第6章 謎の騎士たち

 「水晶の舌」とは、イクスファウナのレインコール王家の血筋にまれに出現する、特殊な能力の持ち主を指す言葉である。


 これは、通常の魔法とは完全に異質の、遺伝によって出現する超能力の一種であり、こうした魔力を「固有魔力」と呼ぶ。王家や貴族の血筋で、特に近親婚を繰り返している場合に出現しやすく、国によっては、こうした固有魔力を「神から与えられた王権」の裏付けとして神格化していることも多い。だが、そうした固有魔力の血筋の中でも、「水晶の舌」の権威だけは、完全に別格といってもいいほどの神秘性をもっている。それは、広く国境を越えてまで、篤い信仰心の対象となっていた。


 「水晶の舌」の能力とは、あたかも「見えない舌」で味わうかのごとくに、生物の持つ化学構造を読み取れる、というものだ。対象は生物に限られるが、指先で触れるだけで、その遺伝子や、肉体の微細な――顕微鏡でも見えないほどの――「分子構造」までを認識し、分析できるのである。


 その伝説は神代にまでさかのぼり、初代の「水晶の舌」などは、開闢前の宇宙を閉ざしていた霧を食べ尽くし、世界を晴れ上がらせたなどと言われているが、さすがにこれは神話の類である。しかし、歴代の「舌」たちは、自然の中から作物や家畜になる生物を的確に選び出し、それを品種改良し、また薬になる草や肥料になる鉱物を人々に教え、文字どおり民を飢えと病から救ってきた「生き神」だった。彼らは皆、灌漑技術や観天望気の術にも優れ、未開の土地を開墾して自らの国を作った者もいるほどだ。


 「脂固脂脂固脂アブラカタブラアブラカタブラ」の呪文で全ての作物、家畜を高カロリー、高脂肪に品種改良し、国民の栄養状態を大幅に改善した「脂肪王」がいる。


 自らの肉体を実験台にして何百種類もの特効薬、手術法を開発し、また都市の下水を改良して伝染病の発生を数十年完全に防いだ「傷痕の聖女」がいる。


 7人の英雄と共に、この世のありとあらゆる生物を調理し、試食することに生涯を捧げ、そのついでに、人類に仇なす邪竜の軍団を滅ぼして骨まで煮込んで食べた「七竜の厨房の長」がいる。


 実に数千年の歴史に、何度も出現した「水晶の舌」たちは、皆輝かしい業績をこの世に残し、農業生産力の向上と医学、衛生の改善によって人口を増加させ、結果として人類文明の発展に大きく貢献した。この偉業は、イクスファウナ王国の権威を高めるだけでなく、大陸全土にまで広く知れ渡り、聖なる伝説として信仰されているのだ。


 そして数年前、第70代の「水晶の舌」として、テアロマ姫は、正式に認定を受けた。


 「水晶の舌」が存命中の時代は「水晶の時代」と呼ばれ、そして「舌」が死して世を去ると、民衆はその業績を伝説として語り継ぎ、その「生ける神の時代」の再来を夢見て過ごす。


 彼女は、民衆の渇仰と絶望のただ中に、その生を受けたのだ。


 ケイも、子供のころに、村に来た芸人の「絵解き」の講釈を聞いたことがあった。彼らは収穫期になると村にやってきて、先端に鷹の羽根の付いた指し棒で絵を指し示しながら「水晶の舌」の伝説を語り、そのご利益があるというお札や薬を売っていた。


(あの絵解きの絵に描いてあった『水晶の舌』は、後光が射したり羽が生えてたり、ほとんど神さまだったけど……)


 ケイはそんなことを思い出しながら、目の前の背の低い、黒髪おかっぱの少女を見つめた。市場に並ぶ食料の山々の間を縫って歩くこの小さな「生き神さま」は、昨日ケイがそう呼んでから、ずっと、ご機嫌斜めだった。


(こっちが話しかけても口もきいてくれないかと思ったら、やたらに『のぞいたのぞいたもん』を連発したり、どうにも昨日から不安定で困る)


 心の中で文句を言いながらも、ケイは、自分の心も不安定になっているのを、自覚していた。テアロマの不機嫌そうな顔を見ているだけで、それが自分のせいだと思うだけで、胸の辺りに不快な感覚が走るのだ。そうかと思えば、彼女の肌や髪から匂う、焼きたてのパンやケーキのような香りをかぐだけで、身体の中にあの硬直がよみがえり、そのまま動けなくなることもあった。


 他者の感情にこれだけ振り回されている自分自身に、ケイはただ、驚いていた。


(あの伝説の聖人『水晶の舌』か……間の抜けたことに、僕は毎日、その聖人の起こす奇跡を目の前で何度も目撃していて、全く気が付かなかったわけだ。師匠が『姫さまに食事の世話を任せれば毒の可能性はゼロになる』って言ってたのは、そういうことだったんだな。そういえば、『水晶の舌』の存命期間には、宮廷ではよくある毒殺スキャンダルが激減する、とか)


 魚屋の前で、まだ身のたっぷり付いているマグロの中落ちを吟味しているテアロマの背中を眺めて、ケイはため息をついた。この背の低い、可憐な、料理好きで食いしん坊の少女と、神秘の伝説の生まれ変わりという事実とが、どうしても自分の中でうまく結びつかないのだ。


(まあ、料理がうまいのも、その神秘の力で食材を吟味したり、火加減や味付けも的確に調節できるからなんだろうけど。しかし、一国の姫に生まれて、しかも『水晶の舌』か……姫さまは、生まれ落ちたときから、自分が主人公の物語を、光り輝く聖人伝説のシナリオを、手渡されていたってことか……)


 慎重な吟味の末に購入を決定したマグロの中落ちを包んでもらいながら、テアロマはケイの視線に気付いて、ぷいとそっぽを向いた。ケイは、また胸の痛みを感じながら、それでも勇気を出して話しかけた。


「それ、どうやって食べるんですか?」


「……ニンニクしょうゆでさっと炒めます。ごはんに、合うからっ」


 テアロマは、変に緊張したような、中途半端な表情だった。顔面の表情筋が、不機嫌なのか微笑んでいるのか、どちらかに動きを統一できないで混乱しているように見える。


 足りなかった食材をひととおり買い揃えたところで、ケイは市場の中に、女性向けの衣服を売っている店を見つけた。会話のきっかけをつかもうと、ケイはテアロマに、以前から考えていたある提案をしてみることにした。


「姫さま、あの店で着替えを買われてはどうですか? こっちに来てから、ずっとそのウエートレスの制服でしょう?」


 「夜と嘘」のウエートレス用の青い制服を、何着か姫君用の着替えとして持ってきたのだが、ケイはそもそも、テアロマが闘技場の宿舎に泊まるとは思っていなかった。だから、それ以外の着替えを用意するのを、すっかり忘れていたのだ。


 テアロマは、ケイの提案には、あまり気乗りがしない様子だった。


「これ、かわいいし、キッチンでも動きやすいから、これでいいです」


「そうですか? でもほら、夜会用のドレスとかもありますよ」


 その店には、「竜骨街道」や交易船で運ばれてきた、さまざまな国、民族の衣服や生地が、狭い店内にぎっしりと並べられていた。その手前の、流行のデザインの赤いドレスをケイが指さすと、テアロマはぷいと顔を背けた。


