第3章 闘技場へ行こう!

 「お、見えてきたぞ。あれがヴェルデンじゃ」


 馬車の中から、シオンの声が響く。御者台で手綱を取っていたケイは、路面から目を上げてかなたを見た。低い丘が点在する草原と、オリーブやかんきつ類の畑の中を白く伸びる「竜骨街道」の先に、石造りの門のようなものが見えている。


(あれが、自由都市ヴェルデンの入り口か……)


 ケイのいたカード遊びの店「夜と嘘」のある交易都市フォトランから馬車で旅立って、2日間の旅だった。目立たないようになるべく古い私服を着てきたケイは、一国の姫君を乗せるにはあまりにおんぼろな、自分の腰掛けている馬車を見回した。


(しかしまあ、あの『仕事しろよ』が口癖の店長が、よくこの旅を許してくれたもんだ)


 ケイは、店長のオネエ口調と、黒ひげを蓄えた濃い顔を思い出した。説得にはテアロマ姫の威光を借りるしかないと思っていたのだが、この雇われ店長は、なぜかあっさりとケイの同行を許した上に、目立たないようにとこのおんぼろ馬車まで手配し、送り出してくれたのだ。ケイは、その対応ぶりから、店長がシオンの正体も、テアロマ姫のことも知っていたのだろう、と感じていた。


(そういえば、何年か前に店のオーナーが代わって、その直後に、師匠が店に雇われたんだっけ。今のオーナーと、イクスファウナ王国の王家との間に、何かつながりがあるのかもな)


 過去のことを思い出しながら、ケイは「竜骨街道」の白く硬い路面を見つめ、そこから振り返って、フォトランへと続く道が春の陽光に輝いているのを見返した。捨て子だったケイが、拾われて育てられた村から旅立ち、職を探して南へ旅したときも、この白い街道を足で踏みしめて進んだのだ。


(あのときは、何だか、この『竜骨街道』を行けば、どこまでも、世界の果てまでも歩いていけるような、そんな気分だったなあ……僕の道は、結局あの『夜と嘘』の裏通りで、止まってしまったのか)


 ケイはそんなことを考えてから、一人首を振った。


(とにかく今は、この旅を、仕事としてちゃんとこなすことだけ考えよう。どんな仕事でも、やってみせるしかないんだ。文句ばかり言って何もしない人間が、他人から認められることなんかない。それが、世の中ってもんだ)


 ぼんやりとした考えをめぐらせながら、ケイは馬の背中の向こうに伸びている、道幅の広い、平坦な路面を眺めた。この「竜骨街道」が古代からずっと存在し続けたおかげで、現在の世界は情報や物資の流通が途絶えることなく、経済が豊かになったのだ、というのは、子供でも知っている常識だ。実際、ケイも子供のころ、よくこの道を使って、取れたての野菜を都市の市場まで売りに行ったことがあった。


(この『竜骨街道』がなかったら、街まで行くのは山越えで、5日はかかるところだった。それじゃあ、野菜がだめになっちゃうよなあ……というより、そもそも野菜を山積みした馬車では行けない地形だったかもしれない。村の近くに山賊が来たときも、この道を使ってすぐに騎兵隊が駆けつけてくれた。やっぱり、道というのは大事なものだ)


 その滑らかな路面を馬車は軽やかに進み、すぐにヴェルデンの城門を守る砦に差し掛かった。高さが50メートルはあろうかという、巨大な石造りの門が、「竜骨街道」の広い道幅をまたいで、堂々とそびえ立っている。


 「竜骨街道」の道としての機能は、攻めてくる侵略者にとっても有利に働く。だから、どこの国でも、こういう造りの城塞が、街道をふさぐように設置されているのが普通だった。


 もっとも、このロム半島の自由都市群「ロムの妹の首飾り」では、どこの城門も昼夜を問わず開けっ放しで、警備兵も通行をとがめることはほとんどなかった。暇そうにあくびをしている警備兵を横目に、馬車はあっさりと城門を通過し、ヴェルデンの街に入った。


「まあ、きれいな街ですね」


 振り返ると、馬車の中から、テアロマ姫が顔を出していた。ケイは、追っ手が姫の顔を見つけるかも、と思ったが、それは口にせず、そうですね、とだけ答えて、街の風景に見入った。有名な闘技場アリーナのあるこの都市は、淡い緑色やピンク、空色の自然石で作られていて、パステルカラーのさまざまな色彩に染まっている。「ロムの妹の首飾り」の中の「蛋白石ホワイトオパール」と呼ばれているのだ。


「あれは、この地方で採掘される天然の石材か。色を塗っているわけではないのだな」


 馬車のそばを、少し離れて歩いている、巨大なマント姿の人物がつぶやいた。アンドリューは馬車には乗らず、周囲を警戒しながら、馬車に近づき過ぎないように徒歩で旅していた。目立たないようにと鎧の上から布をかぶって、兜の飾りも布で巻いているが、やはり異様な姿だった。相変わらず、巨人サイズのピンク色のリュックを背負っている。


 その布包みのような姿のアンドリューが、ぴたりと立ち止まった。ケイが振り向くと、アンドリューの姿の向こうから、彼よりもさらに大きな、人型の姿が接近してくるのが見えた。


(戦列機だ……姫さまを追ってきた連中の仲間かも知れないが……)


 それは、身長が4メートル以上もあろうかという、鋼鉄の巨人だった。腕も足も、分厚い鋼板を四角く溶接したものを積み上げたようで、その間の関節には、銀色に光る精密な歯車や、小さな部品が幾つも連接したチェーンがのぞいている。胴体も頭も、同じく鋼鉄の箱といった感じだったが、その顔の部分には、二つの丸いレンズが人間の目のように配置され、かすかに赤く光っていた。


 その戦列機は、脚を全く動かしていないのに、馬車よりも速く道を走り、すぐにケイたちに並んできた。


 かすかに冷気を感じた。ケイの背後で、魔剣を抱いたシオンが馬車の外を警戒しているのが、見なくても分かる。


 鋼鉄の巨体は、もう馬車を追い越そうとしていた。ケイが巨人の足元を見ると、脚部の末端、人間で言えば足首から下に当たる部分がなく――おそらく変形して、脛の中に引き込まれているのだ――代わりにゴム製の黒いタイヤが回転していた。魔石エンジンの作動する、ごうごうという機械音が耳を圧する。路面からの振動が馬車の上まで伝わり、その鋼鉄の巨体の重量が身体で分かる。


(確かこれ、拍車滑走スパーグライドとか、車輪走行モードとか言うんだったよな……脚を動かして歩くと機械が消耗するし、乗り手も疲れるから、長距離を走るときはこっちを使うんだっけ)


 脚それぞれにタイヤが一つずつだけなので、左右はともかく前後方向には不安定なはずだが、その機体は、完璧にバランスを保ちながら路面を進んでいく。家がまるごと移動しているかのような大きな機体が、馬車の横まで来た。


 戦列機は、そのままケイたちを追い抜いて、「竜骨街道」を走り去っていった。どうやら、ただの旅の魔剣士だったようだ。その鉄の背中を見送りながら、ケイはあらためて、腰のベルトに下げた魔剣を意識した。


(あの重たそうな鋼鉄の機械人形を動かす力を、僕が持ってるなんて、まだ信じられない。いったい、僕の身に何が起きてるんだ?)


 かすかな潮の香りの中、ケイは、街中までも伸びている「竜骨街道」に沿って、馬車を走らせ続けた。フォトランも交易の港がある街だが、ケイの働いていた繁華街と港の間には、少し距離があった。しかし、このヴェルデンは完全に港町で、淡い色彩のモザイクのような市街の間からは青い海面が見え、大小さまざまの船が停泊している。地図どおりなら、この先すぐに、目的地の闘技場があるはずだ。


 そして、それはすぐに見つかった。ヴェルデンの美しい街並みの中に、建造物が幾つも融合したような、巨大な塊が見えてきたのだ。それは、オパール色の家々の中では異形の怪物のようにも見え、その存在感だけで、市街の中心を制圧していた。




 預かり所に馬車を預けてから、闘技場の事務所に行って、あっさりと出場の手続きは済んだ。事務所から出ながら、ケイはシオンに、今聞いた言葉について尋ねた。


「師匠、さっきの『モンスター枠』って、何ですか?」


 背中の魔剣の位置を直しつつ、周囲をさりげなく一瞥してから、シオンは答えた。


「ああ、この大会の出場枠は1チーム3名じゃが、そのうち1名だけは『モンスター枠』として、戦闘用に調教された魔法生物などを出してもよいことになっておる。もっとも、残り2名の人間が負けてしまうと、モンスターだけ生き残っていても、そこで敗北になるがな」


「なるほど、アンドリューさんも……巨人族もその枠なんですねえ」


 ケイは、そばに巨像のように立っている、マント姿のアンドリューを見上げた。


(しかし、いくら巨人族とはいえ、機械仕掛けの戦列機相手じゃあ、勝負にならないんじゃないか? 大丈夫なのかな……姫さまは、アンドリューさんが出場するのが当然みたいな言い方だったけど)


「姉さまー! ノゾキさーん!」


 ケイを性犯罪者扱いで呼びながら、小さい姿がぱたぱたと走ってきた。テアロマ姫は、店に現れたときの破れたドレスではなく、店のウエートレス用の、スカイブルーのエプロンドレスを着ていた。そうしていると、姫君ではなく、普通の町娘にしか見えない。短い黒髪に付けた魚の形の髪留めが、強い日差しできらきらと光った。そのままケイに駆け寄ってきて、背の低さを補おうとするかのようにぴょんぴょんと飛び跳ねる。


「あっちに屋台がたくさんありますよ! そろそろお昼にしましょう! いついかなるときも、ごはんはちゃんと食べなくてはなりません!」


 ヴェルデンまでの旅路で、ケイがこの一国の姫君について知ることができた、一つの厳然たる事実があった。それは、彼女が、ものすごい食いしん坊だということだ。


「こりゃ、一人で歩いてはならんと言ったではないか!」


 シオンの言葉にも、テアロマはひるまず、早く食事に行こうとせかし続けた。この旅路の間、彼女はずっとこの調子で、宿場町の食堂や屋台、市場などを全て食べ尽くさんとしているかのような勢いだったのだ。


 奇妙なことに、姫君が選んだ店はどこもおいしくて量も多く、一回たりとも外れはなかった。シオンも、食事をする店の選択は、テアロマに任せておけばいい、という態度だ。


(やっぱり、味覚が鋭いのかな……何だか、お姫さまって感じじゃない、不思議な人だ。まあ、久しぶりに姉と一緒に旅ができて、はしゃいでいるんだろう)


 ケイは、そのはしゃいでいるテアロマから、慌てて目を背けた。彼女が着ているエプロンドレスは、やはり夜の店のためのもので、胸のふくらみを強調するようなデザインだった。元気に飛び跳ねているその姿の、特定部位の揺れ具合は、精神の安定にはとても危険だった。


(あれしか着られるものがなかったんだよなあ……きれいなお姉さんたちのドレスじゃあ、丈が長過ぎるし、かといって子供服じゃあ、あの胸は絶対に入らない)


 せかすテアロマの頭を撫でて、分かった分かった、とつぶやきながら、シオンは、難攻不落の城壁のようにそびえ立つ、闘技場の外壁を見上げた。


 「ちょうどいい。今から、午前の部が始まるところじゃ。ちと早いが、昼食は観戦しながらといこうか?」




 鉄製の巨大な門をくぐった瞬間、群集の匂いと、大勢の話し声が合成された音圧が、顔面を打つ。休日のヴェルデンからは、既に大勢の見物人が、市街の中心であるこの闘技場に集まりつつあった。


 入り口近くにできた人だかりでは、賭け札をたくさんはさんだ帽子をかぶった初老の男が、大勢の男たちを相手に講釈を垂れているところだった。どうやら、試合の結果の予想を書いたパンフレットを売っている「予想屋」らしい。


「相手の機体は、かのヤブラン砦の戦で、たったの10機で賊軍の侵攻を7日間食い止めた、『鋼の壁』〈ガルグイユ〉だ! だが、皆さんご存知のとおり、剣士パルミスといえば、飛燕新月流の名だたる使い手! その剣技の真髄は、拍車滑走からの撫で斬り! 正確無比の刃が関節の駆動系を切断すれば、いかに重装甲、ハイパワーの〈ガルグイユ〉とて、動かぬ木偶人形と化して、地に倒れふすやもしれん!」


