第8章 「夜」の闇の中
「いや、やはり私が出る! 利き腕くらい使えなくとも、試合に出るだけでも状況は変わるはずじゃ!」
右手をギプスで固めたシオンが、長剣の「風花姫」を杖代わりに抱きかかえ、立ち上がろうと自室のベッドの上でもがく。その姉の肩を、テアロマはしっかりとつかみ、シーツの上へ押し戻した。しぐさは優しいが、驚くほど強い力だった。
「医術を学んだものとして、いいえ、『水晶の舌』として申します。ユキエ姉さま、それはなりません! しばらくは安静が必要です。傷は骨の中にまで届いていて感染症のリスクがありますし、重要な神経の一本は、切れていたのを魔法でつないだのですよ! 無理をすれば、その右腕は一生麻痺が残るかもしれません」
妹の、強い意志のこもった、しかし冷静な言葉に、シオンの身体は力を失い、頭を深々と枕に沈めた。出血多量のためか、肌にも生気がなく、乾いてしぼんだようにも見える。彼女は、子供のように泣いていた。ケイは、そんな風に泣く師匠の顔を見るのは、久しぶりだった。
「情けない……すまぬ、あと一歩のところで……お前にも、学園での生活を楽しんでほしかったのに……」
テアロマは、姉の頬の涙を指でぬぐいながら、そっとささやいた。泣きじゃくる子供をあやすような、優しい、静かに響く声だった。
「いいえ、パイオン男爵のお話では、近衛戦列騎士団の設立については、ほぼ予定どおりとなったそうです。私たちの戦いは、決して無駄ではありませんでした。もうこれで、十分です」
ケイは、いたたまれなくなって、静かにシオンの寝室を出てドアを閉めた。
闘技場の病室からこの宿舎に帰ってきたシオンは、睡眠薬が切れて目覚めて、見舞いに来たパイオン男爵の口から状況を知った。日が暮れ、夜になってからも、シオンはずっとこの調子でだだをこねていたのだ。
「アスターベル様は、まだあの調子か……差し上げたお薬が効けば、お休みになられるじゃろう。今は、とにかく、休息が必要じゃ」
シオンの部屋から出たところの廊下に、帰り支度の終わったらしいパイオン男爵が立っていた。僧侶が着るような黒いローブ姿に、豊かな黒ひげを蓄えていて、そのひげがもじゃもじゃした黒髪と共に、日焼けした顔を縁取っている。年齢は50代前後だろうか。背は低いが筋肉質のがっしりした体つきで、精悍な風貌だが、口元の辺りにどことなく怪しげな、遊び人臭い雰囲気を漂わせていた。鍛え上げられた肉体の美丈夫を、3割くらい縦に縮めたような感じだ。
この男は、南方貿易への投資で成功して爵位を金で買った「成り上がり者」だといううわさだった。しかし同時に優秀な外科医であり、女王陛下の典医を勤めてもいて、王家の信頼の厚い人物であった。
「わざわざお見舞いに来てくださって、ありがとうございました。お茶も差し上げませんで……」
男爵は、首を振った。
「いや、私はこれから飛竜便を手配して、女王陛下に妹君のご容体をお伝えせねばならんでな。王都の情勢については、またお伝えに参上することとしよう」
ケイは、この男爵がテアロマ姫に対して語った、政治状況の報告を思い出した。
(男爵の言っていたとおりなら、確かに、このトーナメントを舞台とした政治闘争は、女王派の勝利と言ってもいい。だけど……)
テアロマの語った女王の手紙の内容や、見舞いに来た中年貴族から得た情報を、ケイは頭の中で整理した。女王クリステロス3世は、姫の学園への入学について、かなり強硬に粘ったらしい。しかし、この件に関しては、守旧派の抵抗も予想以上に強かった。
「やっぱり、姫さまのご入学については、だめなんでしょうか?」
平民の自分ごときが質問すべき内容ではないと、分かっていた。しかし、ケイはつい、それを口にしてしまった。パイオン男爵は、ケイの心情を察したかのように、静かな口調で答えた。
「ノルマニーで革命が起きて、王のいない共和国になってから、どの国でも革命派が生まれて、王から権力を奪おうと活動を始めておる。こんなご時勢に、王家の正統性の証明書とも言える『水晶の舌』を、革命派の学生の巣窟みたいなパラディーソの学園に行かせるわけにはいかん。ま、守旧派の貴族どもの言い分は、そんなものじゃな」
パイオン男爵は、そこからは腹立たしそうに言葉を続けた。この中年貴族は、シオンやテアロマが子供のころから知っているらしく、まるで自分の子が自由を奪われているかのように、守旧派の貴族たちに怒りを抱いているようだった。
「今このときにも、あの『双晶宮』の宝石の城の中では、既得権益の魑魅魍魎どもが血みどろの争いを続けておるわ。まことにけしからんことよ! 姫さまは、『水晶の舌』の神通力で、既に新しい特効薬を幾つも発見され、コメやコムギ、果物の品種改良も研究されておられる……そんな姫さまがパラディーソの学校へ行って、各国から来ている優秀な学者と交流したり、大図書館の文献を見たりすることが、どれほど国の、いや世界のためになるか! 生き神さまとしてお城に閉じ込めて、政略結婚の相手を待つだけの人生を強要するなど、愚かなことじゃて……」
急ぎ足で帰っていくパイオン男爵を見送りつつ、ケイは、彼が怒りを込めて語った内容は、おそらくそのとおりなのだろうと思った。だが、女王が決勝戦の棄権を命じ、シオンも負傷したこの状態では、自分にできることなどもうないことも、よく分かっていた。
また、あの晶炎竜の水晶の眼に宿った炎と、騎士たちの焼け焦げた残骸を思い出した。
(今まで僕は、自分の受けた呪いが、自分に不幸をもたらすことだけを恐れていた。凡人の僕には、他人の運命まで変えるような影響力はないって思い込んでたんだ。だけど、それだけじゃ済まないんじゃないか? 師匠が重傷を負ったのは、刺客から僕をかばったからだ……この呪いは、自分だけじゃなく、僕の周囲の人間まで巻き込む可能性があるんじゃないか?)