「夜会は嫌いです! ドレスとか、似合わないし……ダンスとかも」


 姫君なのに、と言いかけてから、ケイははっと口をつぐんだ。カードゲームのディーラーとして働いていた彼には、店に来る貴族の客の話や、彼らの相手をする高級娼婦たちの様子から、間接的ながら貴族文化の知識があった。


(あっ、そうか! 今の宮廷文化の流行だと、女性たちはみんな、自分の背を高く見せるのが流行ってるんだった。ヒールの高い靴を履いたりとか、ドレスのデザインも、背の高い、脚の長い人に合わせたものになってるんだっけ……姫さまには、確かにつらいかもしれないな)


 きゅっと唇をかんで、ケイの顔を見ないようにしているテアロマの小さな背中は、少し震えていた。


「私は……だめな姫です。父の急死で若くして王位を継いだ姉上を、宮廷の中で支えていくこともろくにできず、ただ『水晶の舌』として王家の権威を高めるよう、医学や農学の研究に逃げ込むくらいしかできない……」


 テアロマのその言葉を聞いて、ケイは、彼女の置かれている立場を少しは察することができた。同時に、あの雨の夜の出会いを、彼女の足の傷を、鮮明に思い出した。


「そんなこと、そんなこと絶対ありませんよ! 姫さまがいたから、この闘技場でここまで勝ち上がってこられたんです! 女王陛下だって、今でもまだ、お城でがんばっておられるんでしょう? それに、宮廷のパーティで……」


 パーティで魅力を振りまいて目立てなくても、エプロンの姫さまはかわいいのに。そう言おうとして、ケイは言葉を失った。それは、自分には、自分の身分と立場では、許可されていない言葉だと、よく分かっていた。


 ケイは、深く息を吐いた。そのまま黙って、「水晶の舌」の姫の、震える小さな背中を、しばらくただ見つめた。


(まさか……僕を『ノゾキさん』呼ばわりしてからかってたのも、お城では絶対にできないこと、だったのか? 自分の裸をのぞこうとした男、自分に性的な興味を向ける男、として、ふざけて遊ぶなんて……自分の容姿に自信がなかった姫さまが? それを、この僕に?)


 呼吸が落ち着いたのか、ケイの耳に、市場のざわめきが明瞭に聞こえてきた。もう一度深呼吸してから、姫君の背に、そっと声を掛ける。


「じゃあ、エプロンなど買ってはどうですか? ほら、あんなにたくさん種類がありますよ」


 ケイは、店の片隅に並んでいる、凝ったデザインのレースのエプロンを指した。これらは日用品ではなく、おそらく接客用のメイドなどが身に付けるはずの高級品だ。


「……えらんで」


「はい?」


 テアロマは、突然ケイの顔を真っすぐに見つめて、エプロンドレスの裾を握り締め、通路に立ち止まった。


「あなたが、私に選んで!」


 ぱあんと、叩き付けるように鋭い、しかしどこか泣き出しそうな声が、耳を打った。ケイは、黙ってテアロマの顔を見た。長いまつげの下の、不思議な深い色の瞳は、いつもと違って少しうるんでいて、静かに何かを待っている。


「僕が、姫さまに選んでもいいんですか?」


 テアロマは、こくりとうなずいた。きゅっと唇を引き締めたまま、もう声は出さなかった。


 ケイは、吊るされているエプロンの中から、比較的シンプルなデザインの、清楚な印象のものを選んだ。他のエプロンの間から引っ張り出してみると、胸のところにかわいいヒヨコの刺繍が施されている。これはちょっと幼過ぎるかも、と姫君の顔を見ると、目を輝かせてケイのそばに寄って来た。ふわりと、ケーキを焼くオーブンの、粉と卵の匂いがした。


「これかわいい! これがいいです!」


 ケイは、自分の財布から金を払った。彼の買ってやったエプロンを、テアロマは早速身に付けて、うれしそうにくるりとステップを踏んだ。


(やっぱり、僕の『荒れ野の姫君』に、よく似てる……)


 そばで見つめているケイは、この姫君が食堂で語ってくれた、秘密の夢のことを思い出した。彼の心は、また奇妙な痛みと、衝動と、硬直が入り乱れて、まとまりが付かない不安定な感情にあふれた。


(『水晶の舌』か……姫さまは、自分が主役のシナリオをもらった『主人公』だ。僕みたいな、シナリオをもらえなかった凡人とは、確かに違う)


 白いエプロンを持ち上げて、レースの模様を眺めているテアロマの表情は、また普段と同じ明るさに戻っていた。その笑顔は、心の底から、ケイ自身の幸せだった。そんな感情を誰かに抱いたのは、本当に、思いだせないほど、久しぶりだと気付いた。


(でも、シナリオがもらえないのと、自分が演じたくない役のシナリオを押し付けられて、それを一生演じ続けなければならないのとでは、どちらがより不幸なんだろう?)




 市場から、闘技場の暗い地下通路を通って宿舎へ戻る道中、ケイは、背負った食料の重さにあえいでいた。その日は珍しく、アンドリューが市場に付いて来なかったので、彼が大半の荷物を一人で運ぶ羽目になったからだ。


(アンドリューさん、またどこかで、暗がりでいちゃついてるカップルでものぞいてるんじゃないだろうな?)


 戦列機の力だったら、これくらいの荷物など軽々と運べるだろうに、と一瞬考えてから、ケイは首を振った。


(こういう考えはよくないか。どうも最近、あの歯車仕掛けの機械の力に酔ってるような気がするよ)


 テアロマは、できる限りの荷物を両手の袋にぶら下げて、よちよちと、しかし意外に筋力を感じさせる足取りで歩いている。すっかり、いつもキッチンで見せる元気な表情に戻っていた。


(小さな身体だけど、その中には、神秘の力がぷりっぷりに詰まっているって感じだ。だからいつもあんなに元気なんだろうか)


 そんなことを考えた瞬間、ケイの耳に、激しい物音と、若い女性の悲鳴が聞こえた。


「今の声は……この通路の先です!」


 ケイが止める間もなく、テアロマはその場に荷物を置くと、暗い通路の先へと走り出してしまった。彼も足元に荷物を下ろして、慌てて姫君の後を追った。


「姫さま! 待ってください、一人じゃ危ないですよ!」


 今は、アンドリューがいないのだ。


 テアロマの小さな姿は、もう通路のカーブの向こうに消えていた。不安に駆られながら、ケイがその後を追うと、すぐにまた姫君の青いエプロンドレスが視界に入った。その向こう、明かりも少ない通路の中に、二人の背の高い男が立っている。そしてその足元には、誰かが倒れていた。


「あなたたち、ここで何をしているのです! その方を、今すぐ放しなさい!」


 凛としたテアロマの声が、通路の天井にかあんと響いた。二人の男たちは、筋肉の束のような腕に、一人の若い女性を拘束していた。彼女は既に気絶していて、男に細腕をつかまれてぶら下げられている。彼女と、足元に倒れている男は、服装からして、闘技場の係員のようだった。


(まずい……まずいぞ。眼で分かる。こいつらは、普通の人間じゃあない)


