、彼女に剣を教えてほしいと頼み込んだときのことを、鮮明に思い出した。それまでは酒量を過ごすことの多かった彼女が、ケイに剣技を教えるようになってからは、ほとんど飲まなくなった、ということも。


(もし、師匠に出会ってなかったとしたら、今、僕はどんな人間になっていたんだろう?)


「ま、私の剣士としての評判を落とさぬよう、しっかりやってこい……決して、無理はせぬようにな」


 それだけ言って、シオンは目を伏せて横を向いてしまった。その頬の赤みを確認するようにじっと見つめてから、ケイは深々と頭を下げ、自らの剣の師に一礼した。


「行って参ります!」


 整備士長が、帽子を振ってケイに合図してきた。戦いの準備が、完了したようだ。


 ケイは、木製の足場を駆け上がって、再び自分の機体の肩口まで登った。操縦席をのぞき込んで、全てのトランスミッションがニュートラル位置で、クラッチも切れていることを確認する。でないとエンストや誤作動の危険があるのだ。それから、背中に突き出している、エンジンブロックの上に移動した。白く塗られた装甲の真ん中に穴が開いて、魔剣を挿入するソケットが突き出している。


(初めてこの穴に魔剣を突き立てたとき、僕は、二度と以前の自分に、自分がいるよどんだぬるま湯のような場所に、戻れなくなると感じた。あの予感は、正しかった。もう僕は、戻れない。以前の僕は、呪いによって、この闘技場によって、姫さまのあの眼差しによって、破壊されてしまった。もうそれは、どこにもないんだ)


 腰に手をやり、鞘から自分の魔剣「夜の剣」を抜き放つ。その漆黒の刀身は、やはり光すら全て吸い込む、混沌とした夜の闇だった。しかし、柄の黒い皮革と絹糸が、自分の手汗を吸い込んで、少しだけ手のひらになじんできたような気がした。


(やっぱり、姫さまの言う、青い星は見えないな……)


 それだけ思ってから、ケイは無造作に、「夜の剣」を魔剣ソケットに挿入した。刀身が固定されると、ソケットごと、魔剣がエンジン内に引き込まれる。よく整備された金属部品が滑らかにすべり出し、魔石エンジンがいつもどおりに回転を始めた。そのエンジン音は、規則正しい脈動から、すぐに金属的な高音の回転へと上昇し、機体が完璧に整備されていることを誇らしげにケイに告げた。


 ケイは操縦席に移り、サドルを下げて定位置に戻し、魔石エンジンの回転計を確認した。操縦装置の金属部品や革パッドから、自分の汗と垢の臭いが、かすかに漂った。


「きみきみ、ちょっとちょっと、調子はどうだい? 言われたものは、ちゃんと準備できたよ」


 整備足場の上に登ってきて、コロネットが操縦席をのぞき込んだ。


「機体と盾には、対魔法用の耐熱塗料を厚塗りしておいた。まあ気休めだけど、ないよりはずいぶんとましだと思うよ」


 ケイは、傷だらけの機体の表面を塗り直した白い塗装が、以前よりも厚く、漆喰か何かのような質感なのに気付いた。それから、このダークエルフの、人なつこい感じのする金色の瞳を見つめ返した。


「ありがとうございます! 本当に、今までお世話になりました」


 コロネットは、よせよ、というように、顔の前で手を振った。


「こっちこそ、君には感謝してるよ。何しろ私たちは、姫さまの手料理が大好きだからね。恩返しができるとなれば、何だってするさ!」


 ケイは、その言葉に対して、大きくうなずいた。それから、声を張って叫んだ。


「つなぎます!」


 コロネットは、整備用の足場から飛び降り、床に降り立ちながら手を挙げて叫んだ。


「戦列機が起動する! 下がれ!」


 マスタークラッチを接続し、エンジンのパワーを四肢のトランスミッションへ伝達する。すぐにトランスミッション内のフライホイールがスピンアップされ始め、安定した機体の動作に必要なだけの運動エネルギーが蓄積されつつあることを、メーターの針の動きが知らせた。


 手を伸ばして開閉レバーを操作し、分厚い鋼鉄製のハッチを閉じる。ケイの頭上に来たペリスコープを引き下ろし、ヘルメットのように頭にかぶった。目の前のガラスに、簡易整備場内の光景が、くっきりと映し出された。


(さて、武器は……)


 四肢のクラッチをつなぐと、身長4メートルもの〈エントーマβ〉の、ばねと歯車の肉体に、力がみなぎるのが分かった。首をめぐらせて、機体のそばを見下ろす。そこには、大人の身長ほどもある、磨き抜かれた剣が置かれていた。いつもケイの機体が装備している短めの片手剣だが、まっさらの新品を用意してくれたのだ。


 ケイは、右腕の操縦桿を握り、剣へと手を伸ばした。ケイの右腕が〈エントーマβ〉の鋼の腕となり、そのまま伸びて、剣の柄をがっちりとつかんだ。


(よし、行くぞ!)


 ケイは、軽く目を閉じた。そして、自分の体の軸を意識して確認し、その周囲にバランスよく鋼の肉体が広がっている、とイメージする。それから、その鋼の足の下に広がる、揺るがぬ大地を感じた。その平面へ向けて、足のペダルを叩き付ける。


 いつもと全く同じ軽快な駆動音とともに、〈エントーマβ〉は、整備場の空間を貫き、立ち上がって、その白い兜を真っすぐに天へと向けた。




 アンドリューの姿を探すと、その緑金色の分厚い鎧は、既に入場門の前にあった。ケイは機体をゆっくりと歩ませて彼に近づき、首元ののぞき窓を開けて話しかけた。


「アンドリューさん! 本当にありがとうございます。これは、言ってみれば、僕たち人間という種族の内紛でしかない。昆虫人であるあなたに、ドラゴンと戦う危険を冒す義理はないのに……」


 アンドリューの胴体から、いつもと全く同じ調子の、落ち着き払ったような、しかしどことなく状況を楽しんでいるかのような、美声が響いた。


「いや、私の調査研究テーマと、テアロマの進学とは、密接な関係があるのだ。そのためであれば、この程度の戦闘は喜んでこなすとも」


「そうなんですか?」


 機体を傾けてアンドリューの顔を見ると、兜ののぞき穴から、また青い光がちらついて見えた。この会話も、テレパシーによって、彼の故郷の「昆虫大陸」にまで伝わっているのだろう。


