第2章 呪いのレアカード

 僕は主人公じゃない。


 ケイ・ボルガは、仕事着に着替えながら、自室の壁に掛けた小さな鏡に向かってそうつぶやいた。仕事に出る前の、毎日の習慣だ。仕立てのいいシャツに袖を通しながら見つめる鏡の中には、黒い髪を短めに切り揃えた、肌の白い――少女の顔があった。


(まったく……毎日見てるけど、ほんと、男の顔じゃないよなあ……)


 彼にはもちろん、自分が妖精族との混血であり、そのために、15歳になろうかという年齢になっても体つきが男らしくならないのだ、ということは、理屈では分かっていた。だが、捨て子として人間の家に拾われ人間ばかりの村で育ったせいか、どうしても「自分は人間の男性のはずだ」という意識が付きまとう。


(妖精族の中で育ったのなら、こんなことで悩まなくても済んだのかな?)


 そう思ってから、ケイは頭を振って、考えるのをやめた。


(そうだ、この顔は変えようがない。どうしようもない。どうしようもないことは、諦める。僕は主人公じゃないんだ)


 いつものようにそうつぶやきながら、滑らかに光る生地でできた黒いチョッキを着込んで、同じ色の蝶ネクタイを締めた。これはウエーターとは違う、カードゲームのディーラー専用の制服だ。最後に、黒いカードの散らばったベッドから狭い部屋の床までを見回し、石塔のように高く積まれた本と短めの木刀の間から、白い手袋を見つけて、チョッキの胸ポケットに入れた。これで、仕事に出る準備は完了だ。


(そうだ、今日も仕事だ! 物語の主人公じゃない凡人らしく、普通に、平穏無事に、適当に、仕事をするんだ! それで飯が食える! それだけでいいんだ!)


 ケイは、住み込みの雇い人にあてがわれている、倉庫を区切っただけの狭苦しい自室を出た。開店前で、店の廊下にはまだ明かりはともっておらず、窓がないところは暗い。そのまま廊下を通り抜け、2階から1階へと階段を下り、掃除用具入れからホウキとちり取り、バケツやモップを拾い上げ、従業員専用のエリアから、客が通る場所に出る。ここからはもう魔法のランプがともっていて、蝋燭とは違う上品な光が、優美な曲線の手すりと、赤い絨毯を照らしていた。


 「おはようございます! 外、掃除してきまーす!」


 人の気配のするカウンターの中へ呼び掛けてから、ガラス張りのしゃれた扉を押し開けて、ケイは店外に出た。時刻はもう昼過ぎで、よく晴れた空から、春の柔らかい日差しが店の前を照らしている。


(もう本格的に春だなあ……僕も15歳になるのか……)


 捨て子だから本当はいつ生まれたのかは分からないのだが、ケイは、自分が春生まれだと思うことにしていた。


 大人向けの夜の遊びを提供する店ばかりが並ぶ通りは、まだ静かだった。3階建て、4階建ての、貴族の屋敷と同じ様式の豪華な建物なのに、明るい日差しの中では妙に場違いな姿をさらして、薄汚れて見える。


 夜にはあんなにきれいに輝いて見えるのにな、と思いながら、ケイは自分の担当である、店の前の掃除を始めた。石造りの階段をモップで拭き、馬車を付けるポーチを磨き、馬糞を片付け、最後に店の前の道路を、ホウキできれいに掃く。ホウキで撫でるその道の表面は、土でもなく石畳でもなく、妙に滑らかで、しかし雨でもすべることはない。まるで、野ざらしになった動物の骨のような、奇妙な質感をしていた。


(『竜骨街道ドラグボーン・ハイウェイ』か……これって、何千年も前の古代文明の遺産なんだよなあ。この道の素材は『生きている』そうだけど、本当なのかな?)


 ホウキの先でつついてみても、その白い表面は硬く、動きもしなければものも言わない。


 ケイは掃除の手を止めて、頭を上げて道の向こうを見やった。


 「竜骨街道」と呼ばれるその道は、普通の馬車道などとは明らかにものが違う。複数の大型馬車でもすれ違えるくらい幅のある、全てが舗装された立派な道路だ。市街の中では普通の路地と同じ平面上にあるが、市街地を抜ける辺りからは、地面よりも高いところを走るようになる。そこからは、「竜骨」という名のとおり、生物的な曲線を描く太い柱に支えられた橋になって、巨大な動物の脊椎のように、空中を白く真っすぐに貫いていた。


(この道は、壊れても数週間で元通りに再生するそうだけど……数千年前から存在するってのは、古代の文献からも確かなんだよなあ。現在の人間が造ったものじゃないし、こんなもの、造る技術も今はない)


 ケイは、目を細めて、「竜骨街道」が延びていく南の方を見つめた。それは、どこまでも白く太く、田畑や森の間を抜け、遠くにかすかに見える海岸の岩肌までも続いていた。


(そうか、育った村を出て、『竜骨街道』を南へたどって、このフォトランの街に来てから、もう3年になるんだっけ……)


 この街、交易都市フォトランは、ロム半島に並ぶ独立自由都市群「ロムの妹の首飾り」の中でも、最南端に当たる。「竜骨街道」が通る交通の要であり、すぐ南の「凪の内海」に浮かぶ島国、イクスファウナとの交易の窓口でもあった。半島の気候は温暖で住みやすく、人々の気性はおおらかで、妖精族などの亜人種の人口も多い。


 さまざまな人種と莫大な物資の集まるこの街になら、自分の働き口もあるだろうと、村を飛び出して働きに来たのが、もうずいぶん前のように思えた。


 ケイはふと、3年前に村を出るときに、育ての親や義理の姉に投げつけた言葉を思い出した。そうだ、確か自分は、こう言ったのだ。


「ここがいやだから旅立つんじゃない。こことは違う、何か見たことも聞いたこともないものを見つけに、僕は旅に出るんだ」


 ケイははっと口をつぐんだ。小声だったが、うっかり声に出してしまっていた。


 辺りを見回して、誰にも聞かれていないと確かめる。そのまま、かなたへ続く白い道から目を背け、首を曲げて、足元の奇妙な舗装を見つめた。本来はまぶしいほどに白く輝くはずの、その骨のような表面は、さまざまな夜の街の汚れを吸い込んで、黄色く変色してしまっていた。


 つぐんだ口をそのまま固く結んで、ケイは掃除用具を片付けた。黙って店内に戻り、ホウキやモップを用具入れに放り込む。それから、玄関の脇に置いてある大きな立て看板を引きずり、妖精族との混血の細身にはつらいその重さに耐えて、何とか店の外の定位置に叩き出す。黒塗りの地に夜光塗料で書き付けられた店名が、太陽の光を吸い込んで浮かび上がった。


 〈カード遊びの店 夜と嘘〉


(これで準備完了、今日も平穏、僕は凡人だ! さあ、仕事するぞ!)


 そう思いながら、黒い木材の木組みで白い石壁を飾った、4階建ての建物を見上げた。貴族や学者、裕福な商人までが遊びに来るこの店は、この界隈でもひときわ目立つ、高級店だった。


(田舎から出たばかりでこの店に雇ってもらえたのは、実に運が良かった。それだけで、自分などには十分な幸せだ。これ以上は必要ない。僕は主人公じゃない)


 そのとき、春の暖かい日差しを貫いて、身のすくむような冷たい風が足元を駆け抜けた。


 その不自然な風は、ひと時で収まるどころか、どんどん強くさらに低温になり、足元の汚れた路面が凍結してパキパキと音を立て始める。そして、凍風が吹いてくる背後の方向から、凍りついた路面を踏みしだいて歩む、ザクザクという足音が聞こえてきた。


(やっぱり来たか……まずいなあ、こりゃ、相当怒ってる……)


 ケイには、その凍風を伴う足音の主が誰なのか、顔を見なくても分かっていた。さらに、彼女が怒りの頂点に達しているだろう、ということも、気温の低下ぶりからはっきりしていた。


 だから、これ以上は顔の筋肉が限界だというほどの、最高の営業スマイルを整えながら、振り向きつつさわやかに朝のあいさつを叫んだ。


「師匠、おはようございまひゃうぶっ!」


 迎撃用の営業スマイルは、氷の塊のような冷気の壁に、あっさりと粉砕された。あまりの低温に引きつった顔の筋肉をほぐしながら、凍りついたまつげを何とかこじ開ける。霜の向こうから、不機嫌そうに寄った優美な眉の下からにらみ付ける、深い漆黒の瞳が見えた。


「おはよう、今日はいい陽気じゃのう。もうすっかり春で、ずいぶん暖かくなったわ」


「し、師匠が来た途端に冬に逆戻りしたんですが」


 ケイに、師匠、と呼ばれたのは、金属のように光る奇妙な素材のつなぎに身を包んだ、若い女だった。細身だが、鍛え上げられた肉体と、隙のない身のこなしは、まるで研ぎ澄まされた刃物のようで、誰の目にもただ者ではないと分かる。腰まであるつややかな黒髪を額の上できれいに切りそろえ、その整った美しい顔立ちまでも、全てが隙一つなく完璧だった。ただ、長いまつげに飾られた目元の辺りにだけ、何となくゆるんだ、幼さを感じさせるような雰囲気があった。


「冬に戻ったのは誰のせいじゃ、この不肖の弟子が! ちょっと顔を貸せ。話がある」


「いや、もう開店の準備中ですよ、仕事しないと……」


「話なら5分で済むわ! 詳しく語る必要などないからのう。己のしでかしたことの詳細くらい、よく分かっておろう?」


 ケイは、仕事の方が優先だ、と言いかけてから、口をつぐんで、師匠と呼んだ女――この店の用心棒、シオン・ベルが背中に担いでいる長剣を見つめた。それは、拵えこそ地味だが、彼女の背丈に近いほどの刃渡りを持つ、反りの深い美しい曲線を描く大太刀だった。頭の左側に突き出した柄から、しゅうしゅうと音を立てて、湯気のような白い冷気が吹き出している。


 この氷の魔剣「風花姫かざはなひめ」は、主の怒りに共鳴しているのだ。


(ダメだこりゃ! この怒りようだと、とてもその場限りの言い逃れでごまかせそうにないな)


 ごまかす、という言葉を頭に浮かべてから、ケイはあらためてシオンの顔を見た。生真面目そうな白い小さな顔が、鋭いのにどこか優しげな目が、揺らぎもせずにこちらを見つめている。


(……これは、ちゃんと話をするしかないか)


 分かりました、とうなずくよりも早く、シオンはかつーん、とかかとの音を響かせ、凍りついた「竜骨街道」の舗装を蹴って、大股で店の玄関へ歩き出した。


(この人、いつも平気で表から入るんだよなあ……従業員は、出勤時は裏口から入れって言われてるのに! いくら腕の立つ用心棒だからって、態度でか過ぎじゃないか?)


 首を振りながら、ケイは玄関から店に入った。途端に、受付のカウンターの中から、40歳すぎの黒ひげの男が飛び出してきて、筋肉質の長身を乗り出してわめき出した。


「ちょっと! あんたら何してんの! もう開店前なのよ、仕事しなさい!」


 オネエ口調のこの男は、このカードゲームの店「夜と嘘」を切り盛りする店長だ。どうやら、店外でのやり取りを聞かれていたらしい、とケイは思った。しかし、シオンはろくに店長の方を見もせず、そのまま奥へ進んでいく。


「大事な話があるのじゃ、このバカ弟子をちと借りるぞ」


「あのね、いくらこの店のオーナーからあんたを預かってるっていってもね、ヒイャッ!」


「話はすぐ済む!!」


 鋭い刃のような冷気をぶつけられてひるんだ店長の横をすり抜け、ケイは仕方なくシオンの後を追った。横目で見た店長の顔は見事に凍結していて、筋骨の発達した濃い顔を縁取る立派な黒ひげが、霜で真っ白になっていた。


(やれやれ、やっぱりただじゃ済みそうにないか……)


 既に2階への階段を上り始めているシオンの、脚から尻へ続く滑らかな曲線を見上げながら、ケイはため息をついた。




 シオンの部屋は、2階でも従業員用の暗い区画ではなく、客がカードゲームをしたり商談をしたりするための部屋が並んだエリアの、一番奥にあった。凄腕の用心棒とはいえ、これはかなりの厚遇だ。ケイには、彼女がなぜそんな特別扱いを受けているのか分からなかった。ただ、客のうわさ話で、貴族の出身だ、とだけ、聞いたことがあった。


「そこへ座れ」


 背中に担いだ魔剣を外して傍らに置き、自分のベッドに腰掛けながら、シオンは不機嫌そうな声で言った。ケイは、ろくに家具もない、女らしさも生活感も欠けた、狭い部屋の中を見回した。小さな木製の椅子を背後に見つけて、それに腰を下ろす。


 シオンは、翡翠色の鞘に包まれた長剣を脚の間に入れ、それに身体ごともたれかかるような姿勢を取った。それが、彼女のいつもの癖なのだ。


 まるで、剣を抱いているかのようだ、とケイは思った。


 剣を抱いた眼前の美女は、小ぶりながらくっきりと盛り上がった胸元にかかった、見事な黒髪を手で払いながら、美しい眉をきゅっと寄せて、ケイをにらみ付けた。


「さて、聞かせてもらおうか、不肖の弟子よ。なぜ、私が持ってきた、騎士の従者になる話を断った?」


(やっぱりそれか……)


 予想どおりの問いだったが、ケイの胃の辺りはぐぐっと縮み上がった。


「な、なぜも何も、そんな話をいきなり持ってこられても、はい分かりましたって言えるわけないでしょ! しかも、先方の使いの人だけいきなり来て、話を勝手に進めた師匠はいなかったじゃないですか! そんなの断るに決まってるでしょ!」


「それについては済まなかったと思うておる。何しろ急な仕事が入ったものでな。しかし、せっかくのいい話を、にべもなく断ることもなかろう?」


 シオンは、自信に満ちた口調でゆっくりと言った。ケイは、その態度に腹が立ってきた。まるで母親か姉みたいに、自分がお前の人生に干渉するのは当たり前だ、という顔だ。


 それは1週間ほど前のことだった。店にいきなり使いの者が来て、ケイがとある騎士の屋敷に奉公することになっている、という話を始めたのだ。事前に何も聞かされていなかった彼は、戸惑いと、勝手に話を進めたシオンへの苛立ちもあって、使者を追い返すかのように失礼な断り方をしてしまったのである。


「この話は、貴族の屋敷に奉公するだけではない、将来のために、上級の学校で学問を修めさせてくれるというのだぞ。破格の待遇であろう! おぬしは、読書や勉強は嫌いではなかろうが?」


 破格の待遇、というのは、確かにシオンの言うとおりだった。そもそも、貴族の子女でもない者が、騎士の従者になったり、大学へ行ったりできるなど、普通ではない話だ。相当なコネか、あるいは金の力でもない限り、庶民には足を踏み入れることのできない世界だった。


(そりゃあ、苦労して取ってきてくれた奉公話なんでしょうが……大学かあ、どんな勉強ができるんだろう?)


 ケイはそう思いつつ、いやいや、と心の中で首を振った。


(勘違いするな、僕は凡人だ、モブだ、脇役だ。主人公じゃない)


 ケイは、ベッドに腰掛けてこちらを見据えているシオンの肢体を見つめた。引き締まってはいるが、その身体は決して武骨ではなく、女性らしい柔らかみを持った曲線を描いている。しかし、その筋骨は鋼のばねのように強靭で、いざとなれば恐るべき速度の斬撃を繰り出せることを、彼は知っていた。


 氷の魔剣を持つ「魔剣士」として、彼女は有名だった。この店の用心棒だけではなく、さまざまな依頼を引き受けて危険な任務に挑む、冒険者と呼ばれる仕事もしているのだ。


(そうだよ、主人公ってのは、こういう特別な人の領分だ。僕なんかとは違う)


 ケイは唇をなめてから、反撃を開始した。


「とにかく、勝手に他人の人生を決めないでくれます? 師匠には、確かに剣術を教えてくれとは言いましたが、それは護身術くらいのことです。人生の全てを賭けて剣の道に進もうってことじゃない。あなたに、僕の人生に干渉する権利はないでしょう?」


 シオンの、朝のあいさつからずっと寄りっぱなしの眉が、さらに角度を深くした。


「師匠として、不肖の弟子に、未来の可能性を拓いてやっておるのじゃ! 何が悪い! おぬしは、農村出身ながら読み書きそろばんもできるし、頭もいいではないか。なぜ、自らを試そうとしない? やれるかどうか、やってみなければ分かるまいが?」


「それは、あなたの勘違いですよ」


「何じゃと?」


 シオンが抱きかかえるようにしている魔剣からの冷気が、さらに濃く硬くなり、ケイの足首を冷たい指先でつかんだ。ケイは、負けるものか、と顔を上げて、シオンの顔を見た。その目は、魔剣の凍結の力とは全く逆の、熱を帯びた感情を湛えて、深く濡れて見えた。


「2年前の約束は、そういうことじゃなかったはずです!」


 ケイがシオンに弟子入りしたのは2年ほど前。その際に、剣術を教えてもらう代価として「彼女が留守中の間、荷物や部屋の管理をすること。また、留守中に来た、冒険者としての仕事の依頼者の受付や、依頼を台帳に整理すること」を引き受けていた。


 それゆえ、彼の感覚としては「ギブアンドテイクなのだから、護身術レベルの剣術だけ教えてくれればいい」というところだった。なのに、シオンはまるで母親気取りであれこれ生活に口出ししてくるようになり、挙句の果てには勝手に自分の将来を決定するような真似をしてきたのだ。


「とにかく、僕は今の自分に満足し切っているんです! この店で、カードゲームのディーラーとして、ちゃんと仕事をして給料をもらってる。他人のあなたに干渉されたくないです!」


 他人の、と口にした途端、魔剣の冷気が、まるで意思を持った生き物のように波打った。


 ケイは思わず身をすくめたが、刃物のようだった冷気はなぜか鋭さを失い、すぐに足元から引いていく。急に上がった気温にむずむずしながら、シオンの顔を恐る恐る見ると、眉の角度が水平に戻っていた。目を伏せて、静かになったその表情は、まるで叱られた子供のようにも見える。


 そのまま、二人とも無言になった。ケイは、この人はまだ20歳ちょっとだったな、と思い出した。


 彼女は、何だかさみしげな表情のまま、ぽつりと一言だけ口にした。


「なぜ、そこまでいやがる?」


 ケイは、なぜか、自分が悪いことをしている子供のような気分になってきた。だから、常日頃から心の中で思っていることを、つい口にしてしまった。


「僕は、凡人です。あなたみたいな、特別な能力を持った人間じゃない。凡人は、凡人らしく、自分の限界をわきまえて、できることだけやるもんです。挑戦とか可能性とかは、あなたのような、主人公な人にまかせますよ」


 シオンは、剣を抱いた姿勢のままで、ふうっと、柔らかく息を吐いた。女の呼吸だ、とケイは感じた。


「おぬしのやっている、あのカードゲームのディーラーが、そんなにいい仕事か? 人生それだけか?」


「余計なお世話です」


 とにかく、言うだけは言った、とケイは思って、シオンの表情を伺った。彼女は目を伏せて、自分の魔剣の鞘をもじもじ指で撫でながら、投げやりな口調でつぶやいた。


「分かった、もういい」


 ケイはゆっくりと、緊張をため息として吐き出した。


(やれやれ、何とか切り抜けたか。師匠には悪いけど……とにかく、これでまた、凡人の平凡かつ平穏無事な生活に戻れるってもんだ!)