 歓楽街で何年も暮らしてきて、さまざまな人間を見てきたケイには、二人の男がどういう類の人種なのか、すぐに直感的に分かった。


 これは、人殺しの眼だ。


「聞こえないのですか! その方を放しなさい! 闘技場の警備を呼びますよ!」


 二人の大男は、魔剣士のようだった。服装は革製の装具が付いた搭乗服で、腰には魔剣らしき、シンプルな拵えの剣を下げている。その肉体は、異常なほどに膨れ上がった、まるでより合わせた太い綱の束のような筋肉で覆われていた。二人とも、頭髪を一本残らず剃り上げている。そのスキンヘッドの下には、ガラス玉のように感情のない、冷たく硬い青い目があって、小さなテアロマを、邪魔な石ころでも見るかのように見下ろしていた。


〈騒ぐな子供。ただ、この女を徴用するだけだ。殺すわけではない〉


(妖精語? こいつら、北方の人間なのか? にしても、ひどい訛りだな……)


 大男たちが口にしたのは、この辺りの標準語ではなく、北方の妖精族が主に話す「妖精語」だった。この言語は、普通の人間の言葉と異なり、妖精族の血が入った者でないと習得できない。


 しかし、テアロマは、小首をかしげながら、スキンヘッドの言葉をなぞるようにつぶやいた。


「さわぐ……徴発?」


(あれ? 姫さま、今の妖精語が分かるのか? まあ、貴族でも、妖精族の血が入っている人は珍しくもないが……)


 戸惑っているテアロマの前に身体を押し込みながら、ケイは妖精語で会話を試みた。


〈その女性を放せ! ここでは、そんな乱暴や勝手は許されていない!〉


 そう言い放ちながら、ケイは目の前の男の顔を見上げた。冷たく感情のない目が、ケイを見下ろしている。


 そして彼は、既にその手に自らの魔剣を抜き放ち、ケイに向かって振りかぶっていた。まるで、ケイの放った言葉も、その存在も生命も、ただの邪魔な木の枝か何かを払うくらいにしか感じていないかのように。


(は……なんだこれ。言葉が通じないのか? いや、こいつら、他人の生命を、存在そのものを、何とも感じていない!)


 ケイは、背後のテアロマを背中で押しやりながら、自分の「夜の剣」を抜こうとした。


 だが、相手の巨躯が放つ斬撃から姫君を救うには、少し間に合わないということは、身体の感覚で分かった。


 そして、彼の頭上で、肉塊をぶつけ合うような、重い音が響いた。


「アンドリュー!」


 ケイの頭上には、見慣れた緑金色の板金に包まれた、太く巨大な腕があった。その腕は、今まさにケイの頭蓋を断ち割ろうとしていた魔剣を、その抜き身の刀身をつかんで止めていた。


〈この力……貴様は、いったい何者だ? 巨人族などではないな?〉


 魔剣を振り下ろした男は、アンドリューの拘束を振り払おうと腕に力をこめたが、びくともしない。その力を見て、スキンヘッドたちの氷のような目に、かすかに熱気のようなものが宿ったようだった。


「我が水晶の姫よ。ケイ・ボルガよ。負傷はないようだな」


 鎧に身を包んだアンドリューの胴体の中から、いつもの美声が響いた。ケイは感謝の言葉を口にしながら、テアロマの無事を確認した。彼女は、倒れた男にもう駆け寄って、首筋に手をかざしている。おそらく「水晶の舌」の能力で容体を確認しているのだろう。そしてすぐにケイの方を見て、気絶しているだけです、とうなずいた。


〈お前たち、その女を放せ。ここでは自重しろと言っておいたであろう?〉


 そのとき、通路の向こうの暗闇から、別の妖精語の声が響いた。スキンヘッドたちと同じ訛りだが、声は甲高く、神経に障る不快な響きを帯びている。そしてすぐに、コツコツという足音とともに、その声の主が現れた。それは、妙にねじれたような顔の、小男だった。腰にはやはり、魔剣らしき短刀を帯びている。


「すみませんなあ、何しろこいつらは、教育がなっておりませんでな。というよりは、なっとらん教育しか受けていないというべきか。こいつらときたら、実に単純な世界に生きておるのです。欲しい物があれば、戦いで手柄を立てろ! ただそれだけ、本当にそれだけの、単純な物語なのです。女すら、戦いの戦利品として配布されるものでしかない」


 やはりひどい訛りのある標準語でまくし立てると、小男は、倒れた男の方へ顎をしゃくって見せた。首から下品にじゃらじゃらと下げているたくさんの首飾りが、触れ合って音を立てる。ケイにはそれが、粗悪な安物ばかりだと分かった。趣味の悪い服装のこの小男は、かんに障る芝居がかった口調で言葉を続けた。


「彼らの頭にある物語はこうです! 戦いに勝利して相手を倒した! だから、この女は我々の戦利品だ! 以上終わり! いやはや、実につまらぬ出し物をお眼にかけてしまって、まことに申し訳ない。まあこの役者どもは、そういう教育しか受けておりませんのでな、どうかご勘弁のほどを……さあ、お前たち、行くぞ!」


 驚いたことに、この殺人者の眼のスキンヘッドたちは、小男の命令に素直に従った。腕にぶら下げていた女性を放すと、小男に従って、通路の暗闇に消えていく。二人とも、言葉も発しなければ、振り返りもしなかった。


「アンドリューさん、助かりましたよ! でも、あいつらは、いったい何者なんでしょう?」


 ケイはアンドリューの輝く角を見上げながら、礼を言った。アンドリューは、買い物に付き合えなくて済まなかった、とだけ言いながらも、スキンヘッドたちを油断なく見送っている。


「よかった、二人とも無事です、気絶しているだけ……彼らですが、北方の出身の、異民族かもしれません」


 解放された女性の容体を確認しつつ、テアロマが言った。どうやら「水晶の舌」で、スキンヘッドたちの「遺伝子」を読み取ったらしい。


「姫さま、彼らの出身が分かるんですか?」


 テアロマは首を振った。


「私の『水晶の舌』でも、直接手を触れて力を使わないと、詳しいことは分かりません。でも、彼らの血筋は、この辺りの人間でも、妖精族でもないようでした」


 ケイは、自分が男だと姫にばれたときのことを思い出しながら、通路の暗闇を見つめた。彼ら謎の騎士たちの姿は、もう、闘技場の方角に消えていた。


 その後、ケイは、彼らもこのトーナメントに出場している魔剣士だと知った。彼らは、この騒動の直後に自分たちの試合に出場し、相手を全員惨殺して圧勝していたのだ。


 闘技場の係員に対して狼藉ろうぜきを働いたにも関わらず、彼らに対するとがめは、一切なかった。それが、人命よりも、多額の現金が賭けられた試合の成立の方が重要であるという、この闘技場を支配している冷徹なルールだった。




 「これより、滅魔暦11793年度、春の花冠トーナメント1部、準決勝の第1試合を執り行う! 出場者、入場!」


 ケイは、腕の操縦桿を押して、〈エントーマβ〉の手に剣をつかませた。闘技場のフィールドへ通じる鋼鉄製の扉が、開閉機構を軋ませながらゆっくりと開く。ヴェルデンの春の空は、今日もよく晴れていた。その朝の光に照らされ、まぶしく輝く地面へ向けて、ペダルを踏み込む。〈エントーマβ〉の鋼の脚は、整備士たちの努力によって、この日も変わらず滑らかな駆動を見せた。殺気立った歓声が、伝声管からケイの耳に届く。それに、少しだけ慣れた、と感じた。


 ケイたちの「イクスファウナ王国近衛戦列騎士団」は、幾つかの試合を勝利し、ついに準決勝まで勝ち上がっていた。シオンとその友人の尽力にもかかわらず、ついに、代理の魔剣士を雇うことはできなかった。ケイは結局、アンドリューが指名された試合以外は、その全てに出場し、鋼と血のフィールドに、その細い身体をさらす羽目になったのだ。


(まったくどうかしてる! 一瞬で、くちゃくちゃ噛んでから吐き捨てたすじ肉みたいな死体になるかもしれないってのに! どうして、僕は、ここに立っていられるんだ? ……やはり、カードの呪いの力は、真実なのか?)


