第7章 女王からの手紙

 〈昆虫人 特異環境探索型124C41P号、人間界における通名『アンドリュー』による、『神脳システム』報告 記憶集積体 第7889051号:開示〉


 (私がこの記憶を『神脳』に記録したのは、現時点からちょうど2年ほど前のことになる)




 小さな足音が近づいてくる。


 木造の小屋の壁越しに聞こえてきたそれは、どこか別の目的地へと通り過ぎるのではなく、やはり確実に、私がせっているこの場所を目指して、接近してきていた。


 人間たちの表現を借りるなら「もはやこれまで」といったところか。


 足音の人数は一人だけ。歩調から推測して、まだ12、3歳くらいの子供。おそらく、雌だ。


 私は、あおむけの姿勢からようやく頭を少し持ち上げ、茶色い肉の塊がたくさんつり下がっている小屋の天井から、昼前の陽光が差し込む窓へ、そして分厚い樫の木の扉の方へと視点を移した。とはいえ、昆虫人の複眼には、人間のカメラ眼のような眼球運動は必要ない。正確には、脳の視葉の処理能力を、扉の方へ集中したということになる。しかし、やはり体力が続かず、すぐに姿勢を元に戻し、天井を埋め尽くしている加工済みの豚肉の塊――「ハム」とか人間たちが呼んでいるそれらを、深く呼吸しながら見上げた。


 私――特異環境探索型昆虫人である124C41P号は、蛹のときから、人間たちの世界を調査するための個体として運命付けられていた。羽化した後、すぐにふるさとの「昆虫大陸」から旅立ち、大洋を越え、この脊椎動物が支配する大陸へとやって来た。同じ使命を帯びた仲間たちと共に上陸してから、板金鎧を身に付けて正体を隠し、人間たちの生態や文化について調査を続けていたのだ。


 だが、イクスファウナと呼ばれるこの列島に渡った後、私は原因不明の病に倒れた。「神脳」システムに蓄積された過去の莫大な記憶によっても、この疾病の原因を突き止めることはできなかった。歩くことすらできなくなり、この、燻製したハムの熟成小屋にもぐり込んだものの、もはやここから移動する体力もなかった。衰弱して死ぬか、人間たちに発見されて「怪物として」殺されるか、そのどちらかになるだろうかと楽しく考えながら、すぐに訪れるであろう、個体としての終末を待つだけだったのだ。


 とはいえ、私は「孤独」ではなかった。額の魔力検知器官のテレパシーは「神脳」に接続していて、数億の同族たちの意識の一部が、常に私を見守っている。彼らは今も、私が死ぬ前に人間に姿をさらしてその反応を見るべきではないか、いや、まだ正体を知られるべきではない、などと議論しつつ、病に倒れた私の姿を記憶に焼き付けようとしていた。


 もちろん生物として、昆虫人にも死への恐怖はある。しかし、その最期の恐怖と苦痛さえも、「神脳」によって同族たちに共感され、理解され、記憶される。私たち昆虫人には「孤独」の概念は存在しない。人間たちが好んで使うその言葉の意味を、私たちはまだ、十分に理解していない。


 足音は、もう扉の向こうまで来ていた。錠前をがちゃがちゃする音が聞こえる。


 私は、部屋の片隅に積んである、分厚い板金の塊を見やった。その偽装用の鎧は、病の身には重すぎたので、脱いでしまっていたのだ。今からこれを着込む時間はないし、この小屋を出て隠れるだけの体力すら、今の自分にはない。となれば……。


 「彼女を殺害して、人間たちに発見されるのをしばらくは遅らせる」というプランが、「神脳」システムの同族たちから提案された。確かに、今の私の状態でも、幼体一人くらいを殺害するのは、難しくはない。人間の肉体は、非常に脆弱である。


 人間を含む脊椎動物は、グルコース(ブドウ糖)を血糖として使っている。しかし、グルコースには、タンパク質と結合してその構造を破壊してしまう「毒性」があるのだ(彼らはその状態を「糖尿病」と呼んでいるようだが)。それゆえ、脊椎動物は「血糖値を上昇させて肉体の機能を向上させる」という方向性では進化できなかった。我々昆虫人は、毒性のないトレハロースを血糖に採用したため、血糖値を上げて肉体の性能を引き上げるというやり方で進化できたのだが(昆虫人の血糖値は、人間の10倍近くに達する)。その代わりに、彼ら脊椎動物は「血圧を上昇させ、超高速で血液を循環させる」という構造を採用して、運動機能や脳の性能を向上させてきた。その結果として、人間の肉体は、血管のトラブルに非常に弱くなってしまった。脳や心臓など、主要な器官における血管の閉塞や破綻は、彼らに速やかな死をもたらす。高い圧力のかかっている血管――「動脈」を切断してしまえば、血液の凝固機能くらいではもうふさがらない。血液が噴出し、すぐに生命維持機能が失われる。


 また、神経系が発達した生物にはありがちだが、人間は痛みに対して非常に弱い。負傷の激痛は、神経原性ショックを引き起こし、容易に彼らの運動能力を奪うだろう。総じて、人間という生物は、戦闘向きの肉体をしていない。


 しかし、私はその殺害プランを否定した。哺乳類は――人間は、胎生である上に、一度に生む仔の数が少ないため、自分の幼体を非常に大事にする。彼女を殺した場合、すぐに人間の成体たちが、大挙して捜しにやって来るだろう。


 「神脳」に対して、「昆虫人の姿を人間の幼体に見せて、その反応を試したい」と提案すると、大勢の意識から賛同を得られた。では、自分という個体の最期に、この人間から、可能な限りの情報を得ておくことにしよう。


 重たい木製の扉が、音もなく、ゆっくりと開いた。明るい光と共に、新鮮な外気が入ってくる。粉と卵とヴァニラの、甘く香ばしい香りがした。


「あっ!」


 光の中に立っているのは、やはり、人間の雌の幼体――少女だった。生殖能力は――排卵は始まっているだろうか。平均値より背は低めだが、栄養状態はいいようだ。白い肌も、短めの黒髪も、つややかで健康そうに見える。服装もきれいで、比較的豊かな生活をしていることを示している。黒い瞳が大きく見開かれて、陽光に照らされてきらめく、私の外骨格を見つめていた。


「こっ、これ、おっきなカブトムシ! な、こんな生き物がいるの? この森にこんな虫がいるはずはないけれど……いったい、どこから来たの?」


 少女の表情や姿勢は、恐怖も感じているようだが、好奇心のほうが上回っているようだ。悲鳴もあげないし、逃げようともしない。眼球運動を分析した結果からすると、私の肉体の各部を短時間で詳細に走査している。年齢に比して、知能と知的好奇心のかなり高い個体であると判断していい。交渉の成立する可能性は十分ある、と私は考え、この個体との会話を試みた。


「やあ、こんにちは、お嬢さん」


 彼女の大きな目が、さらに大きく見開かれた。


「まあ! あなた、言葉が話せるの!?」


「ああ……私は、昆虫人ヘキサポーダ。遠い南の大陸から、海を渡って、この世界を調べに来たんだ……。危害を加えるつもりはないよ。君の名前を教えてくれないか?」


「……私は、テアロマ。すごい、こんなに大きいのね! きれいな身体……磨き上げた銀食器みたい!」


 テアロマという名のこの少女は、恐れる様子もなく私に近づいてきた。戦闘型ではない私でも、身長だけで彼女の倍はあるというのに。好奇心むき出しの前のめりですぐに私の巨大な肉体の側に立ち、顔が映るほどに外骨格の表面をのぞき込んでいる。


 だがすぐに、その無邪気な少女らしい表情は、一転して、冷静な判断力を持つ大人のものに変わった。


「あなた……病気なの?」


 私は心底驚いて、傍らの小さな少女を見つめた。この短時間で、未知の生物の状態を見抜くとは、年齢よりも相当高い判断力を持っているようだ。


「ああ、そうなんだ。原因がどうしても分からなくてね。私はもうすぐ死ぬ。だからどうか、私のことを大人たちに教える前に、君と少し話をさせてくれないか……」


「ちょっと待ってね!」


 軽やかな声が、小屋の中に響いた。テアロマは私の話を突然さえぎると、小さな手を伸ばし、私の外骨格に触れてきた。ピンク色の宝石のような爪が付いた白く柔らかい指が、金属よりも硬い昆虫人の外皮に接する。


 その瞬間、何かが、私の肉体の内部に染み込んできた。柔らかい臓器に、その温かいものの、指先が触れる感触がした。


「……! 今のは何だ!? 私にいったい、何をした? 魔法を使った……いや、違うか? 今の感触は……」


 今までに経験したことのない異様な感覚に、私は戸惑った。「神脳」の同族たちの意識も、今の私の経験をそのまま感じ取り、数百万の意識がざわついているのが伝わってくる。しかしこの少女は私の言葉には答えず、外骨格に触れた自分の両手に、全ての意識を集中しているようだった。