「では、おぬしにやった剣を返してもらおう」


 安心したケイの耳に、気の抜けたようなシオンの声が聞こえてきた。ケイは、一瞬、何のことか、と思ってから、自分の部屋に置いてある、粗末な木刀のことを思い出した。


(何だよけちくさいなあ、ただの練習用の木刀だぞ、あれ)


 そう思いつつ、ケイは剣を取ってこようと、椅子から腰を浮かせかけた。そこへ、相変わらず気の抜けたような、静かな声が響く。


「あー、席を立つ必要はないぞ。そのままそのまま、じっとしておれ」


 そう言いながら、シオンは右手で魔剣の柄をつかみ、左手の親指でぱちんと鯉口を切った。鞘と柄の間に隙間が生まれ、魔剣の刀身がのぞく。


 それは、魔石という特殊で希少な鉱物を、さらに莫大な魔力で磨き上げた、見事な工芸品だった。細身だが、ダイヤモンドよりも硬いという、不壊の刀身だ。氷雪の魔力が結晶したその刃は、透明な中にも青みを帯びていて、まるで北国の雪山の、氷の絶壁から削り出してきたかのように見える。


 この氷の魔剣は、シオンの魂だけに共振し、その内部に秘められた莫大な凍気の魔力を外界に解放するのだ。


「は?」


 ケイには、シオンが何を言っているのか分からなかった。彼女の口調は、淡々としたものから、次第に熱を帯びてきた。


「おぬしには、素手で人を殺せるほどの、危険な技を幾つも教えた。ゆえに、その技が刻まれた腕は、もはや剣そのものじゃ。じゃから、腕ごと返してもらう」


「何ですって?」


「挑戦のない凡人とやらの人生に、剣は必要なかろう?」


 ケイは、魔剣の柄に軽く添えているだけに見える、シオンの手元を見つめた。鞘から刀身がのぞいているのに、先ほどまでとは違って、全く冷気を感じない。


 まるで、シオンの意志が魔剣の力を完全に制御し、その研ぎ澄まされた刃の先にだけ集中させているかのように。


「痛くても暴れるでないぞ。私の『風花姫』は氷の魔剣ゆえに、傷口を一瞬で凍りつかせるが、あまりのたうちまわると、それでも出血して死ぬからのう」


 ケイは、アッと叫びそうになった。ようやく、シオンの言葉と、自分の置かれた状況とがつながりを持ち、くっきりとした一つの絵として脳内に浮かび上がったのだ。


(なんてこった、完全に、必殺の間合いじゃないか!)


 お前の腕を断ち落とす、という宣言をしているシオン。椅子に座って、彼女と相対している自分。家具も少ない、狭い部屋の間取り。それら全てが一つとなり、まるで部屋全体の見取り図を見ているかのように、上から俯瞰で見下ろした光景になる。彼女の魔剣から放たれる斬撃の軌道が、その見取り図の全ての空間を、逃げ場なく埋め尽くしている、と、一瞬のうちにケイは理解した。


(バカか僕は! 罠のかごと気付かず、扉が閉まるまでのんきにエサをかじっていたネズミと同じだ!)


 シオンは、構えてはいなかった。その氷の魔剣を、鞘から抜き放とうともしていなかった。彼女はただ、ベッドに腰掛けて、身体に抱きかかえた剣の柄を軽く撫でているだけに見える。身の丈近くもある長剣ともなれば、抜くのもすぐにはできず、狭い部屋の中で振り回すのも難しいはずだった。


 だが、ケイは知っていた。


(この人には、できるんだ……あの長剣で、抜刀術からの斬撃……狭い場所での立ち回り……普通なら無理だと思うが、そうじゃない! どうやってるのか全然分からないけど、確かに、できるんだ!)


 以前に見たことがあった。酔った客が喧嘩を始め、剣を抜いて店の女に斬りかかったとき、この氷の魔剣士は一瞬で壁際から飛び出し、そのまま踏み込む動作だけで、抜き打ちで相手の手首を斬って武器をはね飛ばしたのだ。ケイは近くで全てを見ていたのに、彼女がいつ剣を抜いて、椅子やテーブルだらけの店内でどう振るったのか、少しも把握することができなかった。ただ、古式抜刀術の「山津波」とかいう技らしい、と、後から聞いただけだ。


 シオンは、今や完全に感情の昂ぶった声で、それを押さえもせずにケイにたたき付けてきていた。


「あのカードゲームであれば、片腕でも問題なくプレイできよう? おぬしが誇りを持っている、そのつまらーん仕事には何の支障もない。ああしかし、右腕がなくなると食事のときナイフが持てなくて困るか。そうじゃ、今後は、左手でまずナイフを使って肉を切ってから、フォークに持ち替えて切った肉を突き刺し、口に運んで食べるようにすればよい! うむ、これは我ながらナイスなアイデアじゃ。今夜の晩ごはんから早速そうせよ」


(本気かよ……!)


 ケイは、言葉で説得して切り抜ける、という考えを、最初から諦めていた。この女魔剣士は、冗談を言うような性格ではないのだ。彼はただ、部屋の空間全てを通り抜けている死の斬撃のラインの間に、くぐり抜けられる活路がないか、それだけを探していた。


(戸口から逃げる……間に合わない! 椅子から立って振り向く前に背中から斬られる! 左右に避けるのも無理だ! ベッドと机がじゃまで間合いを取れない!)


 活路は、どこにもなかった。ケイの肉体が取り得るどの回避動作にも、シオンの魔剣から放たれる切断の軌道が、確実に交差していた。


 そして、その絶望が認識できたのと全く同時に、彼は唯一の可能性を見出していた。


(前だ! 前に出るしかない!)


 ケイは今、最初に驚いて椅子から腰を浮かせかけたときの姿勢で、そのまま固まっていた。そのわずかな前傾姿勢を、シオンに気付かれないように、じわじわと深くしていく。


(回避は捨てる! 避けるも受けるも考えるな! 最短距離で、真っすぐ突っ込むんだ! 相手の抜刀する腕に体当たりして止める……いくら強くても、小柄な女性なんだ! 思い切り身体をぶつけて、そのままベッドへ押し倒せば、剣は抜けないはず!)


 剣の魔力は、鯉口を切った状態なら出せるらしいが、精神集中が必要で、斬撃ほどには速くない。だから凍気による攻撃は除外していい、と考え、魔力攻撃は可能性から排除した。もはや、頭の中からは、全ての剣の軌道が消え去っていた。ケイはただ、シオンの手元だけを見つめながら、突進のための前傾を深くし、太腿に力をためることだけに集中していた。


(冗談じゃない! こんなことで利き腕を斬り落とされてたまるかよ! 理不尽過ぎて、もう言い訳を考える気にもならん!)


 ふふ、と、女の笑う声がした。はっと目を上げながら、ケイは、自分の足腰の動きを見破られた、と悟った。シオンの表情を見るより前に、そう感じ取れたのだ。


「ふん、冗談じゃ!」


 ぱち、と、シオンは魔剣の刀身を鞘に納めた。


 一瞬で、ケイの全身から冷たい汗が噴き出した。彼はほう、と息を吐きながら、こわばった腰を椅子の座面に戻した。


(た、助かった……何が冗談だよ、どう見ても本気だったろ!)


 ふわり、と、いやな汗にまみれたケイの顔面を、冷たい風が撫でた。シオンの端正な顔が、まつげも触れ合うほどの、すぐ近くにあった。


 抜き放たれた「風花姫」の、溶けかけの氷柱のような透明な刀身が、ケイの喉元に突きつけられていた。


「油断じゃな。相手の間合いの中では、いついかなるときも、決して気を抜くなと教えたじゃろう?」


(い、いったいどうやって、いつの間に、あの体勢から抜刀したんだ?)


 シオンは、もう一度、ふん、と鼻を鳴らしてから、見事な一挙動で魔剣を鞘に戻した。それから、深く黒い色の瞳を、ケイに真っすぐ向けた。もうそこには、怒りの色はなく、夜の内海のように静かだった。


「2年前、なぜおぬしが剣術を教えろと私に頼んだのか、理由は聞かん。だが、剣を手に取るということは、他人を傷つける力を得る、ということじゃ。力を求めたときから、もはやおぬしは凡人ではない。凡人だから何もしないでいい、などという言い訳は、剣を持つ者には――剣士には、許されておらん。私はそう思う」


 シオンは、鞘に収まった魔剣を持ち上げてみせた。何の飾り気もない、文様一つ描かれていない鞘だが、刀身同様に魔石で作られていて、緑がかった半透明の色が玉石のように美しい。


「私も、この魔剣に出会ってからは、そうなった……この力ある剣を手にし、この氷の魔石と共振できたからには、何もしないでただ静かに息をしているだけ、などという生き方は、許されておらん。平凡な女として生きることなど、できなくなったのじゃ」


 ケイは驚いた。彼女ほどの剣士が、天賦の才に恵まれた者が、魔剣を得る以前は凡人だった、などということがあるのだろうか?


 ケイは少し考えてから、いやしかし、事実として、彼女と違って僕は凡人だ、と思い直した。


「でも、僕には、魔剣もなければ才能もないんですが」


 シオンの眉の角度が、また朝の挨拶の時の状態に戻った。


「おぬしもまったく、後ろ向きな方向にだけ強情じゃのう。自分に才能があるかどうかなど、試してみなければ分からんであろうが!」


「いやいや、今ちゃんとカードのディーラーとして、才能発揮してますから! それが僕にある唯一の才能、それで飯を食えてますから!」


「あんなカード遊びで客の相手をするだけの仕事に、才能も努力もないわ!」


「そりゃひど過ぎる! どんな仕事にだって、必要な才覚や努力はありますよ!」


「じゃから、なんでその道しかないと思うのじゃ!? 自分には他にも可能性が秘められているかもとか、普通、若者だったら、全く何の根拠も実績もなく、そう思うものじゃろうが! その顔か? 顔なのか? 自分が妖精族との混血だから、ダメだと決め付けておるのか?」


(いかん、このままでは、話が最初に戻ってしまう)


 ケイは焦った。何か話をそらすネタがないものか、と考えつつ、たまたま視線が向いていた先にある、シオンの胸元を見つめる。金属のような光沢の青い生地が、女性らしい曲線の身体をぴっちりと包んで、その起伏を浮かび上がらせていた。これは、古代文明の遺跡からしか発掘されない特殊な素材で、軽く薄いのに断熱性が高く、しかも鎖帷子並みの防御力で、並みの刀剣など刃が徹(とお)らない、という高価な代物だった。


 その生地も、彼女が冒険者として、危険な古代遺跡を探索して自分で手に入れてきた品だ、という話を思い出してから、ケイは現状を取りあえずごまかせそうな可能性にたどり着いた。


「あ、そうだ! 忘れてた、今月と先月の部屋代、まだもらってません!」


「は? 何じゃと?」


 思わずぽかんと口を開けたシオンに、ケイは畳み掛けた。


「冒険者の仕事で出かけてる間、師匠の部屋の管理とか、依頼の記録とかやってるのは僕ですからね! 部屋代の請求も僕が任されてますから。もうとっくに期日は過ぎてますよ」


「うっ……」


 シオンは、この店の住み込みの用心棒だが、給与の天引きではなく、毎月部屋代を支払っている。冒険者としての仕事で出かけている間は、用心棒としての給与をもらわないからだ。


 実は、用心棒よりも、むしろ冒険者としての仕事の方が主になるので、最初に部屋代についてはそういう形で話をつけたということらしい。彼女は冒険者としての実績も高く、貴族がらみの表に出せないような事件の解決や調査を、この店を通して引き受けることも多いのだ。


 シオンは、急に顔を赤らめて、まるでつまみ食いを見つけられた少女のようにもじもじし始めた。ケイは、彼女が最近、装備品の修理費用がかさんで、金に困っているのを知っていた。さらに、数日前、一攫千金を狙って店でカードゲームに挑み、見事なまでに大負けして財布の底までほじくる羽目になったことも、もちろん覚えていた。


 シオンはひきつった微笑みを浮かべながら、何か言おうとしたが、何も出てこなかった。


「え、えええええええええええええええええええええええっと」


「えを並べてる暇があったら、とっとと払ってください」


 気の毒になるくらいもじもじして焦っているシオンを見ながら、ケイは、この人が貴族の娘だというのは本当かもしれない、と思った。こういうときに開き直れず、守勢に回りっぱなしになるのは、育ちがいい証拠だ。物腰や言葉使いも上品なところがあるし、没落した貴族の娘という話らしいが、それも十分信じられる。


 ケイは、長剣を抱きかかえたままもじもじしている身体を包んでいる、特殊素材のつなぎを見つめた。彼女は化粧っ気もなく、アクセサリも皆無で、いつもこればかり着ている。無駄遣いやぜいたくをするわけでもないのに、どうも金の使い方が無計画なところも、育ちのせいかもしれなかった。


(ほんと、ちゃんとした女性なんだよなあ……なんで20歳過ぎにもなって未婚なんだろう、こんな美人なのに! 何か事情があるんだろうが……)


 シオンのことを考えていて、ケイは何だか、自分が情けなくなってきた。彼女が、自分の弟子の将来を真剣に考えて、尽力してくれたことは、よく分かっていた。ただの店員の自分に、2年間、まじめに剣術を仕込んでくれたことにも、ずっと感謝している。なのに、自分ときたら、そのちゃんとした女性に対して、その場限りで話をごまかすことしかできない。


(なんでこう……僕はいつも無力で、何一つ守れないんだろう……)


 ケイは、とにかくもうこの会話を終わりにしようと、まだもじもじしているシオンに早口で話しかけた。


「まあ、待ちますから、なるべく早く払ってくださいね。じゃ、仕事がありますんで僕はこれで」


 じゃ、とさわやかに手を挙げて、そのまま足早に、しかしさりげなく出口に向かう。息を詰めながらどうにかドアの前にたどり着き、汗ばんだ手でドアノブを握った。


(よし、これでこの場は、とにかく切り抜けた!)


 ばあああーん、という轟音が部屋中に響き渡った。ケイの脱出行は、ドアノブを握ったところで中断された。硬直した姿勢のまま、ゆっくりと振り向く。机を平手で叩いたシオンが、ひきつった笑顔でこちらをにらんでいた。


「ごまかすなこの不肖の弟子が! 毎月の部屋代は期日までにちゃんと払うのが確かに人の道じゃが、今われわれが話しているおぬしの就職問題には何の関係もない!」


 やっぱりダメか、とケイはため息をついた。いったいどうすれば、自分の凡人としての人生を守れるんだろうか、と必死で逃げ道を探しつつ、しぶしぶシオンに向き直る。しかし、なぜか彼女はひきつった笑顔を浮かべたままで、その唇は、急に何か悪だくみでも思い付いたような、いたずらっぽい笑みに変わった。


「うーむ、しかし確かに、私も大人げなかった! 師匠ともあろう者が、不肖の弟子に対して、剣の力でけりを付けようなど、あまり褒められた話ではないな、うむ!」


「はい?」


 シオンの笑みは、今や完全に、趣味の悪いいたずらのネタを思い付いたばかりの小悪魔だった。


「そんなにおぬしが自分の得意分野で才能を発揮しているというなら、それを試してやろう! 今夜、開店後、カードで決着を付けようではないか! 私が勝ったら、潔く頭を下げて、騎士の家に奉公する話を受けるのじゃ。おぬしが勝てばもちろん、私が頭を下げに行って、今回の話を断ってこよう」


 ケイは、美しい小悪魔の笑みを見つめながら、今日は完全に厄日だ、と思った。今日という日の残りの時間、仕事が終わってベッドにもぐりこむまでに、あと何回、この人に驚かされたらいいんだろう?


「どうじゃ、この挑戦を断れるかの? 才能を発揮している優秀なディーラーよ?」




 自室のベッドに散らばったカードを拾い集めながら、ケイ・ボルガは、何だか妙な展開になったな、とつぶやいた。


 シオンとの言い争いの果てに、「騎士への奉公話を受けるかどうか、カードで決着を付けよう」などという派手な話になったのは、平穏で平凡な凡人の人生を望むケイにとっては、ただの迷惑だ。だが、この展開は、カードゲームのディーラーを職業とする彼にとっては、確かに有利ではある。


(まあ、わざわざ、僕に有利な種目で勝負してくれるっていうんだから、ありがたく勝たせてもらいましょ! これで決着を付ければ、師匠の性格からいって、二度とこの話を蒸し返したりはしないだろうし……)


 そう思いながら、ケイは、ベッドから拾い集めた黒いカードを手の中でまとめ、シャッフルした。それは、カルタ遊びに使うトランプなどと同じくらいの大きさで、カードの裏には、どれも同じ、地味で単純な模様が描かれている。だが、表の面は、どのカードも、全てが無地だった。ただ、真っ黒な表面があるだけで、つやのある質感なのに光を全く反射せず、まるで空中に四角く黒い穴が開いているかのようだ。


 ケイは、シャッフルしたカードから――本当はシャッフルすることに意味はないのだが――1枚引いて、ひっくり返して表の面を見た。すると、カードの漆黒の表面に、ブラックオパールのような虹色のゆらめきが走る。すぐに、その周囲を、額縁のように模様が縁取った。そして、その中に、派手な色彩の絵と細かい文字が浮かび上がってくる。その絵柄は、深海から海面へ浮上してくるかのように、美しくゆらぎながら現れた。


(『不用意な驟雨』、カードナンバー3486、縁取りのデザインからして完璧にノンレア……よし、間違いない。今日も僕は凡人だ)


 このカードゲーム「コスタ・ゾロディア」に使われるのは、普通の紙のカードではない。これは、高度な魔法で作られたカードで、その絵柄は「引いた瞬間に決まる」のだ。


(うん、やっぱりノンレア、しかも確実に平凡なのしか出ないよ。これでいい、これが僕の運命、僕の生きるべき道だってことさ)


 ケイは、ノンレア――つまりよく出る、珍しくない種類のカード――である「不用意な驟雨」をくるりと返して、裏面を見た。引く前は単純な模様だけだった裏面は、色が明るくなり、模様も複雑なものに変わっている。これは、山からドローして、絵柄が確定したことを示すための機能だった。


(それにしてもすごいカードだよなあ、この『コスタ・ゾロディア』は! 引いた人間の運気を読み取って、それでカードの絵柄が決まるなんて!)


 この魔法のカードは、引いた人間の運気、運命の流れを読み取って、それによってカードの絵柄を決めると言われていた。それゆえ、プレーヤーによって、どんなカードが出やすいか、また、どんな順番で出る確率が高いか、その傾向が全く違ってくることになる。それを、プレーヤーたちは「デッキ傾向」と呼んでいた。あらかじめ好みのカードを選んで、自分だけの「デッキ」を作って対戦するタイプのカードゲームとは違うのだが、便宜上、同じ言葉で呼ばれている。


 デッキを組むタイプのカードゲームで言えば、「他人の作った、どんなカードが入っているのか全く分からないデッキを渡されて、出てくるカードの種類を見てデッキの傾向を推測しながら戦う」という感覚に近い。ただ、デッキにどんなカードが入っているのか、その「デッキ傾向」を決めるのは、プレーヤー個人の「運気」や「運勢の流れ」なのだ。


(このデッキ傾向ってのがやっかいで、その日の運気によっては、普段とは別の傾向に分岐したりするんだよなあ……ずいぶん昔からあるゲームだから、研究書もたくさん出てるくらいだし)


 ケイは、真っ黒なカードの山から、もう1枚引いた。浮かび上がった絵柄は「疲れ果てた動員兵」。またノンレアの縁取り、それも最弱に近い。


(うん、やっぱり僕は凡人だ。主人公じゃない。いつもこうなんだ。カードが教えてくれてるのさ。お前は、ただのモブだ、物語の主人公のような激しい運命とは無縁だ、お前のために書かれたシナリオなんかない、高望みしないで無難に生きろ、ってね)


 ケイはこうやって、毎日のようにカードを引いては、自分の運命を確認するのが習慣になっていた。彼が「自分は主人公じゃない、凡人だ」と確信している理由の一つが、この平凡極まりないデッキ傾向だったのだ。


 仕事としてゲームの相手をする客たちと比べても、彼のデッキ傾向は際立って平凡だった。というより、ノンレアばかりがいつも同じように予想どおりに出る、という点では、むしろ異常なくらいだった。


(ま、師匠の考えてることなんか、だいたい予想は付くさ。『ノンレアしか出ないような運気のしょぼい奴に負けるわけがない』とか思ってるんだろう。考えが甘いよ)


 ケイは、自室の高い位置にある小さな木製の窓を開けて、爪先立ちになって店の前の通りを眺めた。もう日暮れに近く、空は、青とピンクとオレンジのどれなのか分かりにくいあいまいな色になり、小さな三日月が、かろうじて見えるくらいに白く淡く光っている。その空から目を落として、紫がかった森の中を白く走る「竜骨街道」を見た。淡くなった日の光の中でも真っ白に輝く骨の道は、街中に入ってからは、人々の足に踏まれ過ぎて黄色く汚れている。通りには雑多な人々が行き交っているが、店の前にはそれほど人影はなく、客の入りはまだまだのようだった。


(でも確かに、師匠のデッキ傾向は派手なんだよなあ……とんでもないレアカードを引くかと思えば、最悪のペナルティカードに当たったりって感じで、先が読みにくいったらありゃしない。注意しないと)


 ケイは、自分の剣の師匠であるシオンの言葉を思い出した。


 彼女の派手なデッキ傾向は、やはりその人並み外れた能力を、そして、そういう人が生きるべきドラマチックな運命を証明している。そうケイは信じていた。


 可能性に挑戦しろ、自分を試せ、というのは「人生という物語の主人公」をやれる力量がある彼女のような人の考えであって、それだけの力のない、自分のような凡人、物語の脇役もいるのだ。彼女のような優れた人間、「主人公な人」にはそれが分からないのだ。


 そう思いながらも、同時にケイは、この2年間の剣の修行を思い出していた。自分のような農民出身の素人に、熱心に護身術を教えてくれた、氷の魔剣士の、その熱い眼差しを。


(師匠には悪いけど、勝たせてもらいますよ。剣の師匠としては感謝してるけど、やっぱりあなたには分からないんだ。僕みたいな、無力な人間の気持ちは)


 ケイは突然、血のにじむほどにきつく、唇を噛んだ。思い出したくない記憶を、再び頭の底に押し戻そうとするかのように。そして、歪んだ、しかし少女のような自分の顔を、鏡の中に見つめた。


(別に……この顔に劣等感があるっていうんじゃない……ただ、僕の細い腕の力じゃ、この無力な凡人じゃ、誰も、誰も、守れないんだ……!)