 覚悟などという、研ぎ上げた刃のような心構えとは、程遠い。それは分かっていた。ケイには、自分が今、高揚しているという自覚はあった。その昂ぶりは、この数百馬力の鋼の巨人を操る力を得たことによるのか、それとも、テアロマ姫のあの眼差しを忘れられないからなのか。それは、いくら自分の心の中を整理しようとしても、ついに分からなかった。


(血まみれの残酷とともに勝者と敗者が決するこのフィールド、敵はその中で長年戦い抜いてきたんだ……でも、ちっぽけな、この自分の意地を捨てることもできない……何だ、この感情は? それでも、退けない!)


 ケイは、あのバンダナの少年の勇敢なまなざしと、破壊された彼の機体の装甲の、輝く破断面を思い出した。闘技場では、その死すら、すぐに勇者の物語になり、そしてすぐに忘れ去られていた。


(「英雄の時代」かよ……くそっ!)


 いままで戦った強敵の、勇敢な言葉や構えの背後には、計り知れない「歴史」が、虐殺と栄光の重なり合った「闘技場の文化」があった。勇者同士がその生命と名声の全てを賭けて殺し合い、血にまみれた死すらほまれと言い成す「英雄の物語」……それは、自分自身を「凡人」と規定する彼にとっては、まったく縁のない、完全な別世界のものだったはずだ。


(とにかくだ、あと二つ、あと二つ勝てばいいんだ! 僕にできることは、しょせん限られてる。今まで同様、師匠とアンドリューさんが相手を倒すまで、時間を稼ぎながら粘る! ここまで来たんだ! それだけなら、僕にもできるんだ!)


 観客席から響く歓声は、ケイの耳には、ほんの少しだけ、他の試合とはトーンが違うように聞こえた。どうやら、イクスファウナ王国の内紛に関する情報が、観客たちにも浸透しつつあるようだ。心なしか、貴族用の桟敷席に見える人影も、自分たちの試合のときだけ多いようにも思える。各国の外交官や貴族たちも、この試合に注目しているのかもしれない。


(闘技場のトーナメントは、ただの賭け試合ではなく、国家間の示威や駆け引き、戦争の前段階だってことか……)


 ペリスコープの視野に映る対戦相手――「パルムネドウ機械化傭兵団」の機体は、3機全てがあの〈アルカンデュラッへ〉と同じ、〈メテオール〉系のエンドスケルトンだった。腕に自信のある傭兵や騎士が好むという強力な最新鋭の機体で、「斬撃を放つ瞬間の最大出力」を重視した、大剣やハンマーなどの重い武器を振り回すのに向いた設計だということだった。その代わり、操縦の難易度は高いらしい。


(なるほど、全員、重そうな武器を装備してる。こっちは軽量級だ、まともに攻撃を受けたらひとたまりもないぞ)


 ケイは、目の前のシオン機の、青い装甲を見つめた。こちらの〈エントーマβ〉の機体は、どう見ても敵機より一回りは小さい。


(まあ、僕が習ったのもそうだけど、師匠の剣術は、素早い踏み込みで相手の急所を貫くような戦い方だからなあ。機体は軽量で素早い方が、自分には合ってるって言ってたけど)


 シオンが王宮にいたころに乗っていた〈HMG(Her Majesty's Geared mail)雪風〉という名の特別製の機体は、近代化改修のために解体されている最中で、この試合には間に合わなかった。しかし、シオンの〈エントーマβ〉に対する評価は、非常に高かった。ケイは、その機体性能への信頼を、そして自分の剣の師匠の天才的な剣技を、精神的なたのみとするしかなかったのだ。


「よし! 戦士たちよ! 行くぞ!」


 試合開始のラッパが、高らかに鳴り響く。シオンの裂帛の気合とともに、ケイも足のペダルを踏み込み、闘技場の地面を蹴って前に出た。敵の3機も、複雑な機動を見せつつ迫ってくる。


(ん? 何だ? こいつは、僕を最初から狙ってきた……?)


 拍車滑走スパーグライドでケイの左側に回りこんできた敵機は、無塗装の鋼の色の装甲で、頭部に何か動物の毛でできた、赤い房飾りを付けていた。盾はなく、身幅の広い、分厚い大剣を両手で持っている。それは剣と言うよりも、巨大な建築物でも支えられるほどの、太い鉄の柱を振り回しているかのようだ。ゆるりとした速度の車輪走行から、脚部を素早く変形させて歩行戦闘フットコンバットモードに戻り、大剣をケイの機体に向かって構えた。


 その機動は、最初からこちらだけを標的にしていた。そんな気配を感じたのだ。


「さあて、面倒だ! とっとと終われい、ヒヨッコ!」


 ペリスコープの視界に、鋼色の反射の残像だけが残った。


 ケイが相手の動作を認識する前に、身体の骨がきしむほどの衝撃が左から襲った。盾で何とかそれを防いだ、と思ったときには、もう第二撃が下から突き上げてきていた。顎の下に迫る黒い鋼の刃を、身体をそらしてぎりぎりでかわす。〈エントーマβ〉は、彼の反射的な動作に機敏に反応し、のけ反りながらも後に飛びのいていた。2、3歩ほどよろめいてから、地面を鋼の足で砕きつつ、ようやく踏みとどまる。


(何て重い攻撃だ! まるで、殺意の塊だ!)


 その破壊と殺傷の意志は、装甲と駆動系を通してケイの肉体を揺さぶり、筋骨から力を奪った。情けなく震える脚に必死で力を込め、少し開いた間合いから、ケイは相手の機体をにらみ付けた。敵機の頭部装甲には、ペリスコープ用のレンズが、たった一つしかなかった。そのオレンジ色の大きな一つ目が、ぎらぎらと発光してこちらを凝視している。


「ほう、いい動きだな、柔軟で素早い。それが、イクスファウナの女王が開発させているとうわさの、新型エンドスケルトンか……」


(間違いない! こいつは、最初から、僕をターゲットにしている!)


 そう思ったとき、ケイは、何かが胸元に落ちるのを感じた。唇の上に、何か違和感がある。


 搭乗服の手袋でそれをぬぐうと、白い革が、べったりと鮮血で染まった。暗い操縦席の中でも、ペリスコープから漏れる光だけで、赤い血の色がはっきり見えた。


(な……何だこれは!? 何で鼻血が出てるんだ? さっきの攻撃は、盾でちゃんと受け止めたんだぞ! 機体の頭部に当たってすらいないはずだ!?)