「うーん、人間とはずいぶん、いろいろ仕組みが違うのね……あー、でも、うん、そうか、分かった! 病気の原因、これなら、治るわ!」


「何だって!? 今私にしたことは何か、どうか説明してくれないかね?」


 私は完全に混乱して、この理解不能な事態の説明を求めた。しかし、その言葉を完全に無視して、この不思議な少女は――数万年の記憶を保持する「神脳」にすら理解不能な、この人間の幼体は、小屋の外へぱたぱたと駆け出していった。


「ちょっと待っててね! すぐに、お薬と食べ物をとってくるから!」


 私はしばし呆然として、少女の足音が遠ざかっていくのを、ただ聞いていた。病の苦しみすら、意識から吹き飛んでしまっていた。


 そうだ、人間たちは、こういうとき「下顎が地面に付きそうなくらいぽかんと口を開けて」などと表現するのだった。私たち昆虫人には、左右に開く大顎しかないが。




 昆虫人数億が、心の底から驚愕し、知的好奇心むき出しで覗き込み、騒ぎ立て、歓喜していた。これほどの驚きは、人間たちの住むこの大陸が「再発見」されて以来のことかもしれない。


 異様な興奮と共に議論を重ねている「昆虫大陸」の同族たちの意識を「神脳」システムのテレパシーで感じながら、私は、側にいる小さな人間の少女を見つめた。彼女はさっきから、ハムの熟成小屋の床に座り込んで鼻歌を歌いつつ、パンとチーズを切り分けていた。


「サーンド、イッチが、上手にできましたー」


 楽しそうに節を付けて歌いながら、テアロマが身体を寄せてきた。少女の柔らかい肌から、粉と卵とヴァニラの匂いがかすかに漂う。身長の低い彼女は、その腕を精一杯伸ばして、私にパンを手渡した。


「ごはんやパンと、お肉と、お魚と、お野菜を、バランスよくきちんと食べなければいけません」


「そうだね……」


 私のかかった病気は、どうやら、特定の微量元素の欠乏が原因だったようだ。昆虫人の持つ莫大な知識にもなかった情報だが、この人間たちの大陸では、我々の「昆虫大陸」と比べて、土壌中の特定の元素の存在比率が低いらしい。普通の食生活を送っていれば特に問題はなかったはずだが、正体を隠しての単独行ゆえ、食事が偏ったのがまずかったのだ。


 それが、この人間の少女、テアロマが、私の身体に触れた一瞬だけで出した結論だった。実に驚くべきことに、彼女が持ってきた薬と食料によって、私の病状はたったの数週間で劇的に改善した。この少女は、指先で触れるだけで、昆虫人の生化学的なシステムを分子レベルで読み解き、パズルでも解くように正しい答えを導き出したのだ。


 これこそが、彼女が生まれつき持つ神秘の魔力「水晶の舌」の力だった。テアロマ自身にも、なぜ自分がそんな力を使えるのか、説明はできないようだ。この魔力を持つ者は、人間の世界でも非常に希少であり、それゆえに、神聖な存在として信仰の対象となっているらしい。それもまあ、当然なことだ。この生化学的、遺伝学的な分析能力があれば、新薬の開発から農作物の品種改良、病虫害の対策に至るまで、人類文明の発展に対する貢献は計り知れないものがあるだろう。


 「神脳」の同族たちは、今もこの「水晶の舌」の能力について、激しく議論を戦わせている。この力は、人間の個体の持つ情報処理能力を完全に超えている、というのが、現在のところ有力な仮説だった。確かに、どう考えても、テアロマ自身の脳の容量をはるかに上回る情報を持つ「何か」にアクセスしているとしか思えない。実に、理解不能な才能だ。


 「神脳」システムは、即座にこの私、特異環境探索型124C41P号に対して、この人間の少女、固有名「テアロマ・レインコール」の継続調査を提案した。私は、外骨格がふくらむほどの歓喜の圧力と共に、その提案を受諾した。これほどの神秘的な調査対象に恵まれるとは、自らの生命よりも好奇心を優先するよう脳の構造を調節されている探索型昆虫人としては、望外の喜びである。


「しかしこの、チーズという乳製品は、なかなかに美味だ。我々の世界には、存在しない味だよ」


 私の言葉に、テアロマはうなずいた。


「あ、そうか。あなたたちの世界には、乳を出す動物が、哺乳類がいないのね……というより、脊椎動物自体が絶滅してるんだっけ?」


 私はサンドイッチを平らげながら、窓の外を飛んでいるモンシロチョウを見やった。人間たちの世界でも節足動物は海中、陸上共に繁栄しているが、個体のサイズは小さいものしかいない。


「我々の故郷『昆虫大陸』では、おそらく数億年前に、脊椎動物門が――複雑な体制を進化させる前に――完全に絶滅している。海も陸も、節足動物門の支配する世界なのだよ」


「それは、節足動物の方が、種として優れていたということ?」


「そうとも限らない。進化の偶然もあるが、こちらの世界とは物理法則などの違いもあるからかもしれない。魔石の結晶の存在率の違いなど、物理的、化学的、魔導的な条件が違えば、進化の結果もまるで異なってくる」


 テアロマは、天井のハムを見上げながら、楽しそうに身体をゆすった。


「あっちの世界には、クジラくらい大きなエビが海を泳いでて、ドラゴンよりも大きなカニが山を歩いてるんでしょ! すごいなー見てみたいなー食べてみたいなー」


「最初から食べる気なのかね? と言うか、よだれが出ているよ」


 実に、外骨格の底からの感慨をもって、私はこの少女を見つめた。昆虫人という未知の存在を、彼女は恐れることなく受け入れ、私の命を救い、こうして自然に会話しているのだ。それこそ、数億年前に、単純な体構造だったであろう共通祖先から分岐し進化してきた、この全く異なる種族同士で!


「実にこのチーズはうまい……我々の世界にも、牛やヤギを輸入して、牧畜を始めてみるのもいいかもしれないな。哺乳類というのはユニークな生物だね」


「そう?」


「そうとも。そういえば、君の乳房からは、まだ乳は出ないのかね?」


 テアロマの顔の毛細血管の血流量が、急激に増大した。つまり、顔が赤くなった。


「出るわけないでしょー! おっぱいは、赤ちゃんを産んでから出るの!」


「そうなのかね? 君も哺乳類の雌だから、その能力はあると思ったのだが。胸部の乳腺器官も、同年齢の他の個体よりも発達しているし」


「まだそんなにおっきくないもん! ふつうだもん! いーかげんにしなさい!」


 真っ赤になって自分の胸部を隠しながら、テアロマは、手のひらで軽く、私の外殻をたたいた。ばしっという音と共にそのまま硬直し、次の瞬間、手を押さえて飛び上がる。


いたーっ! かたーい!」


 この行動もよく理解できない。彼女の筋力で、私の外骨格に損傷を与えることは不可能である。


 とはいえ、生殖に関する発言は、なぜか人間たちにとっては禁忌であるらしい、というくらいの知識は、私にも既にあった。以前にも、明らかに性的な興奮を示しながら森の中の茂みに入っていこうとしている男女に「邪魔はしないから交尾行動を観察させてほしい」と依頼したのに、顔を真っ赤にして断られたり、悲鳴を上げられたりしたことがあったからだ。一度など、村人総出で山狩りになったこともあった。どうやら、まだ生殖可能年齢に達していない幼女に対して、性的な質問をしたのがまずかったようで、鍬や鎌など農具で武装した男たちが、「死ねっこのロリ! ペド! 変態幼女性欲仮面野郎!」などの罵声と思われる言語表現を浴びせながら追いかけてきたのだ。もっとも、私にとっては、人間たちの追跡を振り切ることなどたやすいことだったが。


 人間の身体能力は、基本的には、我々昆虫人にとって脅威になるほどではない。もっとも、彼らの使う「歯車式強化外骨格ギヤードメイル」という、機械仕掛けの強化服は、相当な戦闘能力を持っているのだが……。


「あー痛かった。えっちなことを人前で言っちゃだめなの! えーと、124C……」


「特異環境探索型124C41P号。まあ、ただの便宜的な通し番号だがね。我々昆虫人には、個人の『名前』という概念がないのだ」


 テアロマは、むーと唸りながら、何かを考え込んでいるらしい表情をした。


「呼びにくい……ねえ、あなたに、名前を付けてもいい?」


 私は、「神脳」システムの思考能力を一部借りながら、彼女の発言を吟味した。この提案は、私という個体でなく、彼女にとってどれほどの重要性があるのだろうか?


「君が呼びやすいのなら、それで構わないよ」


「そう! じゃあねえ……えっと……うん、アンドリュー! これがいいわ!」


 この言葉は、以前にも耳にしたことはあった。私同様に人間世界に来ている、他の探索型昆虫人たちが「神脳」に報告している記憶情報にも、よく出てくる名前だ。おそらく、人間の男性の名前としては、ごく普通のものであるはずだった。


「アンドリュー……誰か、親しい人物の名前かね?」


 テアロマは、私のために二つ目のチーズサンドを作りながら、にっこりと笑った。


「ううん。小さいころに飼ってた、犬の名前」


 小さな姫君が与えてくれたこの名前の重要度、さて、どの程度のものと評価すべきだろうか?