ケイは、半ば無意識に、服のポケットから「夜」のカードを取り出していた。その絵柄は、いまだに定まらず、混沌とした闇がカードの表面を支配している。
「おや、またそのカードを見ているのかね?」
いつやって来たのか、アンドリューの巨体が、背後からケイの手元をのぞき込んでいた。鎧を着ていないからか、その巨大で強固な肉体にもかかわらず、音も立てずに素早く移動できるようだ。額の魔力検知器官が、また青く淡い光を宿し、ゆっくりと明滅していた。
「あの……アンドリューさんには、その青い単眼で、魔力が見えるんでしたよね? このカードですが……どう見えます?」
ケイは、何の気なしに尋ねてみた。しかし、返ってきた答えは、彼の甘い予想の範囲を、完全に超えていた。
「魔力の存在は、全く感じられないね」
「へ? 何ですって?」
ケイは一瞬、ゾロの呪いの話でシオンや店のみんなにかつがれたのではないか、と疑ったときのことを思い出した。しかしすぐに、アンドリューの言葉の異常さを、戦慄とともに認識した。
「そう、以前から不思議に思っていたのだ。そのカードは、立体映像が出たり、引いた時点で絵柄がランダムに決まったりと、複雑な魔法の仕掛けでもなければ、到底実現できない機能を備えている。しかし、君の持つカードからは、微弱な魔力すら感じ取れない。それどころか、私の魔力感覚には、物質としてすら存在していないかのように感じられるのだよ。まるで、空間に四角い穴が空いているかのようだ。これは、いったい、どういうことかね?」
ケイは、アンドリューの言葉を反芻しようとするかのように、口をもごもごさせた。しかし、言葉が出てこなかった。アンドリューの顔を見返したが、やはりそこには、何の表情もなかった。夜の闇に適応した黒い複眼に、自分の顔が映りこんでいるだけだ。
そのとき、シオンの寝室のドアが開いて、テアロマが顔を出した。
「あらどうしたの? 姉さまは、今日はもうお休みになってもらいましたよ。お話は明日になさってください」
青いエプロンドレスの姫君と、巨大なカブトムシのアンドリュー。その二人が廊下に並んでいる、その光景が目に入った瞬間、ケイは、頭の上に何かが落ちてきたように感じた。
自分が今まで、毎日見ていたその光景が持つ意味が、まるで全ての色彩が反転したかのように、突然、完全に逆の構造に変化したのだ。
(呪いのカードの文言……〈汝はまず、最良のものと最悪のものを同時に得る〉……今まで僕は、〈最良〉が姫さまのことで、〈最悪〉が地獄の騎士のアンドリューさんだって思い込んでた。でも、それが、全く逆だったとしたら?)
ケイは、全身に冷や汗が噴き出すのを感じた。腹の底が冷たくなり、太腿の裏辺りが奇妙に脱力するような、不快な感覚がした。カードをつまんだ指が、ぶるぶると震え出した。
(アンドリューさんは、操縦のヒントをくれたり、あのスキンヘッドの剣から僕を守ってくれたりした。その正体だって、地獄の騎士なんかじゃなかった……でも、姫さまは?)
ケイは、不思議そうにこちらを見つめているテアロマの、深い色の瞳を見た。
この瞳に見つめてもらいたくて、この柔らかな肌を見ていたくて、凡人の自分が逃げ出さず、闘技場の死地に自ら飛び込んだのではなかったか?
その道は、そのまま、あのドラゴンの光り輝く炎の中に通じているのではないか?
(〈最良〉と〈最悪〉……!)