 ケイは、自分が何をされたのか理解できなかった。呼吸が、急に速くなった。ペリスコープの視野の向こうで、敵機のオレンジ色の単眼が発光している。そのレンズから、落ち着き払ったような、男の声が響いた。


「さて、鼻血くらい出たかね? 戦列機に乗り始めてひと月足らずのヒヨッコ君?」


「な……何!?」


 声を上げてしまってから、しまったと思った。骨盤の底、尻の辺りから、筋肉の震えが始まるのが分かった。自分の身体が、冷たく冷えながら縮む感覚がする。


 それは、肉体そのものを直接殴られたときの、どうしようもない暴力で打ちのめされたときの、本能的な恐怖だった。


(僕は、いったい何をされたんだ!? 盾で確実に受けたはずなのに……これは、師匠が言ってた……機旋技の『重壊殴術ショックウェーブ・クラッシュ』って奴なのか? 装甲の上から衝撃波を貫通させ、相手の内部メカニズムや、乗っている人間の肉体を破壊できるとかいう……ヒヨッコって……僕のことを調べてきてるのか、まだろくな経験もない初心者だって!)


 ケイは、操縦桿をつかむ自分の指が、冷たくこわばるのを感じた。もはや、分厚い鋼の装甲に包まれているという安心感は、粉々になって吹っ飛んでいた。


 子供のころ、村の年上の悪ガキたちに囲まれ、一方的に殴られたときの記憶が、身体の中から噴き出してきた。妖精族との混血で非力なため、逃げることも抵抗することもできず、ただ殴られ、蹴り倒され、起き上がってまた殴られ続けた、あの恐怖とくやしさと悲しみが、胸の中の空間をいっぱいに満たす。


 本能的に、身体が操縦装置の中でよじれ、その場から少しでも遠ざかろうと動いた。


 ビュン、と、〈エントーマβ〉の駆動系が、鋭い高音を奏でた。ケイはその瞬間、自分の脆弱な肉体の周囲を包む、精密無比の金属部品の集合体を、数百馬力のパワーを伝えて動く、歯車とばねの巨体を、確かに感じ取った。少しだけ、筋肉のこわばりが緩んだ気がした。


(落ち着け! 相手の気力に呑まれちゃダメだ!)


 ケイは、油断なく相手の一つ目を見つめながら、視野の片隅に映るシオンの戦闘をうかがった。青い〈エントーマβ〉は、手にした長い両手剣で攻撃を繰り出していたが、相手の機体は両手に小さめの盾を付けた重装甲で、その斬撃の全てをひたすら受け流していた。どうやら、関節部分にも装甲カバーが付けられているらしく、シオンの正確な切っ先が幾度も関節を捉えるものの、駆動系を切断できずにいるらしい。


(そうか、そういうことか……僕たちの作戦と同じだ。相手は、師匠の攻撃を重装甲型が引き受けて耐え、その間に僕かアンドリューさんを倒してしまって、3対2に持ち込むつもりなんだ!)


 つまり、目の前にいる無塗装一つ目は、ケイならばすぐに倒せる、と最初から意識してきているということだ。そう考えた途端、彼の身体に、あの奇妙な硬直がよみがえった。背筋と肩の筋肉が、重苦しくよどんだように固くなり、顔が熱く充血するのを感じた。


 それは、怒りだと、ケイ・ボルガは自覚した。


(最初から、僕だけを狙って、すぐに倒す作戦か! 僕がずぶの素人だって知ってて、狙ってきてるってことか! そうかよ、だけどな、そんなに早く倒れてやるものかよ! 粘ってやる! 1分でも、1秒でも、長くこの場に立っていてやるぞ!)


 存在を軽んじられるほど、弱く臆病な自分。その自覚が怒りとなり、力を奪われた筋骨の代わりに、何とかケイの身体を支えた。もちろん、相手の作戦も、ケイが一番弱いという判断も、合理的で正しいとは分かっていた。だが、彼は今、あえてその怒りを自分の意志とし、その筋肉の硬直で自分の背骨を真っすぐに立て直そうとして、燃え上がる感情に身を任せた。


 ケイは、脚部の操縦装置のスリッパ状のペダルから足を抜き、そのすぐ上にあるフットレバーに足を掛け、そのまま踏み込んだ。がくんという衝撃とともに〈エントーマβ〉の脚部が変形し、足首が車輪に置き換わる。車輪の回転する反動で後に倒れ込まないよう、姿勢を低く、前のめりにし、顔面が地面に近づくほどに、深く低く姿勢を保った。〈エントーマβ〉は、車輪の回転によって高速走行を始めた。ペリスコープの視野いっぱいにフィールドの砂地が迫り、まるで地面すれすれの空中を飛んでいるかのようだ。


 そのまま、両脚の操縦装置にかける体重を加減し、タイヤのグリップを意識しながら、相手の機体から一定の距離を保ちつつ旋回した。ちょうど、貴族たちがやる、細長い板を足に付けて雪の上をすべる遊び――スキーなどのスポーツのような動きだ。腰にかかる強烈な遠心力に吹っ飛ばされないよう、旋回の描く円弧の中心へと、身体全体を倒して抵抗する。高速で走る地面が、自分の頬の横をこすっていくように見える。歯車機構の強靭な脚が、さほどの負担も感じさせずにカーブに耐える。


 そしてその旋回のさなかに、アンドリューと戦っている敵機の背中を、ちらりと見る気配を見せた。


(よし、そうだ! お前はこれを無視できない!)


 敵機は最初、ケイを追う気配を見せなかったが、味方の背中が脅威に晒されていると感じた途端、拍車滑走モードに変形して猛然とダッシュしてきた。すぐに、ケイの目前に、金属色の巨体が迫る。素早く歩行モードに戻って足を踏ん張り、盾と剣を構えて敵の突撃に備える。その刹那だった。


 敵機の一つ目が光ったと思った瞬間、その姿は、視界から消えていた。


(ぐっ……! しまった!)


 背後に土ぼこりの爆発を残して、敵機はその全身の質量で、〈エントーマβ〉の腹部にタックルを仕掛けていた。拍車滑走の速度を殺さずに素早く脚部を変形させ、そのまま地面を蹴って、車輪走行の運動エネルギーを乗せた強烈な体当たりをかましてきたのだ。鉄塊同士が激突する轟音の中、ケイのか細い肉体は、操縦装置の中で金属の部品に打ち付けられ、加速度に内臓が揺さぶられた。吐き気がし、口の中に鉄のいやな味がする。四肢トランスミッションのフライホイールがなけなしの運動エネルギーを吐き出し、四つの回転計の針が狂ったように動くのが見えた。


 ペリスコープの視野のすぐ目の前で、敵機のオレンジ色の一つ目が、あざ笑うかのように光を放っていた。


(これは、機旋技の一つ、『拍車走衝術スパーグライド・インパクト』って奴か……駆動系全体が軋んでいる……敵機のパワーに当たり負けしているのか?)