 そう、この神秘の力を持つ少女、テアロマは、イクスファウナと呼ばれるこの島国の、王女だった。私が病の身を隠したこの小屋は、王家の離宮の敷地内にある、ハムの熟成小屋だったというわけだ。


 この偶然にも幸運なる出会いによって、王国の姫君と親しい関係を築けた私「アンドリュー」は、彼女の紹介で、イクスファウナの女王――彼女の姉と、秘密裏に会談を持つことができた。このまだ若い女王陛下は、実に豊かな教養と理解力を持った女性で、すぐに我々昆虫人の存在を理解し、受容した。「昆虫大陸」に存在するスパイスや新種の作物――カカオなどの交易について協定を交わした私は、その対価として、王国内の徘徊を許可されたのだ。


 テアロマ姫は、私がはるかな故郷から持ち出してきた、さまざまな南洋の作物に興味津々で、神秘の「水晶の舌」の力で、そのサンプルや種子を分析した。すぐにその栽培プランや輸入方法を検討し、女王に助言をしてくれたのだ。やはりこれは、驚くべき才能である。


 友人としての関係が長くなると、テアロマ姫は、私にさまざまなことを話してくれるようになった。


 陰謀と政争の渦巻く王城から隔離され、幼いころからずっと、この自然豊かな離宮で育てられたこと。


 数年前、先代の王と王妃、つまり彼女の父母が、相次いで疫病で亡くなったこと。


 その跡を継いで、この小さな姫君を溺愛していた上の姉が、女王に即位したこと。


 強力な魔剣使いでありながら、やはり優しかった下の姉が、賊に襲われて重傷を負い、その後、王位継承権を捨てて城を去ったこと。


 そして、幼少時から神秘の力の片鱗を見せていたテアロマは、初潮を迎えると共にその能力に完全に覚醒し、第70代の「水晶の舌」として、正式に認定された。その力こそ、王の血筋のみが持つ「固有魔力」であり、彼女が生まれたレインコール王家を「神の末裔」として権威付ける、聖なる輝きだったのだ。


 時折、思い出したようにテアロマが話してくれるそれらの出来事について、昆虫人である私が、その意味を完全に理解できるとは言い難い。ただ、我々の「神脳」が人間について今までに学習した情報から、ある程度までは推測できる。まだ幼体である彼女にとっては、それらの過去は、その孤独と責任は、かなりの負荷であったことだろう。


 我々昆虫人は、幼虫の時代には、成熟した脳を持たない。本能のままにただ食べて肉体を大きくし、脱皮して蛹になる。そして、蛹の中で成虫の肉体を形成しつつ、同時に、「神脳」システムから莫大な記憶を受け継ぎ、人格を完成させた状態で羽化するのだ。だから、私は、「孤独」も「成長」も知らない。


 しかし、人間という生物は、脳も肉体もまだ未熟な子供の状態で、人間社会の矛盾や運命の残酷に直面し、それらを乗り越えながら成熟していく。それが彼らの言う「成長」というものだ。それこそが、今、まさに、この小さな姫君が直面している、見えざる大嵐だった。




 「うーん! 今日はいい天気ね、風が気持ちいい!」


 薄手のドレスの裾をひるがえして、小さな姫君が踊る。テアロマのその言葉に、私は触角を広げて、大気中の温度や湿度の情報を探った。確かに、現在の気温は、我々昆虫人にとっても快適だ。午前の陽光が、草原を照らし、その温度を上昇させつつある。草の匂いに混じって、彼女の肌から、粉と卵とヴァニラの香りが漂った。


 テアロマの手当てのおかげで完全に回復した私は、ハムの熟成小屋から出て、敷地内をあちこち散歩するようになっていた。もっとも、まだ離宮の召使いたちには、私の姿は見せていないのだが……。やはりまだ、鎧を着けて、正体は偽装した方がいいのかもしれない。


 ひときわ強い風が、草原を吹き渡り、若葉を波頭のように輝かせる。その風が角に当たる感触が、私の肉体に、初めての飛翔を思い出させた。蛹から羽化し、外骨格が十分に固まった後、初めて蛹部屋から外に出たときの、あの感覚! 「自分はこの空を飛ぶ能力があるのだ」と自覚した、あの瞬間の感動が、私の飛翔筋にみなぎった。


「わ、すごい、きれいな翅! 何て大きいの!」


 つい、後翅を展開してしまっていたようだ。装甲の機能を持つ緑金色の前翅が開いていて、その下から、虹色にきらめく薄膜の翼が、体長を超えるほどに伸びていた。


「やあ、驚かせてしまったかな、我が水晶の姫よ。何しろ、病気になってから、ずいぶん空を飛んでいなかったからね」


 私の言葉に、テアロマは目を丸くした。


「えっ! アンドリュー、あなた、飛べるの!?」


「もちろん飛べるよ。この翅は、そのためのものだ」


「へーすごいすごい、そんなに大きな身体なのに! その翅は、体温調節用かと思ってたわ」


 彼女の「水晶の舌」の能力なら、私の飛翔筋が飛行に必要な出力を持っていることは感知できているはずだが。生体の構造は把握できても、航空力学的に飛行可能かどうかまでは、彼女には判断できないのかもしれない。


 テアロマの黒い瞳に、私の虹色の翅が映り込んでいる。その光を見たとき、私の脳内で、ある非合理的な思考が、形をとったように感じた。


「私に乗って、いっしょに空を飛んでみるかね?」


 奇妙な衝動に駆られて、私はその非合理を、人間の言葉に翻訳した。


 テアロマは、一瞬立ちすくんだ。それから、ぴょんと、その場で飛び跳ねた。白いドレスの裾が、花のようにふわりと拡がる。


「ほ、ほんと!? 私を乗せて飛べるの!? すごーい! 私、空を飛ぶの、初めて! 飛竜にも乗ったことないの、危ないからダメって言われてるから!」


 姫君は、ぴょんぴょんと縦方向に飛び跳ねながら、私の周囲を一周してしまった。まるでそうしないと、私の視界に入らないとでも思っているかのようだ。そのはじけるような肉体の躍動に、私は奇妙な感動を覚えた。彼女にも、初めての飛翔への渇望があるというのだろうか? 空を翔る翼など持たない、この小さな人間の少女に?


「さあ、おいで」


 私は、テアロマのもろく柔らかい肉体を、慎重に自分の肩へと持ち上げた。外骨格のくぼみに腰を落ち着かせ、普段は折り畳んでいる前脚を展開して――鎧を着て偽装しているときには、私は中脚だけを「腕」として使っていた――しっかりと支える。彼女は全く恐れることなく、私の角にしっかりつかまった。


 私は久しぶりの飛翔に歓喜しながら、体内の飛翔筋に規則正しい神経パルスを送り込み、宙へと舞い上がった。その風圧に、草の葉や土ぼこりが飛び散る。しかし、テアロマは、ひるんで目を閉じることはなかった。


 すぐに、地面ははるか視界の下方へと遠ざかる。複眼の視野のほとんどを、空の青だけが満たした。


「わあ、飛んでる! ほんとうに、鳥みたいに飛んでるわ! あ、お家が見えた!」


 後翅の轟音にも負けず、頭のすぐ側で、テアロマの歓声が響く。彼女が指さすその先には、離宮の建物がちらりと見えた。そしてその向こうには、野ざらしになった巨大な竜の背骨のような「竜骨街道」が、白く、緑の森を貫いて延びている。


「あの白い道は、橋になって海を渡って、大陸まで続いているのよ。ロム都市群の……ヴェルデンとか、フォトランっていう街に、続いているの。私は行ったことないけど」


 ぼそりと、姫君はつぶやいて、そのままじっと、白い道のかなたを見つめた。私は、行ってみたいのかね、とだけ、尋ねた。


「……でも、私には行けないもん。道があっても」


 「水晶の舌」の姫君ともなれば、その行動に自由はない。いずれ、この住み慣れた離宮から、王都へと移らねばならないのだ、とは、彼女から聞いていた。


「では、私が空に道を描こう。いつでも、どこへでも、君が行きたい場所まで、私のこの翅で」


 なぜそんな言葉が発声器官から出たのか、自分でも理解できなかった。


 テアロマは、何も言わなかった。ただ黙ったまま、私の角にしっかりとしがみ付く。甘い香りが、ふわりと、拡げた触角に届いた。


 いつも彼女は、粉と卵とヴァニラとともにやって来る。その優しい匂いは、今も変わらない。


〈神脳記憶集積体:閉鎖〉




 ケイ・ボルガは、紅茶のカップを片付けながら、帰っていく中年の男の後ろ姿を、食堂の窓から見送った。女王派だというその貴族、パイオン男爵は、シオンがこのトーナメントに出場していることを知り、様子を見に来たのだ。シオンとは旧知の間柄のようで、かなり長い時間楽しそうに話し込んでから、買い物に出ているテアロマ姫に会えなかったことを残念がって帰っていった。