(まるで、好奇心の塊みたいな種族だなあ、昆虫人って……)


「そう! 学園とは、若い男女が学業そっちのけで恋愛に明け暮れ、部活動をしたりデートをしたり、海に行って水着でたわむれたりという、キャッキャウフフな場所だと聞く! ぜひとも、そのような場所へ、我が水晶の姫を送り込んで、その性行動を観察したいのだ!」


「だ……いったい誰からそんな間違った情報を聞いたんですか?」


 ケイはさすがに呆れた。学園とは、学業に専念すべきところだ。そんな、複数の女学生たちとたわむれてばかりなどという学校が、この世に存在するわけがない。


「そうなのかね? 女王陛下からも、学生時代の華々しい恋愛遍歴についていろいろ聞いたのだが?」


(カブトムシに何を教えてるんだ女王陛下!)


 アンドリューは、その思考を示す青い炎を輝かせながら、ケイの顔を見つめた。とはいえ、兜ののぞき穴からちらつく光が漏れるばかりで、表情や視線が見えるわけではない。しかし、ケイは、確かにこちらを見ている、と感じた。その気配に、もう慣れていた。


「この前は怒らせてしまったが、しかし私は確かに、このトーナメントの間でテアロマが成長したと感じているのだよ。そう、成長だ! 蛹から脱皮した時点で既に完成されている我々昆虫人にはない、時間をかけた、その過程こそが輝ける価値を持つ、成長!」


 アンドリューは、うなずいているかのように角を振りたてた。


「我々昆虫人は、『神脳』システムから記憶をコピーされ、肉体もその目的に合わせて調整されてから、蛹から成虫になるのだ。私は、羽化したときから、自分が何者で、何をなすべきかを知っていた。だから、『努力し成長する』必要はない。しかし、人間にはそんなシステムはないから、未熟なままに努力して自らの脳を訓練し、そして、自分が何者か、何をなすべきかすら、自分で見つけ出さねばならない」


 ケイには、アンドリューが何を言おうとしているのか、ある程度は理解できた。


「それゆえ、人間は『努力し成長する物語』を好む。それが、君たちの生物学的な特性を表現しているからだ。神話の英雄は、必ず苦難の旅を経て成長し、何かをつかむ。それが、君たち人間という種の物語なのだろう。それこそが、私がこの目で見たいものなのだよ。我々は、今まで見たこともない光景を見るために、我が故郷の大陸から旅立ったのだから」


「見たこともない、光景……」


 アンドリューは、磨き上げたように輝く緑金色の角を、また誇らしげに動かした。


「そうとも。君も、そうではなかったのかね?」


 アンドリューのその問いかけに、今までの人生で自分がたどってきた道筋が、ケイの頭の中の地図に浮かび上がった。それが、ずいぶん、ちっぽけなもののように思えた。


(旅立ち……僕の、旅立った理由……育った村から、あの、白い、『竜骨街道』をたどって……)


 それからアンドリューは、今思い出した、という調子で、非常に重要な情報を口にした。


「私が呼んだ『助っ人』だが、今こちらに向かっている最中だ。試合開始には、少しだけ間に合わないかもしれない。数分間だが、我慢して耐えてくれ」


「……分かりました」


 そのとき、分厚い鋼鉄の扉の向こうから、拡声器で呼ばわる審判の声が響き渡った。


「これより、滅魔暦11793年度、春の花冠トーナメント1部、決勝戦をり行う! 出場者、入場!」


 ケイは、アンドリューに呼びかけた。


「行きましょう!」


「うむ、行こう」


 軋みながら開く巨大な扉をくぐると、真新しいきれいな砂がまかれたフィールドが、白っぽく広がっていた。昼近い頭上の空は快晴で、雲一つない。城壁のようにそびえ立つ観客席は、満員だった。賭け札を束にして握りしめた客たちは、今まで見たどの試合よりも興奮していて、異様な響きの声がわんわんと石壁に反響している。


 だが、ケイには、その闘技場を揺らすほどの歓声と怒号も、聞こえていなかった。


(……姫さま!)


 審判用の塔と同じくらいの高さにある、一番豪華な桟敷席が、ケイの視野に入った。そこには、真っ白なドレスを着た、テアロマの姿があった。胸元が大きく開いた白い絹のドレスは、豪華なひだとレースに飾られ、つややかな黒髪には、真珠と銀で作った花飾りが付けられている。硬い表情で、前をじっと見つめているその姿は、とても小さく見えた。


 そしてその周囲には、やはり豪華な衣装を着込んで、貴石を彫って作った杯に酒を注いでいる、貴族たちがいた。数人で、白いドレスのテアロマを完全に囲んでいるのは、間違いなく、自分たちの権勢を世間に見せ付けるための演出だった。おそらくこれらが、女王の改革方針に楯突いている、守旧派の貴族なのだろう。


 王家の姫君ともあろうものが、闘技場の宿舎で、庶民の男たちと一緒に寝泊まりし、台所で食事の世話までさせられている。これは「処女証明書」の審査をもう一度受けてもらわねばならぬ。そんな非礼極まりないうわさが貴族の間でやり取りされていることを、ケイは思い出した。


(あの貴族どもが、僕の『敵』なのか……自分たちの権益のために、あのスキンヘッドたちを雇って、子飼いの魔法槍騎すら平気でドラゴンに焼き殺させた連中……。あいつらは、アンドリューさんの鎧の中身を、知っているんだろうか? 世界の果てからやって来た、その真実の姿を?)