 客が読んでいるパンフレットをケイがのぞき込むと、表の中にびっしりと、細かい文字で情報が書き込まれている。参加する魔剣士個人の剣の流派や得意技、機体の出力や装甲の厚さ、武器に至るまで、図入りで詳しく説明されているようだ。


 われ先にと手を伸ばす客にパンフレットを売り始めた男の背後には、小さな窓口がずらりと並んでいて、もう行列ができていた。窓口の上に書いてある案内を見たところ、どうやら、試合のカテゴリーや、賭けの方法ごとに、細かく窓口が分かれているようだ。単純にどちらが勝つか当てるだけでなく、複数の試合にわたっての賭けや、勝ち方まで細かく指定するものもあるらしい。


 窓口に一人ずつ座っている売り子の女性たちの背後では、大勢の事務員が、歯車式計算機のハンドルを回して、忙しく賭け率の計算をしては、ガラス窓の後ろにある黒板にオッズを書き出している。


「こりゃ、よそ見するでない、迷子になるぞ」


 シオンに言われて、ケイは人ごみの中をかき分け、彼女の背中に追いついた。とはいえ、はぐれる心配などはなかった。アンドリューの巨大な姿と、布で包まれた角のような兜の飾りは、群衆の中から塔のように突き出していたからだ。


 シオンについて闘技場の入り口から入ると、そこには飾りの付いた窓がたくさん並んでいて、明るく清潔だった。対戦カードが、きれいに塗装された、木製の豪華な掲示板に書き出されている。これには簡単なイラストも書き添えられていて、客が対戦者を識別して賭けやすくする配慮らしい。


 その向こうには、鉄製の太い柵で仕切られた区画がずらりと並んだ、馬小屋のような場所が広がっている。ただし、その囲い一つ一つにいるのは馬ではなく、戦列機だった。機体の形も塗装の色もさまざまだが、どの機体もひざまずいて動かず、その巨体を休めている。その前には、試合順と機体、魔剣士の名を記した木札が置かれていた。


 その木札のそばに一人ずつ待機している魔剣士たちは、緊張した面持ちだったり、機体に乗って操縦装置をいじっていたり、観客に向かって何かアピールして叫んだりしていた。どうやらここは、試合前の魔剣士と戦列機を観客が観察して、賭けるかどうかを決めるための場所のようだ。


(ほぼ、さらし者だなあ……競馬の馬と同じか)


 魔剣士たちの顔を見たところでは、年齢には幅があるものの、かなり若者が多いように思えた。若い女性も何人かいるし、中には、どう見ても10代の少年もいる。ケイは、同年代の魔剣士がいることに、自分でも意外なほどショックを受けた。うまく言葉にできないが、「負けた」ように感じたのだ。


(僕と同じくらいの年なのに、あんな巨大な機械を操縦して戦ってるのか……)


 その若い魔剣士の前にも、ぎらついた目で魔剣士や機体を値踏みしている男たちが、大勢うろついていた。中には、大声で、魔剣士に何か怒鳴っている者もいる。


(稼いだ金を賭けに来る人が、こんなに大勢いるんだなあ。農村と違って、都市ってところは何でも金で動くっていうのは、分かってるつもりだったけど)


 一昔前なら、闘技場で賭け試合を楽しむのは、貴族だけの特権だったはずだ。だが、ここには商売をしたり、工場で働いたりする都市の平民が、自分で稼いだ金を握り締めて賭けをしに来ていた。それはまさに、今の時代を象徴している光景だった。


 鋼鉄の巨人たちを眺めているケイの背中を、つんつんと指でつつく者がいる。振り返ると、テアロマが黒い瞳をきらきらと輝かせながら、銀貨を持って立っていた。


「私たちは先に、観客席に行って席を取っておく。おぬしは適当に食べるものを……」


 シオンの言葉をさえぎるように、テアロマが自国の銀貨を手渡しながらまくし立てた。


「あのっあのっ、あそこの紅白の縞模様の屋台の、角煮肉まんとですね、あちらの緑の屋台の野菜焼きそばを! それとあの店のジャム入り揚げ饅頭が、ぜったいおいしいです!」


(いつの間にチェックしたんだか……これ、5000エン銀貨なんだけど、全部使えってことか?)


 ケイは呆れたが、アンドリューの巨体のことを考えて、すぐに思いなおした。ヴェルデンまでの旅路でも、彼はその体格どおりに、大量の食事を消費していたのだ。


「分かりました。じゃあ、買ってきます。この入り口の先の観客席に行くんですね?」


 テアロマは、はい、とうれしそうにうなずくと、手を振ってシオンらの後を追っていった。その後ろ姿を見ていて、ケイはまた、心の安定が失われるような気がした。それは、風呂場で見た姫の裸体を思い出しただけではない。


(おかしなお姫さまだ。僕に裸を見られたからって『ノゾキさん』呼ばわりなのに、それに呪いのことも知ってるというのに、少しもこっちを警戒したりする様子もない。やっぱり、僕がこんな、女みたいな顔だから、男性として見てないってことなんだろうが……)


 まあ、泣かれて女王陛下に告げ口されて、皮剥ぎの刑や八つ裂きの刑に処されるよりはましか、と独り言を言ってから、ケイはいよいよ増えてきた、熱気をはらんだ人混みを眺めた。




 前が見えないほど大量の食べ物の包みを抱えてよちよちと歩き、ケイはアンドリューの角飾りを目標に、テアロマらが待つ観客席にたどり着いた。かなり前の方の、いい席だ。こんな前の席では、アンドリューの巨体の後ろになった客から文句が出そうだ、とケイは思った。だが、彼は自分の弁当を受け取ると、さっき通路の暗い隅で面白いものを見つけたので観察してくる、と言い残して、風のように歩み去ってしまった。


(いったい何を観察しに行ったんだか……いちゃついてるカップルでものぞきに行ったんじゃないだろうな?)


 アンドリューの奇行は全く気にせず、満面の笑みで食べ物を受け取ったテアロマは、すぐに包みの中身をチェックしつつ、食事を配り始めた。


「はい、ノゾキさんの分」


(のぞき犯はアンドリューさんの方では?)


 経木に入った野菜焼きそばを受け取りながら、ケイは闘技場の内部を眺めた。


 闘士たちが戦うフィールドは、ただの地面のようだが、驚くほど広い。サッカーなどのための球技場よりも、かなり広い面積が取られているようだ。その周囲を、途切れるところなく、ぐるりと観客席が取り巻いている。階段状になっている観客席は、中央のフィールドから遠いほど高くなり、一番外側では、城壁並みの高さだった。さらにその上には時計塔があり、プリズムのような透明な部品が円形に組み合わさった光学式の時計――要するに精密な日時計なのだが――が設置されている。


 フィールドの近くにも塔が二つあり、その上では、ラッパや旗を持ち、派手な制服に身を包んだ男たちが、忙しそうに作業をしていた。これは、審判用の設備らしい。審判たちが身に付けている制服は、紋章官ヘラルドリーのものだが、現代のそれではなく、古代のデザインを模した衣装のようだった。


 ケイは、もう客で満員になりかけの観客席の下、フィールドを囲む高い壁の部分に、巨大な扉が幾つかあるのに気付いた。どうやらここから、戦列機などが登場する仕掛けのようだ。その扉のそばには、窓のように壁に穴の開いた部分があり、油で汚れたつなぎを着た男たちが、右往左往しているのが見えた。シオンに聞くと、試合中に休憩時間を取る場合があり、その間は、あの登場口そばのスペースで機体を修理することが認められている、とのことだった。


 登場口の扉それぞれの上辺りには、屋根の付いた桟敷席があり、貴族らしき男女が酒を呑んでいるのが見えた。これは、その扉から出場する戦列機のオーナーのための場所らしい。


(今の時代、貴族がいくら権勢を誇っても、戦場で手柄を立てるのは、魔剣の力で戦列機を駆る魔剣士だ。平民出身でも、魔剣士になれば出世できる。下級貴族でも、金儲けのうまい人は、金で戦列機と魔剣士をそろえて、手柄を自分のものにしたりしてるそうだが……)


 突然、トテチテターと、明るいメロディーでラッパの音が響き渡った。フィールドそばの塔の上に、ひときわ派手な制服を着込んだ主審らしき人物が現れる。彼は、魔法の拡声器を手にして、試合の開始を宣言した。


「これより、春の花冠トーナメント2部、本日の第二試合を始める!」


 「トーナメント」という言葉は、昔は、馬に乗った騎士同士の槍試合を指すものだった。しかし今では、誰もが、鋼の巨人、戦列機同士の激突をまず思い浮かべるのだ。


「東口、ドラゴンの門より、ドルトビットラント王国騎士、パルミス・プファイル! 搭乗機体は〈アルカンデュラッヘ〉!」


 観客席下の大きな扉の一つ、ドラゴンの絵が描かれた鋼鉄製の扉が、ゆっくりと開いた。


 その中から現れたのは、白く塗られた戦列機だった。今朝、街道で見かけた機体に比べるとずっと細身で、人間の身体にかなり近い形をしている。ちょうど、板金鎧を着込んだ騎士を、そのまま2倍の身長に――4メートル強にまで巨大化させたようなデザインだ。その装甲は飾り気がなくシンプルな形だが、滑らかな曲線に仕上げられ、つやのある白い塗装が陽光に輝いていた。背中には、何か荷物でも背負っているように、箱状のものが付いていたが、この中に動力源の魔石エンジンが入っているらしい。右手に長めの真っすぐな剣を持ち、左腕には小さな銀色の盾を付けている。盾には、騎士パルミスの家柄を示すものらしい、複雑な紋章が描かれていた。


「ほう、パルミス殿、機体を新調したか。〈メテオール〉系のエンドスケルトンじゃのう」


 シオンがそうつぶやいた。知り合いですか、とケイが聞くと、剣を交えたことはないが、かなりの腕の魔剣士だ、ということだった。


 〈メテオール〉という機体名は、ケイも耳にしたことがあった。確か、ロム半島の北にあるドルトビットラント王国が採用している、強力な機体だといううわさだった。その「内骨格エンドスケルトン」に、パルミスが自分の好みのデザインの装甲をかぶせた機体、ということらしい。


 〈アルカンデュラッへ〉は、ゆっくりと歩みを進め、フィールドへ出た。魔石エンジンの甲高いヒューンという作動音と、駆動系の歯車らしい金属的なキュンキュンという音に加えて、一歩ごとに、腹に響く重い足音が観客席まで響き渡る。フィールドの東側の端で立ち止まると、機体の胸部のハッチが開き、その上にある頭部ごと前方に倒れた。中から現れたパルミスは、金髪の若い男で、なかなかの美丈夫だった。観客席から湧き上がった歓声の中に、女性の声がかなり混じっている。どうやら、若い女性に人気があるらしい。


「西口、ウィルムの門より、ノルマニー共和国騎士、ドルトン・ドールトン! 搭乗機体は〈ガルグイユ〉!」


 パルミスの白い機体が出てきたのとは反対側の扉が開くと、そこには、真っ黒な機体が立っていた。


 こちらは、〈アルカンデュラッへ〉よりもずっと大きく、太いシルエットだ。素人のケイにも、分厚い鋼の装甲をまとっているからだ、ということは、すぐに分かった。その盛り上がった肩の装甲など、鉄の板というより、鉄塊と表現した方がよさそうだ。こちらは背中のエンジンの音も低く重く、一歩ごとに全身の装甲が轟音を立ててぶつかり合った。この機種独特の機構なのか、関節部の歯車の駆動音に、高圧の空気が噴き出すバシュッという音が混じる。右手には巨大な斧を持っていたが、その刃は先へ行くほど細くなっていて、斧というよりくさびか何かのようだ。左手には、やはり黒く塗られた、大きな四角い盾を持っている。


(何て大きさだ! こいつはいったい、何トンくらいあるんだろう? あんなものが、よくまあ、人間みたいに歩けるもんだ!)