「師匠、今のお客さんが――パイオンさまが言っていたのって、どういうことですか? このトーナメントと、姫さまの学園への入学が、何か関係あるんですか?」


 来客とシオンとの会話を断片的に聞いていたケイは、その内容についての疑問をシオンにぶつけた。シオンの表情が、少し曇った。


「うむ、実はな、テアロマの学園への入学も、今回の政治的闘争の、条件の一つになってしまっておるようなのじゃ……まことに腹立たしいことじゃが」


「姫さまが学園へ入学するのが、政治問題化してるってことですか?」


 シオンは、食卓の前の椅子に座り込んだまま、膝の間に抱きかかえた魔剣を、細い指で撫でた。魔石製の鞘が、窓から差し込む午後の光を受けて、翡翠のような上品で美しい輝きを放つ。


「うむ……学園都市パラディーソは、身分や国籍、種族も問わず、才能ある若者に先進的な教育を与えるので有名な学校なのじゃ。それゆえ、啓蒙主義的な、自由思想や平等を説く者も多い。王都に巣食う守旧派の貴族どものことじゃ、革命思想を広めるような学園に、権威ある『水晶の舌』の姫君を通わせるなど、許されぬ冒涜だ! とでもほざいておるのじゃろう」


 ケイは、学園への入学について話すときの、テアロマの不安げな表情を思い出した。


「ははあ、そういうことですか……」


 シオンは、いつもの姿勢で剣を抱いたまま、少し濡れたような眼で、ケイを見つめた。その長いまつげの下の瞳を見て、彼は、胸の奥をつかまれるような、かすかな痛みのような感覚を覚えた。やはり、美しい人だ、と思った。


「私は、情けない姉じゃ。パラディーソは、私も、姉上も――女王陛下も、青春を過ごした、大事な思い出がたくさんある場所なのじゃ。同じ3年間の学園生活を、テアロマにも楽しんでほしいと願っておったのに……」


 ケイは、拳を握って、首を強く振った。


「そんなことないでしょう! 大丈夫ですよ、あと一つ勝てばいいだけなんです! それで、姫さまも学校へ行ける!」


 シオンは、しばらくの間だけ、黙って自分の弟子の顔を見つめていた。それから、少し笑った。


「ふ、この不肖の弟子めが……いや、おぬしにも済まんことをしたな。最初は、開会式の行進だけやってもらうつもりであったが、結果として、素人のおぬしに、死地を踏ませてしもうた……」


 ケイは、それは自分の意志だ、と言おうとしてから、言葉を呑み込んだ。心のどこかに、かすかに何かが引っかかったような気がした。


「……自分でも、信じられません。あの夜、呪いのカードを引いてから、あり得ない『偶然』ばかりが僕の身に起きてる。魔剣士ですからねえ! ただの凡人、場末のクラブの従業員、カードゲームのディーラーだった僕が……」


 目を伏せていたシオンが、ケイのその言葉を聞いて、何かを思い付いたように顔を上げた。


「おぬしは、『コスタ・ゾロディア』の打ち手など、取るに足りない存在だと思うておるようじゃが、実はそうでもない。昔、歴史学の教授に聞いたことじゃが……あのカードゲームは、昔から多くの王侯貴族たちに愛好されておった、というのは知っておろう?」


 ケイはうなずいた。それは、店に来る貴族や学者たちも、よく口にしていたことだった。


「それゆえ、『コスタ・ゾロディア』のディーラーには、貴族や軍人に雇われて、ゲームの教授をする者も多かったのじゃ。しかし、それだけではない。ゲームの結果を『確率神ゾロの神託』として告げる占い師のような者もおったし、中にはゲームだけでなく、実際の戦場で軍事の助言をしたり、政治の動きを調査したりする、軍師の役割を果たすディーラーもいたらしい」


「本当ですか!? それは……知らなかった」


 シオンは、じっとケイを見つめて、言葉を続けた。いつもケイに説教をするときの口調とは全く違う、静かな声だった。まるで、遠い過去でも思い出しているかのように。


「おぬしも、あの『夜と嘘』の店で、貴族や軍人、才能ある『英雄』たちの相手をして、夜通しゲームをプレイしていたであろう? そして、相手のデッキ傾向を『運気が強い』の、『英雄の出現の兆し』だのとおだてた。おぬしはそれを、接客の世辞としか思っておらなんだろう。しかし、相手は、本気でそれを信じたかも知れぬ。その結果として、彼らのその後の行動や人生が、大きく変化した可能性もある。さて、本当におぬしは、ただの、世の中に何の影響も及ぼさない、『凡人』だったのかの?」


 いきなり、頭を何かで殴られたような気がした。ケイの脳裏に、自分の姿を、はるか上空から見下ろしているような情景が浮かんだ。「夜と嘘」の1階のテーブルで、客にカードを配っている自分と、その周囲にいる貴族、位の高い軍人、才能ある有名人、学者たち……それが、まるで人形の家ドールハウスでものぞき込んでいるかのように、はっきりと、しかしこじんまりと小さく見えた。


(そんな……僕が、この取るに足りないただの店員が、あの客たちの人生を変えただって?)


 シオンは、抱いた魔剣の鞘に頬を寄せるようにしながら、低くなめらかに響く声で続けた。


「おぬしを責めておるわけではない。誰もが、他人に影響を与えたり、迷惑をかけたりしながら生きておるのじゃろう。その連鎖の結果、絡み合う感情の動きには、誰も責任など持てまい。ましてや、剣を持つ『剣士』となれば、なおさらじゃ。私や、おぬしのようにな。それが、哲学者どもの語る『因果律』というものやも知れぬ……」


 シオンはそこまで語ってから、考え込んでいるケイの顔を見て、少女のように笑った。


「ふふ……。ま、今の話はともかく、おぬしの今までの戦いぶり、十分賞賛に値する。決勝の結果によらず、必ず褒美を十分出すよう、女王陛下には私からお願いしておこう」


 ケイは一瞬、また金の話かよ、と思った。しかし、シオンの濡れたような黒い瞳を見て、少しささくれた気分は、なぜか溶けるように消えてしまった。


「その褒美を元手に、商売でも始めてはどうじゃ? おぬしなら、商売で成功する才覚もあろう。カードゲームのディーラーで、一生を終わることもない。何でもいいから、挑戦してみるがよい。自分の好きなようにな」


 シオンはそれだけ言うと、「風花姫」を手に立ち上がり、食堂を出て行ってしまった。もう、一言も、貴族の屋敷に奉公する話などには、触れなかった。


 ケイは、美しい曲線を描くその背中を、ただ黙ったまま見送った。一瞬だけ、戦列機に乗っているときの、自分の肉体が拡大し鋼と化している感覚に襲われた。それから、何か大事なものをいつの間にか失くしてしまったことに今気付いたような、そんな寂しさが、胸の中に落ちてきた。




 アメンボがクモに変身してしまった、そのときのことを、ケイ・ボルガは懐かしく思い出した。


 まだ子供のころ、家業の養蚕の手伝いで桑の葉を運ぶ仕事も忘れて、家の近くにある水たまりを眺めていたときのことだ。そこにはよく小さなアメンボがいて、静かな水面の上を脚を広げて滑っているのが観察できた。その不思議な脚先、まるで水面に――温めた牛乳の上に張る膜のように――見えない薄皮を作り出しているかのようなその神秘を、ケイは毎日飽きもせず、何時間も見つめていたのだ。


 その日は雨上がりで、昨日からずっと降っていた大雨がやっとやみ、昼前からは灰色の空が明るい光に満たされ始めていた。ケイはいつものように裏庭から出て、すぐ近所の水たまりに行ってみた。雨水を受けた水たまりはいつもよりもずっと大きく広がっていて、鏡のような水面が、雨上がりの空を白く映し出している。


「あっ! すごい、大きなアメンボだ!」


 ケイは思わず声を上げた。近くまで行かなくても、光る水面の上に影となって、何匹ものアメンボが滑っているのが見えたのだ。それは、いつも見ていた指先ほどの小さな昆虫ではなく、その何倍も大きいサイズなのがすぐに分かった。水面の膜の上に踏ん張る脚も太く、たくましい。


 獲物を見つけた狩人のような気分で水たまりまで駆け寄ったケイは、そこでふと、違和感を覚えた。水面の反射の上を滑るその大きな影は、見慣れたアメンボの姿とは、何かが違っているような気がしたのだ。


「ん!? なんだ、これ……」


 雨上がりの水たまりに群なすそれらは、アメンボと呼ばれる昆虫の形ではなかった。細いボートのような硬い質感の身体ではなく、胴体の途中が細くくびれていて、腹の部分が丸い。脚も折れ曲がった細い針金のようなあの形ではなく、ずっと太く、まっすぐに伸びていて、水たまりの底に放射状の影を広げている。


 水面の上にいるのは、大きな、八本脚の、クモだった。


(これは……昆虫じゃない……クモだ! でも、アメンボと同じように、脚で水面の上を歩いてる! こんなものが、この世にいるのか!)