 そのとき、テアロマが、ケイたちの入場に気付いた。その視線が、ケイの機体とアンドリューに注がれる。ケイの目には、遠くても、その泣き出しそうなのをこらえている表情がはっきり分かった。観客席から沸き上がる異様な歓声の中、その涙ぐんだ瞳がこちらを見つめているのに気付いたとき、ケイの体内に、突然、巨大な圧力が発生した。


 それは、目の前の残酷な光景を、この闘技場を、この世界全てを笑いのめす、腹の底からの哄笑こうしょうだった。


「バカだこいつら! こんな豪華な闘技場に、金のかかった機械の兵隊を何台も並べて、殺し合いさせて、国が買えるほどの金で賭けをしてやがる! 血と油で汚れた戦場に、あんな小さな女の子を一人、高いところに旗印代わりにさらして……バカだ! こいつら全員、大馬鹿野郎どもだっ!」


 ケイの背中に、またあの硬直が生まれた。その硬度はそのまま〈エントーマβ〉の駆動系に伝わり、鋼の脊椎や歯車仕掛けの肩甲骨が唸りを上げた。怒りを込めて、フィールドのきれいな砂を、大きな鉄の足で踏み付ける。響き渡る足音が、少しだけ、観客席をたじろがせたようだ。興奮した歓声が、若干収まった。


 だが、すぐに、その観客席から、恐怖の悲鳴が漏れ聞こえ始めた。ケイたちの向かい側の石壁が大きく開かれ、そこから、あの巨大な晶炎竜が現れたのだ。巨大モンスター専用の入場口をくぐって、全長40メートル以上はある巨体が、ゆっくりと闘技場に歩み入ってきた。クリスタルガラスのような甲殻が擦れ合うじゃりじゃりという耳障りな音が、フィールドを圧する。


(こいつは確か、モンスター用の飼育施設に入れられていたんだったな……太古の生物だから、魔力が少ない今の世界では、空気がないのと同じようなもので、そのままでは生存できない。だから、大量の聖水を運び込んで生命を維持していたらしい……物入りなことだ)


 ケイは、内臓が冷えて縮こまるような恐怖感を押さえつけながら、ドラゴンの様子を観察した。前に見たときと同じで、水晶の目には何の感情も見えず、フィールドの面積の半分を占拠して微動だにしない。


(よし……やはりそうだ。この晶炎竜は、ちゃんと制御されている)


 巨大なドラゴンの影から、2機の黒い戦列機が姿を現した。そのまま、巨竜の左右に分かれて立つ。ハッチは開かず、あのスキンヘッドたちは、自らの姿を見せようとしなかった。ただ、分厚い鋼鉄の兜の下で、ペリスコープの赤いレンズが鈍く光っているだけだ。2機とも、手には大振りの両刃斧ビペンニスを装備している。その黒い刃にも、埋め込まれた魔石のエッジが鈍く光っているのが見えた。


 開けたままののぞき窓から、ケイは、審判たちがうろうろしている塔の上を見上げた。式次第では、あの宝剣を持った巫女が、アイシェル神の名前で試合を祝福するはずだった。しかし、突然、審判が拡声器を持って叫んだ。


「なお、本日の決勝戦は、イクスファウナ王国第3王女、テアロマ姫殿下による、特別の御観覧を賜ることとなった! 姫殿下は、第70代の『水晶の舌』でもあらせられる! 皆、心せよ! これは神覧試合である!」


 審判のその言葉を聞いた観客席から、これまでとは違う、狂喜したような大歓声が、ごうごうと沸き上がった。高い桟敷席の上に、白いドレスの姫君が立ち上がって、観客たちに向かって手を振った。皆、生き神である「水晶の舌」を自分の目で見られたことを、心から祝福と感じている。


 その、神の威光を求める観客たちの視線が、歓声が、テアロマの小さな身体を、あの柔らかい白い肌を、四方から容赦なく殴り付けている。そう、ケイには感じられた。


 だが、テアロマは――この小さな、たおやかな身体の、料理好きの少女は、闘技場の歓声全てを、恐るべき巨竜の炎の照り返しをその身に受けてもなお、ひるむことはなかった。渦巻く観客たちの熱気の中心で、あのきゅっとした美しい、しっかりした曲線が、白いドレスの背中に確かに現れている。


 ケイの心をつかんで放さない、この可憐な少女は、宿舎のキッチンに立っているときと全く同じ姿勢で、揺るがずに、堂々と、立っていた。


 やはり、その姿は、ケイが引くカードの「荒れ野の姫君」に似ていた。


 ケイは、ハッチ開閉レバーに手を伸ばした。〈エントーマβ〉の胸部上面を構成する装甲ハッチを開けて、闘技場の恐るべき歓声の最中に、巨大なドラゴンの視線の真正面に、その生身をさらした。そのまま、真っすぐに、桟敷席を見上げる。ごうごうとうなるような歓声を響かせる観客席のはるか上、テアロマの姿は、小さくしか見えない。


 だが、その深い色の瞳も、確かに、ケイを見返していた。


「アンドリューさん……確かに、そうです……僕は、こんな光景は、今までに見たことがない!」


 ケイは、喉から絞り出すように、そうつぶやいた。


「なお、姫殿下の格別の御意向により、登録された機体名を変更する! イクスファウナ王国近衛戦列騎士団! 搭乗機名を〈エントーマβ〉から変更、正式の命名は、〈アスタルテ〉!」


 最後に、審判の長らしい豪華な衣装の紋章官が、そう宣言した。〈アスタルテ〉とは、確か現女王のクリステロス3世の、幼名だったはずだ。


 見上げるケイの視線のはるか先で、白いドレスの少女を囲んだ貴族たちが、顔色を変えて詰め寄るのが見えた。しかしテアロマは、冷ややかな微笑で、その抗議をはね付けたようだ。


(姫さまも、戦ってるんだ……そうか、女王陛下の名前を機体に付ければ、守旧派の貴族どもも、この機体を灰にするのをためらうかもって考えたんだな)


 そう思いながらテアロマの小さな姿を見つめて、ケイは胸の中が熱く、うずくように痛むのを感じた。


 やがて、試合開始の合図を示す、錦の旗が振られた。ケイとアンドリューは、試合開始のラッパの音を待って、身を硬くして低い姿勢を取った。そのまま、眼前の晶炎竜を見る。


 透明な身体の巨竜は、やはり同じ姿勢のままで、動いてはいない。


(やはりそうだ……僕たちの、推測したことは、当たっている!)


 ファーンファーンファーンと、試合開始を示すラッパの音が、3回響いた。


 ケイは、この闘技場を構成している、全ての穢れたものを吹き飛ばすような気合で、勢いよくハッチを閉めた。操縦桿を握り直し、駆動系の挙動を、エンジンのパワーを、持ち手に巻かれた厚い皮革を通して感じ取る。


「聞いたか? 姫さまがくれた、お前の、本当の名前だ……行くぞ、〈アスタルテ〉!」


 その新しい名を、誇りを持って叫んだ!