 ふーっと深く息をつき、ケイは鏡から目をそらした。また、胃の辺りに、重苦しい、いやな感じがあった。


(落ち着け……落ち着かないと勝てないぞ。波乱のない凡人の運気にも、ちゃんと利点はあるんだ。師匠にそれを教えてあげなくっちゃな)


 ケイは、手の中のカードの表面を、指の腹で撫でた。つややかなそれは、紙でも皮でも金属でもない、弾力のある不思議な素材でできていた。これは水に濡れず、曲げても折れることはなく、そして、全ての魔法を弾くのだ。「引いた瞬間に絵柄が決まる」性質と相まって、この「コスタ・ゾロディア」では、イカサマが極めて難しい。それも、このゲームに人気がある理由の一つだった。


(運気に波がないってことは、デッキ傾向が読みやすいってこと。偶然性なんかに頼らず『先を読み、分を知る』のが凡人の生き方さ! それ以上は、歴史の本に出てくるような『主人公な人々』にまかせた。僕のやることじゃない。僕はバカじゃないんだ!)


 デッキ傾向がいつも平凡なケイは、むしろそれを利用して、ゲームの展開をコントロールするのが得意だった。デッキ傾向が変動しやすい人は、どんなカードが出るのか予想できないため、どうしても運任せのプレイになりやすい。自分のカードを先読みできる彼にとっては、客をぬるい接待プレイで喜ばせたり、怒らせない程度に負かして金を巻き上げたりするのは、簡単なことだった。この「才能」のおかげで、この店でディーラーを続けていられると言ってもいい。


(貴族や騎士の客に、『やはり運気がお強い、カードの出方で分かりますよ』とか言うと、みんな喜ぶんだよなあ……)


 ケイは、今までにゲームの相手をしてきた、さまざまな客たちのことを思い返した。この「コスタ・ゾロディア」は、「自らの天運の大きさを計る」と、貴族や軍人たちに大人気で、徹夜で熱中する客も多い。


(彼らはみんな、自分たちが、『自分の人生』という物語の主役だと、自分のためだけに書かれたシナリオを生きていると、疑うことなく信じていたんだろうか……?)


 ケイは、もう一度、小さな窓から空の色を眺め、そろそろ時間だな、と判断した。仕事着のネクタイを締め直し、カードの山をベッドのそばに丁寧に置いて、自室を出る。


(さて、勝負の時だ!)




 もう春とはいえ、夜は早めに暖炉に火を入れていたらしく、客のいるエリアはよく乾いていて暖かかった。階段を下りていくと、ケイの予想よりも客の入りは早めで、1階のフロアにはそこそこの人数が入っている。幾つかのテーブルでは、早めの夕食代わりにサンドイッチなどを並べつつ、もうゲームが始まっていた。


 3階より上のフロアが仕事場の高級娼婦たちは、まだ髪結いや化粧が済んでいないのか、1階まで客引きに来ている者は少なかった。それでも、絹のドレスの裾をなびかせ、酒のグラスを指でつまんで持ち上げながら、金を持っていそうな男を物色している女もいる。


 ケイは、階段の踊り場で足を止め、少し隠れるようにして、手すりの間からフロア全体を眺め渡した。客層は、いつものこの時間帯と変わらないようだった。


(貴族が半分、あとは稼いでる商人、一山当てた冒険者、それに、平民出身でそこそこ出世した軍人ってところかな……)


 交易都市フォトランの中心ともいえる歓楽街にある、この店「夜と嘘」は、この界隈ではかなり大きい店で、料金もそれなりに高いし、酒や料理も高級品を出している。それでも、客は貴族ばかりというわけではない。


 「竜骨街道」を使った交易で、大陸を渡り歩く商人がいる。「凪の内海」を出てはるか大洋のかなた、南方との貿易で砂糖やタバコ、香辛料を仕入れて、もうけた大富豪がいる。中には、貴族や王にまで金を貸し付けて、利子でさらに財産を増やしている者もいるらしい。


 ロム半島からずっと西にある国「共和国」では「革命」とやらが起きたばかりで、そこでは、なんと王さまが処刑されて、貴族の身分が廃止されるという大事件が起きたばかりだ。貴族がいなくなった代わりに、ただの平民が国を守ることになり、そういう連中の中から、戦場で手柄を立てて大出世した若者たちが大勢出ているといううわさだった。あの派手な軍服で、大声を上げてカードをめくっている赤い頬の若者たちが、多分そうなのだろう。


 階段脇のテーブルに座っているのは、貴族の息子だ。身なりはいいが、どうも女遊びが過ぎて親から勘当されたらしく、金離れが悪くなって娼婦たちから見向きもされなくなった。それでもなぜか、毎日この店にやってきては、女たちを眺めたり、カードで勝ったり負けたりを繰り返している。


 奥のテーブルでは、身なりや人種、年齢もさまざまな人たちが、カードも酒もほったらかしで、何か議論に熱中している。新しい思想について熱心に語り合っている、若手の学者たちだ。革命の思想や、南方の国々の珍しい産物や風習の話、「猿から人間が生まれた」などという生物学の新しい潮流、「進化論」とかいう奴について、いつも議論を白熱させ、最後はいつも、学問の世界に君臨する重鎮たちの悪口で終わるのだ。


 その周りには、あまりいい身なりでもない若者たちが、学者たちの語る驚異の世界についての話に、目を輝かせて聞き入っている。ケイも、彼らの語る新しい学問の話に、カードゲームの手を止めて耳を澄ませることがあった。


 この「夜と嘘」の赤い絨毯の上では、下層民の妖精族から、仮面の下に家柄を隠して遊びに来る貴族、成り上がり者の金持ちや、遊びが過ぎて勘当されたボンボンまでが、同じテーブルで同じゲームに興じている。不思議な場所だ、とケイは思った。客たちは皆言った。今はそういう時代なのだ、身分と関係なく、実力さえあれば成り上がれる時代、「英雄の時代」なのだ、と。


 ケイは以前、カードゲームの相手をした、ある男のことを思い出した。服装は豪華だが、どこか貴族らしくないその男を相手に、勝ったり負けたりを適当に繰り返していると、背後から知り合いの学者がささやいたのだ。


「あれが、かのモスチョラスだよ」


 それは、「英雄時代の天才」と呼ばれる、平民出身の作曲家の名前だった。彼の作った歌劇は大人気で、貴族ですらなかなか入場券が手に入らないといううわさだけは、ケイも聞いたことがあったのだ。確かに、彼の引くカードは、そのデッキ傾向は、スーパーレアを連発するほどの、並外れて珍しいものだった……。


(英雄、か……)


 ふと見ると、客が大勢集まっているテーブルが、フロアの中心近くに一つある。だが、周りに立っているギャラリーばかりで、テーブルに付いてゲームをしている者は誰もいない。ケイが階段を下りていくと、そのテーブルの客たちがこちらを振り向いて、微笑みながら何か話し出した。どうやら、客たちは既に、彼の人生を賭けた勝負のことを知っているようだった。


(何だか、いつもと空気が微妙に違うなあ、やりにくい!)


 誰が気を回したのか、自分のためにわざわざ空けてあるテーブルへ歩み寄っていくと、カウンターにいる店長が、仕事しろよ、と言わんばかりの目でケイを見た。しかし、何も言わずに奥の調理場へ引っ込む。どうやら、客たちが勝手に盛り上がってしまったので、諦めたらしい。


 客たちの好奇の目にさらされながら、ケイはテーブルに着いた。カードゲーム用といっても、特に何の変わったところもない、普通の大型のテーブルだ。脇においてある小さなたんすから、黒いカードの山を適当な枚数取り出し、きれいにそろえて、自分の前と、テーブルの向かいの相手側に置く。これだけで、ゲームの準備は完了だった。


(師匠は、まだ来ないのか?)


 ケイは、手元に積まれたカードを見つめた。不思議な素材でできたそれは、こうして縁をそろえた山になっていると、なぜか色が緑がかってきて、少し透明感を帯びていた。まるで、エメラルドでできた、四角い文鎮か印章のようにも見える。


(そうだ、確か、このカード『コスタ・ゾロディア』って、何千年も前の古代遺跡から発見されたって話だっけ……まあ、ここにあるのは、それを元に魔法の仕組みをコピーしたものなんだろうけど)


 そのとき、それまでカードや世間話に熱中していたはずの客たちが、急に静かになった。そしてすぐに、おお、というような感嘆の吐息があちこちから漏れる。


 テーブルから目を上げると、ケイが下りてきた階段とは違う、奥の豪華な造りの方の階段から、漆黒のドレスに身を包んだ女が下りてくるところだった。ドレスの生地は絹か何かで、黒い中にも、光沢の反射や、透けて青く見えるところなど、複雑で美しい色合いをしている。その胸元は大きく開いていて、真珠がずらりと並んだネックレスの下に、その色合いに合う白い肌が輝いて見えた。そのしっかりしたふくらみを見せる胸元の上、切りそろえたつややかな黒髪をきれいに結い上げた下、その間には――よく見知った顔があった。


「げ、師匠!?」


「げとは何か、げとは! 失礼な奴じゃのう。不肖の弟子のしょぼーい凡庸な人生を、大転換させるための世紀の勝負ゆえ、盛装して来てやったものを!」


 シオンは、一分の隙もない見事な裾捌きでテーブルに歩み寄りつつ、いつもと同じ眉の角度でケイをにらむ。彼は、その顔がうっすらと化粧されていることに気付いた。怒り顔すら魅力を放つほど、ドレスも化粧も髪形も美しく、よく似合っている。


(なんじゃこりゃ、上のフロアのきれいなお姉さんたちから、ドレスを借りたな!)


 現在の彼女の経済状況で、この豪華な格好になるのは無理なはずだった。とはいえ、身なりにも振る舞いにも、不自然なところは微塵もなく、見事なまでに貴族の令嬢に仕上がっている。


(やっぱり、没落した貴族の娘ってうわさは、本当なのかもしれない……)


 ケイは、シオンの堂々とした態度よりも、むしろ客の雰囲気にそう思った。どうも、客たちの一部は、彼女の出自を知っているのでは、と思えたのだ。そう思いつつも、彼は頭を振ってその考えから離れようとした。


「普段しない格好をして、こっちを戸惑わせて、ゲームを有利に運ぼうってことですか? なるほどなるほど、相手の精神を威圧し混乱させ虚を突け、ってのは、師匠から教わったとおりですねえ」


 シオンは、何も答えず、近くの客が引いてやった椅子に座りながら、普段はしないような満面の笑みを浮かべる。テーブルの上で腕を組みながら、かわいい動作で少し首をかしげ、そのまま黙ってこちらを見つめた。


(くっ、負けるもんか! 絶対に勝つ! 勝って、自分の、平穏で波乱のない、何のドラマもない凡人の人生を守る!)


 ケイは最初に、ゲームの基本ルールを確認した。勝負は一回だけ。特殊なカードの組み合わせ――「役」による点数の配分などはしない、その場の勝ち負けだけで決める。これは、単純に、仕事をしないで自分の勝負に時間をかけてはいられないからだ。


「では、最初のドローをしてください、5枚で」


 このカードゲーム「コスタ・ゾロディア」では、自分のデッキがあるわけではないので、最初に5、6枚程度のカードを山から引いて、それを見て現在の「運気」を読み、出るカードの方向性を予想しつつ戦略を立てる、という流れになる。そうしないと、戦略性の薄い運次第のゲームになってしまうからだ。


 ケイは、手元のカードの山から、最初の一枚を引いた。ゆらぎながら浮かび上がってきたのは、荒野に一人佇む、鎧をまとった少女の絵だった。カード名は「荒れ野の姫君」。


 一人でカードをめくるときと違って、対戦相手がいると、最初に引いたカードは必ず「荒れ野の姫君」というカードになるのだった。この特殊なカードが本陣となり、これを攻撃されると敗北というルールだ。


 ケイは、カードの姫の絵姿を確認した。「荒れ野の姫君」の姿は、なぜか人によって異なる。ケイのは「背が低くて幼い、かわいい感じの黒髪の少女」で、本人はそれが「運気の小ささ」ゆえと思っていたが、その容姿は気に入っていた。そして、そのカードをテーブルに放り投げる。すると、投げられたカードはテーブルに落ちず、そのまま斜めに立って空中に浮いた。そして、カード表面の絵姿と同じ姫の姿が、カードのそばに小さな彫像を置いたかのように、立体として現れる。


 シオンも同じように、彼女の「荒れ野の姫君」をテーブルに出現させた。こちらは、長い金髪を風になびかせた、いかにも高貴な感じの姿で、巨大な鎚矛を構えている。そして、二人の姫君がテーブルの両端に立ち、向かい合うと同時に、山や森のある風景が、まるで小さな箱庭のように、テーブル上いっぱいに出現した。


(お、山岳と森林地帯のパターンか。悪くないな)


 この箱庭のような立体映像は、カードの魔力によって投影されているのだ。これが、戦いの舞台となる。


 「荒れ野の姫君」同士が対峙し、戦場の地形が決定すると、ケイはそのまま、後4枚のカードを山から引いた。揃った手元のカードを眺めて、一人うなずく。4枚とも、いつもと同じ組み合わせのノンレアが並んでいた。


(よし、今日も僕は凡人だ。デッキが荒れたら戦略が立たなくなる)


 シオンも自分のデッキ傾向を確認したのを見て、ケイは、いつもより力強く、ゲームの開始を宣言した。


「では、始めます! こちらの先手で!」


 ケイは、取りあえず、最初に引いたカードの中から、戦闘の駒となるものを場に出していった。「荒れ野の姫君」と同じように、それらも空中に浮くと、次々に半透明の姿を浮かび上がらせていく。カードの中には、駒になるのではなく、魔法の炎や天候、地形の変化などを起こす、一回限りの使い捨てのカード――「イベントカード」もあったが、これらは手元に残した。自分の手番ごとに、山からカードを引いては場に出していき、自軍の陣営を整えていく。


 テーブルの向こう側を見ると、シオンも同じように、半透明の小さな軍団を、自分のドレスの胸元の下に編成していた。ケイはその陣容を一目見て、やはり予想どおりだ、と思った。


 彼女のデッキ傾向は、「聖邪系」と呼ばれるもので、神だの悪魔だのといった、強力なカードが出やすい。だが、カード同士の相性が悪く、同時に場に出せないものや、自軍に不利になるようなカードも出やすい。偶然性ゆえに戦略が立てにくく、高度なプレイが必要になる、難度の高いデッキ傾向だった。


(難度が高いって言ってるのに、いつも考え無しに、引いた端から駒を出すからなあ、師匠は。このデッキ傾向だと、駒を出す順番こそが重要なのに……)


 このゲームの定石として、最初のうちは、自分のデッキ傾向に特徴的なカードを出すのは控えて、運気の傾向を読まれないようにするのが基本である。とはいえ、互いのデッキ傾向を知り尽くした相手との対戦では、先制して強力なカードを使う、という選択肢もあり得た。


 「さて、進軍を開始するぞ」


 シオンは楽しそうに、テーブルの上に身を乗り出して、自軍の駒を進め始めた。場に出して空中に浮いているカードには、手をかざしたり指さしたりして、移動、攻撃の指示ができる。移動距離の制限は、カードがそれ以上動かなくなるので分かる。カードに重なるように現れている駒の立体映像は半透明で、その状態でもカード表面の説明文は読めるので、プレイに支障はない。


(誰でも遊びやすく、しかも奥が深い上に、カードの立体映像は美しい。このゲームに、昔から人気があるのも分かる。古代の王や将軍たちも、自らの運命の行く末を見極めんと、この『コスタ・ゾロディア』に打ち興じたそうだが……)


 ケイは、進軍してくるシオンの軍勢を眺めながら、そう思った。定石どおりに、防御力の強いカードや、捨て駒にできるカードで、しっかりした戦列を組んでいる。相手の駒には、そこそこ強力なレアカードも混じっているようだ。普通に戦えば、ケイのノンレア軍団には、まず勝ち目はない。


(さて、師匠、今日はいつもの接待プレイとは違いますよ!)


 シオンはこのゲームを「カードのドローについては運の要素が強い、出た駒をどう使うかは戦略的」と思っているはずだった。彼女のように運気の強い人は「デッキ傾向が荒れる」ので無理もないのだが。しかし、それは間違いで、ドローも予想してゲームをコントロールできるのだ、とケイは思った。


(そう、僕みたいな、並外れた凡人ならね……いや待てよ、並外れていたら凡人じゃないんじゃないか? ……まあいいか)


 進軍の方向を確かめつつ、ケイは自軍の駒は動かさず、一枚の「イベントカード」を場に出した。最低ランクのノンレアカード「不用意な驟雨」。カードを使うと、地形の上にさらさらと音まで立てて、細い絹糸のような雨が降る。それを見たシオンも、ギャラリーの客も、少し怪訝な表情を浮かべたが、ケイは表情を平静に保った。使用済みのカードが真っ黒に戻る。


 シオンは、山から1枚カードを引き、浮き出した絵柄を確かめた。途端に、恋人から期待どおりのプレゼントをせしめた少女のような輝く笑顔になり、すぐにそのカードをテーブルに放り投げる。ランクの高いレアカードであることを示す、銀色のつる草模様の枠が見えた。


 レアカード「考えない天使」、カードナンバー156。美しい鳥の翼と、何を考えているのか分からないアホ面の美少女が、空中に現れる。無差別に一定の範囲を焼き尽くすタイプの、攻撃的なカードだ。


(げ、とんでもないのを引いたよ、この人! これ、攻撃範囲も方向も完全にランダムだから、下手するとゲームがめちゃくちゃになるのに!)


 このカードは、普通は場に出さずに取っておいて、戦況を見ながら、自軍の犠牲を覚悟で使うしかないというタイプだった。そんなカードを考えなしに出撃させた指揮官の顔を見ると、どうだ圧倒的だろう我が軍は、とでも言いたそうな、自信と栄光に満ちている。どうやら、表情を隠す気もないらしい。


(あのね、師匠! そんなだからいつもゲームに勝てないんでしょうが! まったく、剣術の訓練のときは、表情も動きも全然読めないってのに!)


 そう思ってから、ケイは無性に腹が立ってきた。結局のところ、彼女にとっては、これは遊びに過ぎない。命懸けの剣の勝負とは違う、ということなのだ。


 ケイは押し黙って、ただ「不用意な驟雨」を使い続けた。これで4枚目。ノンレアとはいえ、カードの種類が何千枚もあるこの「コスタ・ゾロディア」で、同じカードを計画的に連続して使うのは、けっこう難しい。だが、彼の規格外に平凡な、超人的な凡人の運気は、それを可能としていた。


 「なんじゃ、さっきから雨ばかり降らせおって! 今年の豊作でも祈願しておるのか? 雨で進軍速度が多少遅くなっても、大したことはないぞ!」


 そう、このカードは普通そう使うしかないんだけどね、とケイは思ったが、表情は変えなかった。いや、わざと、悔しそうに少しだけ口元をゆがめてみせる。シオンは彼の表情を眺めながら、再び自軍の陣形を整えつつ、こちらに向かってきた。


(よし、勝った! ふははははは、あれぞ我が勝利を告げる軍靴の響き!)