そのとき、誰かが、背後で笑ったような気がした。
突然、太腿から股間の辺りに、不快な躍動感が走った。
それが恐怖だと認識する前に、ケイは、宿舎の外へ、夜の冷えた空気の中へと、脇目もふらず走り出していた。テアロマが驚いて呼び止める声が聞こえたようだったが、恐怖にわななく身体は、どうやっても、止まらなかった。
今まで感じたことのないほどの、激しい不安感に追い立てられて、ケイは夜の街を走り続けた。
その異常な感覚は、自分の肉体や精神から発したものではなく、何か別のところから体内に侵入して来たものだ、という気がした。腰骨の辺りからうずくようなむずむずする不快感が背骨を立ち昇り、ケイはひたすら脚を動かし続けるしかなかった。ひいひいと、首を絞められたニワトリのような情けない悲鳴を上げていることに気付いたが、声を止められなかった。視覚も暗くぼやけてかすみ、どこを走っているかも分からない。
いつの間にか、手にしていた「夜」のカードは、なくしてしまっていた。
太腿の筋肉に激痛が走った。立ち止まると同時に、身体に満ちていた奇怪な焦燥感は、唐突に消え去った。全身汗まみれで荒く息を切らしながら、ケイはようやく、周囲を見回すことができた。
(今の異様な恐怖感は、いったい何だったんだ……ここは……どこだ? ずいぶん遠くまで走ってきたみたいだ……)
遠くにちらりと、どこかの時計塔が見える。しかし夜の闇の中、その文字盤は暗く沈み、読むことはできなかった。光学式の時計は、夜の中では役に立たない。夜は、時間の流れを計ることのできない世界なのだ。
(ヴェルデンにも、こんな町並みがあったのか……)
周囲の街並みは、ヴェルデン特有の淡い色彩の石組みではなく、黒い木材の木組みで白い石壁を飾ったものだった。それはケイのいた店「夜と嘘」のある、フォトランの歓楽街に、よく似ていた。路面も、黄色く薄汚れた「竜骨街道」の、骨のような表面だ。
「あのう、すみません……」
夜の街並みを見回しても、自分がどこにいるのか、一つも見当が付かなかった。ケイは仕方なく、黄色くくすんだ路上にたたずんでいる、ドレスの女に声を掛けた。声を掛けてから、それが女ではなく、女装した男娼であることに気付いた。
その男娼は、垢に汚れたヴェールの頭を動かして、ゆっくりとケイを振り返った。性病の末期を示す赤黒い醜い腫瘤が、首筋に見えた。死期を示す黄色に濁った眼が、人間ではなく、奇妙な物体を見るような視線で、ケイを見つめた。
その顔は、ケイ自身の顔だった。
「………………!」
ケイは悲鳴を上げたが、恐怖の疾走に乾いた喉からは、かすれたノイズしか出て来なかった。ひーひーと異様な呼吸音を立てながら、彼はその場から逃げ出した。フォトランの木組みの街路すらすぐに煙のようにぼやけ、彼の逃げるその足元には、黄色く汚れた骨のような道しか見えない。その道は、夜の闇の中に幾度も分岐し、見渡す限り、巨樹の枝を見上げているかのように拡がっていく。
そして、その分岐のあちこちに、ケイ自身の姿があった。
男娼に身を落とし、末期の性病に病み崩れた肉体を引きずって、うつろな目で死を待つ自分。
育った村から出ることもなく、混血のため嫁ももらえず、ただむなしく働くだけの貧しい農民の姿。
若くして一流のギャンブラーとして名を馳せ、夜の街で金貨の袋の上に尻を乗せて、「コスタ・ゾロディア」の卓にしがみ付いて狂ったような大勝負を続けている、血走った眼の少年。
何の理由か、殺人者となって捕らえられ、絞首刑の日を待つだけのやせこけた死刑囚。
それら全てが、「可能性としてあり得た自分」の、本当の姿だと、ケイには分かった。黄色く汚れた竜骨の道は、ケイのたどる可能性のあった、運命の全ての分岐点を示していた。
(これが、この幻視が、僕の運命だというのか……そうか、ほんの少しでも運が悪ければ、僕は、フォトランの街に出て来たところで、悪い連中に捕まって男娼にされていたかもしれない。そうならなかったのは、ただの、偶然、だった……)
ケイの黄色く穢れた運命の分岐は、その他の道、彼の人生に関わった無数の人間の運命の枝と絡み合い、干渉し合い、複雑怪奇な文様を闇の中に描き出していた。
(これが、人間の生きる運命の、本当の形……! そうか、誰も、自分の運命を選んだりはしていない。誰も、主人公じゃない。自分の人生のシナリオなんか、もらっていないんだ。誰もが、この複雑な分岐の中で、訳も分からず、ただ恐るべき『偶然』に、翻弄されているだけなんだ!)
ケイは、自分が、神の視点で世界を見ているのだと、やっと分かった。
そして同時に、はっきりと認識した。
その全ての分岐を選び直す力は、時間をさかのぼってやり直す機会は、自分には与えられていないのだ。
(ここからなら、見える……呪いは、まだ始まってすらいない。〈最良〉も〈最悪〉もない。今までのこと全てが、シナリオなんかない、ただの偶然なんだ。あるいは、呪いの一部だとしても、その準備に過ぎない。恐るべき『偶然』! それが、この呪いの、本質!)
ケイは、自分の運命の道が分岐していく、その幻視の闇のかなたに、確かに「それ」を見た。闇の中にさらに黒く、深く、太古から存在する邪悪な何かが、彼の行くべき運命の道の先に、全ての可能性をふさぐように横たわっている。
そして、「それ」は、突然、ケイの背後に立っていた。
「それ」はあまりにも巨大だったので、振り向かなくてもそこにいるのが分かった。その存在は、大地から天空まで貫きそびえ立ち、はるかな過去から、想像すらできない未来までを、その残虐なる足の下に踏みつけていた。
やがて、汗ばみ硬直しているケイの背中から、大地を震わせるような哄笑が響き渡った。その笑い声は、彼の魂そのものを打ち砕くかのような恐ろしい咆哮にも、美しい女の嬌声にも聞こえた。その傲慢なる大笑は、ケイの目の前に広がる、全ての人間の運命の分岐を、その可能性と生命の全てを、ただ、あざけりさげすんでいる。
この宇宙の、時間と空間の全てが、「それ」の嘲笑で満たされていた。
〈この世で最も優しい物語は、既に失われてしまった。もう、世界中の誰も、それを思い出せない。だから、お前たちの愛は、どこにも行き着くことはない〉
「それ」の気配が、ケイのすぐそば、首筋の辺りに迫った。
〈そうそう、私はお前たち人間からは『確率の神』と呼ばれているのだったな。私の存在が表すのは『乱数性』『不確定性』。あるいは『偶然』。だから、我が指先で運命は変転する! それゆえに……歴史という物語の主人公を、およそ主役にふさわしくない者が務める、などというのも、一興ではないか?〉
「それ」は、背後から手を伸ばすと、ケイの指先に何かを握らせた。
〈忘れるな! 私がお前を選んだのではない。お前が、私を、引き当てたのだ、『
はるかな高空からなだれ落ちてくるかのような笑い声が、物理的な打撃のように、ケイの頭を打ち付け、首を下へねじ曲げた。あらがう力すらなく、彼は膝を屈して這いつくばった。彼を打ち据える哄笑は、全ての時間と空間へと拡がっていき、全ての人間の魂と運命を穢れさせた。
(確率神ゾロ……!)