 ケイは脚部の操縦装置を思い切り踏み込み、前方へジャンプした。そのままの勢いで、機体が空中を跳んでいる間にフットレバーを踏み込み、脚部を拍車滑走モードへ変形させる。ジャンプの初速をそのまま車輪に乗せて、〈アスタルテ〉は猛然とダッシュした。


(新しい砂が入ってるから、タイヤのグリップが弱いはず……脚部を使ったジャンプで前方への速度を稼ぎつつ、スムーズに車輪走行へ移行する……よし、スリップせずにスタートダッシュできたぞ!)


 車輪による高速走行の速度が乗ってくる。フィールドの白い砂が、低い姿勢になったケイの、ペリスコープの視野一杯に迫る。視野の隅に、やはり砂煙を立てて走る、アンドリューの姿が映った。


 ようやく、晶炎竜が動き出した。ガラス製の大伽藍のような胴体内部の炎が、胸元から首の中を昇っていくのが見える。


(遅い! やはり、姫さまの予想したとおりだった)


 ケイは、テアロマが、晶炎竜について語った推測を思い出した。


「家畜化された動物――例えば、牧羊犬などは、野生動物の持っていた本能から必要な性質だけを残して、家畜として都合の悪い行動は切り捨てるように、品種改良されています。羊の群れを追い立ててまとめ、仲間のいるところへ誘導する本能は強化されていても、獲物に襲いかかってとどめを刺す行動はしない。だからこそ、犬は、人間の代わりに複雑な仕事をこなすことができる。でも、あのドラゴンは、太古の野生動物です。品種改良されているわけではないし、調教する時間もない。『巨竜の寝床』や『火竜の坩堝』クシュの、知恵ある古代竜たちと違って、知性もありません。だから――」


(そう、だから、こいつは『準備しながら待つ』ことができない! 攻撃指令が下るまでは、魔法で縛られて、動けず固まっているだけなんだ! 『すぐに吐けるように炎を口に溜めながら、しかし開幕のラッパが3回鳴るまでは待機しろ』といった、複雑な命令はできない!)


 ケイとアンドリューは、貴族の屋敷ほどもあるドラゴンの胴体の手前で、二手に分かれた。最初から、目標は、スキンヘッドたちの黒い機体だけだ。視野中央に迫る彼らの黒い影は、まだドラゴンの胴体のそばにあった。


 おそらく、彼らは、ケイたちの作戦を、全く予想していなかったわけではなかっただろう。しかし、彼らにしても、晶炎竜を召喚して、操って戦わせるのは、初めてだったのだ。


 だから、「ドラゴンを前に出して、自分たちはその後ろに隠れる」という、当然取るべき行動が、少しだけ遅れた。


 晶炎竜はやっと、自らの前方へ、第一撃の炎の息を吐き出した。しかしそれはケイたちを捉えるには遅すぎ、大気が膨張し振動する轟音とともに、誰もいないフィールドの地面を灼く。白く輝くその光で、スキンヘッドたちは、一瞬、視力を失った。


 その隙を、ケイたちは見逃さなかった。


〈な、何だこれは!〉


 ケイの目の前の敵機から、妖精語の叫び声が響いた。黒い装甲に覆われた、敵機の太い右腕には、巨大な鉄の輪がはまっていた。その輪から伸びた鋼鉄製の太いリンクは、ケイの機体の左腕に付けられた、同じ形状の鉄の輪につながっている。


 それは、戦列機の腕のサイズに合わせた、分厚い鋼の、手錠だった。


〈おのれ……こんなもの!〉


 敵機が、手錠を引きちぎろうとして、右腕を激しく振った。だが、手錠のリンクは、びくともしない。


「魔石の細片を象嵌ぞうがんして、徹底的に強化された手錠だぞ! その程度で壊れるか!」


 ケイは標準語で叫び、右手の剣で相手の左肘を狙って突いた。左腕の盾でこちらを殴ろうとしていた敵機の動きは、それで止まった。若干低い姿勢から、相手の腹をえぐるように胸部の装甲をぶち当てる。相手がうめき声を上げるのが、鋼鉄が激突する轟音の中でもはっきり聞こえた。


 機体の首を旋回させて見ると、アンドリューも同様に、敵機と自分とをつなぐことに成功していた。ペリスコープの上方視野用のレンズに、晶炎竜の首が映る。高い塔のようにそびえ立つその首は、ゆらゆらと揺れ動いていた。水晶玉の目には何の表情もないが、その口にたまった白熱のエネルギーは、ケイたちに向かって放射される気配はない。


 この竜は、明らかに、戸惑っていた。


(やはりそうだ! 魔法槍騎たちを炎の息で焼いた後、こいつは周囲を見回して、スキンヘッドたちの機体を確認してから、動きを止めた。このドラゴンを縛る魔法には、敵味方を識別する機能がある。だが、それだけなんだ! それ以上複雑な行動を命令することはできないし、今すぐに識別機能を解除することもできない!)


 ケイたちが「攻撃禁止対象」であるスキンヘッドたちと組み合ったまま離れないのでは、この晶炎竜には何もできない。これが、ケイが発案した、ドラゴンの炎から身を守る、唯一の方法だった。


 それから数分、ケイとアンドリューは、敵機ともつれ合いながら、晶炎竜の足元で必死に粘った。巨大なガラス細工のドラゴンは、口に炎を溜めたまま、ただ首をうろうろと前後に揺らしているだけで、何もできないでいる。ときどきいらだったように、その透明な牙の並んだ口から、下の地面へ向けて咆哮するくらいだ。その恐るべき吼え声はケイの身体をすくませはしたが、〈アスタルテ〉の鋼の骨格は、びくともしなかった。


(よし、行けるぞ……あと少し、3人目の助っ人が来るまでは……粘れ!)


 そのとき、業を煮やしたかのように、晶炎竜が真上から炎を吐き出した。それはケイたちから少し離れた場所に命中し、誰もいない地面の砂を黒く焦がした。連続して放射される炎の息は、炎というより真っすぐに進む光線のようで、まるで、白く光る光の柱が立っているかのように見える。


〈……我が魂よ、戦士の館にて永遠の幸福を得よ〉


 突然、ケイの相手の黒い機体が、ひときわ高い駆動音を響かせた。そのまま猛然と、ケイの機体を押し始める。その背後には、まだ放射され続けている、光の柱があった。


(なんだこいつ、こっちを道連れに……自殺する気か!)