 ケイが通う学校には、大きな昆虫図鑑があって、見たこともないような南洋の奇妙な昆虫までがイラスト付きでたくさん載っていた。彼はそれを毎日夢中で眺めて、それらが棲むという南洋の密林までを心に思い浮かべ、なんとなく、世界のすべての虫について知っているような気分でいたのだ。


 だが、いま目の前に実在しているそれらは、ケイの知っている、どの生物とも違っていた。その水面を歩くクモは、巨大な自然のほんのひとかけら、確実な「未知」だった。見たことも聞いたこともないその存在は、少年の小さな頭の中に形成されていた世界の構図を、完全に超越していた。


 ケイは、その時初めて、世界というものの大きさを知った、と感じた。いや、正確には、自分の頭の中にある「この世の構造図」などちっぽけなもので、あっという間に実在する「未知のなにか」に吹き飛ばされてしまうものなのだと分かった、ということだ。もちろん、後で調べてみたら、その水面を走るクモのことはちゃんと図鑑に載っていて「ハシリグモ」という名前だ、と知ることができた。それでも、少年の頭が、そのクモを発見する前に持っていた「世界のすべてが書かれた地図」を取り戻すことは、二度となかった。


 あのとき、確かに「未知の世界」が、恐ろしいほどの魅力で輝きながら、少年の自分の前に広がっていたのだ。


 ケイはそんなことを思い出しながら、戦列機の整備場に立っているアンドリューの姿を眺めていた。機械油で汚れた鉄板の床の上で、2機の〈エントーマβ〉は装甲を外され、内骨格(エンドスケルトン)の複雑な歯車機構をむき出しにしている。つなぎの整備士たちは顔を黒く汚しながらも、無駄のない熟練の動きで、部品交換の作業をこなしていた。アンドリューも重たい部品を扱う仕事をずっと手伝っていて、磨き上げた工芸品のような緑色の甲殻をきらめかせながら、少しの狂いもない正確な動作で、数十キロもありそうな鋼の塊を持ち上げている。


(何度見ても、驚きしかない……昆虫人という、この巨大な、しかし知性のある生物……圧倒的だ。アンドリューさんと、僕たち人間との間には、生物学的には何億年分もの隔たりがあるはずなのに、こうして毎日一緒にご飯を食べて、会話して、いっしょに戦ってる!)


 ケイはふと、頭の中に、小さな地図を思い浮かべた。それは、故郷の村から出て、あの白い骨の道を――「竜骨街道」をたどって、「夜と嘘」の店に着き、さらにそこからまた「道」を走って、このヴェルデンの闘技場にまで続く、ただそれだけの地図だ。


(たったこれだけの道程で、まさかこれほどの『未知』に出会うなんて……戦列機での戦闘も、アンドリューさんの正体も、本当に、僕の頭の中の枠組みを超えてる。これが、確率神ゾロの権能『恐るべき偶然』ってやつなんだろうか?)


 つんつんと、誰かが指先でケイの背中をつついた。柔らかいその感触に振り向くと、ピンク色のきれいな爪がついた、白く細い人差し指と、小動物を思わせるくりっとした目があった。


「えーとですね、足りないものを買い足しにいくので、市場まで一緒に行ってもらえますか、ノゾキさん!」


 テアロマ姫は、なぜか楽しそうだった。声の高音に、くすぐったいような妙なメロディが響く。そういうトーンでしゃべるときは、この小さな姫君の機嫌が、すこぶるいい時の証拠だ。ケイにはもう、それが分かるようになっていた。


「アンドリューさんは?」


「整備の手伝いが忙しいみたい。みなさんお仕事で大変なようなので、声はかけないで行きましょう。大丈夫、買い足すものはそんなに荷物じゃないですから!」


「はい、分かりました」


 そう答えながら、ケイはまだ背中に残る少女の指の感触を意識して、これもまた「未知」だ、と思った。


 市場に行くまではまだ明るめの曇り空だったが、買い物をしている間に降り出してしまい、雨はすぐに本降りになった。


「うわー、うふふふふふ! たーいへん!」


 ぱちゃぱちゃと足音までが小さく、大きな買い出しの包みを抱えた姫君が雨の中を走る。その後ろをついていくケイは、雨の中を走るのを、楽しいと感じた。その奇妙な感情の流れは、テアロマの声や、走る足の立てる水音から出ているような気がした。雨に濡れて肌に貼り付く服の感触も、買い足した食料品の包みの重さも、この小さな水晶の姫がたてる高音の響きの中で、融けるように身体になじんでいき、不快ではなくなっていく。


 二人そろってびしょびしょになりながら宿舎のキッチンまで戻ってきてみると、整備場では、まだ作業が続いていた。アンドリューを含めた全員が、天井から吊り下がったウィンチや木製の作業足場を使いながら、鋼板を溶接した箱型の装甲と格闘している。


「……うーん、まだ忙しいみたい。皆さんお昼はちゃんと食べたみたいだから、私たちだけで軽く済ませましょう。ちょっと遅いけど、おひるごはん!」


 テアロマは、洗って片付けられた何枚もの大皿を確認してから、小声でケイにそっとささやいた。この姫君は、市場に出かける前に、全員分のおむすびを驚くほどの超高速でにぎって、大皿に並べておいたのだ。


「風邪をひきますから、まずお風呂に入って着替えましょう、姫さま」


 そうささやき返すケイに、テアロマの顔が近づいてきた。桜色の頬が雨粒を見事にはじいて、透明な球になっている。長く黒いまつげの、毛先までが見えた。濡れ髪の匂いの中に、微かに、吐息の温度を感じた。


「……のぞく?」


「いや、のぞきませんて! なんで姫さまがお風呂に入ると僕が必ずのぞく前提になってるんですか?」


「いや、ノゾキさんだけに……ここはやはり」


「意味が分かりません!」


 テアロマは、いつも「ノゾキさん」でからかっているときの声で、ころころと笑った。しかしすぐに黙ってしまい、こくりと小首をかしげてから、じっとケイの顔を見つめた。


 そのしぐさに、ケイは、女の身体だ、と感じた。それからすぐに「姫君」という言葉を思い出した。だが、彼はいつものようにその場から逃げることはせず、整備場のほうを見やった。キッチンからガラス窓越しに見える整備場では、今も作業が続いている。誰も、ケイとテアロマの二人に、気付いていないようだ。


「……お風呂の後で……」


 結局、それだけをつぶやいて、ケイは宿舎の方へ向かった。


 風呂から上がって、乾いたシャツに着替えると、さらりとした暖かさが身体を包む。1階のキッチンまで下りていくと、まだ少し湿った黒髪と、魚の形の髪飾りが揺れていた。テアロマはもう、二人分の昼食の準備を始めていた。


(お茶漬けか……いいな)


 丼に盛った白飯は今朝大釜で炊いたものだが、木のおひつに移してあって、しゃもじからふっくらと米粒が感じられる。漬物は、白いたくあんと辛い高菜漬け。金属のように光る紫の海苔を火でさっとあぶると、一瞬で緑の色合いになって、香りが鼻腔に届く。棒鱈を軽くあぶってからほぐして、白ごま。煮物のだしを使って手早く作った卵焼きは、茶色くちょっと焦げたところがあって、見ただけで唾液が出てきた。


 明かりもつけず、雨降りの暗い食堂の片隅で、二人は食事を取った。テアロマは、目を伏せて、ケイの方を見なかった。ただだまって、ゆっくりと、お茶漬けをかきこんでいた。少女の風呂上がりの肌から立ち上がる湯気と、お茶漬けの香気が混ざって、やさしくケイの身体を包む。目の前で、女の白い喉が動いて、ご飯を飲み込んでいた。その動きが、その食欲が、ケイの胃袋にまで伝わり、あなたは飢えている、と今さら気付かせる。


 ケイも、何も言葉を発せず、茶碗を取り上げた。二人は、お互いの食欲を感じ取った。その飢えを感じる二つの肉体と、その体温を、雨の湿気の中で知った。そして、それをただたたえるように、温まる食事を身体の底へ落とし込み続けた。


 窓の外では、まだ激しい雨が降っている。すべての音を、水の気配が包んでかき消していて、二人の存在には、誰も気付いていなかった。




 整備作業が終わり、一人キッチンに入ってきたアンドリューは、その片隅に、ケイとテアロマの姿を見つけた。


 二人とも、テーブルの上に伏せて、仲良く静かな寝息を立てている。二人だけの遅い食事の後、洗い物を終えてから、そのまま居眠りしてしまったのだろう。この昆虫人は、彼らが市場へ出かけ、雨に濡れて戻ってきてから、こそこそと一緒に食事をとっていたのまで、すべて観察していた。