 〈ガルグイユ〉はフィールドの西側で立ち止まったが、こちらはハッチを開けず、中の魔剣士は姿を見せなかった。黒い兜の下から、人間の目のように切れ長のレンズが赤く光って、フィールドの向こう側の対戦相手をにらみ付けているように見える。実際、そのレンズは頭部の中の潜望鏡ペリスコープを通して、搭乗者の目とつながっているはずだった。


「な、何だか雰囲気が変ですねえ……評判の悪い騎士なんですか?」


 ケイはそう聞いた。観客席からの歓声はパルミスと同じくらい大きかったが、その中にかなり罵声が混じっているような気がしたのだ。彼は、これだけ大勢の人間が一斉に声を上げている光景を見るのも初めてで、その異様な熱気に圧倒されていた。


「たぶん、機体が共和国のだからじゃないですか?」


 観客席の雰囲気などお構いなしに、早くも3個目の肉まんをもぐもぐやりながら、テアロマが答えた。王族だけに、試合の観戦には慣れているらしい。シオンもうなずいて言葉を続けた。


「〈ガルグイユ〉は、ノルマニー共和国ご自慢の最新鋭機じゃからのう。ある意味、革命を象徴する機体とも言える。もっとも、中の魔剣士はおそらく、共和国の騎士ではなかろう。機体の塗装も、正規の共和国騎士団のものではない。ま、演出じゃな」


 要するに、「悪役」を演じるためにわざわざ共和国製の機体を使っている、ということらしい。シオンの言うことには、そうした方が試合が盛り上がり、賭け札の売り上げも伸びるのだそうだ。


 日はかなり高くなり、満員の観客席は少し暑くなってきた。またラッパの音が響き、審判のいる塔の上で、刺繍の入った美しい旗が幾つも振られた。すると、赤い豪華なドレスを着た女性が、その旗の間に現れた。まだ少女と言ってもいい年齢に見えるその女性は、金の金具や宝石が光る、美しい長剣を持っていた。赤い絹のドレスを揺らしながら前へ進み出ると、慣れた動作ですらりと剣を抜き放つ。鏡のように磨き上げられた刀身が、観客たちの熱を帯びた視線を映し出していた。その銀色の刀身を高く掲げ、女性は緊張をはらんだ高い声で、フィールドに向かって叫んだ。


「最高神アイシェルの名において、この試合を祝福する! 風と、光と、地の恵みの一かけらをもって、この試合に神の恩寵と、騎士に相応ふさわしき栄光を授けたまえ! 双方、神の御目おんめに恥じぬだけの勇気と正義を、このささやかなる地面の上にて示されんことを! 真の勇気を示した者に、勝利は与えられん!」


 観客席から、これまでにないほどの大歓声が湧き上がった。その一部の声は、明らかに、共和国の――という設定の、黒い騎士の死と敗北を願うものだった。このヴェルデンでは、革命思想はあまり流行っていないらしい。


「パルミス! パルミス! 王権の簒奪さんだつ者に死を!」


 再び金管の勇ましい音楽が響き、審判用の塔の上で、激しく旗が振られる。それから、音楽用とは明らかに違う特別なラッパの音が、ファーンファーンファーンと、3回響き渡った。


 その試合開始の合図を受け、観客席の異様な歓声をかき消すほどに、2機のエンジン音が大きくなった。まるで、目前に迫る激突に備えて、機体に力を溜めているかのようだ。〈アルカンデュラッヘ〉の白い機体も、〈ガルグイユ〉の黒い巨体も、背中の魔石エンジンから轟音と排気を吐き出しながら、ゆっくりと腰を落とし、武器を構える。


(さて、この重たい鋼の巨人が、これからえっちらおっちら巨体を揺らして、殴り合いを始めるのか。じっくりと、動くところを見ておこう)


 ケイはそう考えながら、双方の機体を見比べた。


 先に動いたのは、〈アルカンデュラッへ〉の方だった。


 白い細身の機体が、いきなり低い姿勢から、前方へ跳躍した。何かが爆発したかのように蹴られた地面が弾け、土ぼこりが上がる。一瞬で、〈アルカンデュラッへ〉は、地面すれすれの空中を、対戦相手に向かって飛翔していた。その宙に浮いている脚部がいきなり分解したかのような動きを見せ、足首から下が脛の中に収納された。代わりに、黒いゴムの車輪がせり出してきて、〈アルカンデュラッへ〉の脚部は、足の部分がなくなって車輪に置き換わっている形になる。最初に地面を蹴った勢いをそのままに、〈アルカンデュラッへ〉は拍車走行スパーグライドモードに変形して、猛然とフィールドの中央を駆け抜けていく。その車輪走行の速度は、競走馬の疾走よりも速かった。


(あれって、長距離を旅するときだけ使うものじゃなかったのか! 戦闘で使えるとは!)


 ケイが戦列機に対する認識を改める間もなく、〈アルカンデュラッへ〉の白い姿は、フィールドの反対側に立っている〈ガルグイユ〉の目前に迫った。突撃の勢いでそのまま斬りかかるか、と思った一瞬、黒い巨体の目前で、〈アルカンデュラッへ〉は脚部を一瞬で変形させ、通常の足で歩く形態に戻した。白い騎士は、〈ガルグイユ〉の足元の地面を蹴って、相手の左側に回り込む。そして、低い姿勢から、装甲の隙間を狙って剣を突き上げた。


 ガン、と、尻から突き上げてくるような鈍く重い音が響いた。〈ガルグイユ〉は、相手の鋭い一撃を、重たそうな黒い盾の端で叩き付けて防いでいた。ケイは、その頭の、視線の動きから、黒い騎士が相手の動きを読んでいた、と感じた。


 〈ガルグイユ〉は、盾を振り下ろした挙動から、そのまま黒い機体を大きく回転させつつ、足元を巨大な斧でなぎ払う。エンジンのうなりとともに、全身の駆動系の歯車が、複雑な旋律の高音を響かせた。〈アルカンデュラッへ〉は、攻撃したときの前かがみの姿勢から、地面を転がるようにして攻撃を回避した。


 倒れた相手に第二撃を加えようと、〈ガルグイユ〉が斧を振りかぶる。だが、白い騎士は、盾を思い切り地面に叩きつけ、左腕一本だけの力で空中へジャンプした。ほとんど相手の身長を超えるほど――5、6メートルの高さにまで跳ね上がった〈アルカンデュラッへ〉は、かんしゃくを起こした子供の手で乱暴に投げ上げられた人形のように、くるくると宙を舞っていた。しかし、突然制御を取り戻し、曲芸師のようにひらりと空中で回転して、〈ガルグイユ〉から離れた間合いに着地する。


 見事な技の応酬に、観客たちが興奮した声で賛辞を送り、拳を振り上げ足を踏み鳴らした。観客席全体が、少し揺れた。


(な、なんじゃこりゃ! 信じられない! あれは、何トンもある、重たい鋼鉄の塊なんだぞ! 何てスピードなんだ! まるで、鋼の疾風だ!)


 ケイは、あまりのことに呆然としていた。今まで「竜骨街道」で見かけた戦列機は、どれも車輪で走っているか、ゆっくり重たそうに歩いているかだったので、戦闘でもスローモーな動きで足を止めて殴り合うのだと思い込んでいたのだ。驚異というより、もはや狂気の世界だった。あんな鋼の化物を、生身の人間が操っているなどということが、全く信じられなかった。


「ふ、驚いたようじゃの。歯車式強化外骨格ギヤードメイルの――戦列機のパワーウエートレシオは、鋼の装甲をまとっていても、裸の人体をはるかに上回る。これが、現代の、最高峰の戦闘なのじゃ」


 シオンの言葉の意味を、ケイは心に落とし込むようにかみしめた。あの背中の魔石エンジンの発生するパワーは、数トンの鋼の肉体に、軽業師のような跳躍や回転を可能にさせるほどのものだ、ということなのだ。


(あ、あんなもの、僕に本当に操れるのかな?)


 今度は、〈ガルグイユ〉が攻勢に転じた。盾を構えつつ、ほとんど体当たりのような勢いで突進したのだ。〈アルカンデュラッへ〉の白い姿は、二度、三度と斧の攻撃をかわしたが、体勢をわずかに崩した瞬間、斧のくさび形の刃に剣を引っ掛けられた。そして、手から弾き飛ばされた長剣は、ものすごい勢いで風車のように回転しながら、なんと、ケイの座っている観客席目がけて飛んできた!


(うそ……死ぬ……! そ、走馬灯……)


 なぜか、視界の全てが色彩を失い、闘技場の光景全てがゆっくりになって、回転しながら飛んでくる剣の輝く鋼の刃が、はっきりと見えた。だが、身体は、それを避けるように動こうとはしなかった。


 走馬灯が回り始めようかというまさに死の瞬間、キイイイーンという、奇妙な、音叉のような音が響き渡った。


 ケイの目前で、刃渡りが3メートルはありそうな鋼の剣が、ふわふわと宙に浮いている。戦列機の手から弾き飛ばされた巨大な武器は、観客席の前、フィールドとの境目で、見えない壁にぶつかって止まっていた。


「音響バリアーじゃ。観客席はちゃんと保護されておる。でなければ、落ち着いて弁当など食っておれんわ」


 シオンは、もやしのシャキシャキ感が残る火の通り加減が絶妙な野菜焼きそばをすすりつつ、不肖の弟子の慌てぶりを白い目で見ていた。テアロマも、平然と揚げ饅頭をぱくついている。


(な、なるほど! 先に教えといて欲しかった! 危うく、姫さまの目の前で、人間の尊厳に関わる事態になるところだった! ていうか、一滴くらいちびったよ!)


 武器を失った〈アルカンデュラッヘ〉は、腰に装着していた予備の剣を手に持った。まだ見えない壁に貼り付いたままの長剣に比べると、ずいぶん短い。それでも臆することなく、白い騎士の姿は、〈ガルグイユ〉の巨大な黒い影へ向かっていく。複雑なステップで、今度は相手の右側へ回り込む気配を演出したが、それはフェイントだった。〈アルカンデュラッへ〉は、真っすぐに相手の懐に飛び込み、〈ガルグイユ〉の股間――おそらく乗り手の脚が入っているはずの部分へ、剣を突き上げた。


 ガシャッ、と、何かがつぶれるような音が、闘技場全体に響き渡った。〈アルカンデュラッへ〉の白い姿は、〈ガルグイユ〉の股間に顔を突っ込むような姿勢で、静止していた。〈ガルグイユ〉の黒い、質量感のある姿も、やはり微動だにしない。観客席全体が、何が起きたのか判別しようと、呼吸を止めて2機の姿を見つめていた。


 やがて、〈アルカンデュラッへ〉は、低い姿勢からゆっくりと、地面に倒れ伏した。金属板が軋む耳障りな音とともに、土ぼこりが上がる。それが薄れると、〈ガルグイユ〉の黒い巨体が、倒れた敗者を見下ろしつつ、静かに立っているのが見えた。その右脚は、膝を突き出した格好になっていた。膝には関節部の歯車などがむき出しになっていたが、それを保護するように、とがった鋼の塊が付いている。倒れた〈アルカンデュラッへ〉の、端正な顔立ちの頭部は、ぐしゃぐしゃにつぶれていた。


(ははあ、飛び込んだ瞬間に、カウンターで膝蹴りが決まったんだな……本来の長い剣だったら、白い方が先に相手を貫いていたかもしれない……)


 ケイが状況を把握するのと同時に、観客席から地鳴りのような歓声が上がり、闘技場全体を包んだ。同時に、音響バリアーに貼り付いたままだった巨大な剣が、やっと地面に落下して地響きを立てた。


「試合終了! 勝者、ドルトン!」


 審判席から声が上がり、またラッパが吹き鳴らされた。観客たちは、先ほどまでの険悪な雰囲気を忘れたのか、勝者の〈ガルグイユ〉に惜しみない賛辞を送っていた。もっとも、その歓声に混じって、若い女性ファンのパルミスさまあという悲鳴や、金返せコンチクショーといった罵声も聞こえてくる。


 勝利したというのに、〈ガルグイユ〉の乗り手は、黒い装甲の中から姿を現そうとはしない。ただ、背中のエンジンから轟音を響かせつつ、武器と盾を振り上げて、観客席を威嚇している。やはり、これも、悪役としての演出なのだろう。眼の赤いレンズがまた、恐ろしげにぎらぎらと光を放っているのが分かった。


(これで、賭けの結果も確定したわけか。一回の試合でどれだけの金が動くんだろう、恐ろしい世界だなあ……それにしても、負けたパルミスの戦い方は、僕が習った剣術に似ているかもしれない。ああいう足技には気を付けないと)


 ケイは、フィールドの地面に伏したまま動かない白い機体を見つめてそう考えてから、いや、僕は開会式で行進するだけだった、試合には出ないのだ、と考え直した。


 やがて〈アルカンデュラッへ〉の胸部が開き、中からパルミスが這い出してきた。どうやら、負傷はしていないようだ。美しい金髪はくしゃくしゃに乱れ、油に汚れている。彼は、情けなさそうな顔で、機体の損傷をチェックしていた。