 ケイは慌てて、〈アスタルテ〉の足を踏ん張った。しかし、単純なエンジン出力では、重量級の敵機の方が明らかに上だった。新しくまかれた砂の上で、鋼鉄の足がむなしくすべる。すぐに視野いっぱいに、光り輝く炎の柱が迫った。


(アホかこの野郎! 何でそんなに命が安いんだよ!)


 敵機は、確かに、覚悟を決めていた。ケイを道連れにして自分も炎の息に飛び込む勢いで、黒鋼の足をぐいぐいと踏み込んでくる。もはや、白く輝く柱は、ケイの背中に迫っていた。炎の輻射熱だけで塗料が蒸発しているのか、機体のどこかがシュウシュウと音を立てている。


(僕が倒れるわけにはいかない! アンドリューさんはモンスター枠なんだ! あっちが生き残っていても、僕が倒れたら、即敗北だ!)


 ケイは、相撲のような格闘技の要領で体幹をひねり、相手の突進力を背後へといなした。〈アスタルテ〉の柔軟な駆動系が、その身体の動きを正確に再現し、黒い敵機の巨大な質量が、ケイと入れ替わって炎の柱に飛び込む。しかし、つながった手錠のせいで、ケイの機体もその後を追ってしまった。


 唐突に、晶炎竜の炎の放射は終わっていた。一瞬前まで鋼すら溶かす灼熱のエネルギーが柱を成していた空間を、ケイと敵機は煙を上げながら転がり抜けた。


「ば、馬鹿野郎! 何考えてる!」


 ケイの罵声に、スキンヘッドは下手くそな標準語で返した。


「我々には、敗北は許されていない! 死をもってしても、勝利こそが至上のもの!」


(……どういう育てられ方したらそうなるんだよ!)


 恐怖で呼吸を乱したケイの耳に、機体の伝声管から、別の会話の声が届いた。アンドリューと、手錠でつながれたもう一人のスキンヘッドの機体が、すぐ近くまで来ていた。


「お前は、いったい何者だ? 歯車式強化外骨格と互角に戦えるなど、巨人族ではないな! その鎧の中身は、何だ?」


 やはり、訛りのひどい標準語が響いた。アンドリューの落ち着いた声が、緑色の鎧の中から答えた。


「そうだ、知的生命体としては、それは当然の疑問だ……だが、君は今、その『当然』を問うべきではない……重要なのは、それではない……そう! 今考えるべきことは! 今問うべきは! 我々が『何を待っているのか』だ!」


 アンドリューは突然、右手の剣で青い天空を指した。


「来たぞ……!」


 それは最初、黒い点として、青空のただ中に現れた。そしてすぐに闘技場へ向かって降下し始め、数秒でその形状が見て取れるほどに接近した。昆虫らしい、脚のある、翅を拡げたシルエットで、頭部からは2本の曲がった角状のものが突き出している。


(間に合ってくれた! あれが、アンドリューさんの呼んだ『助っ人』、戦闘タイプの、兵アリの昆虫人か……戦闘型は、クワガタムシみたいな姿なんだなあ……)


 その「助っ人」は、今や闘技場の真上に来ていた。そして、観客席を守る音響バリアーが張られていない、フィールド真上の空間へ向かって、降下して来た。


(あれ? 何か変だぞ?)


 クワガタムシのような「助っ人」の姿は、降下につれてどんどん大きくなった。それはすぐに青空を隠し、闘技場の上空全体を覆うほどに大きくなり、そして、地響きとともにフィールドに降り立った。


 「助っ人」の大きさは、晶炎竜と同じくらいあった。


 それは、全長数十メートルにも及ぶ、城塞サイズの、クワガタムシだった。


 観客席から、異常などよめきと悲鳴が聞こえてきた。ケイも、スキンヘッドたちも、審判も、観客も、この闘技場の全てが、ただ呆気に取られて、フィールドに舞い降りたその異常な存在を見つめていた。


 「助っ人」の姿は、ケイが子供のころに捕まえて遊んだ、小さなクワガタムシとそっくりだった。前翅をもぞもぞさせながら、透明な皮膜の後翅を折り畳んで収納している。全身がくまなく固い外骨格に覆われていて、6本の脚は細めだが、それでも石造りの城の柱くらいはあった。左右に平たい巨大な頭部から生えた大顎は、美しい曲線を描いた不思議な形状で、まるで芸術家肌の建築家が設計したアーチ橋が二つ、空中に突き出しているかのようだ。その顎の内側には、一本が人間の身長ほどもある鋭く長い棘が、何本も生えていた。


 そして、それらの全てが、白昼の太陽に照らされて、黄金の色に輝いていた。


「な、何ですかこれは? アンドリューさん!」


 文字どおり魂消たまげたケイの叫びに対しても、アンドリューはいつもと同じ美声だった。


「これが、『助っ人』だよ。あの晶炎竜と戦えるのを派遣してくれと頼んだら、あれが来た」


(こりゃ、戦闘型の昆虫人なんかじゃない……どう見ても、ドラゴン級の化物だ!)


 バキッバキッという、乾いた音が響き渡った。この黄金色のクワガタムシの外骨格が、接触し合って音を立てたようだ。どうやら、かなり興奮しているらしい。そして、この巨大昆虫は、金のインゴットのような脚をきらめかせながら、晶炎竜に向かって歩き始めた。


「ゾロの恩寵の権利を使用します!」


 ケイは慌てて、審判の塔を見上げて怒鳴った。その声は何とか塔の上まで聞こえたらしく、審判の宣言が、巨大クワガタの立てる騒音の中に聞こえてきた。


「ゾロの恩寵によって、イクスファウナ王国近衛戦列騎士団の戦闘条件変更を認める! カード名、『双頭の巨槌竜』! 権利は、モンスター枠2倍!」


 これで、アンドリューに続いて、あの黄金クワガタの戦闘参加も認められたことになる。


 ケイはまだ、眼前の光景を、自分の認識力で把握しきれないでいた。金色の巨大なクワガタムシは、カマキリが獲物に接近するときのような間欠的な歩みで、しかし着実に、晶炎竜への距離を詰めていく。


 晶炎竜の方は、攻撃できる対象が出現したことに解放感でも感じているように、透明な牙の並んだ口を大きく開いた。そしてすぐに、その口から、白く輝く光の束が噴き出した。だが、クワガタは、それを避ける気配はない。


(あの炎に耐えられるとでもいうのか?)