 シオンのレアカード軍団が平原の地形を抜け、テーブル中央にある谷に差し掛かったとき、突然地鳴りの音が響き始めた。テーブル自体を揺らしそうなほどの轟音とともに、針葉樹が密に生えた山の斜面が、テーブルクロスでも引っ張るかのように、樹木が立ったままですべり落ち始める。その巨大な、しかし卓上サイズの地すべりは、シオンの駒の集団に襲い掛かり、レア度に関係なく全て押し流した。撃破されたカードが、次々と黒い無地に戻り、テーブルの上に倒れていく。


「な、なんじゃこれはああー!」


 自分の師匠の悲鳴を、ケイはじっくり堪能した。それから、表情の平静を保つのをやめ、勝利の栄光を顔面で精一杯表現しつつ、ゲームの解説を始める。


「いやー、見事に引っ掛かってくれましたね! カード自体の解説には書いてないんですが、この『不用意な驟雨』は、連続で使うと、高確率で地形破壊イベントが発生するんですよ。部隊を分けたりされたら、こうもうまくはいかなかったでしょうが、律儀に定石どおりの密集隊形を組んでくれてて助かりました!」


「くっ、不覚……! この不肖の弟子めえええ!」


 シオンは、じゃんけんに負けてお菓子を取られた子供のようなくやしがり方で、テーブルの縁を握り締めていた。貴族の令嬢の雰囲気台無しだ。ケイは、ディーラーの制服の胸を張りながら、誇らしげに言った。


「分かったでしょう。こういうカードの使い方は、僕みたいに、運気がしょぼい人間にしかできないことです。運気が小さい方が、事態を予測しコントロールしやすい。偶然性になんか頼らない! それが、凡人の生き方ってもんです」


 シオンは、そんなケイの誇りを、馬鹿を見る視線で一蹴した。


鳥屋とやで卵を産むだけで終わるニワトリ並みの、つまらん人生じゃのう」


「よ、余計なお世話です!」


 せっかくドローした戦力をほとんど失ったシオンは、見るからに焦った表情で、カードの山に手を伸ばした。そこで何か思い付いたのか、いきなり目を閉じ、瞑想でもしているような顔で一枚引く。そして、表面に浮かぶ絵柄を確かめず、薄目を開けてカードを見ないようにしながらテーブルの上に置いて、手で隠した。


 ケイは呆れた。


不見転みずてんかよ! それはただの迷信! いいカードが出る確率は上昇しません。今まで何人もの研究家が統計を取って証明してるんです!)


 「カードを引いた瞬間ではなく、その表面を観測した瞬間に運命の波動が収束する」ので、「観測しなければそのときの運気の影響を排除できる」という理屈らしいが、プロの賭博師たちはそんな説は信じていなかった。


 シオンは、表の絵柄を見ないようにしながら、引いたばかりのカードをテーブルの上に放り出した。くるりと華麗な動きで空中に止まったカードの表面は、きれいなつる草模様の枠に囲まれている。


 その枠の色は、金色だった。


 (な、な、これは、スーパーレア……!)


 金色に輝くつる草の中には、既に絵柄と文字が現れていた。スーバーレアカード「対なる破滅の光条の死告天使」、カードナンバー9。


 カードの中から、まるでさなぎが蝶へ羽化するように、四枚の翼が伸び出して、白く大きく拡がった。次いで、神々しいデザインの女性の天使が現れ、その翼を羽ばたかせると、白い羽毛が宙に舞う。胸の鎧にはめ込まれた緑色の玉石が、柔らかい光を放った。すると、どこから取り出したのか分からないが、いつの間にか、二振りの黄金の剣が、天使の両手に握られている。天使はその長剣を、振り上げるのではなく、なぜか身体の前方に真っすぐ、平行に伸ばして構えた。


対なる破滅の光条ツインバスターライトニング!」


 二振りの黄金の剣の間から、目もくらむような閃光がほとばしった。その閃光は、テーブルの反対側のケイの軍勢へ向かって、一直線に伸びていく。


 そして、彼のノンレア軍団の中心で、地形ごと吹き飛ばすほどの大爆発が起きた。巨大なマッシュルームのような形の爆煙が湧き上がり、天井近くまで成長していく。それはシャンデリアの光すらさえぎり、テーブルの上に黒い影を落とした。それまで固唾を呑んで勝負を見つめていたギャラリーたちも、さすがにどよめいた。


「うわああああああああ! ちょっと待って! な、なんじゃこりゃあああああ!」


 テーブル上の映像なのに思わず身がすくむほどの爆発が収まると、そこには、黒い無地に戻ったカードが、何枚も落ちていた。ケイの持ち駒は、後方で動いていない「荒れ野の姫君」だけを残して、一撃で全滅していた。


 目の前のテーブル上で壊滅している自軍を前に、ケイが呆然としていると、ギャラリーの客の一人がシオンにささやいているのが聞こえた。


「美しいお嬢さん、そのカード、数万分の1の確率のスーパーレアですよ」


「まあー、そうなのー、何だかよく分からないけどすごいわー」


 なぜかいつもと違うなよなよした口調でそう言いながら、シオンはちらちらとケイの表情を伺っている。ケイは、さすがに情けなくなってきた。


(なんでこんな展開で負けなくっちゃならないんだよ! 相手は、ただ、単純に、信じられないほど運がいいだけじゃないか……くそっ、この土壇場でこんなカードを引くか? こんな、こんな……やっぱり、運気の大きさで負けるのかよ!?)


 いつもの客商売の接待プレイならば、完全な敗北を認めつつ、スーパーレアを引いた相手の運気の大きさを賞賛して、祝いの宴会でもやらせて店で金を使わせればいいだけだ。だが、この勝負だけは、絶対に負けるわけにはいかない。


 ケイは、空中に浮かんでいる、スーパーレア天使の説明文を読んだ。


(なんじゃこれは! 『全部で3発しか撃てない』って、さっきのをあと2発も撃てるのかよ、ひど過ぎる! しかも空中扱いで、普通の駒じゃ攻撃しにくい!)


 これは、スーパーレアにはありがちな性能だった。出る確率は非常に低いので、ゲームのバランスを崩壊させるほどの性能でも問題ない。相手に出てしまったら、その回の勝負はもう諦めろということだ。点数を付けながら何度も勝負するルールの場合は、スーパーレアによる勝ちは「役」が付かないので点数が低くなり、それでバランスが取れている。ルール上は、ノンレアの組み合わせだけで勝つ方が、「役」が付いて点数は高い。


 だが、今回は、点数の関係ない一発勝負なのだ。ケイは、自分の剣の師匠の、並外れた運気の強さを甘く見たことを後悔していた。


 (ダメだ……次の師匠の手番で、確実に姫君を攻撃される! 場に出してない駒を取りあえず盾にしても、さっきの奴の一発で全滅するだろう……ここで使えるカードが出なければ、終わりだ!)


 「死霊使いネクロマンサー」などがいると、撃破されたカードがアンデッドのカードに変化したり、一定時間後に伏兵として出現できたりする。だが、そんなレアカードは「凡人」には無縁で、引けたためしがない。


 ケイは、たった一人で戦場に身をさらしている、自軍の「荒れ野の姫君」を見た。その小さな姿が、今はただ、ただ、哀しく感じられた。


 脂汗が、顔の皮膚を覆っている感覚がしてきた。目をこすりながら、ケイはエメラルド色に光る、カードの山に手を伸ばした。いつもは、同じノンレアが出ると確信して引く頼もしいカードが、今は、絶望の塊だった。


(頼む……たのむっ! 今までちゃんと、まじめに仕事してきただろ、誰にも迷惑かけずに生きてきただろ……!? 今だけでいい、今日だけでいい、僕に、せめて人並みの運気をくれっ……!)


 ケイは、大金や女、土地の権利まで賭けた大勝負で、そうやって祈りながらカードを引くプレーヤーたちを何度も見てきたが、内心では、軽蔑していた。偶然の幸運に期待するような打ち方、生き方をするのは、肝心なところで理性を失っているだけの、大馬鹿者だ。運気などに期待せず、理性と諦めで、平凡に、無難に生きている、自分のような凡人の方が賢いのだ、と。


 だが、今や、自分も、その大馬鹿者に、成り下がっていた。


 震える指先が、わずかに、カードの硬く冷たい端に触れた。汗ですべるカードを、まさぐるように、何とか手のひらに納める。全身に冷たい汗をかきながら、ケイは、馬鹿の祈りとともに、カードをひっくり返した。


 そのとき、誰かが、背後で笑ったような気がした。


 ケイは、一瞬、振り返ろうとしたが、やはりそのまま手元のカードを見つめた。ブラックオパールの一瞬のきらめきが過ぎ、まず、カードのレア度を示す枠が、周囲に浮かび上がる。


 それは、金色のつる草だった。


(やった……やったぞ! スーパーレアだ!)


 ケイは、跳び上がりそうになるのをこらえつつ、スーパーレアの証である豪華な金色の枠の中に、今まさに浮かび上がろうとしている絵柄と文字を待った。だが、いつもは、どのカードでも同じタイミングで現れるはずの絵が、なかなか浮かんでこない。


 おかしいな、とのぞき込んだその瞬間、ケイは異様な感触を、カードを持った右手に感じた。まるで、見えない指先が、カードから出てきて、自分の手首をつかんだような気がしたのだ。


「うわっ!」


 思わず声が出た。しかし、カードは落とさなかった。力は抜けたはずなのに、なぜかそれは、指先に貼り付いたかのように、ケイの目の前から消えなかった。


 そして、金色のつる草が、突然、腐食したかのようにまだらに染まり、暗い色に変化した。それはまるで、紫色に染めた金属のような、とらえどころのない異様な色彩だった。


(何だ? この色の枠は見たことがないぞ? デザインは間違いなくスーパーレアだが……)


 目を細めて見つめるケイの指先で、カードはようやく、何か文字を浮かび上がらせ始めた。しかしまだ、絵柄ははっきりしないで、枠の中にはもやもやとした暗闇があるばかりだ。


 ケイは、絵柄よりも先に、くっきりと確定した文字に目をやった。こんな現象も、見るのは初めてだった。




〈呪いのカード「夜」、カードナンバー0〉


 説明:このカードは、これを引いたプレーヤー一人に対して、以下の運命を与える。


**************************************


 「呪われし者アカースト・ワン」よ、なんじはまず、最良のものと最悪のものを同時に得る


 その剣は、最も輝ける棺を覆い、また最も汚れた宝庫をも開く鍵とならん


 闇に迷い、深淵の底に至りて、己の写し姿を、稲妻閃く破れし鏡の中に見出さん


 つかうるべき神子に邂逅するも、道をたがいて、自らの暗き剣をその血に染めん


 そは、汝の真なる物語の序章なり


 旅立ちの日、大地の剣が天を切り裂く


 星も無き暗き夜を貫きひた走り、氷海の果てに至りて、汝は天空の真の姿に打ち据えられん


 されど、呪いは、青き星の光を浴びしとき、「大いなるうたげ」にて終わる


 そは、輝ける英雄の物語の、永遠の終わりともならん


**************************************




 ケイは、目を凝らして、カードの小さな文字をもう一度読んだ。説明文の意味が、よく分からなかった。


「んん? 呪いか……この手のカードは、地味なようでけっこう相手の行動を制限できるからな、悪くない! しかもスーパーレアだし……枠の色が紫なのは初めて見たが……どういう効果があるのかなあ」


 もう一度説明文を読むが、やはり使い方が書いてない。その上に現れるはずの絵柄は、まだ確定せず、暗闇がゆらめいているだけだ。


 ケイは、もう一度、説明文の最初を読んだ。


〈このカードは、これを引いたプレーヤー一人に対して、以下の運命を与える〉


(プレーヤーに対して? どういうことだ?)


 ケイが首をかしげていると、後ろにいるギャラリーの客の中から、ぼそぼそとつぶやきが漏れ始めた。そのつぶやきは、やがて拡がり、ざわめきとなり、不穏な響きを奏で始める。テーブルの横にいた客たちが、ケイの後ろに回り始め、手元のカードをのぞき込んでは驚嘆の吐息を漏らす。


「これは……うわさに聞く、呪いのレアカード!」


「呪いだ……ゾロの呪いだ!」


「確率神ゾロの運命の鉄槌! おお、我が主神アイシェルのご加護を!」


(はあ? この人たち、何を言ってるんだ? ゾロの呪いだって?)


 ケイは、もう一度カードを見た。そのカード「夜」には、まだ絵柄がなかった。ただ、紫色の枠の中に、暗闇が蠢いているだけだ。


〈このカードは、これを引いたプレーヤー一人に対して、以下の運命を与える〉


 プレーヤー一人に対して。


(何だこれは……どういうことだ? 呪いって……プレーヤーって、僕が、ゲームの中の駒じゃなくて、僕自身が、呪われたってことなのか? こんなゲーム用のカードに?)


 そして、戸惑うケイの視野に、真っ青な顔で駆け寄ってくる、ドレス姿のシオンが映った。




 「何が呪いよ、ばかばかしい! あんたらいいから仕事しなさい!」


 黒ひげの店長はそう怒鳴りつけると、制服に包まれた長身を翻して、キッチンのドアから店内に出て行った。


 ケイの将来を賭けた勝負がうやむやになった後、ケイの周囲を心配そうに、あるいは興味深げに取り囲んでいた店員たちも、その声に散り散りになる。後には、キッチンの隅で小さな椅子に座ったケイと、腕組みをして考え込んでいる黒いドレスのシオン、それと、人のいい、先輩の女性ディーラーが一人残った。


 シオンが、何気ない思い付きのように、ぼそりとつぶやいた。


「『呪いのレアカード』が出る確率は、70兆分の1だそうじゃのう」


 ケイは、どうでもいいような現実味のない数値だ、と思った。


「……なんですかそれ。どうやって計算したんだか」


「さあのう、じゃが、一つだけ、確かなことがある」


 シオンは、不安げにカードをつまみ持っているケイを、ひたと見据えた。


「少なくとも、ゼロではないのは確実じゃ。ここに一人、実例がおるからには」


「全然、何のなぐさめにもなりませんよ」


「呪いのカードも、カードに力を持たせるには必要だ、と聞いたことがある。1ゾロがいやだからといって、1の目が出ないように削ってしまったら、もうそれはさいころではなくなってしまうじゃろう? そういうことじゃ」


 シオンは、ケイにしっかりと向き直り、少し声に力を戻して言った。


「おぬし、このカードゲーム『コスタ・ゾロディア』の名の意味を知っておるか?」


 シオンの唐突な問いに、ケイはずっと手にしていたカードを取り落としそうになった。しかし、それは、指先から落ちなかった。


 その「夜」というカード名を眺めながら、ケイは答えた。


「ええと、古代語で確か、『ゾロの肋骨』とかいう意味だったかと……ゾロってのは、確率とかギャンブルの神様だったような気が」


「そうじゃ、よく知っておるのう」


 シオンはうなずいた。その目には、もはや、自分の好意をないがしろにした弟子への怒りはなかった。ただ、哀れみと不安だけが、黒いドレスに包まれた細い肢体を、いっぱいに満たしているかのように見えた。


(確率神ゾロ……)


 それは、古代文明時代から伝わる、古い神の名前だった。


 確率を操り、永遠の中に時間を生み出したという、「恐るべき道化」とも呼ばれる邪神、確率神ゾロ。


 正邪、善悪を全く区別せず、全てを許すという「究極の愚神」。混沌の象徴であり、夜の時間に訪れる生と死、出産を守護するともいう、「射干玉の髪の」夜の女神、アルルアンケ。


 人間が自然を分析し、理解する理論を作り出すと、必ずその中に不完全な部分が見つかるのは、この神の仕業と言われる。「万物理論の書を食い破る紙魚」、誤謬と狂気の神、クドルオー。


 この三柱の神は「三邪神」として、今の世にも広く知られている。この大陸で支配的な勢力を誇る、光の神アイシェルを主神とする「アイシェル教」でも、この邪神たちの名は経典に載っているのだ。ただ、邪神たちの方が、アイシェル教の成立よりもずっと古いらしい。


 「邪神」と呼ばれているとおり、これらの神は、おおっぴらに信仰の対象にできるものではない。ただし、夜の女神アルルアンケだけは、「全ての罪を許す」慈悲の女神として、庶民には信仰が残っている。ケイも、娼婦の一人が、部屋に小さなアルルアンケの像を隠し持っていて「穢れたわが身をお許しください」と、毎日祈っているのを知っていた。


「しかし、呪いってのはよく分かりません。これって、魔法を使った、カードゲームなんでしょう?」


 ケイはそう聞き返しながら、何だか不安になってきた。自分が毎日触っていたカードについて、実は何も知らなかったのではないか、と思えてきたのだ。


 そして、シオンの答えは、その不安を裏付けるものだった。


「いや……実はな、この『コスタ・ゾロディア』のカードは、普通の魔法ではないようなのじゃ」


 シオンは、以前に、冒険者としての調査依頼で、このカードの製造元を調べるという仕事をしたことがあったという。だが、カードの出所をいくら探っても、誰も、これをどこの誰が作っているのか、全く知らなかった。それどころか「どこで買ったのか知らない、以前からあるものを使っているだけ」「いつの間にか必要なだけのカードが棚にあった」などと、そもそも金を払って購入した記憶を持っている者すら、一人も出てこなかったのだ。


(なんだそりゃ、まるでカードが勝手に増えているような言い草だな)


 ケイは、この店にあるカードもそうなのだろうか、と首をかしげた。言われてみれば、足りないカードを購入して補充しておけ、などと指示されたことは、一度も記憶にない。


「そもそも、『呪い』というものは、普通の魔法とは全く次元の異なるものなのじゃ。我々が日常使っている魔法の薬やお札といったものは、ただの『技術』じゃ。もちろん、高度な技術で、専門家の魔導士でなければ扱うことはできぬし、公開されない『秘儀』というものもあろう。しかし、魔法というもののほとんどは、ちゃんと学習すれば、理解し、作成や操作のできる、全てが既知の物に過ぎぬ」


 それは、ケイにも何となく理解できた。蚊やハエを避ける虫除けの魔法の札や、娼婦たちが使う避妊のお札などを、近所の魔法屋に買いに行くのも、彼の毎日の仕事だった。


 シオンは、ケイが不気味そうにつまんで持っているカードを見つめた。


「しかし、『呪い』となると、普通の魔導士が扱っている魔法とは、全く違う。それは、人の運命を――つまりは、物事の起きる『確率』を変動させる、神の力、ということなのじゃ」


「確率を操作する? このゲームカードに、そんなとんでもない力があるっていうんですか?」


 シオンは、自信なさげに答えた。


「私の知り合いの魔導士は、そう言っておる……人格に多少、いやかなり問題のあるあ奴じゃが、魔導士としての知識は確かじゃ。あれが言うには、このカードは、今は失われた、古代の『確率変動技術』で作られている、ということじゃ。それが、本当に、邪神ゾロの『神の力』なのかどうかまでは、分からないそうじゃがな。まあ、神が実在するものかどうかという議論はともかく」


 ケイは呆れた。シオンの語る内容にではなく、自分自身に呆れたのだ。


「やれやれ、まさか、こんな得体の知れない、どこの誰が作ったのかも分からないような不気味なもので、毎日仕事をしてたなんてなあ……」


 ケイの嘆きに、それまでは黙って話を聞いていた、先輩の女性ディーラーが、不思議そうに彼の顔を見つめた。


「今まで何度も、このカードの呪いのうわさについて、みんなで話をしたことがあったじゃない? お客さんだって、よくゲーム中に呪われた人のうわさ話をしてたわよ。本当に、この店に2年以上もいて、呪いの話を一度も聞いたことがなかったの?」


 ケイは、返答に詰まって、黙って手の中のカードを眺めた。


 この店で数年間働いていたのに、そんなうわさを聞いた記憶は全くない。客の話には耳をそばだてて情報収集してるし、記憶力だって悪くないつもりで、そんな奇妙な話を聞いたらさすがに覚えているはずだ。彼女の言うことが本当なら、それこそ戦場に飛び交う矢のように、うわさ話が交錯している中を2年間もうろついていて、「たまたま偶然」一度もその矢に当たらなかった、ということになる。それに、店で読んだデッキ傾向の研究書にも、呪いのレアカードの記載はなかったはずだ。


(呪いとは、確率を操作するもの……確率……いや待てよ、呪われたのはついさっきだぞ。それ以前の2年間のことは関係ない……いや、やはり関係あるのか? まさか、時間をさかのぼって呪いが作用したとでもいうのか?)