 金属光沢の巨体が、暗がりの中、音もなく滑るように動いた。その精密な動作は、この巨大な節足動物が、発達した神経系と高度な知性を備えていることを示している。眠る少年少女に近づくと、ゆっくりとした等速の動作で、二人の身体を太い腕に抱え上げた。あまりにも正確かつ繊細な動きゆえか、抱えられた身体から漏れる寝息は、少しも乱れることがなかった。


 アンドリューは、二人を抱えたまま、宿舎の2階に上がった。姫君の居室に入り込み、きれいに整えられた、桃色のシーツのベッドを見る。床板一つきしませることなく、昆虫人の巨体はそのベッドに近づき、まず姫君の柔らかな肉体を、そっとシーツの上に置いた。そして、少年の身体も、その隣に横たえる。それから部屋の隅に移動して、ゆっくりとベッドのほうへ向き直ると、そのままアンドリューは動かなくなった。


 しばらくは激しく降っていた雨が、次第に小降りになり、しとしとと湿った、静かな音に変わった。少年と少女は、清潔なシーツの上に並んで、二人でささやかな寝息を立てている。寝室の暗がりに立つアンドリューは、まったく動かなかった。夜の樹下に眠る昆虫のように、何の気配もなく、その磨き上げた鎧のごとき外骨格の表面に映り込んだ雨の景色すら、少しも揺らぐことはない。


 ただ、外の雨音だけが聞こえる。静かなままに、少しの時間がたった。


「交尾しない……」


 雨が上がり、午後の日差しが寝室に差し込み始めたとき、昆虫人の、なんだか少し失望したようにも聞こえる声が、宿舎の廊下に響いた。




 翌日の午後、ケイたちは、準決勝の第2試合を見物するために、闘技場の観客席にいた。どちらが勝つにしろ、勝った方が決勝戦の相手になるのだ。ケイは、相手のどんな特徴も、技の兆候も見落とすまいと、気合を入れてフィールドを見つめた。


「これより、11793年度、ヴェルデン春の花冠トーナメント1部、準決勝の第2試合を開始する! 出場者、入場! まずはドラゴンの門より、イクスファウナ王国西方騎士団、魔法槍騎軍団〈紅に木瓜もっこう〉!」


 少し黄色みがかってきた午後の陽光の下、巨大な鉄扉から入場してきたのは、戦列機ではなかった。それは、軍馬に乗り、重そうな鎧を身にまとった、昔ながらの生身の騎士たちだった。誇らしげに手にした長槍には、赤地に白く花の文様が染め抜かれている槍旗が、春の風を受けてはためいている。


「あれが、その、守旧派の貴族たちの権益を主張するための、騎士の代表ですか? ほんとに、馬に乗った普通の騎士ですが……」


 ケイは、不思議な気分だった。客観的に見て、彼らが乗っている軍馬は、ケイが見慣れた農耕馬や荷役馬などとは比較にならないほど立派な、特別な品種の馬だった。その3頭が背に乗せている鎧の騎士たちも、堂々たる体格に見える。しかし、戦列機の存在に慣れた今のケイには、その全てが小さく、頼りなく見えるのだ。


「そうじゃ。あれこそ、魔法槍騎マジックランサーと呼称される、魔法によって強化された騎士の装備なのじゃ。騎士や馬が装備している鎧の板金には、重量軽減や防護の魔法が何重にもかけられておるし、あの槍は、魔法の仕掛けで聖水を反応させて噴射する『魔導ジェット』が内蔵された『ジェットランス』なのじゃ」


 シオンの答えに、ケイは感心しながら彼らの輝く鎧を眺めた。


(あれが、うわさに聞く魔法槍騎……魔力の源である聖水がそんなに保たないから、戦闘継続時間はあまり長くないそうだけど……でも、彼らも、戦列機すら倒して勝ち上がってきたんだよな)


 ケイは、たとえ守旧派の貴族たちが裏で工作していたとしても、やはりその実力は侮れない、と考えた。


「まあ、生身の騎士と軍馬を徹底的に訓練し、魔法の装備で強化したとはいえ、しょせんは付け焼刃じゃ。戦列機の戦闘継続能力とは比較にならんわ。ほんの数分で魔力切れじゃからのう。『戦列機の時代』に対する、騎士たちの、時代遅れのささやかな抵抗といったところよ……」


 シオンは、少し悲しそうな表情で、フィールドに進み出てきた3騎を眺めた。


「とはいえ、彼らも誇り高き騎士よ。『水晶の舌』の伝統の下、優れた血統の軍馬を代々育てて王国に供給し、祖国の防衛を担ってきたその威信は、守旧派の貴族たちにとっては譲れぬものなのじゃ。姉上も、それは分かっておられよう。それでも、戦列機を導入して軍備を近代化しようとされたのも、また国家を憂えてのことなのじゃ」


「誇り……」


 ケイはシオンの表情を見て、師匠はあの魔法槍騎たちと面識があるらしい、と感じた。彼らが決勝まで勝ちあがったら、シオンの知己である、この騎士たちと戦うことになるのだ。


「次いで、フェニックスの門より、カコダイモニオン傭兵騎士団!」


 魔法槍騎たちが現れたのとは反対側の、今まではあまり使われていなかったはずの赤い鳥が描かれた門が、油の切れた仕掛けの耳障りな軋み音とともに、のろのろと開いた。そこから、大型の戦列機が2機、ゆっくりとした歩調で登場した。2機ともかなりの重装甲だが、その歩みにはいささかの揺らぎもぶれもない。ペンキの塗装ではなく、鋼の地を黒く染めたような金属色の仕上げで、紫がかった不気味な色の装甲が、太陽光の反射に複雑な曲面を浮かび上がらせている。


(あれ? 2機だけしか出てこないぞ? 後の1機はどうしたんだ?)


 赤い鳥の門扉は、2機の戦列機を送り出しただけで、もう閉じ始めている。ケイが目を凝らして見つめると、2機の黒い機体の、その巨大な鉄の柱のような脚の間から、一人の背の低い男が歩み出てきた。それは、闘技場の通路で騒動を起こした連中を指揮していた、あの妙にねじれたような顔の小男だった。相変わらず、アクセサリだらけの下品な服装をしている。


「あいつは、地下で係員を襲った連中を従えていた、あの魔剣士だ!」


 ケイの言葉に、隣に座っていたテアロマもうなずいた。


「そうですね。ということは、あの2機に乗っているのが、あのときの……」


 スキンヘッドの、あのガラス玉のような目の戦士たちなのだろう、とケイも思った。彼らも、あの小男も、魔剣を携えていたのは、はっきりと記憶していた。


(どういうつもりだ? あの小男も、魔剣士のはずだが……何で自分の機体に乗ってないんだろう? 故障でもしたのかな?)


 異常な光景に、観客席も少しざわつき始めた。小男は、2機の戦列機の少し前まで歩み出てから、妙に芝居がかった仕草で一礼した。そして、顔を上げて、満員の観客席を見上げた。その顔はひきつり、頬は涙で濡れていた。


〈さあ、お前の一世一代の、最期の晴れ舞台だぞ! この血に飢えた観客たちに、お前の力を見せてやれ!〉


 風に乗ってか、ケイの耳に、訛りのひどい妖精語がかすかに届いた。戦列機の首元の、小さなのぞき窓が開いていた。あのスキンヘッドたちのものらしい妖精語の声は、そこから聞こえたらしい。


〈さあどうした? 刃は寝かせて、肋骨の間を一息に、体重を掛けて突くんだぞ! でないと、無駄に、痛いからな〉


 顔をひきつらせた小男は、泣いているのか笑っているのか分からないような、異様な表情で、一歩前に進み出た。そして、腰の短めの魔剣を、いきなり抜き放った。その魔石の刀身は、炎のようなオレンジ色に光り輝き、脈動するように明滅していた。


「とざいとーざーい! これよりお目に掛けまするは、この私、アブラデミルマの、今生最後の大芝居! その演目は、皆様驚かれますな、なんと! ドラゴンの召喚にござりまするー!」


 小男はそう叫ぶと、輝く自分の魔剣を、そのまま胸に突き立てた!


 明滅している刀身は、深々と彼の胸に沈んでいき、その光は血潮の中に見えなくなった。彼は自分の胸に剣を突き立てたまま、膝をつき、そして闘技場の地面にゆっくりと倒れた。潤滑油で汚れた地面に頬を擦り付けてから、少しもがいたようだった。


「いやああああああああああ……」


 あまりの異常事態に闘技場全体が静まり返っていたため、小男の断末魔の喘ぎ声が、観客席まではっきり聞こえた。その不快で哀れな声は、すぐにごぼごぼという、自分の血液にむせる呼吸音に変わった。そしてそれから、彼の呼吸は、あっさりと途絶えた。


(な……なんだこれは? 彼は何をしているんだ? 自分の機体にも乗らず、いきなり魔剣で自害したぞ?)