(そうか、あの鋼の分厚い装甲があるから、これだけ激しい試合でも、血を見ないで済むんだな。格闘技のルールのように、肉体の壊し合い、殺し合いにならないようにする役目を、この装甲が果たしているんだ。古代の闘技場の剣闘士みたいに、毎回血みどろの惨事にはならないってことか)


 ケイは、しょぼくれた美剣士の背中を眺めながら、シオンに尋ねた。


「あの機体、修理するのにどれくらいかかるんですか? 負けるたびに修理代がかさむんじゃあ、とてもやっていけないんじゃ?」


 シオンは、少し考えながら答えた。


「うむ……実はな、たとえ負けても、それなりの報酬が出ることになっておるのじゃ。まあ、機体の損傷の程度にもよるが、負けるたびに赤字では、しまいには誰も闘技場に出てこなくなってしまうからのう。もちろんその分、勝者の賞金や賭けの儲けは少なめになるが」


「なるほど……」


 ケイは、あの敗北した魔剣士は、個人で機体を所有しているのだろうか、新品の機体をすぐに壊してしまったのでは、修理が大変だろう、などと考えた。それから視線を移して、そこで初めて、歓声を浴びる輝く勝者を眺め、どうして自分は、敗者に先に目が行ってしまったのだろう、と思った。




 トーナメントは午前の部が終わり、ちょうど昼飯時になったが、賭け札を売る窓口の行列はますます長くなっていた。


 観戦と昼食を済ませたケイたちは、闘技場の近くにある、出場者専用の宿舎に向かおうとしていた。そこには、イクスファウナの女王が自らの政治生命を賭けた最新鋭機が用意され、近衛軍の整備士たちが組み立て作業を行っているはずだ。


(これが、戦列機の戦う、闘技場というものか……恐ろしい場所だ)


 窓口に群がる客のぎらついた目を見ながら、ケイは身のすくむ思いだった。


「えーと、あそこで自分の賭けたい魔剣士の賭け札を買って、その方が勝てば、賭けに外れた人が払ったお金を上乗せした額が払い戻される。そういう仕組みでしたよね?」


 ケイと並んで、不思議そうに賭け札の販売所を眺めていたテアロマが、突然質問してきた。


「ええ、基本はそういうことですよ」


「でも、それだと、得をする人より損をする人の方が、ずっと多いのではありませんか?」


「もちろんそうですよ?」


「…………?」


 テアロマは、さらに不思議そうな顔をして、かしげた首の角度をさらに深くした。


(育ちが良過ぎて、賭け事というものを理解できないんだな……)


 小さな姫君は、理解不能なものを見る目で窓口に群がる客を眺めている。ケイは、さっき観客席で聞いた、師匠の言葉を思い出した。


「戦列機に乗って戦えば、金も地位も名誉も手に入る。平民出身の魔剣士でも、貴族の娘を嫁にもらう者など、最近では珍しくもない。闘技場の地面の下には、金が埋まっているのじゃ」


 金とか栄光とかが集まるところには、人の欲が自然と集まって渦のようなものができ、その回転は機械のように動き続け、止まることなく人間を飲み込んでいくものだ。それは、何となく分かっていた。彼が勤めていた店にも、黄色く染まった「竜骨街道」に面した裏口にも、その回転する刃はあったからだ……。


 闘技場の観客席から階段を下りて、ますます増えてきた人混みをかき分け、ケイたちは関係者専用の区画に入った。短めの槍を持って立っている警備員に、テアロマが木札を見せると、幾つか並んでいる扉の一つを示される。


 そこへ入ると、中は、石造りの広い通路だった。床は傷だらけの鉄板が敷かれていて、天井は暗くてよく見えないが、相当高い。通路の中は鉄さびの臭いで満ちていたが、暗い通路の向こうからはかすかに風が吹いていて、ざわざわという観客席の群集の声が聞こえてきた。どうやらこれは、出場する戦列機が、闘技場まで移動するための地下通路らしい。


 シオンとテアロマは、慣れた様子で暗い通路を歩いていく。ここヴェルデンの闘技場は初めてだと言っていたから、きっとどこでも似たような造りなのだろう。いつの間にかのぞき行為から戻ってきていたアンドリューが、鎧の鉄靴をがしゃがしゃ鳴らしながら、後に続いた。さらにその後について行きながら、ケイは足元の鉄板が、とても分厚いことに気付いた。人間の足で踏んだくらいでは、金属的な音が響いたりはせず、ただコツコツという足音しかしないのだ。


(さっきの戦列機といい、ここへ来てから、でかい鉄の塊ばかり見てるなあ。鉱石から鉄を作ったり、鉄を硬い鋼にしたりするのには、大量の炎が必要なはずだが……どうやって、これだけの鉄を作っているんだろう? 燃料の木炭を調達するのに、山の一つや二つ丸裸にしても、とても足りないんじゃないか?)


 所々に魔法のランプがともっているだけの暗い通路を、数分は歩いた。観客席からの声も、もう聞こえない。風向きも変わり、通路の前方から、涼しい風が吹いてくるようになった。やがて外の光が見えてきて、開けっ放しの巨大な鉄の扉の前にたどり着く。すると、藍染めのつなぎを着た整備士らしき人影が一人、金属製の工具箱を手にぶら下げて、扉をくぐって通路に入ってきた。


「あっ、姫さま! お帰りなさいませ! ああ、アスターベルさまをお連れ下さったんですね! ……本当に、ご無事で!」


 通路の高い天井に、若い女の声が響いた。整備士が帽子を取ると、リボンで結んだ銀色の髪が現れ、その下の顔は、褐色の肌と、とがった耳をしていた。


(ダークエルフだ! 大陸の、ずっと北方の民族なのに、南の島国のイクスファウナでは珍しいんじゃないか?)


「コロネット、ただいま! ね、ちゃんと姉さまを連れてきたでしょ? アンドリューだっているんだもの、大丈夫だったわ!」


 テアロマは、コロネットと呼んだ女性の整備士に駆け寄って、元気に飛び跳ねた。整備士は、切れ長の目に涙を浮かべながら、うんうんと言うように何度もうなずいた。


「はい、はい、本当に、お手柄です……お久しぶりです、アスターベル姫さま」


 テアロマの手を取って子供をあやすようにしながら、コロネットは、シオンの顔を涙目でじっと見つめた。アスターベルというのは、シオンの姫君としての本名らしい。


「本当に、久しぶりじゃのう、コロネット。息災であったか」


 シオンも、感情が込み上げてきたように、少し声を震わせていた。


(この人は、戦列機の整備士か。女性でしかも妖精族なのに、整備士なんて高度な技術職を任されているなんて、相当優秀なんだろうな……師匠が姫君としてお城にいたころにも、整備士として仕えていた人らしい)


 ケイは、シオンと再会を喜び合っているダークエルフの顔を見つめた。妖精族の中でも「エルフ」と呼ばれる北方の種族は、美しいが細身で、少し冷たい印象を与える容姿の者が多い。だが、このコロネットという女性は、耳はとがっているものの少し短めで、顔つきも愛嬌がある感じを受け、身体も肉付きがよかった。おそらく、ケイと同じで、人間とのハーフなのだろう。


 肌の白いエルフは森に住むが、ダークエルフの方は鉱石や宝石を好み、地下を住処として金属加工で生計を立てる。知能が高く、手先が器用な上に、一つのことに打ち込む性格が強いため、ダークエルフには優れた技術者が多い。現在では、戦列機の生産に携わっている者も珍しくないらしい。


(ダークエルフか……ダークっていっても、性格は暗黒どころか素直で善良で、それでよく人間にだまされて奴隷として売られるんだよなあ……)


 ケイは、何年も前のことを思い出した。店に娼婦として売られてきて、故郷に帰りたいと言って泣いていた、ダークエルフの少女の小さな姿を。それを前にして、何もできず、何の言葉もかけてやれず、ただ黙って泣き顔を見つめるしかできなかった、あの夜の、自分の無力な、握り締めただけの手の感触を。


「アンドリュー殿も、ご苦労様です……よくぞ、姫さまを守ってくださいました。あれ、こちらの方は? ひょっとして、もう代理の魔剣士を探してこられたんですか?」


 鉄塊のような鎧を、さらに布でぐるぐる巻きにした異様な姿のアンドリューに普通に声を掛けていたコロネットは、ケイの顔を見て驚いたように言った。シオンは、弟子の紹介を忘れていたことに、初めて気付いたらしかった。


「ああ、これはケイ・ボルガといっての、私の不肖の弟子じゃ。不肖の弟子とは、師匠にちっとも似ておらん弟子という意味じゃ。数日前、なぜかいきなり魔剣士になったので、とりあえず連れてきた」


(どんだけいい加減な紹介なんだよ! 経緯を説明するのがめんどくさいのか!)


 コロネットは、目を丸くしてケイの顔を見つめた。ケイは、よろしく、と答えながら、その視線が少し恥ずかしかった。まだ「魔剣士」と名乗れるような自信など、なかったからだ。


「もう代理の魔剣士を連れていらっしゃるとは! これで、とりあえず大会には出られますね! よろしく、私は王家に仕える整備士の、コロネット・ラヴォラスといいます」


 コロネットは、ケイに手を差し出した。握手すると、彼女の細い指は意外に力強く、しっかりしていた。


(な、何だか誤解されているような……僕は、開会式までの代理だけで、試合には出ないって、後で説明しといた方がいいかもしれない)


 コロネットは、床に置いていた工具箱を持ち上げると、扉の向こうを手で示した。


「機体はまだ組み立てが終わっていませんが、とりあえず1機はエンドスケルトンを組んで、動作チェックしています。まあ、まずはご覧になってください、我が国の誇る最新鋭機を!」




 闘技場からの長く暗い通路を抜けると、そこにはきれいな庭が広がっていた。白い石畳の道があり、その両脇にはかんきつ類の木が植えてあって、オレンジ色の実がなっている。そのすぐ向こうに、青い瓦屋根の2階建ての屋敷と、それとつながった形で、木造の作業場のような建物があった。これが、出場チームそれぞれに割り当てられる宿舎と、戦列機の整備場らしい。


「うふふふ、オレンジケーキか、それとも、クレープか!」


 楽しそうに歌うテアロマの後ろについてオレンジの実の間を歩いていくと、宿舎のさらに向こうに、土の地面の広場があり、丈夫そうな金網と鉄の柵で囲まれているのが見えた。どうやら、整備した戦列機を動かしてテストしたり、操縦の練習をするための場所らしい、とケイは思った。その地面に、巨大な足跡や、タイヤのわだちの跡がたくさん見えたからだ。


「さあ、こちらへどうぞ……おーいみんな! 姫さまがお帰りになったぞ! アスターベルさまを連れてだ!」


 コロネットが声を張り上げた。案内された先は、木造の広い整備場だった。高さは3階建ての建物と同じくらいあったが床はなく、屋根まで吹き抜けになっている。そこで忙しそうに作業をしていたつなぎ姿の男たちが、一斉にこちらを振り向き、おお、と声を上げた。


「姫さま、よくぞご無事で! アンドリュー殿もよく……アスターベルさま、お久しぶりでございます」


 機械油で汚れたつなぎの整備士たちは、十数人ほどいた。その中から、背の低い、白髪交じりの初老の男が進み出て、深く一礼した。この男が、整備士たちの長らしい。コロネット同様に、シオンが城にいたころからの知り合いなのだろう。彼も、純血の人間ではなく、妖精族の血が入っている顔立ちだった。他の整備士たちも、さまざまな人種や民族の出身が混ざっているようだ。


(イクスファウナの女王陛下は、身分や人種にこだわらず、実力主義で人材を登用しているといううわさは、本当らしい)


 整備士たちとシオンが旧交を温めあっている間に、ケイは整備場の中を眺めた。鉄さびと機械油の混じった臭いが鼻を突く。天井までの高い壁には窓がたくさん取ってあって、整備場の中は明るかった。建物自体は木造だが、その中には丈夫そうな鉄骨が組まれていて、太いロープや鎖を備えたウインチが幾つもつり下がっている。木製の大きな扉が幾つもあり、その近くには、おそらく戦列機の部品などが入っているのだろう、大きな木箱がたくさん置かれていた。


 そして、整備場の中央には、金属でできた、巨大な人型のものが一つ、脚を前に投げ出して座っていた。


(これが、イクスファウナ王国の新型戦列機……!)