 頭が混乱してきたケイに、シオンがさらに追い討ちをかけた。


「実はな、私と冒険者の仲間で、以前、このカードがらみの仕事を請けたことがあるのじゃ。この『コスタ・ゾロディア』に呪われた人物が行方不明になったのを、探し出してくれ、という依頼をな」


「えっ、本当ですか?」


 シオンは、目を伏せながら、ゆっくりと話し始めた。どうも、話すべきかどうか迷っている、という表情に見える。


「ああ……1年ほど前だったか。依頼を受けてから、行方不明になった男の足取りを追って、場末の酒場でゲームをしていて呪われた、という証言は複数すぐに取れた。しかし、そこからの足取りが全くつかめなくてな」


 シオンは、そこで少し黙った。ケイは、この天才魔剣士の目に、何か恐怖に襲われたような、おびえの色があるのを見つけた。


「結局……我々は、その男を見つけることはできなかった……行方不明になった街から、500キロも離れた、砂漠で発見されたのじゃ、死体となってな。発見者の隊商の証言によれば、彼は、一番近い村からも20キロはある、乾燥しきった砂漠の真ん中で、大きな陶製のバスタブの下敷きになっておった。が、死因はそれではなく、溺死とのことじゃった。太陽の照り付ける砂漠の真ん中だというのに、彼の服はまだ濡れていて、しかも周囲には、まだしおれてもいない、ツクバネアサガオの鉢植えが幾つも置かれていた。そして、無地に戻った『コスタ・ゾロディア』のカードが1枚、手に握り締められていた、ということじゃ」


「どういう独創的な死に方ですか!? それが、この呪いのレアカードの力だっていうんですか?」


 ケイの叫びに、シオンは済まなそうに、しかしはっきりと答えた。


「正直に言おう。私にも、これがどういうことなのか、さっぱり分からん」


(正直過ぎる!)


 ケイはそこで、突然、この問題の解決法を思い付いた。


「あ、これ、カードの山に戻せばいいんじゃないですか? 普通はそれで、無地の黒いカードに戻るでしょ?」


 シオンは、首を振りながら呆れたように返した。


「やってみよ」


 ケイは、この不気味な問題から逃れる簡単な方法を、なぜ今まで思い付かなかったのか、と妙に軽い気分で、「夜」のカードを持って、キッチンからフロアに出た。客が遊んでいる場所は避け、一番隅のテーブルで、積んであったカードの山に「夜」を伏せて戻す。すると、ドロー済みであることを示す裏面の模様が消え、引く前の状態に戻った。そして、少し間をおいてから、戻したばかりのカードをめくってみる。


 カードの表は、真っ黒の無地に戻っていた。そして、ノンレア「不用意な驟雨」が浮かび上がってくる。その見慣れた絵柄に、ケイは、足腰の力が抜けるほどの安心を感じた。


(な、なーんだあ、これでいいんじゃないか……何が呪いだよ! みんなで、このカードのことを知らない僕を、かついでたんじゃないのか?)


 そこへ、ゆっくりケイを追ってきたシオンが、背中から声を掛けた。


「もう一度、そうじゃな、そっちの別の山から、1枚引いてみよ」


「は?」


 ケイは、言われるままに、今「夜」のカードを戻したのとは別の山から、1枚ドローしてみた。


 そして、再び、金色のスーパーレアの枠が、不気味な紫に変化するのを見つめた。


「な、なんじゃこりゃ? いったいこれは、どうなってるんですか?」


 以前と全く同じ文面の「夜」を握り締めてうろたえるケイを、シオンは、死に瀕した幼子を見るような哀れみの目で見つめていた。


「要するに、呪いの力はカードではなく、おぬし自身に作用しておる、ということじゃ。だから、カードを捨てようが失くそうが、呪いが解けることはない……じゃが」


 シオンは、そこで語気を強めた。


「その、『夜』のカードの文言じゃ。最後のところに、終了条件が書いてあるじゃろう?」


 ケイは、「呪いのレアカード」の表面に浮かぶ、小さな文字を見つめた。


〈されど、呪いは、青き星の光を浴びしとき、『大いなる宴』にて終わる〉


「ああ、この『大いなる宴』がどうとかですか」


「そうじゃ。この『呪いのレアカード』に共通する要素として、『必ず終了条件が設定されている』というのがあるらしい。まあ、希望を失うことはないということじゃ」


「希望とか言われても……こんな訳の分からない文言じゃあ、どうやって条件を満たせばいいのやら」


 シオンは、あともう一つ、と言葉を続けた。


「大事なことを言っておかなければ。そのカードな、決して、燃やしてはならんぞ」


「燃やす? 暖炉に放り込んだりとか、ですか?」


 ケイは思い出した。このカードは、折れたり曲がったり濡れたりはしないが、火を付けると、普通の紙のカードと同じで、燃えてしまうのだ。


「そうじゃ。不確かな話ではあるが、過去の文献によれば、カードを燃やしてしまうと永遠に呪いが解けなくなる、と言われておる。通常は本人が死亡した場合、呪いはそこで終わるところが、子々孫々に至るまで呪われ続けるらしい」


(なんだそりゃ……子孫とか、そんな未来の話、今はどうでもいいんですが)


 ケイは、漆黒のドレスを着たままで、心配そうにカードをのぞき込んでいるシオンの顔を見上げた。普段とは違う、化粧と香水の匂いがする。


「あのう、僕が騎士の従者として奉公するかどうかの、この勝負なんですが……」


 そう口にしながら、ケイは、シオンの表情をうかがった。また、彼女が眉根を寄せて、不肖の弟子を叱り始めるのではないか、と、心のどこかで期待しながら。


 シオンは、澄んだ黒い瞳で、ケイを見つめ返した。その表情には、何の曇りもなく、真摯そのものだった。


「それはひとまずいい。先方には、私から連絡しておこう。それよりも、呪いによって何が起きるか、見極める方が先決じゃ」


 最後にそれだけ言って、シオンは自室への階段を上っていった。ケイは、ただぼんやりとして言葉もなく、その二度と見られないかもしれない、美しいドレス姿を見送った。


 どうやら、やっぱり、かつがれているのではないらしい。彼女の態度は、はっきりと、呪いの実在への確信を、ケイに伝えていた。




 それから、ケイは、普段どおり仕事に戻り、客たちの相手をしてカードゲームをプレイした。彼のデッキ傾向は、いつもと全く変わることはなく平凡で、ノンレアをうまく使った接待プレイにも何の支障もなかった。


 ただ、仕事着のポケットに入れた「夜」のカードは、謎めいた文面を浮かび上がらせているだけで、いつまでたっても、その絵柄は確定しなかった。


 シオンとの勝負の翌日も、何も変わらない日常だった。


 その次の日も、何もなかった。呪いの発現どころか、たんすの角に足の小指をぶつけるほどの不幸すら、全く起きなかった。


 そして、それは、3日目にやって来た。




 「いやー参りましたよ。まさかあそこで『火刑皇帝』を引き当てるなんてねえ! お客さん、運気のお強い方なんですね、何のお仕事をなさっているんですか?」


 ケイ・ボルガは、その夜も、店の1階フロアで、客を相手にカードゲームをプレイするディーラーの仕事をしていた。


 この日は、早い時間から、4人以上で点数を競い合うルールで大きな勝負を繰り返して、少し疲れていた。一息入れようと先輩ディーラーに交代してもらってから、一人で店に入ってきてきょろきょろしている、冒険者風の男を見つけて、テーブルに案内したのだ。


 この都会慣れしていなさそうな新規の客は、「炎系」のカードがよく出るデッキ傾向だった。


(こういうデッキ傾向の人は、一攫千金タイプが多いらしい。でも、失敗して、それこそ『自らをその激しい情熱の炎で火刑に処するがごとくに』破滅することもある――って、研究書に書いてあったなあ……)


 いかにも着慣れていない感じの流行りの服に、サイフもふくらんでるから、一山当てたところか、とケイは推測して、そう口にしてみた。すると「古代遺跡を探索していて魔法のアイテムを見つけた」と話し出した。「なぜ分かった?」と聞かれて、カードの出方で分かる、成功者の運気だ、と定番セリフでおだてる。いつもどおり、ある程度金を巻き上げてから、最後に少し勝たせていい気分にして、2階に送り出した。サイフの残りを搾り取るのは、きれいなお姉さんたちの仕事だ。


(自分のカードは、いつもと同じデッキ傾向のまま、ノンレアの連発だ! 仕事もばっちり、今日も平穏、僕は凡人! さあ、仕事するぞ! 呪いなんてどうってことない!)


 ケイは、「呪いのレアカード」については、やっぱりかつがれたのではないか、と思い始めていた。と言っても、シオンや、先輩のディーラーたち、ギャラリーの客までが、共謀してケイをからかった、と思っているわけではない。


(この呪いのカードって、要するに、カードの製作者が洒落で入れたものなんじゃないか? これを引き当てた不運な犠牲者が、呪いに怯えて騒いだりして、それがうわさとして広まることでカードの神秘性を演出しようとか……みんな、それに引っかかってるだけじゃないの? 現に、僕の身には、何も起きてはいないんですけど!)


 ケイは一人で納得したように、何度もうなずいた。


(そうだ、本気で心配している師匠にも、そう言っておこう。師匠が言ってた、呪われてから砂漠で変死した人がいるってのも、何かの間違いか、ただの偶然だろう……ゲーム用のカードに呪われて運命が変わるなんて、そんな荒唐無稽なこと、あるわけがない)


 ケイは、いつもしているように、用具入れのたんすの陰に隠れるようにして、店のフロアを眺めた。夕方から降り出した雨のせいか、客は普段よりちょっと少ない。各テーブルでゲームに熱中する客の姿も、その間を忙しく往復するウェイターも、勝ちを収めた客にすり寄る娼婦たちも、いつもと何も変わらない、見慣れた光景そのものだ。全てが変わりなく、暖かく、静かだった。


(静かな夜の帳が、というのがまさにこれだな。うん、この世はこうでなくっちゃ! 人生は、平凡が一番さ! 僕は主人公じゃない!)


 そのとき、また、誰かが背後で笑ったような気がした。


 ケイが振り向こうとしたその瞬間、店の入り口の、ガラス張りのしゃれた扉が、ばたーんと大きな音を立てて開いた。本降りになり始めた雨が、夜の風とともに店の中に吹き込む。開け放たれた扉から、向かいの店の明かりに照らされて、落ちてくる雨粒が光る糸のようにはっきりと見えた。


 その光の中に、巨大な人影が、雨に濡れて、仁王立ちになっていた。


(な、なんだ? 巨人族の客か? 収穫期でもないのに珍しいな)


 その人影は、明らかに人間の体格ではなかった。身長は、どう見ても3メートル以上ある。その巨大な人物は、頭を動かして店の中を見ることもなく、真っすぐに前を向いたまま、店の中に歩み入った。


 店の照明がその濡れた身体を照らすと、その巨躯は、頭から爪先まで、全てが金属製の鎧で覆われていた。鎧は鎖帷子ではなく、金属の板を曲げて作った板金鎧プレートメイルだが、その厚みは尋常ではない。金属板を加工したのではなく、鋳造品かとも思えるほどだ。首筋を守るように異様に盛り上がった肩のところなどでは、5センチはありそうな断面が、奇妙な緑がかった色に輝いている。そして、シンプルなデザインの兜の頭上には、動物の角か何かで作ったらしい、立派な兜飾りクレストがそそり立っていた。


(なんじゃこりゃ? 全身板金鎧フルプレートアーマーを着込んで街中を歩く奴があるかよ! しかもあの兜、まるでカブトムシの角だなあ……最近は、鎧兜の飾りも、やたらと派手で大きいのが流行してるらしいけど)


 その巨大な人物は、鉄塊のごとき鎧の重さを全く感じさせない、すべるような動作で、フロアの中心へ移動していった。恐るべき質量の金属の塊が、その存在だけで店内の空気を威圧し、押し分けていくように感じられる。客たちも皆、遊んでいたカードを放り出し、目を丸くして、この巨漢を見つめていた。


 そして、全身鎧の巨人は、店の1階フロアの中心、ケイが立っている用具入れの近くまで来て、ぴたりと立ち止まった。そして、店に現れたときからずっと無言のまま、その大質量で周囲を威圧し、まるで磨き上げた金属製の彫像のように、微動だにせず立ち尽くしている。


 ケイは鉄の巨体に気おされ、用具入れの影ですくんでいたが、鎧巨人が背中に、リュックサックを背負っているのに気付いた。巨人の体格に合わせたそれは、物書き用の机が丸ごと入りそうなくらい大きかったが、布地はかわいいピンク色だった。蓋のところには、やはりかわいいデザインだが巨大な、魚のアップリケが付いている。蓋の隙間からは、フリルの付いた布地が、くしゃくしゃになってはみ出しているのが見えた。なぜか、かすかに、香辛料の匂いがした。


「着いたぞ、我が水晶の姫よ」


 鎧の中から、驚くほどよく通る、男の声が響いた。訓練されたテノール歌手のような、音楽的な音色を感じさせる声だ。すると、背中のリュックの中身が、いきなりもぞもぞと動いた。


「……ふにゅう、もう着いたの?」


 リュックの中からしたのは、眠たそうな、少女の声だった。


「ああ、着いた。位置も店名も、君から事前に得ていた情報と一致している。ここでいいはずだ」


「みゅー、ここが、そうなの……」


「そうだ。既に、着いた」


 ピンクの巨大なリュックサックががさごそと音を立てて動き、蓋の、フリルの付いた布がはみ出しているのと反対側の隙間から、ぴょこんと頭が飛び出した。黒い直毛を短めのおかっぱにしていて、つるんとした白い肌の、幼い顔立ちだ。前髪の横に、透明感のある石で作られた、魚の形の髪留めを付けている。


 その少女の顔は、まだ眠たそうに、周囲を見渡した。


 店じゅうの視線が、その顔に集中していた。


「んん?」


 少女は、首をめぐらせて、もう一度店内の状況をつかもうとした。そして、自分がどこにいるのか、やっと理解したらしく、突然、深い漆黒の目を見開いた。


 そして、見事なまでに、赤面した。


「うぐぐぐぐ……うわああ!」


 少女は、釣り人の手から逃れようとするウナギのように、リュックの蓋の下からずるずると這い出した。そして、そのまま顔面から床に落ちそうになり、リュックの布地にしがみ付いて何とか墜落を回避する。フリルの付いたスカートがふわりと広がり、白い太ももがむき出しになった。危うくスカートの中を店内の観客に公開しそうになりながら、彼女はしばらくもがき、やっと床に降り立った。どうやら、あまり運動神経は良くないらしい。


(巨人のリュックサックの中から、幼女が出てきた……)


 ケイは、ただ呆然として、鉄の巨人と、そのそばに降り立った少女を見比べた。少女の背丈はケイよりもずっと低く、140センチもなさそうだった。年齢は十二、三歳くらいだろうか。肩のラインなども華奢で、顔つきもまだ幼げで優しい感じだ。だが、その目には何か、強い意志の宿った、輝きのようなものが感じられた。フリルの付いたドレスはゆったりしたデザインで、仕立ての良いものに見えるが、くしゃくしゃにしわが寄っていて、裾が泥で汚れていた。


 少女は一つ、深く息を吸い込み、ぴんと背筋を伸ばした。背中から足まで、きゅっとした美しい曲線が、彼女の身体に現れる。そして、彼女は小さな手を握り締め、その拳を天に向かって突き上げた。


「ちょっと! 何でもう店の中にいるの!? 店に入る前に起こしてよ!」


 甲高い、しかし和音のような響きのあるきれいな声で、抗議が響き渡った。鉄の巨人は、少女の突き上げた拳の意味が理解できない、とでもいうように、二又に分かれた巨大な角飾りを振った。


「なぜだ? 場所はここで間違いない。ここが、君の言っていた『夜と嘘』のはずだが?」


「店は間違ってなくても場所は違うでしょ! もー、アンドリューったら、ここは店内じゃないの!」


「うむ、だから店に着いたと言った」


「そーじゃない! 私が恥ずかしいでしょ!」


 拳を振り上げてぴょんぴょんと跳ねながら抗議する少女の言葉に、アンドリューと呼ばれた巨人の鎧姿は、ぴたりと停止した。すると、彼の顔を覆っている兜の、眉庇バイザーののぞき穴から、奇妙な光が漏れ始める。それは鮮烈な青色に輝き、まるでその光が彼の思考そのものであるかのように、しばらくちらちらとゆらめき続けた。


 やがて、青い光のちらつきが、ゆっくりとその動きをやめ、鎧ののぞき穴はただの黒いスリットに戻った。アンドリューという名の巨人は、店じゅうの人間が息を止めて見守る中で、静かに言葉を発した。


「よく、分からない」


「あうち!」


 相互理解に至るのはもう諦めた、といった様子でよろめく少女を、ケイは、完全に思考停止状態で見つめていた。


(な……何なんだ、この巨大な鉄塊とちみっこい幼女のコンビネーションは!? あまりにも異常だ、異常過ぎる!)


 そこでようやく、自分の仕事を思い出した。


「ちょ、ちょっとすみません、お嬢さん」


 声を掛けられて、少女はケイの方を振り向いた。彼女の肢体から、ふわりと、焼きたてのパンの匂いが漂った。まんまるの黒い瞳が、ぴたりとケイの方を向く。その顔立ちに、ケイはふと、どこかで会ったことがあるような気がした。


「お嬢さん、ここは子供の来るところじゃありませんよ。この店は大人が遊んだり、お酒を呑んだりするところ、紳士の社交場なんです。小さな女の子が入ってはいけません」


 少女は最初、ケイのセリフを黙って聞いていた。だが、「小さな」のところに来ると、その整った眉毛が、どこかで見たような角度に跳ね上がった。彼女はまるで、そうしないと相手の視界に入らないとでもいうかのように、縦方向にぴょんぴょんジャンプしながら抗議した。


「あ、あなただって、私と同じくらいの年ではありませんか! 誰が小さいですか!」


 どうやら、身長が低いのを気にしているらしい。とはいえ、十二、三歳くらいならこんなもんだろうに、とケイは思った。


「ぼ、僕はここの従業員ですから、いいんですよ」


 ケイの言葉に、少女はぴたりと縦方向の運動をやめ、彼が着ているディーラーの制服に目を留めた。そして、そのままケイの顔に視線を移す。その表情には、目をそらすことのできないほどの、何か切実なものがあった。


「このお店の方ですか! では、こちらに……シオン・ベルという、冒険者のお仕事をされている方がいらっしゃいませんか? その方に、お会いしたいのです!」




 「姉さま! ユキエ姉さまあ……!」


 ケイは、ミニサイズの少女と鋼の巨人を、2階の応接室にいるシオンのところへ案内した。冒険者の仲間と仕事の打ち合わせをしていたはずだったが、客はもう帰ってしまったらしい。シオンは剣を抱いたいつもの姿勢で、一人で古代遺跡の地図を眺めているところだった。そこへ連れて入った途端、少女は目に涙をいっぱいに溜めて、シオンを姉と呼びつつ駆け寄ったのだ。


「なに……お前は! テアロマ、テアロマか!? どうしたのじゃ、なぜこんな所へ!」


 シオンは、心底驚いた様子で、自分に抱き付いてきた少女に問いかけた。だが、テアロマと呼ばれた少女は、その小さな身体を自分の姉に預けて、ただ泣くばかりだった。


「なんと、大きくなったものよ……そうか、もう2年ぶりになるのか……すまぬのう、愚かな姉じゃ、お前をあの城に残して、何もしてやれんで……」


 そう静かに語り掛けながら、シオンは自分の妹の頭を優しく撫でていた。ケイは、自分の剣の師匠のそんな様子を見たのは、初めてだった。


(妹さんだったのか……顔や体つきはあんまり似てないけど、そうか、このきれいな黒髪はよく似てる……しかし、ユキエ姉さまって、師匠の幼名かな? あまり聞かない名前だが……この人、どこの国の出身なんだっけ?)