 ケイは一瞬、この大きな「助っ人」が、竜の白炎に無残に焼かれるさまを思った。


 だが、ドラゴンの舌のように長く伸びた炎の息は、クワガタムシの頭の少し手前で、爆発したかのように粉々に吹き散らされた!


「な、何が起きたんだ?」


 真っ白な火の粉が、金砂でもまいたかのようにきらきらと光りながら降って来た。まるで、見えない手が、クワガタの直前で、炎の息を叩いて散らせたように見えた。


「うむ、なるほど、空気だな。頭部のあの管から、強烈な空気の渦を発射して、炎の息を吹き飛ばしたのだ。どれほど高温の炎といっても、気体だからな。吹き散らすことは可能だ」


 アンドリューの言葉に、ケイはクワガタムシの頭部を見た。二つの巨大な大顎の間に、小さな管状のものが突き出していた。ここから空気の渦を出して、竜の炎を吹き飛ばしたらしい。


「アンドリューさん、あれは昆虫人の作った、戦闘用の生物なんですか?」


 ケイの問いに、アンドリューは角を振り立てながら答えた。


「いや、あれは昆虫大陸に生息する、ただの野生の生物だ。我々が何か、計画したり作成したりしたわけではないよ。昆虫大陸にも、炎や凍気、酸や毒のブレスを放射する巨大生物は存在するのだ。だから、それに対抗できる能力も、また進化し得る」


 また、空中で爆発が起こった。2度目の炎の息も、巨大クワガタムシの黄金の外殻には届かなかった。二者の距離は、かなり詰まっている。


「自然には、予定された物語はない。そこにはただ、恐るべき『偶然』と、その結果があるだけだ。あのドラゴン級の昆虫を生み出したのは、神の物語などではなく、進化の偶然だ。そして、我々の前には、その結果だけがある」


 クワガタムシの黄金の姿は、もう晶炎竜の目前に迫っていた。しかし、このドラゴンは、位置取りも変えず、炎の息の放射をやめようとはしない。


 おそらく、自然の本能によって判断できたら、晶炎竜はもっと適切な行動を――牙や爪で直接攻撃するとか、あるいは、必要のない戦いからは逃げるなどの行動を、選択できたのだろう。


 だが、召喚の儀式による拘束が、このガラス細工の巨竜を、どうしようもなく愚かにしていた。


 至近距離に迫ったクワガタへ、晶炎竜が炎の一撃を放った。2体の巨大生物の間で、白い火球が大爆発した。はじけるような轟音とともに、白く輝く爆炎の雨がフィールドに降る。


 その光る雨の中を衝いて、2本のアーチが、黒い影となってぬっと突き出した!


「やった! 捕らえたぞ!」


 ケイは、目を細めながら、火花となって飛び散る高温の火球の中を見つめた。黄金の巨大クワガタのたくましい大顎は、晶炎竜の透明な外殻に覆われた首を、がっちりと挟み込んでいた。


〈何だこれは! こんな……馬鹿なことが!〉


 目の前のスキンヘッドの機体から、呆けたような妖精語の声が聞こえてきた。クワガタムシの黄金の大顎は、完全に晶炎竜の首を拘束している。ゴリゴリと、耳障りな音が響いた。大顎の内側に生えている棘の中でも、根元近くにある一番長いものが、ドラゴンの首の水晶の鱗を貫通していた。割れたガラスのような白い亀裂が、みるみる透明な外殻に広がっていく。


 透明な水晶の塔のような晶炎竜の首の中を、オレンジ色の炎がせり上がっていくのが、鱗を透かして見えた。しかしその炎は、つぶれた喉笛を通過できず、クワガタの顎に挟まれたところで止まっている。かすれたような、ヒューヒューという声が、ドラゴンの口から漏れた。


〈おのれ、やってくれたな!〉


 訛りの強い妖精語の怒声が、ケイに向かって叩きつけられた。スキンヘッドの黒い機体が、怒りに任せて手錠の拘束を引きちぎろうと、右腕を振り回す。ギヤチェンジしているのか、今までと違う唸るような駆動音が、闘技場の白い地面に響き渡る。漆黒の仮面の中で赤く輝くレンズの目が、彼の怒りと焦りを示していた。狂ったような出力で手錠ごとケイの機体を引きずりまわしながら、左腕の分厚い盾を叩きつけ、鉄塊のような脚部装甲で蹴りを入れてくる。


 軽量の〈アスタルテ〉のエンドスケルトンは、そのパワーに振り回され、ダンパーと関節ブレーキが軋み音を上げた。ケイの肉体も、装甲を通じて伝わる衝撃に打ちのめされ、身体が操縦装置の中で揺さぶられる。ケイの筋力では、加速度に抵抗して身を硬くすることすらできなかった。全身の筋肉が骨から剥がされていくかのような激痛が走り、胃液が口の中に逆流する。ペリスコープの視野の中に、自機の装甲の白い破片が飛び散るのが見えた。


 その果てしない鋼の暴虐の中で、ケイ・ボルガは、笑っていた。


(やっぱり、やっぱり僕は、凡人だ……千の白刃に身をさらして勇猛果敢に戦う英雄ってのとは、程遠い人間だよ。吐き気がして腹が痛い……ひどい食中毒になったときの、気力が腹の底から抜けていくような、あの痛みの何十倍もの奴って感じだ……内臓を衝撃が貫通していくのが分かる……鼻の中がきな臭い……頭を殴られたときみたいだ……でも、でも、笑えることに、この細腕の僕が! この数百馬力のボコ殴りに! 耐えられてるよ!)


 全身をあざだらけにしながら笑うケイは、ただ一つ、ただ一つのことだけを頭に思い浮かべていた。


 それは、初めて出会ったあの夜に見てしまった、小さな姫君の、テアロマ姫の、可憐な白い裸体だった。


(手錠で相手と自分をつなぐんだ。〈アスタルテ〉の動きのよさは殺されてしまう。回避は、捨てるしかない。それは、覚悟してたさ……だから、本当に苦しいときには、姫さまのおっぱいでも思い浮かべて耐えようって事前に思ってはいたんだけど……まさか、こんなに効果があるとは思わなかったよ!)