 きゃああ、という女性の悲鳴が、観客席のどこかから響いた。しかしほとんどの観客は、まだ言葉を発することもなく、ただ呆然と、小男の哀れな死体を見守っているだけだった。


 ケイはそのとき、フィールドの真ん中に倒れている小男の死体に、どくんと脈打つような鼓動を感じたような気がした。あるいはそれは、死体ではなく、それに深々と突き刺さっている彼の魔剣から感じたものかもしれなかった。


 その感覚は、自分の「夜の剣」と初めて共振したときに感じた、あの脈動に似ていた。


 ごう、という突風のような音が、闘技場に響き渡った。小男の死体から、眼もくらむほど激しく輝く、白い炎が、竜巻のように吹き上がった。彼の死体は、蒸発するように一瞬で燃え尽き、後には彼の魔剣だけが輝いている。炎の竜巻はその光度を増しながら吹き上がっていき、審判の塔や観客席の最上部をも越える、数十メートルもの高さにまで達した。そしてその白く輝く光の柱は、徐々にその形を変え、横に広がり始めた。


「ドラゴン! あ、あれは、太古に滅びた伝説の怪物、ドラゴンだ!」


 輝く炎の竜巻は、闘技場の空間全てを占拠するほど拡がってから、閃光とともに一瞬で消滅した。その後には、巨大な何かが出現していた。それは牙のずらりと生えた口を持ち、蛇のような長い首と尻尾をしていて、戦列機と同じくらいの大きさのある、たくましい四本の脚で身体を支えていた。


 その姿は、確かに、書物の挿絵に描かれている、伝説上の怪物に似ていた。


 そして、その怪物の巨体は、頭から尻尾の先まで、全身が透明だった。頭に生えたとがった角や牙から、城郭の塔のようにそそり立つ首を覆う甲殻、わき腹の大きな鱗、それだけで10メートルはありそうな長い尻尾まで、全てが透き通っている。その身体は、まるでクリスタルガラスで作った豪華なシャンデリアのように、陽光を透過し、屈折して、きらきらと輝いていた。


「あれは……『晶炎竜クリスタル・ファイア・ドラゴン』! はるかな昔に滅びたはずの魔的生物です! 何てこと、あの魔剣から召喚されたんだわ!」


 テアロマが、小さな手を握りしめて立ち上がり、絞り出すような声で叫んだ。その言葉にケイが聞き返そうとしたとき、黒い戦列機の1機がハッチを開けた。あのスキンヘッドの大男が、機体の中から審判の塔を見上げて、審判たちに何か叫ぶ。すると、呆れたことに、試合開始のラッパがファーンファーンファーンと、3回響いた。


(なんじゃこりゃ!? あのドラゴンと戦えっていうのかよ?)


 透明なドラゴンの頭部の、やはり透明な水晶玉のような眼に、赤い炎が宿った。その炎の眼差しが、3騎の魔法槍騎を捉える。その眼には知性は感じられないが、彼らを敵として認識したのは間違いないようだ。


 水晶の鱗が触れ合うのか、耳障りなじゃりじゃりという音を立てながら、晶炎竜の巨体は、蛇のようなうねる動きでフィールドを移動し始めた。頭から尻尾まで、40メートルはあるその長大な身体は、闘技場の地面をほとんど占拠していた。伝説のドラゴンとは違って、その巨体の背中には翼はなく、長いつららのような透明な棘が何本も生えている。その棘の鋭い先端一つ一つには、小さな炎が、ろうそくのように燃えていた。


 竜は、毒蛇のような無駄のない滑らかな動きで、あっという間に3人の騎士たちをフィールドの隅に追いつめた。大蛇のもたげた鎌首のような顔が、魔法槍騎のはるか頭上から見下ろしている。彼らは、怯えて棹立ちになる馬を制御するのに必死で、ドラゴンの前から逃げることすらできないようだった。


 そして、晶炎竜の、水晶でできた帆船の船体のようなその胴体の内部に、赤い炎が宿った。その炎は急激に大きく、明るくなり、オレンジ色から黄色、そして白へと色を変えながら、長い首の内部を猛烈な速度で駆け上がっていく。その全てが、透明な鱗から透けて見えた。晶炎竜の全身が、陽光よりも明るく輝く体内の炎に染まり、灯りをともしたシャンデリアのように美しく輝いた。


 そしてその白く輝く炎は、ドラゴンの巨大な口から真下へ、3騎の魔法槍騎の頭上へ、猛烈な勢いで吐き出された! それは炎の息というよりも、眼も眩むほど輝く、白い光の柱だった。大気そのものが白熱し、ごうごうと、魂が消し飛ぶほどの轟音を響かせる。3人の騎士たちとその乗馬の姿は、完全に光の中にかき消え、一瞬で影すら見えなくなった。


 晶炎竜の白熱の放射は、数十秒も続いた後で、唐突に途切れた。炎の息の輝きから視力を回復させた観客たちが見たものは、微動だにしないドラゴンのきらめく巨体と、真っ黒に焼け焦げた地面、それだけだった。3人のたくましい騎士たちも、彼らが乗っていた堂々たる体躯の軍馬も、その姿はどこにもなかった。


 ただ、何か焼け焦げた、真っ黒のかけらのようなものが、溶解して赤熱する地面の上に、幾つか散らばっていた。


 一瞬の静寂の後、観客席のあちこちから悲鳴が上がった。誰もが試合の勝敗など忘れ、ただ恐怖に駆られて客席から出口に殺到し始めた。悲鳴と怒号の中に、審判の勝利宣言が聞こえたような気がしたが、ほとんど聞き取れない。


「こりゃまずいですよ、パニックだ! 師匠、早く逃げましょう! アンドリューさんは姫さまをお願いします!」


 ケイは晶炎竜の様子をうかがいながら、シオンを急き立てた。あんな威力の炎では、観客席を守る音響バリアーとて、保つかどうか分からないのだ。


 だが、シオンは、席から立ち上がってはいたが、その場から動こうとはしていなかった。それだけではなく、テアロマも同様に、逃げようとはしていない。二人とも少し恐怖したような、しかし冷静な目で、フィールドを我が物顔で占拠している巨竜を見つめている。その顔は、ドラゴンの体内の炎に照らされ、オレンジと暗闇色の陰影に彩られていて、顔色も表情も読み取れない。


 アンドリューが、逃げ惑う群集から盾になるように、そっと二人のそばに立った。


「いえ、多分大丈夫です。あのドラゴンは、制御されています」


 テアロマが、油断なく晶炎竜の炎の眼を見つめながら言った。シオンも、うなずいた。


「あれはおそらく、超古代の文献にあるという、召喚の儀式じゃ。あの男の魔剣の、魔石の結晶には、氷や炎の魔力といった『エネルギー』ではなく、太古に絶滅したあの晶炎竜の、存在そのものが記録されておったのじゃろう」


「ドラゴンそのものが入っている魔石? 化石みたいなもんですか? そんな結晶が存在するんですか!」


 テアロマが、か細い声で、その後を続けた。


「きわめて珍しいのですが、古生物の存在自体が――その情報が結晶化した魔石というものも、確かにあるのです。実は、私のこの髪留めも、そうなのです。これには、何億年も前の、もうとっくに絶滅した魚の存在が記録されています」


 ケイは、テアロマの前髪にある、魚の形のアクセサリを見つめた。これも、魔石だったとは!


「この髪留めの魔石は、私と共振しているわけではないので、中の古代魚を復活させることはできません。でも、あの自害した人は、自分の魔剣と魂が共振している魔剣士だった。だから、魔石からドラゴンの存在を呼び出し、復元できたのです。それは、姉さまが『風花姫』から氷の魔力を呼び出すのと、基本は同じことなのです。ただし、あれほど巨大で、しかも生命を持つ存在を召喚するとなると、自分の生命エネルギーの全てを、魔剣に注ぎ込む必要がある。だから、彼は自らの生命と引き換えに、あの晶炎竜を召喚したのです」


(なるほど……そうか、あの小男が偉そうにしていたのは、ひょっとしたら、こうして死ぬことが決まっていたから、死の代価として指揮官の身分を与えられていたのかもしれない)


 シオンは、ドラゴンの方を冷静な眼で観察しながら言った。


「ドラゴンのような強大な、しかも魔力の塊のごとき生物を、人間の脆弱な魔法で制御することなど、普通は不可能と聞く。しかし、一つだけ、人間の力で強力な竜を御する方法があるそうじゃ。それは、ドラゴンの存在が封じられた魔剣に支配の魔法をかけておいてから、その魔石から中身を召喚する、という儀式らしい。まさか、そんな失われた超古代の召喚術を、現代に伝える者がいたとは……あ奴らは、『魔石山脈』の北から侵入してきたという、古代の血を残す異民族なのかもしれん」


 ケイは、登場からずっとドラゴンの後方から動いていない、2機の戦列機を見つめた。あのスキンヘッドの男たちは、二人ともハッチを開けて、パニックになっている観客席をじっと見つめている。しかし、その骨ばった顔には、何の感情もなかった。ガラス玉のような冷たい目が、ドラゴンの炎を反射して、オレンジ色の光を宿しているのが見えた。


(ちょっと待てよ……てことは、僕たちの決勝戦の相手は、このドラゴン……!)