 ケイは、テアロマという名の少女の脚に、擦り傷が幾つもあるのに気付いた。ドレスの汚れ具合といい、この小さな女の子が、姉のいるこの店までたどり着くまでに、相当苦労したのは確かなようだ。そう思いながら、銅像のように微動だにせず佇んでいる、アンドリューと呼ばれていた巨人を見上げたが、こちらは疲れているのかどうかすら見当が付かない。


 取りあえず、熱いお茶でも淹れてあげようと応接室を出かけたとき、テアロマがぴたりと泣くのを止め、涙に濡れた顔を上げると、はっきりした声で語り始めた。


「お姉さま、お願いです、どうかアスタルテ姉さまを……女王陛下を助けてください! お城は今、大変なことになっているのです……試合に、開会式に、戦列機を間に合わせなければ!」


 そこまで話したところで、テアロマは言葉を切って、ケイの方を振り返った。魚の形の髪留めが、ランプの明かりにきらりと光る。大事な話らしいからやはり席を外そう、とケイが部屋を出ようとすると、シオンが呼び止めた。


「ああ、これは大丈夫じゃ。こ奴はケイ・ボルガといって、ここの店員じゃが、私が剣術を教えているのじゃ」


「お弟子さん……?」


 少女は、涙に濡れた瞳で、ケイを真っすぐに見つめた。ケイは、やはり、どこかで会ったことがあるような気がした。


「そう、私の不肖の弟子じゃ。不肖の弟子とは、師匠にちっとも似ておらん弟子という意味じゃ」


「いちいち説明しなくていいです!」


 師匠の説明に、ケイはそう即答した。彼女が、ケイを他人に紹介するときの定番セリフなのだ。テアロマは、その二人の掛け合いを、不思議そうな顔で見つめている。それから、傍らのアンドリューを見上げつつ、私の護衛の騎士です、と紹介した。さすがのシオンも、その巨体と鎧には、少し驚いた顔を見せる。


 ケイは、テアロマを守るように背後に立っているアンドリューに、せめて兜を脱いでくつろいでは、と言った。すると、彼の巨体の中から、また美声が響き渡った。


「いや、お構いなく。顔に醜い火傷の痕があるので」


 ケイは、納得できた、と思った。戦場で負ったひどい傷をマスクなどで隠した客は、店の常連の中にも何人もいたからだ。少なくともこれで、この鎧の巨人の存在を、自分の常識の中に組み込むことができる。


「そういう設定にしろと女王陛下から言われたのだ」


 再構成したケイの常識は、アンドリューの続く一言であっさりと粉砕された。


(設定とか言わないで! 今やっと安心できたところだったのに! と、とにかく、階下に行ってお茶を取ってこよう)


 ケイが階下のキッチンから、熱い紅茶とクッキーを盆に載せて戻ってくると、二人の姉妹は昔の思い出を語っている最中だった。まだ、テアロマは、ここへ来た事情を話し出していないようだ。


(そうだ、話が終わったら、湯を使ってもらおう。汚れた服の着替えは……サイズが合うのがあるかな?)


 そう思いながらお茶を勧めると、テアロマは丁寧に礼を言ってから、すぐに一口飲んで、ほっと息をついた。


「とてもおいしいわ。ありがとう」


「いえ、ここの店では、けっこういい茶葉を使ってますからね」


 そう言うと、テアロマは首を振った。


「ううん、あなたの淹れ方がいいの。私には分かります。本当においしいお茶、ありがとうお弟子さん……でも確かにいい茶葉です。南洋のソファロン産、去年の初夏に摘んだ新芽を快速船で運んできたものですね」


(すごい、正解だ……味覚が鋭いのかなあ)


 少女は、キューティクル輝くつややかな黒髪のおかっぱを振りながら、紅茶については全てを知っている、とでもいうような、自信に満ちた口調で言った。ケイは、小さいのによく知ってますねえ、と褒めかけてから、「小さい」が彼女の逆鱗に触れるかもしれないと思い出して、言うのをやめた。


「あ、アンドリュー、熱いから気を付けて飲んでね」


 テアロマの忠告に、アンドリューは巨大な手で器用にティーカップをつまみ上げながら答えた。


「うむ、分かった、我が水晶の姫よ……もう少し砂糖を入れてもいいかな?」


 その様子に、ケイは戦慄した。アンドリューは兜の眉庇を少し上げて、確かにカップに口を付けてお茶を飲んでいるのに、全く普通に言葉を発していたのだ。よく聞くと、その美声は、彼の兜の頭部からではなく、胴体の中から虚ろに響いてくるようにも思えた。


(ぶ、不気味だ!)


 ケイの淹れた紅茶を飲み干してから、テアロマは、かちゃり、と、ティーカップをソーサーの上に戻した。


「あらためて……私の名は、テオブロマ・カルナルジャータ・カムアタツヒメ・レインコール。イクスファウナ王国の、レインコール王家の王女です」


 ケイは、その言葉の意味を理解するのに、数秒はかかったような気がした。それから、さらに数秒たってから、テアロマの身分が意味する、ある重要なことに気付いた。


「イクスファウナ王国って……ここからすぐ南の島国の……お姫さま! あれ? ってことは、し、師匠もお姫さまってことですか!? あれ、僕、ふ、不敬罪?」


 ケイは、驚愕の目で二人を交互に見比べた。シオンは、抱いた魔剣の柄に頬を寄せ、少し哀しそうな表情で答えた。


「それは昔の話じゃ。私は……王位継承権を捨てて、城を出た。今は、ただの、一人の魔剣士に過ぎぬ」


 その言葉に、テアロマは細い肩をすぼめ、泣きそうな表情になったが、そこまでで踏みとどまり、意を決したように背筋を伸ばした。それから、南の島国から来た、この小さな姫君は、彼女の国で起きた事件について、しっかりした口調で語り始めた。




 彼女の国、イクスファウナ王国は、この店「夜と嘘」がある自由交易都市フォトランから、すぐ南の海に浮かぶ島国である。大陸側とは、「竜骨街道」が形成する長大な橋で結ばれており、交易も盛んで、経済や文化も発展している。しかし、やはり島国ゆえか、大陸側の国々とはかなり異なる、独特の文化を持った国だ。全長数千キロにも及ぶ列島は気候の変化に富み、自然は豊かだ。住みやすいいい国だとケイは聞いていたが、実際に行ったことはなかった。


 先代の王が数年前に疫病で亡くなり、男子がいなかったため、長女のアスタルテが「クリステロス3世」として女王に即位した。まだ若いこの女王は、才気に優れ、そして、自国の現状を、即位前から深く憂えていた。


 大陸側の大国がかける軍事的圧力や、共和国の革命の動きなど、ここ数十年にわたり、世界情勢は激動の時代を迎えていた。しかし、国内では、分割された領地を所有する諸侯たちが、国政を牛耳っていた。旧態依然とした、貴族同士の無意味で矮小な駆け引きだけが政治の全てで、大陸側の新しい動きに対応する能力は、全くなかったのだ。


 この状況を打開するため、女王は即位後、すぐに改革に乗り出した。彼女と同じく国家を憂える優秀な官僚を身分を問わず起用し、税制の改革や、南方の植民地への莫大な投資などを始め、さまざまな政策を実行に移した。


 そして、改革と南方貿易の推進によって得られる、莫大な富を使って、女王は、最も重要な改革を断行した。それは「近衛軍」の創設だった。


 王家直属の護衛部隊、という意味では、以前から「近衛」は存在していた。しかし、女王が始めたのは、それだけで国家を守れるほどの戦力と規模を持つ軍隊を新規に設立し、女王にだけ忠誠を誓わせる、ということだった。それは、戦争になったとしても、各地の貴族たちの戦力を頼る必要がない、ということを意味する。さすがにこれは、諸侯たちの激しい反発を招いた。


 毎年春に王城で行われる定例会議で、守旧派の諸侯たちは女王の政策を批判し、さまざまな手段で難癖を付け、撤回を要求した。クリステロス3世は、最初は諸侯らをなだめて、型どおりの会議を切り抜けようとしていた。だが、諸侯らが、砂糖税の税率を上げることを要求し始めてから、女王の態度はかたくなになったという。


「民への深き慈悲をもってほまれとするこのレインコール王朝において、子供の口からあめ玉を取り上げるような真似を、この私にせよと?」


 この女王の一言が、対立を決定的にした。反発を隠さなくなった諸侯らは、この定例会議の規則である「重要な案件が議決されるまでは、王城から出て自分の領地に帰ってはならない」という条項を逆手に取って、女王が王宮から外に出られないように軟禁したのである。


「なんと、恥知らずな奴らめ! 最近、諸侯らの反発が激しいといううわさは聞いていたが、ここまでやるとは……とはいえ、彼らの狙いは、本当は砂糖税だけではなかろう?」


 シオンは、椅子から立ち上がってうろうろ歩き回りながら、今すぐにでも自分の国に飛んで帰りたい、という様子だった。椅子のそばに置いた魔剣「風花姫」が、持ち主が触れてもいないのに、少し冷気を帯びている。


 テアロマ姫は、そんな姉の様子を懐かしそうな目で眺めながら、冷静な口調で答えた。


「はい。彼らの本当の狙いは、女王陛下ももちろん分かっておられます。諸侯らは、近衛軍の拡大を、何としても阻止したいのです。特に、『近衛戦列騎士団』の、新型戦列機の大量導入を!」


(戦列機! あの、身の丈4メートルの、鋼のからくり仕掛けか! あれを近衛軍として自分の手駒にしようってのか、女王さまは!)


 ケイは、「竜骨街道」でもときどき見かける「戦列機」の、鉄塊のような姿を思い浮かべた。


 「戦列機」とは、正式名称を「歯車式強化外骨格ギヤードメイル」という。数千年前の古代文明の遺産を、現在の技術でコピーしたという兵器で、簡単に言えば、「中に入った人間の動作をそっくりまねして動く、巨大な、機械仕掛けの人形オートマトン」だった。数十年前に戦場にデビューしたそれは、文字どおり「一機当千」の破壊力をもって、戦争のあり方を根本からひっくり返したのだ。


 ケイは、それが戦っているところは見たことはなかったが、「剣の一振りで鎧を着た騎士10人を真っ二つにする」などという武勇伝は、店に来る客から何度も聞いていた。


 最近は、どこの国でも、戦列機が軍事の主役になりつつあった。しかし、機体が高価なせいで、王家や豊かな貴族でないと、数を揃えられない。結果として、王だけに軍事力が集中する形になる。この「絶対王政」の時代に、相対的に存在感を失った、諸侯らの不満が高まっていたのである。


(確か、あれって、魔剣士の持つ魔剣が、動力源なんだっけ……そうか、それで師匠を頼ってきたのかな?)


 ケイは、相変わらず無言で姫のそばに立っている、アンドリューという名の護衛の騎士を見た。おそらく、鎧の中身は巨人族の傭兵なのだろうが、この巨体でも、機械の無慈悲な破壊力で剣を振るう戦列機には、到底かなわないはずだった。


 テアロマは、冷静な態度で話を続けた。十二、三歳くらいの年齢とは思えないくらい、理知的で整然とした語り方だ。ケイは、王家の姫とはこれほどのものか、やはり普通の人間とは違う、と感心した。


「定例会議の結果、決まったのです……女王陛下は、賭けに出ました。この春に、自由都市ヴェルデンで開催される闘技大会で、決着をつけようと。陛下直属の近衛部隊の戦列機が、そこで優勝すれば、その戦力としての価値を認めようということになったのです」


 だが、その賭けは、最初から不正なものだった。女王の名代としてヴェルデンに向かう途中、テアロマ姫と、戦列機に乗る予定の魔剣士たちは、正体不明の賊に襲撃されたのだ。けが人を近くの村に運び込んで手当てしてから、姫とアンドリューは追っ手を振り切り、自分の姉のいるこのフォトランまで、二人だけでやってきたのだということだった。


「お願いです、お姉さま! どうか、負傷した魔剣士の代理として、ヴェルデンの闘技大会に出場してください! 出場枠は3名、そのうち一人は、このアンドリューがエントリーしています。あと二人、戦列機に乗れる魔剣士が、どうしても必要なのです!」




 この店「夜と嘘」には、大きな風呂釜があって、そこからパイプで、各部屋の風呂桶に直接湯を供給できるという、ぜいたくな仕組みになっている。ケイは、2階の部屋の一つに入り、蛇口を開けて、風呂桶に湯をため始めた。それから、戸口にある札をひっくり返して、この部屋が使用中であることが従業員に分かるようにする。


 応接室にいる姫を呼びに行こうとしたところで、廊下に並んだドアの一つが開き、金髪の女が顔を出した。


「ちょっとケイちゃん、アレを切らしちゃったのよ、悪いけど買ってきてくれない?」


 その娼婦は、裸の上半身を隠そうともせずに、ケイに銀貨を一枚手渡した。ケイは、その乳白色の巨大な乳房が揺れるのを眺めながら、いつもの奴でいいですか、と聞いた。彼女が言う「アレ」というのは、避妊用の魔法のお札のことだ。


 銀貨をポケットに入れてから、ケイは廊下のガラス窓から、外の街の様子を確認した。雨は少し、小降りになってきたようだ。それから廊下に目を戻すと、背の低い少女が、窓に張り付くようにして外を眺めているのに気付いた。その黒く大きな瞳は、新しいドレスか宝石でも見る町娘のような輝きで、小雨に濡れた街を行きかうさまざまな人種を、熱心に見つめている。


 やはり、この少女はどこかで見たことがある、と思ってから、ケイはその正体に、やっと思い当たった。


 自分が「コスタ・ゾロディア」でいつも引く、あの可憐な「荒れ野の姫君」に、どことなく似ているのだ。


「あの……」


 ケイは、どう呼んでいいものか、と迷いつつ、テアロマに声を掛けた。


(姫君なんだよなあ……やっぱり『姫さま』って呼ぶべきか)


 テアロマは、ケイが声を掛ける前から接近に気付いていた様子で、ろくに振り向きもせずに答えた。


「この街には、ずいぶんいろいろな人がいるのですね。夜の街というものを見たのは、初めてです」


「ええまあ、ここらでは、妖精族とかも、大勢働いてますからねえ。アンドリューさんみたいな巨人族も、けっこういますよ」


 そう言うと、テアロマはなぜか、少し動揺した様子で、ええ、とだけ答えた。


(ん? ……それにしても、まだ子供なんだし、こんな小さな、しかも一国の姫を、こんな夜の街に置いておくのは、さすがによくないかもなあ。まあ、急ぎらしいし、すぐに師匠と一緒にヴェルデンへ旅立つんだろうけど。今夜だけは勘弁してもらうしかないか)


「あっ、あれは、何ですか!?」


 突然、テアロマが窓の外を指差して、天井までぽんと反響するような高い声を上げた。ケイがその指先を見ると、窓に映る夜の街並みを、ぼんやりと光る大小の点が動き回っている。イワシか子アジの群れのように宙を泳ぐそれは、おぼろに夜の空間を漂い、明らかに実体ではなかった。


「ああ、あれは『時幻』ですよ。この辺りは太古の昔、海の底だったらしくて……その時代の古代魚の姿が、夜になるとああして見えることがあるんです。まあ、幽霊みたいなものですが、害はありません」


「まあ、あれが……きれいなものですね」


 実際に目にするのは初めてらしく、テアロマは小さな身体でぺたりと窓に張り付いてしまった。夜光虫のような青く弱い光を放つ古代の甲冑魚の姿を、夢中で眺めている。


 この世界に存在するさまざまなエネルギーや情報は、昼間の間は普通に存在しているが、時間の流れが不安定な夜になると、地下に沈んでいって「魔石」に結晶する。「時幻」はその過程で起きる現象だというのが、ケイが聞いたことのある通説だった。


 夜の闇は、時間の流れを計ることのできない、混沌の世界なのだ。


 小さな姫君は、夜の歓楽街の様子に興味津々といった様子だったが、ケイが、風呂の準備ができた、と告げると、喜んで付いて来た。その無邪気な様子を見ていて、彼は、少し切ない気持ちになった。


(この姫さま、こんな小さな身体で、王家に対して仕掛けられた悪意の罠をくぐり抜け、この夜の街までたどり着いたのか……)


 戻ってみると、風呂桶には、ちょうどいいくらいに湯が入っていた。湯の栓を止め、せっけんとバスタオルなどを確認し、部屋の中をきょろきょろ見回しているテアロマに、一人で大丈夫ですか、と聞く。姫だからいつも召使いの世話になっているのでは、とケイは思ったのだが、彼女は、大丈夫です、一人で入れます、と自信ありげに答えた。


「では、ごゆっくりどうぞ」


 ケイは、そう言ってから部屋を出たが、ドアを閉めてからすぐに、着替えを持ってくるのを忘れたことに気付いた。


「あ、すいません、着替えはすぐに用意しますので……」


 そう言いながら、ドアを開けて部屋の中に戻る。その目の前には、白く滑らかな肌があった。


「あら、なあに?」


 テアロマ姫は、かがんでこちらに尻を向けた姿勢から、微笑みながらケイの方に向き直った。すぐに戻ったつもりだったのに、彼女はもう、全ての服を脱ぎ捨てて、全裸だった。向き直ったところで、その胸元が露わになる。


 そこには、驚くほど大きく、白くつややかに輝く、二つの卵形の物体が、柔らかそうな曲線を見せていた。


(なんじゃこれは! こ、これは、この身長に完全に不釣合いなサイズは、子供じゃない!)


 テアロマは、自分の裸身を全く隠そうともせず、ケイに近づいてきて、不思議そうに首をかしげた。可憐な曲線を描く小さな身体のラインから、乳房だけが圧倒的な存在感で突き出し、揺れていて、見ているだけで精神の安定を失いそうだ。ケイは、呼吸が不規則に荒れるのを感じながら、その揺れの、見事な色つやの先端から目をそらそうとしたが、できなかった。肩から背中の辺りに、何かこわばるような、不自然な緊張を感じた。


「あ、あのっ、すいません、あのっ、お着替えはすぐに持ってきますので、ゆっくり入っていてくださいっ!」


 テアロマは、今や、ケイのすぐ目の前まで来て、ほとんど前を隠そうともせずに、彼の前に堂々と立っていた。その小さな顔には、全く何の恥じらいも、緊張もなく、ただやさしい微笑みだけがあった。さらに彼女はケイに近づき、不思議そうに、下から彼の顔を見上げた。ほのかに、焼きたてのパンのような、香ばしい匂いが、その身体からただよう。


「はい、わざわざすみません……だいじょうぶですか? お熱でも?」


 ケイは、硬直した脚を無理やり動かして、テアロマの白い肢体から後ずさった。関節が、油の切れたちょうつがいのようだ。


「はい、いえっ、たぶん、可及的速やかに大丈夫です!」


 あまりにうろたえて、腰が引けた体勢になった。ケイの目の前に、その眼球と同じ高さに、姫君の乳房があった。ケイは、その白く突き出した柔らかな曲面に対して、からからに乾いた唇で、こう呼びかけた。


「大丈夫です……姫さま!」


 ケイは、姫の胸元に吸い込まれるような錯覚がしたが、あやうくその前傾の動きをねじまげ、そのままごろごろ前転しそうな勢いで部屋を出て、やっとでドアを閉めた。


(な……なんてこった! 小さくなかった! 大きかった! あんな……あんなに大きくて、きれいな……あんなの、初めて見たよ!)


 ケイは、荒い呼吸を整えながら、姫君に対する自分の認識を修正した。


(あんまり身長が小さいから、12歳くらいだと思い込んでたよ……でも、あの胸といい、腰のラインといい……そんな子供じゃあない。ドレスのデザインのせいか、体型が分からなかった。そういえば、僕と同じくらいの年だって、言ってたような……)


 つまりは、十五、六歳くらいだということになるか、とケイは一人でうなずきながら、自分がまろび出てきたばかりの木製のドアを見つめた。姫が入浴している音が、かすかに聞こえてくる。


 ケイは、自分が今、みっともなく動揺し、混乱していることを、自分でも理解できないでいた。この店で子供のころから働いてきて、娼婦たちの裸体など毎日のように眺めて、女の裸には慣れている。それなのに、テアロマの乳房を目にした途端、背筋から肩までが硬直したようになり、目が潤んで、その二つの柔らかい曲面が、頭の中に焼き付いてしまったようだ。


 彼は、これほどの見事な女性の胸部を、今まで見たことがなかった。実に、精神の安定を失うほどの乳だった。


(なんだこれは……どうかしてるよ、あれはお姫さまなんだぞ……お姫さまなのに、一国の姫なのに、ドレスの下は、あんなに、女の身体で……)


 ケイは、自分が、見てはいけないもの、禁じられたものを見たのだ、と分かった。そして、その事実に、恐怖ではなく、何か別の、複雑で言葉にできない、奇妙で切ない感覚を感じた。


(お姫さま、か……それにしても、裸を隠そうともしないで堂々としてたなあ。やっぱり姫だから、召使いの存在に慣れてるのか?)