「それ」の名を、ケイは知っていた。
あれから、どれほどの時間がたったのか、全く分からない。
ケイは、ゆっくりと顔を上げた。フォトランの、淡いパステルカラーの石組みの街並みが、目の前に広がっていた。すぐ近くに、闘技場の、城壁のような観客席が見えた。石畳の歩道に膝をついているケイを、通行人が少し振り返っては、声も掛けずにそのまま通り過ぎていく。
ケイは、自分の指先にある、四角く黒い、紙のように薄い物体に気付いた。やがて、その表面には、錆びた色のつる草と、不可思議な呪いの文言が浮き出してきた。
とぼとぼと夜の街路を歩いて、ケイはすぐに宿舎に帰ってきた。
今年は春の歩みが速いのか、夜も深まったというのに、空気は生ぬるく、寒さはさほど感じない。宿舎に、上着を忘れてきたことに、やっと気付いた。
(結局、この『呪いのレアカード』については、何も分からないのか……)
先ほど見た「幻視」が、客観的な現実かどうかなどといったことは、ケイには分かるはずもなかった。ただ、それを見たことによって、自身の今までの認識が破壊しつくされ大きく変化して、もう復旧することはない、という、明確な実感だけがあった。
闘技場へ通じる通路ではなく、宿舎の庭を囲む石造りの壁の通用門を抜けて、ケイは宿舎の区画へ入った。夜の庭には、いつの間にか桜が咲いていて、淡い紅の花が、月の光を吸い込んだように優しく光っている。
春の花が咲いていることにすら、気付く余裕がなかったのだ、と思った。
「あ、帰ってきた!」
突然、ケイの頭上から、聞きなれた少女の声が響いた。
驚いて見上げると、桜の木の枝の上に、テアロマが立っていた。青いエプロンドレスの薄い生地が月光に透けて、身体の線がくっきりと浮かび上がっている。
そして、そのたおやかな身体の曲線の周囲を、「時幻」の古代魚たちが、くるくると泳ぎまわっていた。青や緑のぼんやりした姿で、古代の甲冑魚や、ひれが腹の横に何十も並んでいる奇妙な魚たちの幽霊が、姫君の手足の動きとうれしそうに戯れている。
「ああ、よかった……夜の中へ、消えてしまったのかと思った……」
テアロマは、ケイを見下ろしながら、かすかな吐息のような静かな声でつぶやいた。あの不思議な深い色の、高山の湖面のような澄んだ目が、こちらを見つめて動かない。
「姫さま! あぶないですよ、降りてください!」
ケイは最初、月の光に浮かび上がるテアロマの小さな姿を、馬鹿のように口を開けてぽかんと見上げていた。それからやっと判断力が戻り、慌てて桜の木の下に駆け寄った。
「な、何でそんな所に登ってるんですか?」
テアロマは、桜の幹に寄りかかるようにしながら、ネコが眠たげに鳴くような声で答えた。
「んー、だってねえ、高い所からなら、あなたを見つけられるかもって思ったから……」
「と、とにかく降りてください!」
ケイがしつこく繰り返すと、小さな姫君は、枝の上で胸を張った。
「これでも木登りは得意なんです! 小さいころはよく登ったんですから、だいじょううああああっ!」
「ぜんぜんまったく大丈夫じゃなーい!」
大丈夫と言い終わる前に桜の枝から足をすべらせ、枝から両手でぶら下がっているテアロマに、ケイは急いで駆け寄った。裸足の小さな足をつかみ、自分の肩を踏み台にさせる。それからゆっくりと腰を落としていったが、テアロマが少しよろめき、肩から足を踏み外した。そのまま、肩車をしているような姿勢になる。
驚くほど柔らかい太腿が、ケイの首を挟んでいた。夜の空気の中に、かまどと焼きたてのパンの香りが、ふわりと拡がった。
(あぶないから、あばれないで――)
ケイは一瞬、テアロマがいやがって暴れ出すのではないかと思った。しかし、彼女は、ケイの肩に体重を預けて、じっとしていた。少女らしいやさしい指先が、そっとケイの頭に乗った。そのまま慎重に、彼女の足を地面に着ける。ゆっくり頭を下げて、姫君のスカートの下から首を抜き出した。
それから、桜の木の下に置かれた、小さなサンダルを見つけた。
「ごめんなさい、重かったですか?」
テアロマはそう言いながら、しかし何だか楽しそうに、ケイの顔をのぞき込んだ。柔らかそうな頬の丸みが、少しだけ、ピンク色に染まっている。それから、小さな姫君は、ちょっとさみしそうな、何かに思慮を巡らせているような表情になった。
「ふふ、私は、穀物を実らせる女神の生まれ変わり、生き神さま、なのだそうです。あなたにも、私はそう見えますか?」
ケイは答えられず、ただ黙って、月下の光にテアロマの表情を探った。そして、自分の感情が、以前とは少しずれたところにある、と気付いた。
(僕の目の前にいる、この小さな、でもはじけるような生気に満ちた身体の少女は、一国のお姫さま、そして伝説の『水晶の舌』だ。でも、それも『偶然』なのかもしれない……うまく言い表せないけど、今見えているこの時間と場所とは違う、少しずれたところには、ただの、料理が大好きな、一人の女の子がいる。そんな気がする)
「あ! それは『夜』のカードですね! 見せてください!」
ケイの答えを待っていたテアロマが、彼の指にあった呪いのレアカードに気付いて、またおねだりしてきた。
(めっ! ばっちいから触っちゃダメ!)