 その戦列機は、まだ装甲をまとっておらず、「内骨格エンドスケルトン」だけの姿だった。腕や脚は、青みがかった色の鋼のフレームの間に、魔石エンジンからの駆動力を伝える歯車や、伸縮するばね機構などがむき出しになっている。驚くほど複雑なメカニズムが、潤滑油に濡れて銀色に輝いていた。


 肘や膝の関節部はとても複雑な形状で、歯車やチェーンの他に、幾つも穴が開けられた鋼鉄の円盤――確か、ディスクブレーキと呼ばれる装置だったはず――が見えた。


(あのディスクブレーキが、関節にかかる衝撃を吸収し、駆動装置を守るっていう話だったな。最近になって開発された、最新式の関節機構だそうだが……)


 その巨人の脚の脛に当たる部分には、さっき闘技場で見たのと同じ「拍車滑走スパーグライド」用の、大きな車輪が突き出していて、黒いゴムのタイヤがはまっている。「拍車スパー」と呼ぶのは、もちろん騎馬の騎士が足のかかとに付けるぎざぎざの金具に似ているからなのだが、大きさはまるで違って、足首と同じくらいはあった。やはり、鋼の巨体の重量を支えて、あれだけの高速で車輪走行するためには、これだけのタイヤが必要なのだろう。


 胴体の部分も、装甲がまだ付けられていない。人間の肩甲骨や骨盤に当たる腕や足の付け根は、分厚い鋼の一体成型の部品が組み合わさったような形だった。そのむき出しの機械の間、人間で言えば胴体の胸から腹にかけての部分には、革製の小さなサドルや、金属でできた複雑な装置が設置されている。これが、乗り手が機体を操るための操縦装置らしい。乗り手は、戦列機の胸から腰にかけての胴体内の空間に、直立して乗ることになるようだ。


(頭の部分はまだ付いてないのか……ペリスコープで外をのぞく仕掛けらしいが……)


 頭部が付いていないのは、その土台となる、胸部のハッチがまだ装着されていないからだろう。ケイは、感心しながら戦列機のメカニズムを眺めた。素材の金属の違いか、それとも表面加工の違いなのか、微妙に色の違う部品が、複雑に何層も重なり合っている。どの部品も驚くほど複雑な形状だが、全てのエッジが正確で、名工の手になる刀剣のように、見事に研ぎ上げられていた。機械には詳しくない彼にも、村の鍛冶屋などとは技術のレベルがまるで違うのは理解できた。


(部品一つでも作るのが大変そうなのに、それがこんなにたくさん組み合わさって、身長4メートル以上の動く巨人になっているのか! いったい、どれだけの人数の職人が関わっているんだろう? 戦列機には金がかかると聞いてはいたが……)


「きみきみ、ちょっとちょっと、君はまだ、戦列機に乗ったことはないんだね? 魔剣士になったばかりと聞いたけど」


 いつの間にか、ケイの後ろに立っていたコロネットが、切れ長の目を丸くして、顔をのぞき込んでいた。


「は、はい。戦っているのを見たのも、ついさっきが初めてで……」


 ダークエルフの整備士は、なぜかうれしそうに、うんうんとうなずいた。


「そうかそうか、でも大丈夫! この新型はねえ、まさに君のような人のためにある機体なんだよ! パワーでもない、装甲でもない、ただ、『操縦性』! それを極限まで追求した、最新鋭機なのさ!」


「は、はあ……」


 何がうれしいのか、きらきらと目を輝かせているコロネットの表情に、ケイは不安になった。このまま、開会式だけでなく、本番の試合にまで自分が出る羽目になるのでは、と思ったからだ。急に、服のポケットに入れっぱなしの、「夜」のカードのことを思い出した。


 コロネットは、機体のそばにある作業用の足場に、軽快に駆け上がった。そして、そこから、むき出しの機械の骨組みの中に、細い身体をすべり込ませる。


「ちょっと動かしてみるね。まあ見ててよ……おーい、補助動力を入れてくれ!」


 その声に応じて、機体の背中の方で、整備士が何かの作業を始める。すると、今まで静かだった機体から、ぶーんという唸り音がかすかにし始めた。


 コロネットは、機体の中央にある、小さなサドルに尻を乗せ、その下にある複雑な操縦装置に脚を差し込んだ。それは、複雑な部品が乗り手の脚全体を包むようになっていて、脚の動きに合わせて動く、金属製のズボンのようにも見える。彼女の腰や背中の後ろ辺りから肩にかけても、皮革製のパッドのようなものが幾つも、身体を支えるように配置されていた。これも、乗り手の身体を支えるだけではなく、その肉体の動作を機体に伝える操縦装置の一部なのだろう。


 次いで、コロネットは、自分の肩の両脇にある、金属の腕のようなものの先端を、手でつかんだ。これも脚部の操縦装置と同じで、可動する鋼の骨組みが彼女の腕全体を包み、その動きを伝えるようにできている。その先端部には木製のグリップが付いていたが、ただの握りではなく、複雑な形状のボタンが幾つも付いていた。これで、指の動きを操る仕掛けらしい。


(なるほど……操縦装置が身体全体を包んで、乗った人間の動作を、そのまま機体に伝える仕組みになっているんだな。これなら、僕でも何とかなるかもしれない)


 ケイはそう思ったが、同時に、そんなに簡単ではないかもしれない、とも感じた。コロネットが腰掛けているサドルの前にも、複雑な形をした操縦装置が突き出していて、レバーやボタン、それにガラス製の丸いメーターが幾つも付いているのに気付いたからだ。


「基本は簡単だよ。操縦桿を動かすと、機体もその角度と同じになるまで動く。ほら!」


 コロネットは、右腕の操縦桿を軽く持ち上げて見せた。すると、一瞬後に、彼女の右側にある巨大な鋼の腕が、ジイイイという機械音とともに肘を曲げる。おどろくほど滑らかな動作で肘から下を持ち上げると、コロネットの腕と完全に同じ角度で、正確にピタリと静止した。さらに彼女が操縦桿のボタンを軽く握ると、腕の先に付いている金属の指が、カシャカシャという音を立てながら、素早く開閉した。


(なんて精密で早い動作なんだ! こんな機械を作れるなんて、文明も進歩したもんだなあ)


 人間の胴体ほどの太さがある機械の腕が動くたびに、その鋼のフレームの中で、銀色にきらめく歯車やチェーンが高速で動作する。その仕組みは、血液の流れのように、背中の魔石エンジンの回転力を関節の複雑な機構に伝えているのだろう。ケイはその様子を、ただ感心しながら眺めた。


「これを動かせるということは、あなたも魔剣士なんですか?」


 機体から降りてきたコロネットに、ケイは尋ねた。コロネットは笑って首を振り、機械の巨人の背中を指さした。


「私は魔剣持ちじゃないよ。今のは、動作確認用の補助動力装置で動かしただけさ。魔石エンジンはまだ付いてないしね」


 ケイは、機体の背中側に回ってみた。戦列機の背中は、驚くほど太い鋼の棒や、入れ子になって伸縮する円筒状のばね機構、その間をつなぐ駆動用のチェーンなどが、まるで鍛えられた男の背の筋骨のように組み上げられていた。実際、それらは、人体の筋肉や骨と同じ役目を果たすのだろう。


 背中にあるはずの魔石エンジンはまだ装備されておらず、機体のそばに置かれた、緑色のペンキで塗られた箱状のものから伸びたシャフトが、背中の中心につながっていた。これが、コロネットのいう「動作確認用の補助動力装置」というものらしい。


 搭載されるはずの魔石エンジンは、機体のそばにある、木製の台座に載せられていた。一抱えもある大きさの複雑な形状の機械で、ケイにはその仕組みなど見当も付かなかった。ただ、エンジンの上部に突き出している、筒状の部品には気付いた。おそらく、ここに魔剣を挿入するのだろう。


(これが、歯車式強化外骨格ギヤードメイル、通称、戦列機か……)


 要するに、歯車仕掛けの動く人形オートマトンのばかでかい奴で、中に入った人間の動作をそっくりそのまままねて動く、ということだ。ただ、ゼンマイ仕掛けの人形とは、動力源が違う。この鋼の巨人は、数百馬力の魔石エンジンのパワーを歯車で手足に伝え、岩をも砕く破壊力を発揮するのだ。


「どうじゃ、感想は? これが、鍛えられた軍馬をも超える疲れ知らずの機動力! 騎士千人分に値する破壊力! 無限機関である魔石エンジンによる継戦能力! そして鋼の装甲による抗湛性と耐魔法能力を合わせ持つ、現代の軍事の中核じゃ!」


 いつの間にか機体のそばに来ていたシオンが、ケイの顔を眺めながら言った。ケイはただ、首を振った。


「僕の魔剣に、本当にこれを動かす力があるなんて、まだ信じられませんよ」


 その言葉にコロネットが反応して、あっそうだ、と声を上げた。


「お二人の魔剣の採寸をしなきゃ! おーい、魔剣のソケットの採寸をしてくれ!」


 コロネットは大声で同僚の職人を呼びながら、魔剣の採寸をするので、剣を抜いて置いてください、と言った。魔石エンジンの中に魔剣を固定する金具は、剣の形状に正確に合わせて加工する必要があるらしい。金具の形が合わないとエンジンを回せないので、それが鍵の役割も果たす、ということだった。


 ケイは、腰に下げていた「夜の剣」を抜いて、床に広げた布の上に置いた。その刀身を見て、コロネットは、へえ、と声を出した。


「黒い魔石とは、珍しいねえ。初めて見たよ」


 ケイはどきりとした。


「やっぱり、そうなんですか?」


 いつの間にかケイのそばに来ていたテアロマが、魔剣を眺めながら質問した。コロネットは腕組みをしながら、自信なさげに答えた。


「私が見たことのある限りでは、黒い魔石は初めてですねえ……」


 周囲で作業している整備士たちも、ケイの魔剣を見ては、少し驚いたような顔をしている。魔剣を見慣れているはずの彼らの反応がこれだということは、やはり、こんな色の魔石は珍しいのだろう。ケイは、自分の「夜の剣」が特異な存在なのだろうかと、少し不安になってきた。


「師匠の魔剣は、氷の魔力が結晶した魔石でしたよね? だから、こんな氷みたいな色なんですか?」


 ケイは、自分の「夜の剣」と並べて置かれた、「風花姫」の長い刀身を眺めながら聞いた。その魔石の刃は、濡れた氷そのもののように透明で、窓からの陽光を透過している。


「うむ、魔石というものは、その内に秘めた魔力の性質を反映した色をしていることが多い。炎の力を持つ魔剣は、やはり赤く光っておるものよ」


 シオンの答えを聞いて、ケイは「風花姫」と、自分の魔剣を何度も見比べた。


(大昔には、地面の下から化石化した樹木の炭とか、激しく燃える黒い水とかを掘り出して、それを燃料に使っていたそうだが、本当なんだろうか? 今の時代には、いくら地面を掘ってもそんなものは出ない。掘り出せるのは、『過去のエネルギーの結晶』である、魔石だけだ)


 それは「勇者の流した血が地に染み込み碧玉となるがごとく」と言われる。過去数万年にわたって凍風に包まれ存在し続けた氷河や、噴火を繰り返した火山の溶岩、そうした過去のエネルギーが純化され、地下で結晶したもの、それが魔石なのだ。


(この青く透明な魔石は……数万年にわたって峻険な山脈を閉ざし続けた……巨大な氷河の、氷のエネルギーの結晶! じゃあ、この黒い魔石に秘められているのは、何だ?)


 テアロマは、「夜の剣」のそばにしゃがんで、興味深そうにその刀身をのぞき込んだ。


「この黒い魔剣は、やっぱり黒い何かの魔力を秘めているということですね……自然界に存在する黒いもの……むー……海苔とか?」


 ケイは、自分の魔剣を見つめた。


(この漆黒の魔石は……数万年にわたって磯の岩に生え続け、波に打たれ続けた……べちょべちょした、海苔のエネルギーの結晶! とてもいやだ!)