 そう思いながら、廊下の壁にかかった鏡を見て、ケイはすぐにまた、自分の誤りに気付いた。


(あ、そうか! この顔のせいか! 姫さまは、僕のことを、女だと思い込んでるんだ! ……常連のお客さんたちはみんな、僕のことを知ってるからなあ。女に間違われたのは久しぶりだよ)


 ケイは、この間違いを姫に告げて正すべきか、と一瞬思ったが、すぐに首を振った。


(姫さまはすぐにここから発つんだ。二度ともう、会うことはないだろう。こんなことを告げて、怒らせたり恥をかかせたりする必要は、全くないさ)


 二度と会うことはない、と思うと、ケイの脳裏に、またあの二つの白い物体が輝くように浮かんだ。また、心が波立つのが分かった。彼の平凡な日常は、その平穏な精神衛生は、もはや完全に破壊されていた。


「おい、我が妹が入浴中の風呂の前で何をしておる」


 ドアの前で呼吸を乱しているケイを、後ろからシオンがにらんでいた。完全に、不審者を見る目だった。背中の魔剣から、死の凍気が漂う。


「い、いや、違いますよ! ぼ、僕は着替えを買ってきますんで、で、ではっ!」


「ちょっと待たんか。まったく、まだ子供の癖に最近色気づきおってからに……うっ!」


 性犯罪者をとがめる目でケイを後ろから捕まえようとしていたシオンが、突然、息を呑んで動きを止めた。ケイが振り返ると、目の前に、天井まで届きかけた、巨大な鋼の姿があった。


「テアロマに、何かしたのかね?」


 暗く沈んだ色の鋼の鎧の中から、冷静な声が響き渡った。ケイは、アンドリューが、テアロマ姫の護衛の騎士であることを思い出した。


「テアロマに、今入浴中で一糸まとわぬ裸の彼女に、何かいかがわしいことを! とても文章では表現できないようなあれやこれやを! しようとしたのではないのかね?」


 鋼の巨像は、その重量にもかかわらず、音一つ立てない精密な歩みで、ケイとシオンに迫った。天井の明かりが巨体にさえぎられ、辺りが暗くなる。ケイは、その背中のピンクのリュックサックの下に、大きな剣があり、その柄が腰の辺りに突き出しているのに気付いた。今までは、リュックサックが大き過ぎて気付かなかったのだ。


「いやいやいや、してません! 何にもしてませんよ!」


「ちょ、ちょっと待てアンドリュー殿! こ奴は確かに不肖の弟子じゃが、一国の姫相手に変態行為に及ぶ度胸はさすがにない! 落ち着いてくれ!」


 ケイもシオンも、鋼の巨人が怒りに燃えて迫り来る恐怖に駆られて、必死に性犯罪の可能性を否定した。その言葉に、アンドリューはぴたりと動きを止めた。


「何もしていないのかね?」


「してませんしてません!」


 二人の必死の抗弁を聞いて、アンドリューの巨体から、なぜか力が抜けたように見えた。


「そうか……スケベなことは、何もしていないのか……それは、残念だ」


「へ?」


 巨人の言葉の意味が分からず、ケイとシオンは顔を見合わせた。アンドリューは、影のような素早く音のない動きで踵を返して、その場を去ろうとする。その挙動の途中でいきなり振り向き、大軍に突撃を下知する将軍のごとくに、びしっと指を突きつけた。


「姫に何かスケベなことをするときには! ぜひとも、私も、呼んでくれたまえ!」


 何だか残念そうな雰囲気で去っていく巨人を、二人は呆然と見送った。


「な、何じゃ、あ奴は? テアロマの護衛の騎士ではないのか?」


「さ、さあ……」


 ケイは、深くため息をついた。


(まったく、今夜は、何て夜だろう。この二人が来てから、雨の夜の、平穏のとばりが、ずたずたのびりびりだ)




 夜も更けて、雨はほとんど上がっていた。


 湿気の残る夜の空気の中を小走りに、ケイは店の近くに戻ってきた。手には、娼婦から依頼された避妊具と、さっき目に焼き付けた姫君の裸体からサイズを推測した新品の下着を抱えている。


 角を曲がって「夜と嘘」の裏口が面した通りに出ると、まだ消えるには早い歓楽街の明かりの中に、アンドリューが立っていた。その巨大な姿は、雑多な街の照明を反射して、きらきらと輝いている。兜の頭の上には、騎士団が自らの存在を誇示するための旗印のように、とがった角飾りがそそり立っていた。ケイは、子供のころに学校の資料室で見た、南洋に住む大型の甲虫類の標本の、金属のような光沢の甲殻を思い出した。


「……どうしたんですか?」


 ケイは、分厚い板金鎧の後ろ姿に、おずおずと声を掛けた。アンドリューは、分厚い鋼板に包まれた腕を持ち上げると、一言も声を発せず、ただ街の一角を正確な動きで指さす。ケイがその指先を見やると、そこには、4階建ての豪華な造りの、連れ込み宿ラブホテルがあった。


「あの建物だが、先ほどから観察していると、男と女の二人連ればかりが入っていく。そして、全く出てこない。内部を観察しようと入り口にいる男に聞いたが、一人では中に入れないと言われた。なぜだろうか?」


 ケイは、鋼の厚板を積み上げたような、質量を感じさせる姿を見上げた。


(巨人族でもそういうことに興味があるんだなあ……まあ、当たり前か。巨人族同士の本番を見せるストリップ劇場ってのが、隣の都市にあるらしいが……この体格でするのって、どんなふうなんだろう?)


 ケイは、近所にある別の連れ込み宿に、この巨人を連れて行ってやろうか、と思った。そこには、のぞき部屋が付いた「特別室」が幾つかあるのだ。この連れ込み宿の受付の男が語ったところによると、もちろん客には他人からのぞかれることを教えるのだが、「女に縁のない哀れな男に、一つ本物の、一本の愛欲というものを、見せ付けてやってくださいよ」などというと、それまで恥ずかしがっていた客の目つきが変わる、のだそうだ。


(いや、この人の体格じゃ、無理か。あの狭いのぞき部屋には、とても入れないや)


 ケイはそんなことをぼんやり思い出しつつ、さきほどの質問への答えをアンドリューに告げた。


「そりゃあ、あそこは、二人で入ってから、夜通しいろいろするところですからねえ。一人じゃ入れてくれませんよ」


 すると、アンドリューは、納得した、というように角飾りを振り立てた。そして、巨人の手で、いきなりケイの首根っこをわしづかみにした。


「わ、な、何するんですか!?」


「すまないが、少し協力してくれ。ぜひとも内部を観察したいのだ。二人で一緒に入ろう」


 そう言うなり、アンドリューは、ケイの意志も筋肉の抵抗も軽々と無視して、ずるずると彼の身体を連れ込み宿の受付目指して引きずり始めた。


「ちょ、ちょっと待ってください! 僕はこんな女みたいな顔してますけど、そういう趣味はないんです!」


 ケイは、恐怖のあまり尻を両手でかばいつつ、ものすごい力で引きずられていった。どんなにあがいても、全く効果がなかった。まるで軽い竹ぼうきでも引きずるかのように、彼の身体は抵抗感なく、濡れた路面の上を引っ張られていく。


「君の個人的な趣味に興味はない。ただ、黙って協力してくれればいいのだ。おお! 今夜! ついに神秘の門が! 門が! 我が眼前に開く!」


「わああっ誰か助けてっ!」


 こういう場合、童貞喪失なのかそれとも処女喪失なのか、とアホなことを考えた。その無意味な思考の間にも、ケイの身体は軽々と、喪失の門へと運ばれていく。


「おぬしら、天下の往来のど真ん中で、何をたわむれておるか」


 目前に立った影に、アンドリューが動きを止めた。シオンの、細身だが鞭のような身体の線が、歓楽街の明かりを背景に黒く浮き出していた。


「うむ、あの建物の内部調査のために、彼に協力を依頼していたところだ」


 アンドリューが指さす先にある建物を見て、シオンは少し顔を赤くしたようだった。


「あ、ああいうところは、男同士で入るものではないのではないか?」


 アンドリューの指から力が抜けた。ケイは、濡れた路面に思い切り頭を打ち付けた。


「なるほど……やはりそうだったか。あの建物は、男と女で入って、何かいかがわしい行為に及ぶための施設なのだな! では、すまないが、シオン殿、君に協力を……」


「入るかっ! いや、それよりも、アンドリュー殿。おぬしに一つだけ、確かめておきたい」


 頭のたんこぶを撫でながらケイが身体を起こすと、シオンは、脚を少しだけ開いて、アンドリューに対して斜めに立つような動作をしたところだった。普通に見れば、少し力を抜いて、楽な姿勢になっただけだ。だが、ケイには、それが、抜刀術の構えだと分かった。


「おぬしの、その鉄兜の下の顔を、見せよとは言わん。ただ、一つだけじゃ……おぬしの目的は、何じゃ? 何のためにテアロマのそばにいる?」


 ケイは、何のためって、姫さまの護衛の騎士じゃないのか、と首をかしげた。


 アンドリューの兜ののぞき穴から、また青い光が漏れ始めた。重厚な鎧の中から、やはりよく通る男の声が、夜の湿った空気の中を響いた。


「私の、我々の目的は、この大陸の調査だ。特に、そこで支配的な知的種族である、君たち人間の調査が、もっとも重要だ」


 シオンは、油断ない様子で問いを続けた。


「調査? 何のために?」


 のぞき穴からの光が、より強くなった。ケイは、子供のころに本で読んだ、伝説の「地獄の騎士」のことを思い出した。錆び朽ちた空っぽの鎧の中に、怨念の業火だけが、青く燃え続けているという……。


「君たち人間は、奇妙な意識構造を持っているな。『純粋に好奇心だけで行動している』と言うと、全く信用されないのに、『金儲けのために来ている』と言うと、誰もが納得して安心する。とはいえ、我々の目的の一つは、交易だ。それは、偽りない確かなことだよ。女王陛下も、我々の大陸との貿易に、大変関心を持っておられる」


 シオンは、なるほど、といった顔で首を振った。


「姉上は、昔から、新し物好きじゃからのー。まあ、おぬしの存在は、女王陛下も承知の上、ということか」


「そうだ。だが、私と女王陛下を引き合わせてくれたのは、テアロマだ。私は、彼女に命を救われた。その恩には報いるつもりだ」


 アンドリューは、兜ののぞき穴から青い光を漏らしながら、音もなく歩み去った。シオンは、もう構えるのをやめていた。ケイは、シオンの表情をうかがうように、近づいて話しかけた。


「あ、あの人って、巨人族じゃないんですか?」


 シオンは、馬鹿を見る目でケイを見た。


「フッ、おぬしの目には、あれが巨人族などという、人間の親戚のような近しい種族に見えるのか? まったく、節穴じゃのう」


 ケイは、シオンの言葉の意味を測りながら、もう一度、自分の剣の師匠の顔を見た。


「……師匠、お姫さまだったんですね」


 シオンは、弟子の顔を見ようとはせず、街の明かりに目をやった。


「私は、まったく、出来の悪い姉じゃ。己の愚かさゆえに全てを失い、国を捨ててこの街に来て、おいえの、国家の大事に、姉妹を助けてやることも出来ずに……」


 ケイは、シオンの女らしい、細い肩の曲線が、少し震えているように見えた。そして、さっき目にしたばかりの、テアロマ姫の白く、柔らかな肌を、そしてそれを汚す擦り傷を思い出した。


(こんな細い、柔らかい身体で、この人たちは、どれほどの責任や重圧に耐えてきたんだろう?)


 それが王家に生まれた者の、姫君という特別な存在、「歴史という物語の主人公」の運命というものなのだろうか、とケイは思った。


 そして、自分自身の存在を、とても小さい、と感じた。


 だが、その想いは口にせず、シオンの顔を真っすぐ見つめて、これだけ言った。


「旅に出るんでしょう、妹さんを助けるために。いってらっしゃい、冒険者の仕事の方は、僕がちゃんと連絡を取っておきますから」




 翌朝になって、天気はまた悪くなり、低くなった灰色の空から小雨が降り続けていた。ケイは、料理用ストーブのそばで干していた姫の下着を取り込み、きれいにたたんで紙袋に入れた。


(今日中には、姫さまたちはヴェルデンへ旅立つんだな……)


 テアロマの話では、闘技大会への出場手続きと、開会式への参加がなければ、失格になってしまうので、とにかくそれには間に合わせなければならない、ということだった。開会式から、実際の試合が始まるまでには、10日以上の余裕があるらしい。


(参加するのは3名、師匠とアンドリューさんのほかに、あと一人、魔剣士を現地で雇うって言ってたな……まあ闘技場で有名なヴェルデンなら、何とかなるんだろうが)


 そう考えながら、ケイはテアロマの寝ている客室まで来て、ドアをノックした。もう起きていたらしく、すぐに声がする。


「あ、ちょうどよかった! 入ってください」


 ケイは、客室のドアを開けた。そこにはまた、乳白色の、美しい肌があった。寝間着を脱ぎ捨てて下着だけになったテアロマが、豊かな胸を押さえながら、背中をケイの方に向けていた。


「わ、ど、どうしたんですか!? なぜ裸?」


 テアロマは、恥ずかしそうに微笑みながら、ケイの顔を見た。


「すみません、ブラジャーのホックが外れなくて……これ、やっぱり少しきついんです。壊れてしまったのでしょうか?」


 ケイは、白い肌に食い込んでいる、黒いレースの透けている部分が大半を占める下着を、見ていいものかどうか迷いながらも結局見た。昨日、彼が「大人向けの」店で買ってきたそれは、やはり姫の、体格に不釣合い過ぎるその部分には、サイズが足りなかったようだ。


(あれ、店で一番大きいサイズだったような気がするんだが……やっぱり、身体とのサイズ差があり過ぎるんだ)


 ケイは、昨夜同様に、また変な気分になってきて、呼吸が乱れ始めた。子供のようなあどけない顔で身長も低いテアロマ姫が、娼婦向けのあぶないデザインの黒い下着を付けていて、胸だけは、背中から見てもはっきりその大きさが分かるほどに、両脇にはみ出して見えるのだ。背徳感、という言葉が、これほど似合う姿も、そうそうない。


「あのー?」


 テアロマが、不思議なものを見る目で、ケイの方へ振り向いた。両腕を身体の前で組んで持ち上げていたその巨大なものが、ほとんど透けている下着に包まれて、見事な谷間を作っているのが視界に入りかける。ケイは、これ以上精神の安定を失う前にこの部屋から出ようと、テアロマの背中に手を伸ばし、ブラジャーのホックをつまんだ。黒いレースの付いたひもを引っ張ると、指先に、その恐るべき重量と、よくこねて膨らませたパン生地のような弾力が伝わってくる。


「は、外れましたよっ! ではっ、失礼しますっ!」


 サイズの合わないブラの拘束を解かれた乳房が、波打ちながらその形状を取り戻すさまから全力で目を背けつつ、ケイは姫君の寝室から逃げ出した。ドアを閉め、やっと精神の安定を取り戻す。


(はーやれやれ、心臓に悪い! と、とにかくこれでお別れなんだ……気がとがめるけど、姫さまには、僕が女だって思いこんだままで去ってもらおう。まあ、師匠の口からばれるかもしれないけど、後のことだ)


 そう考えて一息ついたその瞬間、今閉めたばかりのドアが、ぎぎぎいーっと軋みながら開いた。その中から、ナイトガウンを羽織ったテアロマが、スリッパをぱたぱたさせながら歩み出てくる。少女らしい可憐な仕草でケイの前に立ち、彼の顔をのぞき込んだが、その目は、さっきまでの優しい眼差しではなかった。


 変態を見る目だ。


「あなたはっ! だ、男性ですね!」


(げ、ばれた!? 今さらかよ!)


「ちょっと、失礼!」


 そう言うなり、テアロマは奇妙な行動に出た。右腕を真っすぐに伸ばし、小さな手のひらを、うろたえているケイの胸へ押し当てたのだ。


(な、何だ? この感覚は!?)


 ケイは身体を硬直させた。胸に触れたテアロマの手のひらから、何か暖かい柔らかいものが流れ出して、自分の身体の内部に触れたような気がしたのだ。しかしそれは一瞬のことで、すぐに彼女は手を下げる。そして、顔を真っ赤に染めながら、よろめいた。


「あ、あなたは、古譚族の血が入っているのですね?」


 「古譚族」というのは、人間と妖精族との混血であるケイの、妖精族の方の種族名だった。男女の体型差がほとんどない、という特徴以外は、人間とさほど変わらない種族で、ロム半島からイクスファウナの列島辺りではさほど珍しくない。


「は、はい、そうですが……」


「あーなんてこと! 私としたことが、それで男の人だって気が付かなかったんだわー!」


 ケイは、今の不思議な行為について質問しようとしたが、頭を抱えて嘆く姫の様子に気おされて、言葉が続かなかった。やがて、姫はぴたりと黙ると、さらに顔を赤らめながら、小さな身体をふるふると震わせ始めた。


「……のぞいた」


「は?」


「わ、私のっ! はだかをっ! のぞきましたねっ!」


 ケイは、返答に詰まった。そして、普段から、裸でうろつき回る娼婦たちの間で仕事をしていながら、こういう場面でどう答えていいのか、自分が全く対処法を知らないことに気付いた。一つだけはっきりしているのは、「姫君と平民」という枠組みでの会話では、もう通用しそうにない、ということだった。


「あ、あの、大丈夫ですよ! ほとんど見えていませんでしたから!」


 さわやかにごまかそうとしたケイを、テアロマは目を細めてにらんだ。


「それはウソです。私の、は、裸を、あなたははっきり見たはずです。特に昨日のっ、お風呂では!」


(うっ、思ったよりも的確な観察力と正確な記憶力……)


 ケイは焦った。このままでは、姫が泣き出すのではないかと思ったのだ。「姫君と平民」という身分の差を考えれば、これは、重大な犯罪になる、と分かっていた。だが、なぜか、床に座り込み、頭を下げて慈悲を乞うという、庶民としての行動を取る気にはなれなかった。


「あ、あのですね、昨日のは違いますよ! あれはのぞきじゃなくて事故です! ドアを開けたときには、もう姫さま脱いでたでしょ!」


 テアロマは、これ以上ないというほど真っ赤に頬を染め、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら抗議した。


「ぬ、ぬぬぬぬぬ脱いでたとは何ですか! まるで私が自分から見せたようではないですか!」


「いや、確かに言わなかったのは悪かったですが、姫さまが僕のことを女性だと思い込んでたから、ああなってしまったので……」


「でも見たもん! のぞいたのぞいたのぞいたもん!」


「いやいやいや、のぞきじゃないです! 確かに、み、見ちゃったことは認めますが!」


 性犯罪が成立するかどうかの押し問答は、2,3分は続いた。やがて、小さな姫君は押し黙ると、顔を赤らめたまま、目をそらして窓の外を見た。


「ま、まあ確かに、故意でなかったことは認めますが……でもっ、こんなことを、他人に口外してはなりませんよっ!」


 テアロマは、突然指を一本立てて、子供のおしゃべりをとがめるような動作で、ケイに迫った。


「こんなことが知れたら、死刑じゃ済みませんよ!」


「死刑よりも重い刑罰があるんですか!?」


「あるんです!」


(あるんでしょうねえ……あんまり想像したくないけど)


 ケイは、昔図書館で読んだ、さまざまな拷問や死刑の方法を図入りで解説した書物の内容を思い出した。昨夜、いろいろ聞いた話からすると、イクスファウナの女王陛下は、この可憐な妹君を溺愛しているらしかった。まず、普通の死に方はさせてもらえないだろう。


(しかし、なぜ僕は、平伏して許しを乞う気になれないんだろう? 相手は町娘じゃない、姫君だ。嫁入り前のその肌を男が見たとなれば、重罪だ。これじゃあ、凡人の平穏な人生が、台無しになるかもしれないってのに……)


 ケイは、目の前に立っている、背の低い、黒髪の少女を見つめた。そして、突然、これまで感じたこともないような、奇妙な気持ちになった。なぜか、ずっとこの少女の前に立って、胸を張っていたい、自分にその眼差しを向けていてほしい、という想いが湧き上がった。その感情が、身体の中で硬く、一本の棒のようになって、どうしても彼の身体を平伏させなかった。


 そこでケイは、ずっと手に持っていた、紙袋に気付いた。そして、その中身を利用して、この局面を打開する方法を思い付いた。


「あ、これ、お着替えです! 昨日のうちに洗濯しておきましたので!」


 ディーラーの仕事をするときの営業スマイルを決めながら、ケイは紙袋をテアロマに差し出した。テアロマは怪訝な表情で袋を受け取り、中身を確認すると、またふるふると震え出した。


「ま、まさか、あなたが私の、ぱ、ぱぱぱぱぱ、ぱんつを洗った……!?」


 ケイは、ここぞとばかりに最高の笑顔を作りながら、さわやかに語りかけた。


「はい! これも僕の仕事のうちなので、お気になさらずー!」


 「仕事で女の裸などには慣れている」という枠組みで、自分をプロに見せる。これが、ケイの考えた打開策だった。ケイが手洗いした洗濯済みの下着を受け取ったテアロマ姫は、あまりのことに意識が遠のいたらしく、少しよろめいた。だが、やはり育ちのよさを見せ、ケイの示した枠組みを受け入れた。


「そ、そうですよね、お仕事ですものね、あはははは……」


(そう、僕は下働きの洗濯夫で、妖精族との混血で、大した存在じゃないから気にしなくていいんですよーという方向性で納得してもらう! よし、これで切り抜けたぞ!)