 敵の機体は、〈エントーマβ〉よりも駆動系の剛性が高いらしい。ケイは、その当たりの強さに圧倒され、恐怖した。


「ハハハ! 歪め! 軋め! オイルを無様に吐き散らしながら地に崩れ落ちろ!」


 ケイはまた、素早く後に飛びのいて間合いを取った。その跳躍の動作は、いつもと同じく精密で、駆動音にも操縦装置の手応えにも、異常は感じられない。四肢のフライホイールの状態もちゃんとマネージメントできていて、回転数が下がり過ぎて「息切れ」してはいなかった。


(まだだ! まだ大丈夫だ! 機体の状態は、当たり負けしているようでも損傷はしていない!)


 ケイは今、自分があと、あと少しだけ、この戦場に立っていられる、と信じることができた。それは、この〈エントーマβ〉の持つ、新世代ともいうべき革新的な特性を、ようやく理解できた、ということだった。敵機の恐るべき攻撃を受け続けることで、彼はその特性を、はっきりと実感し、身体で認識することができたのだ。


(コロネットさんや師匠が言ってたとおりだ。この〈エントーマβ〉は、すごいんだ)


 ケイは、シオンに何年も習ってきた、自分の剣術の構えに転じた。姿勢を低く、小さく構え、盾を前に突き出し、自分の身体の陰に右腕と剣を隠して、相手から見えないようにする。その構えに、相手は少しだけ、戸惑いを見せたようだった。


「小僧が、そう来るか……その構え、イクスファウナの古式剣術、桜花水明流と見たがいかに?」


 一つ目を輝かせる敵機の中から、野太い声が響いた。ケイは、そうだ、とだけ答えた。


「その流派は聞いたことがある……体格の劣る妖精族や女性のための『弱者の剣法』だな」


(そうさ! そのとおり! いいぞ、こっちを弱者と侮ってくれよ!)


 しかし相手は、ケイの「持ち札」を、正確に言い当ててきた。


「しかし、油断せぬ! 侮らぬ! その機体の特長は、過重打撃の技にも耐えうる柔軟性とスピードと見た! それは、貴様のその剣法に合っていよう。なればこそ、全力で叩き潰す!」


(油断しなくても、せめて考えてくれれば時間稼ぎになったのに!)


 あらためて、ケイは相手を強敵だと認識した。機体も強力なら、乗り手の魔剣士のその精神にも、一分の隙も驕りもない。敵を構成する要素の全てが、精密な鋼の部品のようにがっちりと隙なく組み上がった、恐るべき戦闘機械だった。


「心意の悉くを先んじて滅潰す!」


「! ……そうか、その文句、西方の『ディメンス流突撃剣術』! 機械のための剣術ってことかよ!」


 それは、西方の剣士たちが独自に編み出したという、「先制攻撃で相手の機先を制する」ことだけを、極端に重視する剣術だった。相手の闘志、剣を抜くその意識、戦闘を開始しようとするその心構え、それら全てを「先制の一撃」でことごとく潰す、というのが極意とされているが、その初撃をかわされた場合には、当然危険にさらされる。しかし、生身では無謀な戦術でも、戦列機であれば、鋼の装甲や拍車滑走の速度に頼ってしのぐこともできた。それゆえ、この突撃剣術は、戦列機の時代にあってさらなる無謀へと進化し、機旋技とも融合して発展しているといううわさだった。


 自らの剣術の極意を示す言葉と共に、一つ目の敵機は、精密にして高速の斬撃をケイの頭上に振り下ろしてきた。腰を落とした姿勢のままで、その強烈な攻撃を、2度、3度とかわし、盾と剣で受け流す。生身の肉体だったら、こんな低い姿勢で素早くステップを踏むことなどできないはずだが、戦列機のパワーはそれを可能としていた。〈エントーマβ〉の腰や背中のばねは力強く体幹を安定させ、しかも柔軟に衝撃を受け流している。


(コロネットさんが自慢してたな。この機体の背中や腰のダンパーは、柔軟かつ粘り強い収縮特性を持った、高価な特注品だって。それが、ちゃんと感覚で分かるよ、駆動系の挙動を把握できる。重たい盾や武器に振り回されても、下半身も背筋も安定してる)


「何だこいつは!? おかしな手応えだ……並みの機体ならもう、駆動系が破壊されているはずだ!」


 敵機の魔剣士は、ほんの少しだけだが、焦りを見せていた。ケイは、自機の胴体の陰に隠した右腕と剣の気配で、相手の意識を牽制するように、わずかに攻撃のきざしを見せた。相手のエンドスケルトンから響く駆動音とばねの軋みが、微妙に変化する。自分の構えが、少しは相手を戸惑わせている、と感じた。


(そう……普通の機体だったら、これだけの衝撃を受けたら、装甲を破られなくても中の歯車がたないところだろう。でも、この〈エントーマβ〉は、違うんだ。最初の重壊殴術も、この機体の柔軟性のおかげで、威力ががれて助かった……)


 ペリスコープの視野に、シオンとアンドリューの猛攻がちらりと映った。おそらく、ケイの窮状を認識して、急いで敵を倒そうとしているのだろう。


(この機体には、鉄塊のごとき大剣を振り回し、相手を力任せに打ち砕くパワーはない。柔軟性のために、あえてそれは、設計から切り捨てているんだ)


 敵機が、足の裏で踏みつけるようなキックを放ってきた。ケイは落ち着いて、ステップを踏んで後退してかわした。スパイクのある鋼の足が、フィールドの地面を深くえぐる。


(敵の攻撃を身じろぎもせず受け止め、一瞬で反撃に転じるだけの、分厚い装甲もない)


 敵の魔剣士は、本当に優れた戦士だった。その操縦には隙がなく、強力な機体のパワーを正確に集中させて、大剣の斬撃に乗せている。


 だが、味方が先に倒されるかもしれないという焦りが、ケイの粘りが生み出した予定外の時間消費が、ほんの少しだけ、その動きに狂いを生じさせた。


 それが、次の攻撃の予備動作を、必要以上に大振りにした。


 ケイは、それを、その瞬間を、待っていた!


(あるのはただ、操縦性だけだ。ただし、過去のあらゆる機体とは別次元の、正確無比の操縦性だ。剣士の肉体の持つ攻撃力の全てをトレースし、その技を正確に、柔軟に、機械の動きとして再現する……恐るべき、研ぎ上げられた刃のような運動性能!)


 敵機は、両手で持った巨大な剣を大きく振りかぶり、必殺の一撃を準備している。その持ち上がった腕の下、相手の脇の下の、一瞬だけの、狭小の空間と時間。


 ケイは、その中に、入れる、と感じた。


「こいつなら、こういう動きもできる!」


 ケイの肉体の躍動に正確に追従して、〈エントーマβ〉の白い機体は、敵機の振りかぶった大剣の下を、しなやかにくぐり抜ける。そのまま、敵機の、むき出しになった脇の下の駆動系を、思い切り剣でなぎ払った!