 その感想を素直に口にすると、テアロマは、えー、そう? と言った。


「おなかがすいたときの非常食になるかもしれませんよ? どんな味なんでしょうねー」


 シオンまでが、その意見に同意した。


「そうじゃ。目つぶしくらいには使えるかも知れんぞ?」


「あのすいません、姉妹そろって海苔前提で話するのやめてくれませんか? 僕の魔剣なんですけど!」


 「夜の剣」を完全にごはんの友を見る目で見ているテアロマを尻目に、ケイはシオンに聞いた。


「師匠の魔剣の冷気の力って、戦列機に乗ってても使えるんですか?」


 シオンは、残念そうに首を振った。


「それは無理じゃ。魔力を解放したら、エンジンの中が凍りつくだけじゃな。魔剣の魔力を使うには、専用の『魔力対応型エンジン』を搭載した機体が必要なのでな」


 シオンは、考えを見透かしたように弟子の顔を見つめた。


「どちらにしろ、魔剣から魔力を開放するには、それなりの修行が必要じゃからのう。今はそれを考える必要はない。魔石エンジンを稼動させるのには、魔力の開放は必要ないのじゃ。ただ、魔剣士が剣を差し込めばエンジンは起動するから、心配はいらん。もちろん、剣の持ち主がエンジンから離れると止まってしまうがな」


(なるほど……まあとにかく今は、この黒い魔石の正体については、忘れてていいってことか)


 魔石からエネルギーを取り出すには、「本人の生命力を剣に打ち込んで過去のエネルギーを溶かし出す」ので、限界がある。シオンの魔剣自体に、それこそ「一国を氷河の底に埋葬する」ほどのエネルギーが眠っていても、それを一度に取り出すのは不可能なのだ。それが、以前にシオンから聞いた魔剣についての知識だった。


(過去には、自国を守るために、自らの全生命力を使って魔剣の力を解放し、死亡した英雄もいるそうだけど……)


 ケイはそう考えながら、あらためて広い整備場の中を見回した。整備場の中央で座り込んでいるエンドスケルトンの隣にも、戦列機を固定するための鉄の作業台が幾つか並んでいる。今からここで、2台目の組み立てを始めるのだろう。


 いつの間にかマントを脱ぎ捨てて鎧の姿に戻ったアンドリューが、重たそうな木箱を運ぶ作業を手伝っている。整備士たちの態度からすると、その巨大な姿は、彼らにとって当たり前の存在のようだった。そのそばを、青いエプロンドレスのテアロマが、笑顔で整備士たちに話しかけながら、楽しそうにスキップしていた。


(ほんとに不思議なお姫さまだ……コロネットさんや僕みたいな妖精族や、巨人族のアンドリューさんにも、全く何の意識もなく自然に話しかけてくるし……それに、『ノゾキさん』とか呼ぶわりには、僕を男性として警戒している感じもしない)


 ケイは、テアロマの小さな姿に、その背の低さとは逆の、光を放つような大きな何かを見ていた。彼女のそばにいると、「存在することを許されている」ような、不思議な安心感を得られるのだ。彼はそれが、家柄や教育などではなく、彼女の生まれ持った性質なのだろう、と感じていた。


(〈汝はまず、最良のものと最悪のものを同時に得る〉っていうのが呪いの文言だったが……最良のもの、か……やっぱり、師匠と同じだ。姫君という、物語の主人公にふさわしい人なんだな)


「あ、ノゾキさーん! 魔剣の力が海苔だったら、試食させてくださいねー!」


 整備場の向こうで、テアロマが手を振ってそう声を上げた。ケイはその姿を、何も言えず、ただ黙って見つめた。




 青い瓦屋根の宿舎に部屋を割り当てられて、手荷物や着替えを置いてから庭に降りてみると、テアロマ姫がとんでもないことを言い出していた。


「任せてください! 私が、皆さんのお食事の世話を引き受けますから! いついかなるときも! 国破れて山河ありといえども! ごはんはちゃんと食べなくてはなりません!」


 テアロマは、宿舎のキッチンに仁王立ちになっている。エプロンドレスの胸を張りながら目を輝かせ、小さな身体が大きく見えるほど、自信満々だった。


(ああそうか、本来は、騎士団専属の料理人がいたはずだったのに、襲撃を受けたときに騎士たち同様負傷して、リタイアしちゃったんだったっけ……)


 ケイは、そばにいたシオンにそっとささやいた。


「いいんですか? そもそも、お姫さまがこんな男所帯の宿舎で寝泊りするのは、さすがにまずいんじゃ? その……『処女証明書』のこととか、あるんじゃないですか?」


 「処女証明書」というのは、貴族の娘が嫁入りする際に要求される、ある種の証文だった。文字どおり、その女性が男性と付き合った経験がない、ということを、その出身の家が保証する書類で、内容としては医学的な身体検査の結果、女性本人の宣誓などが含まれる。要は「箱入り娘の入った箱を誰も開封していない」ことを保証するという書類なのだが、その中には「家族の監視がないところで男と寝泊りしていないことを保証する」という条項もある。この証明書自体が自己申告のようなものではあるが、これがないと、まともな嫁ぎ先が見つからないし、偽りがあれば多額の違約金を請求できるという、重要な書類ではあった。


 ケイの言葉に、シオンは顔をしかめたが、それを否定はしなかった。


「それは、テアロマも覚悟しているじゃろう。これは、王家の名誉を賭けた戦なのじゃ。戦列機の整備は、重労働じゃ。現状では人数も足りん。食事の世話をおろそかにするわけにはいかん」


 ケイは、キッチンの中で食器の数を確認しているテアロマの、自信に満ちた顔を見やった。


「そうですか……それはともかく、この人数の食事を作るとなると、それこそ重労働ですよ?」


 シオンは、妹の顔を見つめながら、何か過去を思い出しているような表情だった。


「うむ……まあそうじゃが……おそらく、できるはずじゃ。少なくともあれは、料理の腕は確かなのでな」


 ケイは驚いた。普通、貴族の娘は、料理などしないものだ。


「姫さまは、料理がご趣味なんですか? それはまあ……でもやっぱり、仕事で毎日調理するとなると、きついでしょう。整備士の人たちは、闘技場の食堂とかで食べてもらってもいいんじゃ?」


 シオンは、その言葉にはきっぱりと首を振った。


「いや、それはまずい。外食では、毒を盛られる危険を排除できん。今ここにいる整備士まで失ったら、もう我々にはなすすべがなくなる。相手は、テアロマがいると分かっていて、魔剣士たちの乗っていた馬車を襲ったような連中じゃ。相手がなりふり構わず妨害工作をしてきているということを、忘れてはならん」


「そうか、そうでしたね……」


 ケイは、テアロマが「夜と嘘」の店内に現れたときの、破れたドレスと、足の傷を思い出した。


「この宿舎は、厳重に警備されておるから心配はないが、まあ、一応用心じゃ。テアロマが食事の準備をやるというなら、できるところまではやらせていい。手伝ってやってくれ……そうすれば、少なくとも、毒物を盛られる心配は完全にゼロになる」


「へ? ……はい、分かりました。師匠はどちらへ?」


 シオンは、魔剣を背負いながら、再び闘技場への通路へ向かおうとしていた。


「私は、本番用の魔剣士を探してくる。知り合いに声を掛ければ、まあ何とか、一人くらいは見つかるじゃろう」


 シオンの後ろ姿が暗い通路に消えるのを見送ってから、ケイはキッチンの中に入った。料理用ストーブを確認しているテアロマの、小さな背中にそっと近づく。


 宿舎の食堂に併設されているキッチンは、小さめだが清潔で、ひととおりの設備は揃っているようだ。井戸からの水を直接出せる手押し式のポンプが付いた流しもあり、料理用のストーブも、煮物と焼き物、オーブンが同時に使える立派なものだった。外には割られた薪がきれいに積んであり、小麦粉の袋や干し肉、ハーブの束なども見える。


「あっ、冷蔵庫もありますよ! うふふ、これならいろいろできますね」


 テアロマが開けてみているのは、断熱材の入った大きな木製の冷蔵庫だが、氷の塊を上部に入れるタイプではなく、魔法のお札で冷やす最新型だった。ケイがのぞき込むと、ふたの部分には、数週間は持ちそうな数のお札が入っている。


「あのう、姫さま……」


 ケイがおずおずと話しかけるのに、テアロマはぱっと振り向くと、青い布に包まれた胸を自慢げに張った。


「大丈夫、レパートリーには自信があるんです! イクスファウナ料理、ロム半島の大陸風から、南洋の香辛料を使ったはやりのスープかけご飯だって! 甘いものもいろいろできますよっ!」


 まるでプレゼントをもらった子供のような目で、キッチンの真ん中で料理の腕をアピールしている。姉から賄いを任されたのが、よほどうれしいらしい。


「ははあ……あの、よろしければ、僕が会計をやりましょうか? これでも一応、読み書きそろばんはできますので……」


 ケイは、キッチンの戸棚の上に置いてあるそろばんを見ながら、テアロマにそう提案した。テアロマは、少し意外そうにケイの顔を見つめた。


「まあ、ノゾキさんは読み書きができるのですか?」


「はい、育った村には学校があったので、一応は」


 「学校」という言葉を聞いて、テアロマは目を輝かせた。


「学校に行っていたの!? そう、どんな感じでした、大勢で勉強するというのは? 楽しかったですか?」


 ケイは少し戸惑いながら、黒い瞳でじっと自分を見つめているテアロマの表情を探った。彼の育った土地を治める領主は、流行の啓蒙思想にかぶれていて、私財を投げ打ってまで自分の領地に学校を設立していたのだ。そこで読み書きを身に付けていたおかげで、一人で村を出ても、フォトランに職を見つけることができたのだった。


(貴族の娘とかお姫さまだったら、嫁入り前は城から出ることはなく、家庭教師に学ぶのが普通だよなあ……それで、学校に興味があるのかな?)


 ケイは、お昼の弁当をみんなで食べるのや、学校の図書室で本を読むのが楽しみだった、という話をした。テアロマは、その話にいちいちうなずきながら聞き入ってから、私も、この春から学校に行く予定なんですよ、と言った。


「へえ、そうですか……今から入学するということは、高等教育の学校なんですね?」


「ええ、パラディーソにある学園に行くんです。そこには、古代からの文献を所蔵する、大図書館もあるんですよ」


 パラディーソという名前は、ケイにも聞き覚えがあった。確か、古代から続く、歴史ある学園都市だったはずだ。


「へえ、うらやましいですねえ。同い年の友達と勉強するのは、きっと楽しいですよ」


 ケイがそう言うと、テアロマはええ、と微笑んだが、なぜか少しだけ、その表情に影が差したようにも見えた。


(何だろう、学校に一人で行くのが不安なのかな……おっと、肝心なことを忘れてた、弁当タイムの話をしてる場合じゃない)


 ケイはそこで話題を切り替え、食事の準備について、テアロマに提案をしてみた。


「シチューとかスープを大鍋にたくさん作って、朝と昼はその残りと、あとはパンやチーズなどを置いておいて、勝手にやってもらいましょう。それなら、一人でも何とか回していけると思いますが……もちろん、僕も手伝いますよ」


 テアロマは、小さな拳をぎゅっと握って、全身の力を込めたような姿勢でケイの言葉を聞いてから、うんうんと何度もうなずいた。揺れるさらさらした細い黒髪が、差し込んだ日の光に、きらきらとした反射の輪を乗せている。


「そうですね、そうします! では早速、食材の買い出しに行きましょう! アンドリュー!」


 いつの間にか音もなく、ケイの背後にアンドリューが立っていた。ケイは、足音すら感じなかった、いや、かなり前からそこにいたのか、と思いながら、恐る恐る鎧の巨人を見上げた。だが、その表情は、分厚い装甲に隠れて全く見えなかった。


「今から市場に行って買い物をするの! 荷物持ちに付いて来て!」


「うむ……分かった」


 鎧の中から、いつもどおりの、感情の感じられない美声が響いた。だがケイは、何となく、アンドリューが自分をじっと観察しているような気がした。いや、正確には、テアロマとケイを交互に見つめているように感じたのだ。


(何だろう……明らかに、アンドリューさんの態度が今までと違うような気がするが……不気味だ!)


 テアロマは、そんなケイの心配など吹き飛ばすような元気な声で、歌うように節を付けてせかした。


「さあさ、早く行きましょー、ノゾキさんといっしょに、市場へお買い物ー!」




 ヴェルデンで最も大きいこの市場は、闘技場に併設されていた。というよりも、ほとんど闘技場の一部と言ってよく、建物自体が完全につながっていて、外から見ると異様なほど大きな建造物に見える。元々は市場のそばにあった広場が、戦列機用の闘技場に改装されて、大幅に面積が増えた結果らしい。今では、闘技場への食料の供給を満たす一方で、市場に来る客をそのまま闘技場へ誘導する役目も果たしていた。


「まあ、まあ、何て大きな市場なんでしょう! 何でもあるわ!」


 テアロマは、客と物資に満たされた市場の空間を前にして、まるで神の栄光をたたえる神官のように、両手を高く上げて感激を表現していた。


「ここに住みたいくらい!」


「いや、それはやめた方が……どこで寝る気ですか?」


 ケイは、昼過ぎの強い日差しの中、大きな屋根の影との強いコントラストを見透かすようにして、広い市場の中を観察した。テアロマの言うとおりだった。ここには、何でもある!