先ほどのゾロの幻視を思い出し、ケイはカードを姫君に触れさせることをためらった。しかし、またもカードはあっさりと彼の手から奪い去られ、この小さな姫君は、熱心にカードの文字を追い始めた。
「あのう、そんなに、そのカードに面白いことが書いてありますか? 僕には、全くの意味不明なんですが……」
ケイの質問に、テアロマは手にしたカードの、下の方を指で示した。そこには、次の文字が記されていた。
〈されど、呪いは、青き星の光を浴びしとき、「大いなる
「ここです! この〈『大いなる宴』にて終わる〉という文言ですが……」
「ああ、多分それが、呪いの終了条件とかいう奴らしいですが」
テアロマは、両手でカードを持ったまま、うんうんとうなずいた。
「そうです。あなたは、『大饗宴』という言葉を、聞いたことはありますか?」
ケイはすぐに、村の学校で読んだ、古代の歴史書の内容を思い出した。
「ああ確か、千年くらい前の『水晶の舌』が、7年に一度すごいパーティを開いていたって伝説でしたっけ……世界中の王を招き、大陸と海の珍味と美酒を集めた、1ヵ月にも及ぶ大宴会だとか」
「そうです、よくご存知ですね! 実は私は、『水晶の舌』の姫として、この古代の『大饗宴』を、再現してみたいと思っているのです。古代の伝説と同じく、世界中の王たちを我が国に招き、古代のレシピと現代の最新の料理でもてなす」
テアロマは、エプロンドレスの胸を張った。あのきゅっとした美しい曲線が、月光に照らされた身体の上に現れた。
「古代の『大饗宴』でも、イクスファウナに集った王や皇帝、賢人たちが、世界や文明の発展について夜通し語り合ったそうです。これを再現するのは、きっと、我が国のためにも、世界のためにもなることだと思うのです!」
ケイは、テアロマが、学園で古代の料理書を研究したがっているのはそのためか、と納得した。それから、この姫君が語っている言葉の意味に、ようやく思い至った。
「まさか、姫さまは、この呪いの文言にある『大いなる宴』が、姫さまのやろうとしている『大饗宴』の再現と関係があるって、そう思ってらっしゃるんですか!?」
テアロマは、ケイの顔を見ながら、心底うれしそうな顔をした。
「はい! 私は、そう考えています。『大饗宴』を再現しようとする私と、この言葉が記された運命のカードを持ったあなたが、今この時に出会った。この出会いは、偶然ではないのかもしれませんよ!」
ケイは、驚くというよりも、もはや思考の限界を感じながら、ただテアロマの顔を見つめた。そこには、呪いに対する恐れなど、微塵もなかった。この姫君は、邪神の呪いをその指につまんだままで、ただ自分とケイの行く先に広がる、希望の光しか見ていなかった。
(まったく、アンドリューさんといい、姫さまといい、あの夜の出会いからこっち、心を土台から真っ逆さまにひっくり返されるほど驚かされ続けで、もう呆れるしかないよ! カードを何度も見たがってたのは、こういうことだったのか!)