 ピーンという陶磁器が割れたような高い音が響き、からんと部品が落ちた。相手の腕が、腱を切られたかのように駆動力を失って、だらりと下がる。ドスンと鈍い音を立てて、重そうな剣が地面に落ち、土ぼこりを舞い上げた。


(『相手が鎧を着込んでいるときは、首筋、挙げた腕の脇の下か、手首や肘の裏側、もしくは太腿を狙え』と師匠には教えられたが、戦列機相手でもそれは有効だな。どうしても装甲で覆いきれない、メカニズムが露出する箇所ができる)


 敵機の右腕は、その肩から、完全に駆動力と制御を失っていた。よく聞くと、中の魔剣士が操縦桿を必死で動かす音が、かすかに聞こえてくる。そのままよろけ、鋼鉄の巨体が地面を揺らして膝をついた。パワーのかかった状態で急に駆動系を切断されたためか、右腕以外の部分もどこか故障してしまったらしい。


(勝った……信じられないことだが、この相手に、勝った!)


 まだ油断はできないと分かっていたが、糸が切れたように限界が来て、肉体と精神の緊張がゆるんだ。全身が汗に冷え、筋肉がかちかちにこわばっているのを感じた。


 ケイは、自分がここまで立っていられたのは、あえて底の浅い怒りに身を任せたからだ、と自覚していた。だが、その幼稚なプライドですら、それを自覚していて身を委ねたということすら、自分自身の力だ、と思った。


「どうだ……こんな女みたいな僕でも、か細い肉と骨の、スープを取った後のガラのような自分の肉体と精神の、全てを使い切って、最後まで自分を支えたぞ! チンケな安っぽい怒りでも……身体を支えることはできる……そうさ、くだらない意地でも何でも、骨の一本になれば、それでいいんだよっ!」


 ケイは、鼻血が飛び散って少し汚れたペリスコープの視野を、もう一度見た。汗みずくでふらふらになりながらも、この闘技場の砂の上に鋼の脚で立っているのは、確かに自分だった。敗北して地に伏しているのは、あの一つ目の敵機だった。


 ケイは機体の頭部を回して、ペリスコープの視野にシオンの青い機体を捉えた。拍車滑走からの鋭い突撃で、シオン機の長剣の切先が、敵機の左腕の脇の下を貫くのが見えた。


(師匠の技なら、そこで止まって……)


 普通の剣士であれば、その剣は勢いに任せて、そのまま深く敵機の駆動系をえぐっていただろう。だが、シオン機は、鋭いステップと腰の動きで急制動を掛け、必要以上に深く剣が刺さるのを止めた。そのまま流れるような斬撃で、敵機の伸びた右手首をなぎ払う。武器を持ったままで、鋼の手首が宙を舞った。圧送されている潤滑油が、動脈出血のような勢いで腕の切断面から噴出する。


「……こちらの負けだ! 我が傭兵団は、降伏する!」


 ケイの目の前の一つ目から、降伏の宣言が響く。どうやらこの機体が、チームの代表だったらしい。


 気が付くと、シオンの青い機体が、ケイに向かって手を挙げていた。アンドリューも、敵を倒し切れなかったようだが、けがはしていないようだ。


 そして、両耳の伝声管から、観客席が崩れ落ちてきたかのような、圧力のある歓声が響いた。だが、ケイは、その声を聞かなかった。音圧を機体の装甲で受け流しつつ、彼は闘技場の、ささやかな地面の上に、しっかりと立っていた。


 それから、観客席の下の整備場に、手を振るテアロマの小さな姿を見つけた。




 「私の年齢? 卵から孵化してからの経過年数か? それなら、5歳だが?」


 夕食後、宿舎の食堂のテーブルを拭きながら、何気なくアンドリューの年齢を尋ねたケイ・ボルガは、その予想範囲からあまりに外れた数値に、絶句した。料理用ストーブの前で片付けをしていたテアロマが、ケイの様子を見て、少し笑った。


「本当みたいですよ。私たち人間とは、成長の仕組み自体が違うようですね」


「な……5歳って、いったいどういうことですか?」


 ケイの質問に、アンドリューは、昆虫人の成長過程についての生物学的な講義を始めた。


「我々昆虫人は、幼虫の時期には、知能はない。幼虫にも脳はあるが、その大半は未熟な神経細胞で占められた原基であり、規則正しい、しかし単純な構造をしている。これが『神脳』システムの、いわば情報の置き場所、君たちの使う図書館や書庫の役割を果たしているのだが、自分の人格や意識はないのだよ。幼虫の間は、ただ成虫から世話をされて、本能のままに食べ続け、成長に専念するのだ。脱皮を繰り返し、1年ほどで終齢幼虫になる」


「ああそうか、僕たちの世界のカブトムシとか、蛹を経て『完全変態』するタイプの昆虫も、そうでしたね。幼虫の間は食べて成長するだけの単純な造りで、成虫になってから複雑な機能を持つ身体になる」


 ケイは、村の学校で習った生物学の知識を思い出した。


「そのとおりだ。それから蛹化して蛹になり、その中で成虫の身体を形成するのだが、このとき、脳の原基は急速に後胚発生し、複雑なスラブ構造をなして成虫の脳が完成する。そして、この魔力検知器官を通じて、他の個体から、大量の記憶がコピーされるのだよ。だから、私たちは、蛹から羽化して成虫になったときには、既に完成された人格を持っているのだ」


 ケイは驚きをもって、アンドリューの額に輝く青い「魔力検知器官」を見つめた。


(卵から生まれて1年ちょっとでもう大人とは! そんな能力を持つ生物に、人間がかなうわけがないなあ……『人間こそが神に似せて作られた最高の生物』とか言ってる、アイシェル教会の連中とか、昆虫人を見たら気絶するんじゃないか?)


 アンドリューは、精密な金属製の武器のような角を振り立てた。


「私の一番古い記憶は、蛹の外皮の中で、自分の肉体が形成されつつある、という感覚だった。その後、『神脳』から他の成虫の記憶、経験が流れ込んできて、ほんの数ヵ月の間に、数百年分の時間を体験した。そして、身体の中に『羽化しなければ!』という本能的衝動が満ちたとき、私の生命が始まったのだ」


 テアロマは、アンドリューのために作った特別製の――砂糖たっぷりの、カブトムシのえさのようなホットワインをジョッキに注いで、彼の前に置いた。


「ふふ、哺乳類とは……人間とは、成長の速度が全然違うのね。人間は、むしろ脳が学習する時間を稼ぐために、あえて成長を遅くしてるような生物ですから。犬とか馬とかも、人間よりずっと早く大人になるでしょ?」


(なるほど……物心付いたときにはもう人格が完成しているっていうのは、どんな気持ちなんだろう?)


 テアロマのその言葉を聞いたアンドリューが、珍しく不思議そうな口調を使って尋ねた。


「哺乳類特有の成長速度といえば、君の最近の成長も目覚しいものがあるではないか!?」


 そして、板金鎧の篭手のような手で、青いエプロンドレスに包まれたテアロマの胸部を、遠慮も躊躇もなくびしりと指さした。


「そう、この部分だ! ここ数年で胸囲90センチにまで拡大したぞ! 身長はあまり伸びていないが」


「余計なお世話よ! 何でサイズまで知ってるの!」


 テアロマは、耳まで真っ赤になって、アンドリューの性的いやがらせに抗議した。しかしアンドリューはさらに、好奇心を隠さず質問を続けた。


「恥ずかしがる必要はないのではないか? 君のその乳房は、身長の割には非常に大きく成長している。そのアンバランスな体型を利用して、オスにアピールすればいいだろう」


 テアロマは、あまりの恥辱に意識が遠のいたのか、少しよろめいた。


「ななななな……言うに事欠いて、あんばらんすとは何事かっ!」


「事欠いてはいない。156の言語表現の候補から、君の体型を表現するのに最適と思われる言葉を選んだのだ」


「最適じゃなーい!」


(あんばらんす……実にナイスな表現だ!)