 ケイが住んでいたフォトランの市場は、イクスファウナとの交易品が主な商品だった。だが、ここヴェルデンにはそれだけでなく、はるか南方の植民地からの珍しい産物から、大陸北方の畜産品まで、より広い地域からの品が集まり、取引されていた。それらの品は値を付けられると、再び船に乗せられたり、また「竜骨街道」を通って運ばれたりして、大陸中へ送られていくのだ。


 「凪の内海」南岸の砂漠地帯から来たらしい、不思議な文様の絨毯。


 大理石のような色つきの岩塩の塊をのこぎりでひいて、板状にして売っている店。


 南方から快速船で来た白砂糖と、貴重なスパイス類を、はかりで慎重に量っている老人。


 ヴェルデン近郊の果樹園から来たらしい、新鮮なかんきつ類の、香気を放つ黄色やオレンジ色の山。


 イクスファウナ産の良質の米と、豆や麦を使った、さまざまな種類のみそ、しょうゆ。


 北方の「影の国々」でしか作れないという、珍しい青カビチーズは、本当に食べられるのかと疑問に思えるくらいにカビだらけだ。


 テアロマはそれらの品々の間を、楽しそうに歩き回り、旅の疲れも見せずに次々と品定めし、注文を出していく。ケイは、アンドリューと共にその背中を慌てて追いかけながら、姫君の買い物をずっと観察していた。


(品定めの眼力は、不思議なくらいに的確だなあ……さすがに値切るのは下手だけど)


 ケイが見た限りでは、テアロマの選ぶ品物はどれも良質で、肉や野菜なども新鮮なものをちゃんと選んでいるようだった。ただ、彼女が品物を選ぶ際に、片手をかざして、まるでそれで食品の良し悪しが分かるかのような動作をするのだけは、少し気になった。


(あれは何だろう? 魔法を使っているわけでもなさそうだし……僕が男だってばれたときも、あの動作をしてたけど)


 今も彼女は、ヴェルデンの前の海で今朝水揚げされたばかりの新鮮な魚が山積みになった棚の前で、片手をかざして品定めをしていた。テアロマの頭上には、「海鮮丼」「ウニ・イクラ丼」などと書かれた品書きがぶら下がっている。どうやら、この魚屋では丼ものも出しているらしく、普段何の仕事をしてるのかさっぱり見当も付かない怪しげなおっさんたちがカウンターに並んで、夢中で丼をかっ込んでいた。


 ケイの視線に気付いたテアロマは、隣の客が受け取っている海鮮丼を見て、目を輝かせた。


「あっ、まとめて作れるし、丼ものもいいですよね! 特にあの、具材の汁が染み込んだご飯の味が!」


(えらい庶民的なところに食いついてきた!)


 そんなことを言いながらも、姫君の小さな手は油断なく魚の山を往復していたのだが、ある魚のところに差し掛かったとき、突然彼女の肩が、ぴくりと動いた。かざしていた右手をそのまま魚体の下に突っ込むと、小さな身体に似合わない驚くほどの力で、一匹の魚をずるりと引きずり出す。その魚は、同じ山にあるほかの魚とは、種類が違うようだった。


 魚屋の主人は、テアロマが手にしている品を見て、しまったという表情をした。


「ありゃ、そんなところにそれが混じってたか……そりゃあ、この季節にはなかなか獲れない高級魚なんだけど……嬢ちゃん目利きだねえ。まあ仕方ねえ、値札どおりでいいよ、持ってきな!」


(やっぱりそうだ……この魚、完全に他の奴の下に隠れてたはずだ! あの手かざしで分かったのか?)


 ケイは、好奇心に駆られて、テアロマの背後からその小さな右手をじっと見つめた。その気配に気付いたのか、この小さな姫君はいきなりくるりと頭を回して、ケイの顔にぴたりと視線を向けた。


「むー、何ですか!? ノゾキさん! えっちなことを考えながら私を見ていましたね!」


 ケイは慌てて、適当に話題をそらそうとした。


「い、いや、違いますよ! なんでエロい妄想前提で僕の行動を語るんですか! そ、その……髪留めがきれいなので気になって……」


 そう言われたテアロマは、すぐに性犯罪を糾弾する姿勢を忘れて、前髪を飾っている宝石の魚に手をやった。


「ああ、これは……母からもらったものなんです。子供のころからこればかり着けているんですが、メイドたちからは、もう子供っぽいからやめなさいって言われてて……そうでしょうか?」


「いや、いいんじゃないですか。とても似合ってますよ」


 ケイはそう答えながら、姫の父母――先代の王と王妃は、テアロマ姫が幼いころに疫病で亡くなっていることを思い出した。


 ずらりと並んではさみを突き出している巨大テナガエビに姫が鼻を挟まれかけたり、断面が黒く変色した汁気たっぷりのキノコのオーブン焼きをつまんだりしながら、楽しい買い物の時間はすぐに終わってしまった。


 購入した大量の食料は、アンドリューが背負ってきた、ピンクのリュックの中に納まった。最後に、焼きたてのパンを毎日届けてくれるというぜいたくなサービスを頼んで、ケイたちは宿舎に戻った。




 宿舎のキッチンに戻ると、テアロマは早速、夕食の準備に取り掛かった。


 かついだ食料の重量を感じさせず軽やかに歩んできたアンドリューが、膨れ上がったピンクのリュックサックを床に下ろし、魚のアップリケの蓋を開ける。ケイは、その中身を整理し、棚に分類して保管しながら、簡単な帳簿を付ける作業を始めた。テアロマは、リュックサックに小さな身体をほとんど突っ込むようにして、その底から、幾つかの包みを取り出した。それは、さっき市場で買ったものではなく、元からリュックの底に入っていたもののようだ。


「さてっと、まずは道具から出さないと」


 テアロマが小さな布包みをほどいた。中から現れたのは、何本もの包丁だった。形状は普通の包丁と同じだが、その刃は、鋼の色ではない。


「これ、魔石ですか!」


 テアロマは、愛用の調理器具を一つ一つ確認しながら、自慢げにうなずいた。彼女の手元にあるのは、赤や青、緑に彩られたガラス細工のような、半透明な魔石の刃物だった。ケイやシオンの魔剣と同じで、見事なまでに滑らかに整形され、薄く研ぎ上げられている。


「これはあなたの魔剣の『貴魔石』とは違って、低品質な『卑魔石』なので、戦列機を動かしたりはできませんけどね。でも、熟したトマトだって、10段重ねのサンドイッチだって、すっぱりです!」


 そう言いながら、テアロマは、まな板の近くに包丁などの調理道具を並べた。さらに、別の包みからは、香辛料の入った瓶や、何か調味料の匂いのするつぼなどを、次々と取り出して棚に置いていく。


(あのでかいリュックサックの中身って、これだったのか……最初から、姫さま自ら食事の世話をするつもりだったらしい)


 品物の整理が終わると、テアロマは、ケイとアンドリューにジャガイモの皮をむくよう頼んで、自分は大鍋を相手に作業を始めた。


 ケイは、キッチンの外にある井戸でジャガイモを洗い始めたが、アンドリューは、ここは全部自分に任せてくれと言い出した。


「いや、僕も手伝いますよ?」


 そう言うケイに、この奇妙な巨人族は、兜の角飾りを振り立てながら、自信満々に答えた。


「ここは私が一人でやろう。君はキッチンの中でテアロマを手伝うべきだ。是非ともそうして欲しい! 大丈夫だ、ジャガイモの皮むきなら毎日やって慣れている」


(何で護衛の騎士が毎日ジャガイモの皮をむいているんだ?)


 ケイは、どうしたものか、と思ったが、アンドリューは洗い終わったジャガイモを大きな手でつまみ上げると、ものすごい勢いでむき始めた。まるで回転する機械のような速度でナイフを振るうと、しゅるしゅるとジャガイモの皮がひも状に飛んでいく。ケイはその恐るべき皮むき速度にしばらく呆然と見とれていたが、ふと我に返り、ここは自分の出番はないと、仕方なくキッチンの中に入った。


「あら、どうしたの、ノゾキさん?」


 テアロマは、もう大鍋に湯を沸かして、何かの作業を始めていた。


「あのう、アンドリューさんが、ジャガイモは任せてくれと……」


 ケイがおずおずとそう言うと、テアロマは何かを察したような顔をし、ケイの背後を見た。ケイが振り向くと、閉めたはずのキッチンの勝手口の扉が少し開いていて、その隙間から、アンドリューの輝く兜がのぞいていた。眉庇ののぞき穴のスリットから、青い光が漏れている。


(ま、まただ。何だか二人でいると、アンドリューさんに観察されているような……)


 テアロマは、柔らかそうな白い頬を膨らませてその兜をにらんでいたが、ため息を一つつくと、なぜか少し顔を赤らめてケイの顔を見た。


「で、では、そこの白菜を刻んでもらえますか? 2センチくらいにざっくりとで」


「はい、分かりました」


 テアロマはそう言うと、自分も魔石の包丁を構えて、どっしりとしたベーコンの塊に向き直った。最初に彼女がケイの前に現れたときの、あのきゅっとした美しい曲線が、再びその小さく可憐な背中に現れる。その立ち姿を、ケイは、ただ素直に、美しい、と思った。自らの名誉を賭けた真剣勝負に挑む騎士のように、真摯な黒い瞳が、手元の食材に集中していた。


(やっぱり、不思議な人だ……こんなに背が低くて子供みたいなのに、なぜだろう、とても大きく見えることがあるのは)


 テアロマは、正確な包丁さばきで、ベーコンの余計な脂や筋を取り除き始めた。その手つきを見て、ケイは安心した。シオンの言ったとおりだ。プロの料理人としても通用する、見事な手際だ。


(これならまあ、洗い物とかはみんなで手伝っていけば、何とかなりそうか……)


 ケイは仕事の回し方を算段しながらも、青いエプロンドレスを揺らして忙しく働くテアロマの後ろ姿を、じっと見つめていた。彼女の裸体を見てしまったときのとは少し違う、混乱したような、しかしどこか心地よいような、奇妙な衝動が腹の底を満たしている。しかし、その衝動をどう行動に変えればいいのか分からず、青い布地の中で動く姫君の肉体を、ただ、眺めているだけだった。


 彼が、白菜を刻むという自分の仕事を忘れているのに気付くまでには、しばらくかかった。




 「じゃあ、女王陛下の近衛戦列騎士団は、お城にはいなかったんですか!」


 香ばしく茶色に焼けたローストポークをナイフで切り分けながら、ケイはコロネットの話に相づちを打った。彼女は、とがった耳を少し下げて、情けなさそうにうなずいた。


「うん、『北の海岸に、所属不明の戦列機が大陸側から上陸した』って報告を受けて、国境警備に派遣されていたからね。実際にその所属不明機を発見したらしいけど、逃げる相手を追っているうちに『竜骨街道』から遠く離れた山脈の奥まで入り込んでしまって、今でも相手とにらみ合っているみたい」


 コロネットの話によれば、イクスファウナの王都で今回の政争が勃発する直前に、その国境侵犯事件が起きていて、闘技場に出場できる魔剣士は、城に残っていた数人だけだったということだった。その数人の魔剣士も、ヴェルデンへの道中で賊に襲われて負傷し、出場できなくなった。テアロマとアンドリューは最後の手段として、シオンのいるフォトランへ助けを求めに行ったという経緯だったのだ。


「これは憶測なんだけど、その所属不明の戦列機ってのも、守旧派の貴族たちの陰謀だと思うよ。守旧派には、ずっと昔に大陸側から侵入してきた民族の子孫が多いんだ。中には、大陸側の国に親戚がいる貴族もいるからね」


「なるほど……」


 ケイは、テアロマ姫手作りのからし風味ソースをかけ、生タマネギのスライスを添えてから、ローストポークの皿をコロネットに渡した。ありがとーと言いながら早速料理をほおばり始めたその幸せそうな顔を見ながら、彼は自分たちの置かれた現状について考えていた。


(つまり、女王陛下の政治生命は、ここにいる整備士たちと、あの2機の新型戦列機に懸かっているということになる。代わりになる機体も、魔剣士も、他にはいないってことだ……あ、後はアンドリューさんか)


 2機の戦列機と共に女王の名誉を守る主戦力となるはずの巨人族は、相変わらず分厚い板金鎧に身を包んだままで、食堂の片隅で大盛りの皿に向かい合っている。ケイは、師匠はあと一人の魔剣士を見つけられたんだろうか、と心配になってきて、整備士たちが猛然と食欲を満たしている食堂の中を見回した。シオンは昼過ぎに出て行ったきり、夕食の時間になってもまだ宿舎に戻っていない。