 鼻の下に、ぬるりとした感触があった。ケイはせき込み、鼻血を搭乗服の袖でぬぐった。それでもまだ彼は、あの小さな姫君の、白く輝く二つの乳房を思い出した。豪華な絹のドレスの下に、神の化身の物語の輝く衣の向こうに、確かにある、その一人の少女の、血の通う柔らかな肌を。


 それこそが、守るべき唯一のものだと、背中の硬直が教えていた。


 だから、ケイ・ボルガの闘志は、その魂は、揺るがなかった! この瞬間において、敵機の力任せの動きが作った唯一の隙を前にして、激痛に抗い、揺るがず剣を握っていた!


「凡人の僕でも……耐えられちゃったからなあ! その隙は! 見逃さないよ!」


 敵機のエンドスケルトンは型式不明だが、強大なパワーと剛性を持つ、重量級だった。その高出力を右腕に集中し、狂犬のような暴れようで手錠を引きちぎろうとする。その動きが、敵機の駆動系のパワーバランスの変化が、全て操縦桿を通して感じ取れた。


(ここだ! この間合いだ! 桜花水明流、陰の技、『笹舟』……!)


 狂乱のままに叩き出される最大出力が集中したその瞬間、ケイは剣を持ったままの右手の指先で、手錠の留め金を外した。


 その予想外の動作に、巨大で強力な黒い機体が勢い余ってのけぞる。敵の動きに逆らわず、引っ張られて弾け飛んだ手錠に付いて行くようにして、ケイはそのまま、相手の懐にすべり込んでいた。それは、シオンから何度も教えられた、体格に勝る相手に勝利するための、必殺の動作だ。〈アスタルテ〉の駆動系は、いつもどおりに精密に動作し、彼の技を正確にトレースした。


 ペリスコープの視野に、敵機の黒い装甲が迫る。ケイの眼前で、重なり合った分厚い鋼の厚板がめくれ、構造の欠陥を露呈していた。


 ケイには、その装甲の隙間から入り、背面の駆動系まで抜ける一直線のラインが、まるで敵機の構造を透視したかのように、はっきり光って見えた。


 しかし、そのラインが一つにつながっているのは、ほんの一瞬の、刹那。


「この瞬間に! 全ての駆動力をねじ込む! 貫け! 〈アスタルテ〉!!」


 操縦装置の中で、ケイの肉体が必殺の刃を繰り出す。その腕が、その足が、鋼のレバーとペダルを叩きつけるように押し込む。繊細で精密な歯車式機構が、その技を機械の回転数に変換する。唸る魔石エンジンの強大な駆動力が、引き絞られたコイルスプリングの反発力が、ケイの技に乗り、その腕力を数百馬力にまで上昇させた!


 〈アスタルテ〉の攻撃動作は、ただの一閃で終わった。


 そして、ぱあんと響く金属の破断音が、刃から、それを握った機体の手から、確実な手応えを乗せて操縦桿に伝わってきた。


〈……おおお! 我が誇りが! 戦士の矜持が! これで終わるのかあああ!〉


 敵機の黒い装甲の中から、絶望の叫びが響いた。突然、がたんと音を立てて、敵機の上半身が傾き、そのままバランスを崩して地面に膝をつく。駆動系の破壊によってパワーの均衡が崩れ、不快な金属音と共に、筋肉がつったかのように腕が変な角度に曲がって、ぽろりと剣を取り落とした。破断し露出したメカニズムから、潤滑油とダンパーオイルが致命傷の出血のごとく噴き出し、闘技場の白い砂を黒く染めていく。


 ケイの繰り出した剣の一撃は、正確に相手の重装甲の隙間をくぐり抜け、腰部の駆動系を切断し、その重量級の機体を、完全に戦闘不能にしていた。


(アンドリューさんは……!)


 ケイが振り返ると同時に、アンドリューの武骨な剣が、宙を舞うのが視界に入った。その鉄板を切り抜いただけのような剣は、くるくると回転しながら高く飛んでいき、観客席近くの音響バリアーに触れてしまった。音叉のような高音が響き、鉄の塊のような武器が、空中で静止してしまって落ちてこない。


「どうだ! 武器を取ったぞ!」


 もう一人のスキンヘッドが、勝ち誇ったように叫んだ。敵機とアンドリューをつないでいたはずの手錠も、リンクを切断されたのか、既に失われている。しかし両者の間合いはさほど離れておらず、脚を使って回避する余裕はない、必殺の状況だ。


 しかし、アンドリューは、武器を失ったままで、小指の先ほども動じる気配はなかった。いや、人間に理解可能な感情などその巨体の中には一つもなく、空の手のひらを広げて、死のフィールドの上に、ただ、堂々と立っていた。


「武器を取った? 君は、いったい、どこを見ているのかね? 武器なら、私の最大の武器なら、ここにある――最初から、その目には、見えているはずだ!」


 アンドリューの緑金色の兜から、青い光が一瞬、閃光のように広がった。そして、その頭の上にそびえ立つ、二又に分かれた角に、電光が走る。その小さな青い雷は、ばちばちと恐ろしい音を立てながら急激に光度を上げていった。そしてすぐに、角の二又の間に、まぶしく輝く光弧アークが形成された。


「これが、これこそが! 私の武器だよ!」


 アンドリューは、姿勢を低くした。そのまま地面に這いつくばり、両手の指を地面に突き立てる。そして、分厚い鎧の、肩の部分の装甲が、蓋を開けるようにぱかりと開いた。そこからは、アンドリューのもう一組の腕が――昆虫本来の前脚が突き出してきた。


 アンドリューは、人間型から、六本脚の昆虫へと変貌していた。そして、その6本の脚部のパワーが、一気に解放される。背後に飛び散る砂煙を残して、巨大なカブトムシが突進した。青い電光をまとった角が、金属が溶解して飛び散る音とともに、敵機の腹部に命中した!