ケイは、テアロマの指先にある、「夜」のカードを、自分の運命を見つめた。その表面の絵柄は定まることなく、いまだに混沌の暗闇のままだ。
「でも、もし姫さまのおっしゃるとおりだとしたら……このカードの呪いの力は、本物だということになってしまいます……」
ケイの不安を、テアロマは微笑みで一蹴した。
「だって、〈呪いは『大いなる宴』にて終わる〉のでしょう? つまり、私が『大饗宴』を再現した暁には、あなたの呪いも終了条件を満たされる、ということです。そのとき、あなたは、私のそばにいるのかもしれません……」
テアロマは、最後の言葉だけは、少しうつむいて言った。明るい月光の下だったが、その表情は陰になってしまい、ケイにはよく見えなかった。
ケイは、何かを、確かな力を込めて、語ろうとした。しかし、あまりに多くの言葉が胸いっぱいになってしまって、結局、何も言えなかった。
夜風が吹いて、少し寒くなった。満月の光の下、気の早い桜から、もう花を散らし始めていた。
「この鍋は、豚バラ肉の煮込みです! じっくり煮込んでありますから、2、3日は余裕で保ちます。火を通し直しても大丈夫。からしでも添えて食べてください。あと、これは牛ひき肉のパイです。スパイスを効かせて辛めの味にしてあります。こちらも日持ちはするはず――あとは、えーと……」
キッチンの中で、幾つもの鍋に作り置きした料理を指さし点呼しながら、テアロマはエプロンドレスの胸を張った。ケイは、その豊かな揺れから、いつものように目をそむけようした。しかし、なぜかそれが間違ったことのように感じて、すぐに視線を戻してじっと見つめた。
(いよいよ、今日でお別れか。たった1ヵ月ちょっとだったのに、ずいぶん長く感じるよ……)
女王の名代としての役目を果たすため、テアロマは、ヴェルデン市内にある守旧派貴族の別荘に移ることになった。迎えの馬車が来る日の朝、この小さな姫君は早起きして、数日分の料理を整備士たちのために作り置きしたのだ。ケイはそれを手伝いながら、このトーナメントの間のことを、姫心尽くしの日替わり料理の飽きさせない味を、ずっと思い出していた。
(姫さまの自由は、このキッチンにしかないのかもしれない。ここでだけは、水も火も生命も、全て彼女の指先に従い、スパイスやソースの魔法で、心までとろけるようなおいしい料理に化ける)
料理用ストーブやかまどの上に並ぶ料理の鍋や大皿を、テアロマは一つ一つ指さして確認していた。朝日を受けて輝くそのエプロンドレスの立ち姿は、青い蝶のように可憐で、いつものあのきゅっとしたラインが、背中から脚までを隙なくつないでいる。
(背は小さくても、子供じゃない。女の、肌の柔らかさだ……でも、神通力を持つ、一国の姫なんだ)
その姿を、ケイは、祝福だと感じた。このトーナメントの間ずっと、この姫君は、料理を通じてケイや整備士たちの肉体と精神を支え、勇気付けてきてくれたのだ。
ケイは、そのやさしい味を、一生忘れないだろうと思った。
「これは、おむすびです。左から順番に、しゃけ、おかか、梅干し! 今日の昼ごはんにしてください」
大皿の上に3列縦隊で整然と並ぶおむすびを、テアロマは順に指さして閲兵した。それから髪を隠していたナプキンを外して、ふーっとため息をついた。
「ありがとうございました。後は、僕らでちゃんとやりますよ。師匠のけがも、またお医者さんに見せますから」
ケイは、感謝の文言をあれこれ選ぼうとしてから、結局それだけ言った。その言葉に振り向いてから、テアロマは突然、真っすぐにケイに向き直った。そして、深々と頭を下げた。
「ケイ・ボルガ様! 今まで、危険を顧みず、このトーナメントを戦ってくださったこと、我が国、我が王家を代表して、深く感謝しております。本当にありがとうございました……あと、『ノゾキさん』なんてからかってしまって、ごめんなさい!」
テアロマは顔を上げると、いたずらのプランでも考えているような楽しそうな顔で、少し笑った。つやのある黒髪から、また香ばしいかまどの香りが漂う。
「すみませんでした……何だか、ついはしゃいでしまったのです。皆さんのために毎日料理するのも、大変だったけど、楽しかった」
小さな姫君は、朝の光が差し込む清潔なキッチンを、名残惜しそうに見回した。
「私、子供のころは、食べ物屋さんになりたいって思ってたんです。そんな幼い夢、もうずっと忘れていたのに、ケイ様に『お金がもらえる料理だ』って言われて、久しぶりに思い出せました……これで、お別れですが、今までの失礼はどうか、忘れてください」
テアロマはもう一度、頭を下げた。その最後の言葉を聞いたとき、ケイの身体の中に、またあの奇妙な硬直が発生した。背筋から肩の筋肉が硬くなり、頬が熱くなった。急に、腹立たしさと悲しさの両方が、一度に彼の感情を支配し、混乱させた。
「忘れろ……ですか……」
「はい、あの、『ノゾキさん』なんて、毎日何度も呼んでしまって……」
「いーえ、忘れませんよ!!」
自分でもびっくりするほど、大きな声を出してしまった。テアロマは、目を丸くして、言葉に詰まった。
目の前の少女に対して怒っているのではないと、もちろん自覚していた。ケイが怒りを覚えているのは、この料理好きな優しい少女を縛っている、その小さな身体の周りにある、「何か」に対してだった。
そして、それを破壊し排除する力のない、自分自身の矮小さを、深く
「忘れませんよ! 何しろ、お風呂でばっちり見てしまいましたからね! あーんなところやこーんなところまで、しっかりと!」
テアロマの白い頬が、朝日の中でピンク色に染まった。
「な……何ですか! 何でそんなにえっちなんですか! もー、やっぱりノゾキさんはノゾキさんです!」