 そう思ってケイがテアロマを見ると、エサをもらえなかったネコのような顔で、うーっと唸りながらこちらをにらんでいる。それは、下働きの卑しい妖精族を見る目などではなく、自分の裸をのぞきなおかつぱんつを洗った男を見る目だった。


(うっ、やっぱりダメか……)


「おぬしら、公共の廊下のど真ん中で、何を戯れておるか」


 よく聞き慣れた声が、暗い廊下に響いた。魔剣を背負ったシオンが、呆れ顔で二人を眺めていた。


 ケイが言い訳を組み込んだ朝の挨拶をしようとするよりも早く、シオンは短く言葉を発した。何か複雑な表情で、彼の顔を見つめながら。


「ついて来い。大事な話がある」




 シオンの後について店の廊下を歩いていくと、彼女は、目的の場所に付く前から話を始めた。


「実はな、私が自分の魔剣を見出して魔剣士になったときに、魔石ギルドから託されたものがあった。そのことを、ついさっき思い出したのじゃ。今までは、全く、完璧に失念しておったのに」


「そりゃあ、あれだけ毎日呑んだくれてれば、記憶も失うでしょうねえ」


 うっかり叩いた軽口に、シオンは凍える氷雪の刃で答えた。死の冷気が、ケイの首筋を撫でる。


「ここ最近は一滴も呑んどらんわ! この不肖の弟子が! 今日は、死ぬにはいい日和だと思わんか?」


「いや、外、雨ざーざーっすよ! 雨ざーざー!」


 本降りどころか豪雨になってきた窓の外を指差し、必死でその殺気を回避する。シオンは、鯉口を切った魔剣をぱちんと鞘に戻し、ふん、と少女のようにすねた表情でそっぽを向いた。それを見て、ケイは初めて、自分の過ちに気付いた。


(あ、しまった! 数年前まで、酒に溺れてたのを、妹に知られたくなかったのか……悪いことしちゃったなあ)


 2年ほど前、シオンがこの店に来たばかりのころは、酒びたりだったのだが、ケイが剣術の稽古を頼んでからは、なぜか呑まなくなったのだ。


 背後のテアロマの表情をそっとうかがうと、視線を下げて、何かを影の中に探しているかのような、哀しい目をしていた。


 その後は3人とも押し黙ったまま、目的の場所まで歩いた。シオンは、自室の隣にある、大きめの部屋に、ケイたちを招き入れた。そこは、彼女が、冒険者の仕事関係の道具などを保管するために借りている、倉庫用の部屋だった。古代遺跡で手に入れた怪しげな像などが置かれて狭くなっていることもあるが、今は荷物が少なく、すっきりとしている。


 その部屋の中央に、アンドリューが立っていた。足元には、大型の木箱が置かれている。荷物が山と積みあがった壁際から、一つだけ選んで引きずり出したらしい。


「君が指定した荷物はこれかな?」


「ああ、すまぬのう、重くてとても一人では動かせんからな、助かった」


 シオンはそう言うなり、木箱のふたを空け、中のものをがちゃがちゃとかき回し始める。そしてすぐに、中のがらくたの底から、汚い布切れに包まれた細長いものを引っ張り出した。


「おー、あったあった、これじゃこれ」


 シオンはそう言いながら、細長い包みの布をほどいた。中から現れたのは、短めの、しかし刀身の身幅は広い、片手剣だった。拵えは何の飾り気もなくあっさりとしているが、その鞘は透明感のある玉石のような質感で、そして、鞘から柄に至るまでの全てが、真っ黒だった。


(……魔剣だ!)


 シオンの「風花姫」を見慣れたケイの目には、すぐにその剣の造りや素材の質感が、全く同じものだと分かった。その漆黒の魔剣を、シオンはゆっくりと、ケイに向かって突き出した。


「これを、抜いてみよ」


 ケイは、目の前の魔剣と、師匠の顔を交互に見比べた。彼女の目は、静かにケイの顔を見つめていた。心の底まで真っすぐに見通し、そこに何かを探し、見極めようとしているかのように。


「い、いきなり何ですか? この、これって魔剣ですよね、抜けって……」


「抜けば分かる。もし私の考えているとおりなら……いや、妄想しているとおりなら、と言った方がいいじゃろうな。常識的にはあり得ないことじゃが……抜けば、分かるのじゃ、我が不肖の弟子よ。おぬしとこの魔剣が、共振できるかどうかが」


 ケイは、耳を疑った。彼の知っている限りの知識では、それは、不可能なことだった。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。確か、魔剣と共振して魔剣士になるには、自分の魂の持っている、固有の振動数とかにぴったり合う、魔石の結晶を探さないといけないんですよね? だから、魔剣士になろうと志した人は、各地の魔石ギルドを回って、何百万本っていう魔剣の中から、自分と共振できるものを探してもらうっていう話じゃ……」


「そのとおりじゃ。よく知っておるのう」


 シオンは、さらにぐいと剣を突き出した。ケイは、目前に迫ったその黒い魔剣の、美しい鞘を見つめた。それは磨き上げられた魔石でできていて、深く、暗く、まるで、静かな夜の海のように見える。


「いや、だってこの剣は、師匠が何年も前に、魔石ギルドに託されたものなんでしょう? それが、都合良く、ぴったり僕と共振できるなんてこと、あるわけがない!」


「そのとおり。常識的に考えれば、万に一つ、いや、数百万分の1の確率じゃろうな」


「じゃあ、何で……」


 ケイが問うよりも先に、シオンは言葉を重ねた。


「この魔剣の名は、『夜の剣』という」


「…………!」


 ケイは、全身の皮膚が冷たく硬くなり、感覚を失ったように感じた。そして、突然に、仕事着のポケットの中に入れっぱなしだった、「呪いのレアカード」の、その名称を思い出した。


「夜……夜のカード……し、師匠は、僕がこの『夜』に呪われているから、同じ名前の魔剣と、共振できるかもしれないって……そんなこと、ほ、本気で思ってるんですか?」


 シオンは、手にしたままの漆黒の剣に、目を落とした。


「ま、正直、ただの思い付きではある。私がこの『夜の剣』をギルドの導師から託されたときには、その理由も何も、全く教えてはもらえなんだ。ただ、この剣の名前を教えられて、持っていけと言われただけじゃ。その名前を、ついさっき、顔を洗っている最中に、偶然たまたま思い出した」


 シオンは、さらに一歩近づき、ケイに剣を手渡した。


「さ、抜いてみるがよい」


 ケイは、手の中にある魔剣を見つめた。受け取るつもりはなかったのに、気付いたら、手に持ってしまっていた。それは、さほど長い剣でもないのにずっしりと重かったが、重過ぎる、と感じることはなく、なぜかその質量が心地よかった。シオンの手から体温が伝わったのか、ほんのりと温かい。


(ちょっと待てよ……呪いのレアカードと名前が一致してるからって……どうかしてる。おかしいぞ、これ! 自分と共振できる結晶を探し出すのに、大陸中の魔石ギルドを探し回って、何年も放浪したって魔剣士も珍しくないってのに! この魔剣が、偶然、僕と共振できるなんて、あり得ない! そんなこと!)


 これを抜いてはいけない、と思った。が、そう思ったときにはもう、汗ばんだ右手が、黒い皮革と糸でしっかりと巻かれた柄を、握っていた。力を込めたつもりもないのに、鯉口の金具がぱちんと音を立てる。そして、ほとんど抵抗感もなく、音もせず、その刀身が鞘から抜き出された。


(これが、魔剣の刀身!)


 姿を現した「夜の剣」の刀身は、鞘や柄と同じく、漆黒だった。黒曜石を磨き上げたような、つややかな表面には、わずかな傷やへこみもない。その刀身を形成する魔石は、どこまでも黒く、深く沈んだ色をしていて、見つめていると輪郭すら危うくぼやけ、周囲の空間まで侵食しているかのようだ。


 その刀身の闇の色を見極めようと、ケイが目を凝らした瞬間だった。手の中の魔剣が、眠っていた生き物が驚いて目覚めたかのように、びくりと震えた。


 そして、耳鳴りのようなキーンという音が、かすかに、しかし確実に、周囲に響き渡った。


「やはりな。信じ難いことじゃが、やはり、そうじゃったか……」


 ケイが黒い刀身から目を上げると、シオンと、テアロマ姫、そしてアンドリューが、彼のそばに来て、手の中の魔剣をじっと見つめていた。


「姉さま、今の音が、そうなのですか?」


 目を丸くしてケイを見つめているテアロマに、シオンは答えた。


「そうじゃ。我が不肖の弟子、ケイ・ボルガよ。おぬしは、これで、魔剣士じゃ」


(魔剣士……僕が!? 何だこれは? 『夜の剣』……呪いのレアカード『夜』……何だ、僕の身にいったい何が起こってるんだ? 何年も前に師匠が託された魔剣に、今僕が共振できたって……何なんだこのあり得ない『偶然』は! 呪いの力が、時間をさかのぼって作用したとでもいうのか?)


 ケイはただ呆然として、手にした黒い魔剣を見つめていた。今日初めて手にしたばかりのそれは、まるで使い慣れた道具のように、手になじんでいると感じられる。もう、あの耳鳴りのような音は聞こえない。しかし、目を閉じても感じ取れそうな、圧倒的な存在感が、その漆黒の刀身からあふれ出していた。


「ノンレアしか出ないしょぼい運気の僕が、魔剣士? こ、これが、呪いの力だっていうんですか?」


 シオンにそう言いながら、ケイは、ポケットから「夜」のカードを取り出した。左手でカードをつまんで、その文面を確かめようとする。そして、しまった、と思った。


 テアロマ姫が、その深い色の瞳を、ぴたりと呪いのレアカードに向けていた。


(うっかりしてた! 呪いを受けているなんて、姫さまに知られたくないのに!)


 「これは、『コスタ・ゾロディア』のカードですね! 呪いのレアカード! うわさには聞いたことがありますが、これがそうなのですか! み、見せてください!」


 ケイが呆れたことに、この小さな姫君は、何も恐れることなく、呪いのカードに手を伸ばしておねだりしてきた。手渡していいかどうか迷う暇もなく、カードはケイの指先から、テアロマの小さな手のひらに移ってしまった。そのまま彼女は目を凝らして、カードの小さな文字を読み始める。その後ろから、アンドリューも巨体をかがめて、兜ののぞき穴から青い炎のちらつきを漏らしながら、じっとのぞき込んでいた。


(し、しまった。お姫さまに、呪いを受けた人間だって知られてしまうなんて! もう、めちゃくちゃだよ!)


 ケイは、大人気の恋愛小説でも読んでいるかのように集中してカードを見つめているテアロマから、何とかカードを取り返そうと、焦って話しかけた。


「あのう、姫さま。このカードゲームをご存知なんですか?」


「はい、お城でも、他の人が遊んでいるところを見たことは何度も。絵がきれいなので私もやってみたかったのですが、姉上に『ばっちいから触っちゃダメ』と言われました」


「…………」


 テアロマはカードから目を上げずに答えたが、恐怖の呪いの文面の最後辺りを読んだところで首を傾け、何かぶつぶつ言い始めた。


「大いなる宴? むー……」


 姫君から必死にカードを取り返そうとしているケイに、半ばあきれた様子で、シオンが言葉を投げてきた。


「いくら何でも、気にし過ぎじゃ……しかしこの文面、解釈としては『呪い』とは限らないのではないか? ほれ、ここの『闇に迷い、深淵の底に至りて、己の写し姿を、稲妻閃く破れし鏡の中に見出さん』など、なかなか英雄譚らしくてよい感じじゃぞ! まるで物語の主人公のようじゃ」


「いやいやいや! 僕は凡人ですから! 竜殺しの英雄とか、魔王を倒すために異世界から召喚された超人戦士とか、物語の主人公とかじゃないですから! 深淵の底に至ったら普通に死にますから!」


「戦雲がおぬしを呼んでおるのじゃ」


「そんなもんに呼ばれても困るんですが!」


 妹の姫君のそばに寄り、目を細めてカードの小さな文字を見つめるシオンのその口調は、無邪気な少女のようだった。ケイの抗議にも動じずカードをのぞき込んでいた彼女は、しかしふと何かを考え込んでいる目になり、やがてぼそりとつぶやいた。


「しかし……いや、まさかのう……」


 ケイは、テアロマからカードを取り戻すのはひとまず諦め、「夜の剣」に視線を戻した。


 剣には鍔はなく、片刃の刀身は短めだが、身幅は広い。全体として、戦闘用の剣というより、作業用のナタか山刀という感じだ。しかし、決して粗野な作りではない。魔石を研ぐには大量の魔力が必要なので、魔剣には結晶の形がそのまま残っているようなものもあるのだが、これはちゃんと剣の形に整形されていて、鏡のように磨き上げられた刀身だった。シンプルな形状だが、一分の隙もない職人の技を感じる。


 柄は短く、片手でしか持てない長さだが、太めでしっかりしている。刀身はずっしりと重い。魔石は鉄よりもずっと軽いはずだが、と思ってよく見ると、刀身の刃の付いてない方――棟に、溝を掘って金属が埋め込まれていた。シオンはそれを見て、私の「風花姫」と同じ刀工の作品だろう、と言った。


 実に、凄みすら感じる、見事な武器だった。刃も、まるで剃刀のように鋭く研ぎ澄まされているのが、見ただけで分かる。これが鋼鉄の剣だったら、こんなに鋭く研ぎ上げた刃では、すぐに刃こぼれしてしまうだろう。だが、この漆黒の刀身は、ほぼ破壊不能な強度を持つ鉱物「魔石」なのだ。この重量と強度をもってすれば、相手の武器や、板金鎧に覆われた手足ですら、一撃で切断することができるだろう。


 だが、現代において、魔剣の存在価値は、刀剣としての威力にはない。戦列機という最強の殺人兵器を動かす動力源となる、この魔石という特殊な結晶体にこそ、その存在意義があるのだ。時間軸に沿って伸びる結晶構造――いわゆる、チオチモリン構造――を持つこの鉱物は、魔剣士の生命と共振することで、戦列機の発動機である「魔石エンジン」を、無限に稼動させることができるのだ。


「……こんなもの、僕がもらってもいいんですか?」


 ケイの問いに、シオンはきっぱりと答えた。


「その剣はおぬしにしか使えん。だから、おぬしのものじゃ」


 ケイは、剣を立てて、もう一度その魔石の刀身を見つめた。そこへ、テアロマがスリッパをぱたぱたといわせて近づいてきた。


「はい、これお返しします……あれっ!?」


 カードを返そうとケイに近寄ったテアロマが、頭のてっぺんから出ているような声を突然上げ、身を乗り出して「夜の剣」の刀身をのぞき込んだ。


「何かしらこれ! 魔石の中に……青い星が見えましたよ!」


「わあ、近い近い! 危ないですよ!」


 ケイは慌てて、テアロマの顔から魔剣の鋭刃を引き離した。小さな姫君は目をぱちぱちさせながら、あら、もう消えたわ、と言った。黒い刀身をもう一度見つめるが、彼女の言う『星』など、ちらりとも見えない。


(何も見えないぞ……外の光が反射したのか?)


 テアロマは、ケイにカードを返しながら、もう一度魔剣の刀身をのぞき込んだ。


「夜の剣……ノゾキさんの剣だし、なんかえっちな剣?」


「な、何でですか! て言うか、誰がノゾキさんですか!」


 そう言い返すと、テアロマは怒ったり恥ずかしがったりはせず、なぜかケイの顔をじっと見つめた。カードの文面を読んだ後の彼女は、ずっと何かを考え込んでいるかのようだ。


 今、ケイの手元に、魔剣「夜の剣」と、呪いのレアカード「夜」が、再び揃った。その二つを抱えて、彼はただ、この信じられない『偶然』が、呪いの力が、本当に自分の運命を捕らえているのだろうか、とおびえていた。


 そこへ、シオンが、最期のとどめを刺した。


「さて、魔剣士となった我が不肖の弟子よ。すまんが、我々と共にヴェルデンへ来てはもらえんか?」


「はい? 何ですって?」


 ケイはもう、驚愕の事態が立て続けに起き過ぎて、思考が麻痺しかけていた。


「実はな、闘技大会の開会式まで、もう1週間もないのじゃ。開会式には、出場機体をちゃんと歩かせて参加せねばならん。でないと、そのまま失格になってしまう」


 シオンは、心底すまない、という様子で、ケイを見つめた。


「この『夜の剣』のことといい、呪いのことといい、おぬしにとっては何もかも訳が分からん、といったところじゃろう。それは察しておる。正直、私にも全然分からん。しかし、ここは我らに力を貸してはくれぬか」


(正直過ぎる!)


 テアロマも、ナイトガウンの胸の前で手を合わせて、お願いします、と言った。


「もちろん、現地で代理の魔剣士を雇うつもりですが、期日を考えると、開会式には間に合わないかもしれません。あなたが魔剣士となったのなら、どうか、開会式だけ、代役として戦列機に乗っていただけないでしょうか? 試合に出て戦うのではありません。ただ、機体を歩かせて、行進するだけでいいのです。もちろん、お礼はきちんと差し上げます」


 そこでテアロマは、ケイにすっと身を寄せると、少し赤面しながらささやいた。


「引き受けてくだされば、のぞきの件は、特別に、ふ、不問にしてもいいですよ?」


(いやちょっと姫さま! それを交渉材料に入れるのはおかしい!)


 ケイは、腹の底が冷えるような感覚を覚えながら、テアロマ姫とアンドリューを交互に見つめた。彼は今、「夜」のカードの文面の、その最初の部分を思い出していた。


〈『呪われし者』よ、汝はまず、最良のものと最悪のものを同時に得る〉


(最良と、最悪……この小さな姫君と、青い炎を宿した地獄の騎士……この二人が店にやって来てから、何もかも、信じられないことばかり起きてる。まさか、この呪いのレアカードの文面どおりのことが、今僕の身に起きつつあるってことなのか? 凡人のこの僕が、いきなり魔剣士になって、あの鋼の巨人を、戦列機を動かすだって? しかも、一国の政治権力を賭けた勝負で!)


 ケイは、逃げなきゃダメだ、と思った。凡人の本能が、平穏な人生を愛する彼の魂が、最大の危険を彼に告げていた。こんなことに関わってはいけない、回れ右して、恥もなく、後も振り返らずに全速力で走り去らなければならない、と。


 しかし、彼は、背を向けて逃げる前に、テアロマの目を見てしまった。この小さな姫君が自分を見ている、と意識した瞬間、背中の筋肉が硬直した。逃走の動作は、途中で止まってしまった。


 ケイは、腕に抱えた黒い魔剣を、もう一度見つめた。


(魔剣士になったということは、戦列機を、あの身長4メートルの鋼鉄の機械人形を、僕が動かせるってことか……ヴェルデンの闘技場も一度見物してみたいし……そうだよ、闘技場で戦うわけじゃない、単に、開会式で行進すればいいだけだ。呪いとかは、本当にやばそうなら逃げればいい)


 ケイは、自分でも信じられないことを、今やろうとしていた。


 一国の姫君を助けるために、魔剣を手に、旅立とうとしていたのだ。まるで、英雄譚の主人公のように。


「分かりました……行進するだけなら、姫さま」


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