「これが、私たちの勝負の付け方だ!」


 アンドリューは、敵機の腹部に食い込んだ角を、誇らしげに天へと振り上げた。鋼の装甲をまとった、重量数トンに及ぶはずの戦列機が、轟と投げ飛ばされて宙を舞う。2本の脚をあっさりと天に向け、真っ逆さまに頭から地面に落下した。腹の底から突き上げてくるような地響きが、闘技場全体を揺るがした。


 投げ飛ばされた敵機は、頭からフィールドの地面に突き刺さっていた。中の魔剣士は気絶してしまったのか、真上に突き出した2本の脚は、ぴくりとも動かない。


(何て生物なんだ、昆虫人……! まったく、人間がかなう相手じゃないな……)


 狂気じみた歓声と怒号の中、ケイは、自分の目の前で膝をついている、黒い戦列機を見下ろした。いつの間にか、そのハッチは開いていた。操縦席の中に窮屈そうに納まっているのは、闘技場の地下通路でケイに魔剣を振り下ろした、あのスキンヘッドだった。どこか負傷したらしく、荒い息をついている。


「殺せ……お前の勝ちだ……勝利者よ! 我が生命を奪え! それが、当然の権利だ……」


 苦しそうに息を吐きながら、スキンヘッドが言った。ケイは、何も言わず、そのガラス玉のような目玉を見つめた。そこには、やはり、何の感情もなかった。自分の死や生命に対する何らかの心の動きさえ、この戦士たちには、価値のないもののようだった。


〈お前の命のゆらめく炎は、ここで夜の闇へ消えて煙となるのか?〉


 ケイは、妖精語で語りかけた。スキンヘッドのガラスの目玉が、ほんの少し動いたような気がした。ケイはその青白い目玉を見ていて、激しい怒りが、腹の底から胃にまで持ち上がってくるのを感じた。


(こいつらが、どこの国から来たのかは知らないが……おそらく、子供のころから、こういう教育を受けてきたんだ。こいつらにとっては、他人の命も、自分の命も、同じなんだ。同じように、価値のない、何の重みのないものなんだ!)


 ケイ・ボルガは怒った。


 その怒りが向かうのは、目の前のスキンヘッドの戦士にではなかった。


 スキンヘッドに死を語らせた何か、この闘技場に炎と鉄の騒乱を招き続ける何か、あの可憐な姫君から自由を奪って平然としている、その巨大な、何かだった。


「当然の権利、か。本当によく聞くセリフだよ……ああ、誰もがそう言うんだ。当然だ、奪え、殺せ、それが世界の仕組みだってな!」


 ペリスコープの視界の端から端までずっと、闘技場の観客席が取り囲み、そびえ立ち、血を流して戦う闘士たちに、罵声を浴びせ続けている。ケイはそれを、世界の底だと思った。すり鉢状の、アリジゴクの巣のような、脱出不可能な深い穴の底……。


「だけど、僕は殺さない! 僕は狂わない! 弱者の命を強者が奪ったり、その人生を好きに動かしたり、それが、当たり前だと!? ふざけるな!! そんなこと、血反吐を吐いたって言うものか! 誰に言われようが、脅されようが、僕のこの口からそんな『当たり前』の言葉は、絶対に出やしないんだ!」


 ケイは、もう一度、真っすぐにスキンヘッドの顔を見つめた。その青い目玉に、初めて、かすかに何かの温度が宿ったように見えた。


「……降伏する。我々の、敗北だ」


 スキンヘッドは、ぼそりとつぶやいた。その声と同時に、太い丸太がへし折れるような音が、観客席まで響き渡った。巨大クワガタムシの大顎に挟まれたところから、晶炎竜の首が完全に折れたのだ。まだ炎を内部に宿したガラスの楼閣は、重力に屈して、ゆっくりと地面へ倒れこんだ。また恐ろしい地響きが闘技場を揺るがし、砂煙が舞い上がる。


 ケイは、〈アスタルテ〉の胸部ハッチを開けた。度重なる業火に焼かれた空気は、きな臭いような異様な臭気を漂わせている。


 既に立ち上がり、人間のような姿勢に戻ったアンドリューが、人間のように親指を上げて、ケイに勝利のサインを送った。手を挙げてそれに応えながら、ケイは、高い桟敷席を見上げた。豪華なローブ姿の貴族たちが、フィールドの有様を呆然と見下ろし、真っ青になってへたり込むのが見えた。


(姫さまは……どこだ?)


 桟敷席には、あの白いドレスは見えなかった。


 不安を覚えながら桟敷席の周囲を見つめるケイの視野に、突然、ぴょこんと、テアロマの黒髪の頭が飛び出してきた。桟敷席の一番前まで駆け寄って、手すりから身を乗り出しているこの小さな姫君は、キッチンでよくしていたように、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。まるで、そうしないと、ケイの視界に入らないとでもいうかのように。


 その柔らかそうな頬は、涙に濡れていた。


 闘技場の壁の上で飛び跳ねる白い薄衣うすぎぬに、ケイは、空へ舞い上がれ、と願った。鳥籠の扉を、開けられた、と思った。


 それから視線を地面に戻し、死した晶炎竜の血肉が、天上の元素アイテールのごとくに急激に揮発しているのを、驚きをもって眺めた。




 〈昆虫人特異環境探索型124C41P号、人間界における通名『アンドリュー』による、『神脳システム』報告 記憶集積体 第7999764号:開示〉


 私、特異環境探索型124C41P号、通名「アンドリュー」は、大いなる歓喜と好奇心の爆発をもって、「神脳」システムに接続している同族諸君に、報告せねばならない! 彼女は、恋をしている!


 私が観察を命じられた特異能力個体「テアロマ」は、今、恋をしている! つまり、生殖の相手として、かなり有望な交尾対象として、特定の雄に興味を示しているのだ! 彼女の表情、視線、心拍や呼吸、肌の血流変化、全てが明確な変化を見せている。そう、これこそが、ケイ・ボルガが教えてくれた、人生の全てを、人格の全存在を賭けて挑むという、「恋」というものに違いない!


 この恋の先に、この「恐るべき偶然」の出会いに続く物語に、何が起きるのか? それは「神脳」の巨大な知性を持ってすら、予測のかなわない、完全に未知の領域である。


 私は今後も、テアロマ姫のこの「恋」を、この「成長」を、継続して観察していく所存である。同族諸君には、いずれ、さらなる興味深い報告ができることだろう。どうか、引き続き、ご期待いただきたい。


〈神脳記憶集積体:閉鎖〉


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