激情に駆られて、ケイはテアロマの顔を、その深い色の瞳を、しっかりとのぞき込んだ。姫君は、その視線を受けて、はっと息を呑んだように言葉を失った。
「忘れられませんよ……絶対に! 忘れない!」
別れ際なのにこれか、と、自分が情けなくなった。ケイはそのまま、小さな姫君の姿を振り返らず、小走りにキッチンを出た。
キッチンから駆け出して、宿舎の廊下を曲がってから、ケイは立ち止まった。廊下の窓から、荷物の片付け作業をしているらしい、コロネットの姿が見える。そのダークエルフらしい銀髪と褐色の肌を見たとき、ケイは、数年前のある夜のことを、唐突に思い出した。
店に雇われたばかりのケイが、料理の下ごしらえを手伝って、キッチンでジャガイモの皮をむいているときだった。ダークエルフの少女が、キッチンのそばの小部屋で、数人の従業員たちに乱暴されているのに出くわしてしまったのだ。だまされて北方の辺境から買われてきたその少女は、もう裸にむかれ、声を出せないように口を押さえつけられていた。
ケイは、小部屋に入りながら、店長に言い付けますよ、と言おうとした。その言葉が口から出かけたその瞬間、当の店長が、扉のすぐそばの板壁に寄りかかっているのに気付いた。筋骨の発達したひげ面の中の黒い眼が、ぴたりとケイを捉えた。
「ああ、ちょうどいいわ。あんたもそこに立って、やり方を見てなさい。あんたにも、そのうち、同じ仕事をしてもらうからね」
店長のその声には何の緊張感もなく、平穏で、ケイに対する信頼すら感じられた。ケイはやっと、これが「強姦」ではなく、買ってきた少女を「仕込む」仕事なのだ、と理解した。店長も、少女の褐色の肌を陵辱しようとしている男たちも、その声の響きで、その前かがみの姿勢で、無言で彼に語っていた。
これが、この世界では当たり前のことだ。これが、世界の仕組み、世界の構造なのだ。お前に、それに抗う力はない。だからお前も、同じことをしろ、と。
ケイは、抗議する気力も、動機も失った。それから、ダークエルフの少女の瞳が、ケイをじっと見つめていたことに、今さら気付いた。
涙に濡れたその眼は、ケイの顔から離れると、そのままゆっくり、絶望の闇の色に沈んだ。ケイは汗ばんだ手を握りしめたまま、ただ、何もできず、その場に立っているだけだった。自分が、何の意志も持たない、無価値な、道端に捨ててある棒切れになったような気がした。
そうだ、あのとき、店長はこう言ったのだ。それがこの世界の常識、当たり前のことだと確信している、ごく普通の、やさしい口調で。
「あんたにも、同じ仕事をしてもらうからね」と。
守旧派の貴族がよこした迎えの馬車は、昼前になってから、宿舎の通用門に到着した。
あずき色の漆塗りに金の飾り金具をあしらった4頭立ての馬車からは、当の貴族本人が降りてきて、姫を出迎えた。その骨ばった初老の男は、右腕に包帯を巻いたシオンの姿に気付いたようだったが、声を掛けることはしなかった。
やがて、宿舎のキッチンを通って、庭にテアロマが出て来た。ケイはその姿を見て、息を呑んだ。
この小さな姫君は、キッチンに立っているときと同じ、ウエートレスの制服の、青いエプロンドレスを着ていた。そしてその腰には、市場でケイが選んでやった、あのレースの、清楚な白いエプロンを付けていた。
馬車から降りてきた貴族は、姫君のその出で立ちを見て、顔をしかめて何か文句を言ったようだった。しかしテアロマは、それをはね付けるように胸を張った。それから、宿舎の方を振り返った。そこには、いつの間にか、コロネットら整備士たち全員が集合していた。
「姫さま、ごちそうさまでした!」
整備士たちは、大声を張り上げて、姫君の料理に対する賛辞を合唱した。テアロマは、にっこりと微笑んでから、少し涙ぐんで、ありがとう、とだけささやいた。それから、シオンに向かって、お薬をちゃんと飲んでください、とだけ言った。まだ体力の回復していないシオンは、ろくに何も言えないようだった。
いつの間にか庭に出ていたアンドリューの鎧姿が、テアロマを守るように付き従い、馬車のステップへと手を取って、小さな姫君を持ち上げた。彼女は、この巨大な異種族に、そっと何かをささやいたようだった。それから、そのエプロンドレスの姿は、馬車の中へ消えた。
御者の手によって、つややかな漆塗りの扉が閉められた。馬車の窓から見える姫君の姿は、背が低いせいか、ほとんど扉に隠れてしまっていた。ケイがその窓を見上げると、テアロマがぴょこんといきなり顔を出した。澄んだ瞳でケイの顔を見つめてから、彼女は一言だけ言った。
「ごはんは、ちゃんと食べてね」
御者が鞭の一閃で合図を送ると、馬たちがひづめの音とともに歩みを始めた。
ケイはそのとき、また、あの硬直を身体に感じた。
いや、その奇妙な緊張は、実はずっと以前から、自分の中に、消えない炎のようにあったのだ、と分かった。哀れなダークエルフの少女の姿から目をそらした、あのときから、今までずっと。
この生き神とあがめられる小さな姫君は、この可憐な蝶のような少女は、あのささやかな夢しか、それだけしか所有していないのだ。後は、自分の身体すら自由にできない。
ゾロの幻視を見たケイの前では、「水晶の舌」の強烈に輝く物語ですら、その意味を失った。彼の前にいるのは、運命に、「偶然」に翻弄されるだけの、料理をするのとおいしいものを食べるのが大好きな、一人の少女だった。
その少女は、今まさに、王宮の権力闘争という、見えない鳥籠の中へと去ろうとしていた。ケイはそれを、許せないと感じた。硬くこわばった背骨が、鋼のように硬直した肩の筋肉が、それを許さなかった!