「あぶない!」


 そのとき、ケイも、シオンも、おそらくアンドリューすら、フィールド上の巨竜に完全に気を取られていて、観客席の物陰から接近してくる、その人影に気付かなかった。


 だから、ケイは、シオンがそう叫んでから、なぜ自分にもたれかかってきたのか、すぐには理解できなかった。


 それから、手のひらにべっとりと、彼女の血が付いているのに気付いた。




 闘技場の事務所のトイレから出て来たテアロマに、ケイは気付いた。その顔は、まるで死人のように血の色が抜け、青ざめていた。


(ああ、吐いちゃったんだな……)


 晶炎竜の出現にパニックと化した闘技場で、まさにその隙を狙ってケイたちを襲った刺客は、混乱に乗じて逃亡に成功し、闘技場の警備の追っ手を振り切った。ケイを狙った凶刃から身を挺して彼を守ったシオンは、右腕に重傷を負った。テアロマは、闘技場に付属している救急救命室で、「水晶の舌」の力を使ってシオンの手術を手伝い、術後の手当てを終えてから、緊張の限界に達して倒れたのだ。


 少しふらついたテアロマを、アンドリューが鎧の腕でそっと支えた。


「シオンは、生命の危険はないそうだ。ただ、右腕は、骨まで達する刺傷で、しばらく使えない。出血が多かったので、いまは薬で眠らせている」


「師匠の特殊素材の服ですら貫通したってことは、魔石の刃だったんでしょうね。毒とか塗られてなくてよかった」


 ケイは、アンドリューの言葉にうなずいてから、闘技場の警備から聞いた情報を伝えた。


「あの刺客は、明らかに、あの時間にドラゴンが召喚されると事前に知っていた。それによってこちらに油断が生じるのを期待して、観客の中にひそんでずっと狙っていたんでしょう……」


 その事実が示すのは、あのスキンヘッドの傭兵たちを雇ったのは、イクスファウナの反女王派、守旧派の貴族たちだ、ということだ。


 つまり彼らは、傭兵を使って、魔法槍騎たちを、ドラゴンの炎で焼き殺させたのだ。自分たちの部下であるはずの、守旧派貴族の伝統の象徴であったはずの、堂々たる軍馬に跨った誇り高き騎士たちを。


「疑問が一つある。なぜあの傭兵たちは、ここで、この準決勝で、ドラゴンを召喚したのだろうか? 我々を確実に敗北させたいのであれば、決勝戦でいきなりあの晶炎竜を召喚した方が、絶対に有利なはずだ。そうすれば、我々にはドラゴンへの対策を練る時間などない」


 アンドリューの鎧の中から、また青い光が漏れていた。その激しい瞬きが示すのは、彼ら昆虫人の集合知性が、活発に活動しているということだ。


「そうですね……これは僕の推測なんですが、準決勝であのドラゴンを見せ付けたのは、僕たちへの脅しだと思います。『女王陛下ご自慢の戦列機が恐れをなして試合を放棄した』という形にしたいんでしょう。多分、その方が、政治的なダメージは大きくなる」


 それは、明らかな脅迫だった。その冷酷な、巨大な慣性を持った、氷塊のような圧迫は、この自分に向けられているのだ。そう思い、ケイは身震いした。アンドリューは、いつもと同じように、金属質に輝く角を振り立てた。


「それは理解できる。守旧派の貴族たちは、自分たちの魔法槍騎では我々の戦列機に勝てないだろうと考えて、より確実に、女王陛下に恥をかかせる方策を選んだ、ということだな」


 もちろんそれは、元王族であるシオンを殺害するのはさすがに避けたかった、ということもあるのだろう。たとえそうだとしても、守旧派の貴族たちは、自分たちの子飼いの騎士たちの生命すら、邪魔な路傍の石のように扱い、躊躇なく燃やして灰にしてしまったのだ。その無情で冷たい、残酷な判断に、そしてそれをとどまることなく実行に移す機械のような意志に、ケイは恐怖した。


(姫さまは、こんな小さな身体で、そんな化物じみた既得権益の塊と戦ってきたのか……)


 ケイは、半地下になっている闘技場の事務所の、高い位置にある窓から、フィールドの地面を見やった。ドラゴンの炎で焼き焦がされた黒い地面から、係員がスコップで、何かをすくい上げている。それらは、ほんの1時間前までは、誇り高き騎士の鍛え上げられた肉体だったり、その光り輝く鎧だったり、堂々たる体格の軍馬だったりしたはずのものだった。そのスコップで片付けられている何かは、もはや元の形状も材質も判別できない、高熱で溶解してから固まった、岩のかけらのように見えた。普通、荼毘だびに付された遺体は、薪をたくさんくべてもなかなか骨だけにはならないのに、彼らの遺体は一瞬で灰になってしまったのだ。


 そのありさまは、たとえ戦列機の鋼の装甲であっても、あの晶炎竜の白く輝く炎を受ければ、同じように溶解した残骸と化すしかない、という、物理的な事実を示していた。ケイは、ドラゴンの吐く炎の息はただの火ではなく、純粋な火の元素サラマンデルにより近く、エネルギーの波の位相がそろっているため、高い威力を持っているという話を思い出した。


(こんな残骸に、この死に、何があるって言うんだ……何が闘技場の栄光だよ! こんな溶けてねじれ曲がった燃えかす……彼らの勇気も忠誠も家族への愛も、全て灰になってしまった。こんな死に方、完全に無意味じゃないか)


 ケイは、腹の底が冷たく冷えるような怒りと絶望感を押さえながら、テアロマのそばへ寄った。シオンの血の染みがあちこちに付いた青いエプロンドレスのままで、苦しそうに身体を折って腹を押さえている。いつも生気にあふれ、元気に飛び跳ねているその身体が、本当に小さく縮んでしまったかのように見えた。


(師匠がけがしたときの姫さまの取り乱しようは、普通じゃなかった……前にも、こういうことがあったのかもしれないな……)


 それでも必死で冷静さを取り戻し、重傷を負ったシオンの右腕の手術を最後まで手伝ったのだ。そのテアロマの精神力に、ケイは心底感心していた。


「師匠は、とりあえずここのお医者さんに任せましょう。姫さまは、宿舎に帰って休んでください。みんなの夕食は、僕が何とかしておきますから」


 ケイがおずおずと声を掛けると、テアロマは首を振った。


「いえ、亡くなられた魔法槍騎の騎士たちの、ご家族が来ておられるのです。姫として、お悔やみを述べに行かなければなりません」


(ああ、誰かにドレスを借りてきてくれ、って頼みは、そのためか……)


 ケイは、手にしていた借り着のドレスの包みを、テアロマに渡すべきかどうか、一瞬迷った。考えながら、テアロマの青ざめた顔を、血の気の抜けた白い頬を見た途端、彼の身体の中に、突然激しい突風のような感情が走った。この小さな姫君の身体を抱きしめてここに留め、そのままわあわあと大声で泣き叫びたい。そんな衝動が、熱を帯びた頭の中で渦巻いた。


 しかし、現実のケイの肉体は、少しも動かなかった。ただ、背中や肩の筋肉を硬直させ、テアロマのそばに馬鹿のように立ち尽くして、彼女の小さな肩が震えているのを、じっと見つめているだけだった。


 そしてこの背の低い、優しい目の、柔らかな肌の少女は、ケイから借り着のドレスを受け取ると、闘技場の暗い廊下をゆっくりと歩いていった。アンドリューの姿が、影のように素早く寄り添った。二人が暗闇に消えるまで見送っていたケイは、その後ろ姿の持つ意味に、そこでやっと気が付いた。


 テアロマ姫は、あの騎士たちの無意味な死に、あの溶けた金属と灰に、栄光という「意味」を与えるために歩んでいったのだ。彼女は「意味」から逃れることはできない。それが、あの小さな背中が背負った、光り輝く、残酷な物語シナリオだった。


 彼女は、「水晶の舌」の姫君プリンセスなのだ。




 翌日、テアロマ姫に宛てて、イクスファウナ女王、クリステロス3世からの書状が、急ぎの飛竜便で届いた。その書面には、次のような内容が記されていた。


 このトーナメントの決勝戦を棄権し、敗北宣言をすること。


 その闘技場での敗北宣言の役目を、テアロマ姫が果たすこと。


 そのために、テアロマ姫はヴェルデン市内の貴族の屋敷に移って、女王の名代としての準備をすること。


 そして、姫の学園への入学予定は、政治的な取引の材料として消費され、結果として取り消されることになった。女王からの手紙の最後の行は、愛する妹に、それを深く詫びるための文だった。


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