 ケイは、心の中で、この昆虫人の言語能力に賛辞を送った。すると、アンドリューが、今度は彼に質問を向けてきた。


「……生殖のためのアピール、クジャクの羽根と同じことだよ。そうだ、ケイ・ボルガよ、人間のオスは、メスの乳房の大きさを、交尾する相手を選ぶときの基準としていると聞いたのだが? 真の乳マニアであれば、乳首の形状で1時間、乳輪の大きさや色つやで2時間、全体の形状や大きさ、張り、さらには揺れ具合で3時間は語り合えるものだと、私の知人が教えてくれたぞ」


「まあ確かに、乳についてならそれくらいは軽く語れるが……じゃないよ! それ誰から聞いたんですか?! その知人は変態か!」


 ふと気が付くと、テアロマがあんばらんすな胸を腕で隠しながら、むーと唸りつつケイをにらんでいる。


(うっ……このままだと、『ノゾキさん』に加えて、新たな官職名を与えられてしまう……)


 アンドリューは、また額から青い光を放っていた。この会話も、きっと彼の故郷にいる昆虫人たちの、興味の対象になっているのだろう。


「しかし、人間の生殖行動が研究テーマである私にとっては、ここ最近の状況は実に喜ばしい! 何しろ、宮廷のパーティにも出ず、城に来る貴族の若い男性からも、影を見ただけで逃げてしまうようなこの水晶の姫が、君という男性と毎日会話しているのだ、ケイ・ボルガよ! それどころか、今では、『のぞいたのぞいたもん』などと、自分の性的な魅力が相手に通用していることを、楽しんでいるかのようにすら見える! これこそ、まさに、成長と呼ぶべきものではないかね?」


「へ? 何ですって?」


 ケイは一瞬、この磨いた金属の塊のような巨大カブトムシが、何を言っているのか分からなかった。


 それから、テアロマがエプロンを握りしめたまま、ふるふると震えだしたのに気付いた。白く小さな顔が耳どころか首まで真っ赤になって、黒い瞳が、少し涙に濡れていた。


「ばかあっ! アンドリューのばか! 何で、何でそんなこと言うの……ノゾキさんのいるところで言わなくてもいいじゃない! ばかばか、もうホットワインもフルーツケーキも作ってあげないから!」


 小さな姫君は、そのまま食堂の扉を抜けて、庭へぱたぱたと駆け出してしまった。ケイは後を追おうとしたが、その足は、途中で止まった。それから、背後のアンドリューを振り返った。その昆虫の顔には、当然、何の表情もない。しかし、その黒い複眼が、確かに自分の顔を見つめている、という気がした。


「アンドリューさん……今のはちょっとまずいですよ……」


「なぜだ? 私はただ、テアロマの精神的、肉体的な、異性への反応の変化を、観測された事実として指摘しただけだが? 彼女は『水晶の舌』という特異な能力を持つ個体だ。その成長を記録することは、非常に重要で興味深いテーマなのだ」


「いや……」


 ケイは最初、こんなデリケートな精神的問題を、アンドリューに説明しても無駄だろう、と思った。しかし、カブトムシの角の付け根で、青く輝く炎のようなきらめきを見た瞬間、別の考えが頭に浮かんだ。


(あの青い光……魔力検知器官のテレパシーを通じて、今、アンドリューさんの仲間たち数億人が、僕を見ているのか。つまり、僕は今、人間という種族を代表して、彼ら昆虫人たちの前に立っているということになるんじゃないか? これは、できる限り、ちゃんと答えなければならないんじゃないか?)


 ケイはもう一度、アンドリューの顔を見た。その額に輝く青い炎の向こうに、人間個人の知的能力などはるかに凌駕りょうがする、巨大な知性の塊が、確かに存在していた。


「あのですね、僕たち人間は、その……生殖の相手と結婚したら……子供を作る相手を一度決めたら、死ぬまで、一生を、共に過ごすんです。それは多分、昆虫人と違って、子供が成長して大人になるまで、十数年もの長い時間、面倒を見なければならないからでしょう。だから、その……生殖の相手を見つけて、好意を伝えるのは、自分の人生を賭けた勝負みたいなものなんです。異性に、好きだって伝えるのにも、とても勇気がいる」


 アンドリューは、微動だにせず、金属製の彫像のように立っている。しかし、自分の話を聞いてくれている、とケイは感じた。


「自分の魅力に自信がある人なら、いくらでもチャレンジできるのかもしれません。でも、僕とか、姫さまみたいに、自分の異性への魅力に、自信がない人間もいるんですよ。そういう人にとっては、相手に好意を伝えるのも、とても大きな勇気を出して、それでやっとできるくらいのことなんです。自分の肉体も、精神も、全てを賭けて相手にさらすんですから。だから、どうか、そっと見守ってあげてください。その勇気は、ちょっとしたことですぐに、崩れてしまうんです」


 ケイは、何だか自分のことを語っているような気がしてきて、情けない気持ちになった。アンドリューは、やはりぴくりとも動かない。しかし、その額の中央には、青い炎がゆらめいていた。その光は、今まで見たことがないほど、強く明るく輝き、激しく明滅していた。


 そして、その明滅が、急に止まった。アンドリューの胴体の中から、低く重く響く、オペラ歌手のような美声が聞こえた。


「……真実をありがとう。君たちの種族について、また理解が深まった」


 アンドリューは、巨体を起こして、庭の方へ歩き出した。その歩みは精密機械の動作のように滑らかで、重さすら感じさせない。


「私はテアロマを傷つけてしまったようだ。謝罪せねばなるまい」


 ケイは、大きく息を吐いて、ようやく緊張をほぐした。この、人間とはまるで違う肉体と精神構造を持つ、しかし確かに知性ある存在に、理解してもらえたのだ、と思った。


 アンドリューの背後からゆっくり歩いていくと、テアロマは、庭のオレンジの木の下に立っていた。その柔らかそうな曲線の頬はまだ赤みを帯びていたが、もう、泣いてはいなかった。


「我が水晶の姫よ。済まなかった。どうやら、君たちの生殖行動の重要性について、まだ理解が浅かったようだ」


 テアロマは、下を向いて、細く白い指をそっと伸ばして、アンドリューの硬い外骨格に触れた。


「……こういうことはっ、そのっ、ゆっくりとでないといけないの! だってほら、い、一生の問題になるかもしれないからっ!」


 小さな姫君は、アンドリューの身体に手を触れたままで、ケイの方を見た。そしてすぐに、顔を伏せてしまった。また、頬が赤く染まっているのが、さらさらの黒髪の間からちらりと見えた。


(一生の問題、か……)


 ケイには、自分の人生と、一国の姫君であるテアロマの人生は、一生交わることなどないのだ、とはっきり分かっていた。しかし、今この瞬間、この夜の庭の上でだけ、その二つの流れが、ほんのひととき、優しく触れ合ったような気がした。


 春の夜は、もうずいぶん暖かくなっていた。ケイは夜風の中に、湿り気を含んだ花の香りを感じた。


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