「姫さま! 学校へ行きたいですか!」
ケイは、馬車を追って走り出した。既に加速を始めた馬車の窓から、テアロマが驚いた顔を出した。石畳に響く車輪の音と馬のひづめの響きが、少女の声をかき消した。だめよ、と言ったようだった。
「僕が、学校へ行かせてあげます! 言われたからやるんじゃない! 僕が、自分の意志で、この手で、やるんだ!」
加速していく馬車へ向かって走りながら、ケイは絶叫した。その声は、馬車の速度を超えて、姫君のいる窓へ届いた。馬車の窓から首を突き出したテアロマは、泣き出しそうな顔をしていた。その表情、それだけが最後に、ケイの目に一瞬映った。
馬車は、石畳の道を去っていった。ケイはそれを見送ってから、ゆっくりと、宿舎の方を振り返った。
「実はこの前、パイオン男爵が師匠のお見舞いに来たときに、お城の情勢について聞いたんです。姫さまの学園への入学についても、あと一押しで、政治的勝利を勝ち取れるかもしれない、というお話でした。だから、やる価値はあると思うんです。僕たちが戦うなら、男爵から女王陛下に連絡して、もう一粘り政治抗争を続けてもらえる、ということですし」
整備士たちに集まってもらった整備場で、ケイは大声で言った。潤滑油に汚れた藍染のつなぎを着たこの屈強な男たちは、賭けの対象を値踏みする眼で、彼を見つめている。
(これが当然だ。大人が自分の仕事と誇りを賭けるんだ。勝負事と同じだ。誰もが、自分自身をチップにして、賭けて戦ってるんだ)
ケイはそう考えた。それから、今までの自分は、「凡人」だから、という言い訳で、その賭けから逃げていただけに過ぎなかった、と気付いた。
「あんたの気持ちは分かるがなあ、しかしこいつは、あんたのもんでも、俺たちのもんでもない。この機体は、女王陛下の持ち物だ。勝手に使うわけにはいかん」
初老の整備士長が、白い〈エントーマβ〉を親指で示しながら言った。ケイは、その言葉に大きくうなずいた。
「もちろんそうです。でも、女王陛下のご意志は、師匠を――自分の妹君を危険にさらしたくない、ということでしょう? 師匠が試合に出ないのであれば、陛下のご意向に背くことにはならないと思います」
「しかしなあ……」
それまでは黙っていたシオンが、まだ回復していない身体から絞り出すように、必死の声を上げた。
「いかん、おぬしがそんな危険を冒す必要などない! あの晶炎竜の炎の威力は、その眼でまざまざと見たであろうが! 女王陛下も納得してくれよう、もう十分じゃ!」
ケイは、シオンにしっかりと身体を向けてから、胸を張って言った。
「分かっています、師匠! ですが、やらせて下さい!」
「おぬし……!」
シオンは、信じられないものを見るかのように、ケイの顔を見返した。ケイはその目を、ただ真っすぐに見返した。
「大丈夫ですよ。あのドラゴンに勝てるつもりでやるわけじゃないです。ただ、パイオン男爵の話では、『試合を放棄して決勝戦から逃げた』形になるのは政治的にまずい、ってことらしいですから。だから、ちゃんと決勝戦に出場して、形ができるまである程度戦うだけです。やばくなる前に、棄権しますよ。それに――」
ケイは、そばに立っているアンドリューの、きらめく外骨格を見上げた。
「アンドリューさんが、同じようにこちらに調査に来ている、お仲間の昆虫人を呼んでくれるそうです。しかも、戦闘タイプの個体を!」
驚くべきことに、アンドリューは、昆虫人のなかでも調査型の個体――つまり「働きアリ」のようなタイプなのだということだった。働きアリで、戦列機と生身で戦うほどの戦闘能力があるのだ。戦闘型の「兵アリ」だったら、どれほどの強さを持っているのか、想像もつかない。
「うむ、あー、そう。戦闘用の昆虫を、用意できる」
アンドリューの冷静な声が、巨大な胴体の中から響いた。
「確かに、試合を放棄して逃げたのでは、『騎士として一命を賭して国家と王権を守る忠勇と覚悟に欠ける』ことになるので政治的にまずい。ですから、試合に臨むだけでもずいぶん違うでしょう。今この瞬間にも海の向こうの王都で行われている、言葉を剣とした戦いに対して、この鋼の一歩は、敵の背後を突く、輝ける魔弾となるはずです!」
ケイは、力を込めてうなずいた。
「3人で、ドラゴンを避けていって、相手の2機の戦列機にからんでいけば、しばらくは持ちこたえられると思います。やらせてください! 僕は、こんなところで、諦めたくない!」
ケイのその声を聞いてから、コロネットが、すっくと立ち上がって整備士たちに向き直った。とがった耳が、楽しそうにぴくぴくと動いていた。
「なあお前ら、キッチンを見たかい? 姫さまが、何日分もの料理を用意していって下さったんだぞ! ここであと何日か、極上の無駄飯食らって過ごすつもりかい?」
つなぎの男たちは、その言葉を待っていたとでもいうように、にやりと笑った。強靭な筋骨と鍛え上げられた技術を誇る男たちが、気勢を上げた。整備士長も、白髪交じりの頭をぽんと叩いてから、力強くうなずいた。
「よし、あと一試合だ! やろう!」
シオンはそれでもまだ、何か言おうとしたが、ケイの顔を見て、それきり黙ってしまった。
ケイは、深々と整備士たちに頭を下げた。それから、そばで膝をついている、自分の白い機体を見上げた。その装甲には、既に数え切れないほどの刀傷やへこみができていて、白いペンキも剥げ、灰色の地金があちこちむき出しになっている。
(
膝関節に露出した駆動系の、鏡のようなメッキ部品には、ケイの少女のような顔が映り込んでいる。しかし彼は、そのまま顔を上げて、〈エントーマβ〉の、力強く端正な鋼のマスクを見つめた。磨き上げられたレンズの双眸には、不安や恐怖など、やはり微塵もない。鉱石でできたその眼は、ただ陽光を反射して、力強く輝いていた。
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