「そういえば、あの新型の機体って、名前は何ていうんですか?」


 ベーコンの脂が浮いている白菜とセロリのスープをすすりながら、ケイは尋ねた。さほど手間を掛けていない料理なのに、ベーコンから出ただしと、スライスしたセロリの辛味が絶妙だ。


「んんふふ、あれはまだ、名前が付いてないんだ」


 ローストポークを飲み込みながら、コロネットが答えた。


「何しろ、テストが済んだばかりの最新型だからね。近衛戦列騎士団がずっと使ってるのは〈ハイヤット〉って機体なんだけど、この新型は、設計から全て見直した、全くの別機体なんだ。今は〈エントーマβ〉って暫定的に呼んでる。正式に採用されたら、女王陛下が名前を決めるんじゃないかな?」


「〈エントーマβ〉ですか……」


 ケイは、食堂の窓から、整備場の中の機械人形の姿を見やった。彼にとっては、戦列機という機械にそれだけいろいろな機種があること自体が、驚きだった。


(どこの国でも、もう軍事力の中核は、この戦列機なんだ。『王の権力を支えるは、もはや悍馬に跨りし忠勇の騎士にはあらず。歯車式駆動の鋼の巨人、これぞ王権の柱なり』か……でも値段が高過ぎて、王か裕福な貴族でないと、機数をそろえるのが難しい。結果として、一人の王にだけ権力が集中していく)


 〈夜と嘘〉のサロンで客の相手をしながら聞いた話を、ケイは思い出した。それが「絶対王政」の時代というものだ、と、客の学者が語っていたのだ。


(領地が広いだけで現金を稼ぐ才覚がない地方の貴族なんかは、時代の変化に置いていかれてるってことらしいが……)


「お味はどうですか? あ、これ大根おろしソース、ローストポークにはこっちも合いますよ」


 鉢に入ったソースをテーブルに置きながら、テアロマがケイのそばにやってきた。整備士たちが一斉に歓声を上げ、姫君の料理を讃える。


「とってもおいしいです。さあ、姫さまもお食事を取ってください」


 ケイは立ち上がって椅子を勧めようとしたが、テアロマは、もう一品あるから、と言って、テーブルの料理の減り具合をうれしそうに確認している。


 最初は、貴族のパーティに出すような凝った料理を作り始めるのではないかと心配して見ていたのだが、この食いしん坊の姫君は、人数と時間をちゃんと計算して、必要なだけの手間で料理を準備できる切り盛り上手だった。しかも、どの料理も味付けのバランスがよく、素材の旨さを十分に引き出している。ディーラーの仕事の合間にキッチンを手伝っているケイには、彼女の調理師としての腕前は、十分プロとして通用するものだと分かった。


「姫さまの料理、ほんとにおいしいですよ。これなら、うちの店で金を取って出しても文句はないでしょう」


 ケイは、何の気なしに、その褒め言葉を口にした。だがテアロマは、その言葉を聞いて硬直し、そして、珍しい昆虫でも見つけた子供のように目を丸くして、ケイの顔を見つめた。


「お金を取って? ……一皿100エンくらい?」


 「エン」というのは、イクスファウナの通貨だが、フォトランやヴェルデンなどの「ロムの妹の首飾り」自由都市群でも、普通に流通している良質の貨幣だ。


「安っ! いやいや、これなら2000取っても大丈夫ですよ」


 ケイは褒め言葉を重ねたつもりだったが、テアロマはなぜか顔を伏せると、エプロンで手を拭きながらぱたぱたとキッチンに駆け込んでしまった。


(あれ? 怒らせちゃったのかな。お金を取れるなんて、姫さまの手作り料理にそんなことを言うのは失礼だったか……)


 ケイは慌てて食卓から立ち上がり、テアロマの後を追った。食堂から、キッチンに通じるカウンターの横を通っていくと、青いエプロンドレスが小さく丸まったようになって、食器棚の陰にしゃがみこんでいた。


「あ、あのすいません、失礼なこと言っちゃって、お金を取れるとか……」


 ケイがおずおずと声をかけると、テアロマがゆっくりと顔を上げ、上目遣いでケイを見上げた。その顔はなぜか真っ赤に染まっていたが、泣いていたり怒っていたりしている目ではなかった。


「いいえ! あの、失礼とかそんなことは……あのね、びっくりしただけです」


 テアロマは両手をふるふると振って否定を表現しつつ、すっと立ち上がった。そして、頬を真っ赤に染めたままで、少しだけうるんだ目でにっこりと笑った。


「お城の人はみんな、私の料理をおいしいって言ってくれるけど、お金をもらえるなんて言う人はいません。だから、ノゾキさんの言ったことが新鮮で、ちょっと驚いちゃっただけ」


「そ、そうですか……」


 ケイはほっとして、テアロマの顔を見つめた。


 ゲームで引くカードからいつも生まれる「荒れ野の姫君」によく似た、小さな姫君は、白いエプロンの端を握って、青いドレスの裾を揺らして、今は彼だけに、笑顔を向けていた。


「それにしても、これだけの料理を手際よく作れるなんて、趣味のレベルじゃないですよ。ほんとに驚きました」


 テアロマは、エプロンの端を握りしめながらもじもじした。


「私は、王城から離れた離宮で育ったんです。そこでは召使いの人数も少なくて、みんな家族のようにしていました。私は、離宮のキッチンを遊び場にしていたようなものでしたから、自然に料理のやり方が身に付いたんです。みんなの食事を私が作ることも、よくあったんですよ」


(そうか……あまり貴族の娘って感じがしないのは、そのせいか)


 ケイは、この小さな姫君を怒らせたのではないと分かって、自分でも理解できないほど安心して、全身が脱力していた。


 そのせいか、つい、余計なことを口にしてしまった。


「ところであのー、そろそろその『ノゾキさん』は、やめてもらえないでしょうか……?」


 変態扱いからの解放を求めるケイの要望を、姫君はなぜか楽しそうに首を振りながら、この上ないほどの笑顔ではね付けた。


「いやです! だってほんとにのぞいたもん! のぞいたのぞいたのぞいたもん!」


(なぜ楽しそうに節を付けて歌う……? こりゃあ、完全にからかわれてるなあ……)


 爪先立ちではねるように上下に身体をゆすりながら歌う、テアロマの楽しそうな顔を見ながら、ケイはため息をついた。少女のそうした反応には、彼は慣れていた。娼婦として買われてきた田舎娘たちも、自らの性的な魅力が男に通用することを知ると、必ずそれを試すようになり、ケイを誘惑するふりでからかったりしていたからだ。


(まあ、いいか。姫さまが楽しいんなら、それで。僕が妖精族との混血で女性のような容姿だから、男っぽくなくて、姫さまもからかいやすいんだろう)


 女性からからかわれてそう思うのは、いつもの感情の動きだ。だが、今の彼は、このときだけは、なぜか幸せな気分だった。




 開会式までの数日間、ケイとアンドリューは毎日市場に通って、大量の食物を仕入れた。


 テアロマ姫の白く細い指先が、炎とスパイスを操り、仕入れた食材を素晴らしい料理に変身させた。


 その料理は、風呂の栓でも抜いたかのような勢いで、屈強な整備士たちの腹に収まっていき、彼らの血肉となり、その筋骨と知性を駆動し、重たい鋼の部品に立ち向かわせる力となった。


 木箱から次々と取り出される精密な部品は、あるべき場所へ組み上がり、銀色に輝く歯車とばねが、金属の腕となり、脚となり、たくましい背中となった。


 さらに、その機械の肉体を分厚い鋼の装甲が覆い、整備場の広い空間に、巨大な騎士の姿を描き出した。


 数日にして、女王陛下の整備士たちは、2機の最新鋭機、歯車式強化外骨格〈エントーマβ〉を組み立て、稼動状態に仕上げてみせたのである。




 戦列機に乗り込むための装備を身に付けて、鏡を見たケイは、なんて珍妙な格好だ、と思った。胴体の部分はただの綿のシャツとズボンなのに、腕と脚には詰め物をした革製の装具がごてごてと付いていて、とてもアンバランスに見える。これなしでも乗り込むことはできるが、戦うとなると身体の保護をした方がいい、と言われて、この白い皮革製の「搭乗服」を渡されたのだ。


(装甲があるから、普通の服装でただ乗り込めばいいのかと思ってたけど。まあでも、鋼の巨人の中で、あの闘技場での戦いみたいに激しく動くとなれば、これくらいは必要なのか。頭には、何もかぶらないのかな?)


 白く染められた搭乗服は新品で、上質の革製品の匂いがした。手足を曲げ伸ばしして装備の具合を確かめてから、ケイは宿舎の自室を出て、石畳の庭を通って整備場に向かった。庭のオレンジの香りが混じった、朝の空気が心地よい。「夜の剣」は腰のベルトに下げている。ようやく、その重さに慣れてきた、と思った。


「お、ちゃんと着込んできたか」


 整備場の前の庭にいたシオンが、ケイの姿を見つけて声を掛けた。ケイと同じ装備を身に付けているが、革の色は青く染められている。長くつややかな黒髪も、同じ青のリボンで束ねていた。


「師匠、あの、代理の魔剣士はまだ見つからないんですか?」


 ケイが不安感をそのまま口にすると、シオンはなぜか黙り込み、じっとケイの魔剣士姿を見つめた。


「うむ……どうやら、敵も裏でいろいろ手を回しているようでな、なかなかこれといった者が見つからん。まあ、ここの闘技場の事務局に友人がおってな。知り合いの魔剣士に声を掛けてくれているから、試合までには何とかなるじゃろう」


「そうですか……」


 ケイは少しほっとした。このまま魔剣士が見つからず、シオンが自分を試合に出すつもりなのではないかと、ここ数日不安になってきていたからだ。


(まあそんなわけないか。素人の僕じゃあ、機体を歩かせたこともないのに、戦えるわけがないもんな)


 ケイはそう思いながら、キッチンから出てきたテアロマとアンドリューの姿を眺めた。テアロマは、シオンの搭乗服姿を見て、少し懐かしそうな顔で話しかけている。


(この小さなお姫さまは、賊に襲われたってのに、負傷者の手当てをして、僕のいたフォトランまで追っ手を振り切って旅をして……整備士の手配や食事の世話までして、ついに、開会式に間に合わせたんだな。やり遂げたんだ)


 ケイはそれが、一国の姫君という「主人公な人」だけが持つ、資質と責任感ゆえの結果なのだ、と思った。しかし、それと同時に、テアロマの料理の味や、あの風呂場で見た柔らかな肌を、そして、自分を「ノゾキさん」と呼んでからかうときの、少女らしい笑い声を思い出した。また、混乱した感情と、奇妙な硬直を体内に感じた。


(〈汝はまず、最良のものと最悪のものを同時に得る〉か……姫さまが『最良』だとすると、やっぱり、店に同時に現れたアンドリューさんが『最悪』ってことなのか……?)


 アンドリューは、相変わらず分厚い板金鎧を着込んだままの姿で、巨大な影のようにテアロマの後ろを守って付き従っている。ケイはまだ一度も、彼が鎧を脱いだところを見ていなかった。


(どう見ても伝説に出てくる『地獄の騎士』そっくりなんだけど、でも、市場の買い物でも荷物をたくさん持ちながら姫の護衛をしてくれてるし、戦列機の組み立ても手伝ってたし、働き者で親切な人だよなあ……なぜか、僕と姫さまを一緒の場所に置いては、陰からじっとのぞいているのは気にかかるが)


 ケイはそんなことを考えながら、整備場の中に入った。窓から差し込む朝日の中には、鋼の巨人が二人、片膝をついた姿勢でしゃがみこんでいた。その体勢でも、頭部までの高さは3メートル以上ある。その周りでは、つなぎの整備士たちが、起動前の最終チェックのために忙しく働いている。


(これが、完成した〈エントーマβ〉か!)


 ケイはただ、その巨大な質量に圧倒された。最初に整備場で見たときは内骨格だけだったが、今はそれが分厚い鋼の装甲をまとい、力強いシルエットを形成している。


 装甲の形状はシンプルで細身で、闘技場で見た騎士パルミスの〈アルカンデュラッヘ〉と同じく、鎧を着た騎士をそのまま大きくしたような印象だ。分厚い鋼板を切って溶接し、箱型にしたものが、腕や脚の形にメカニズムを覆っている。関節の部分には、駆動系の歯車やチェーンがむき出しになっていて、潤滑油に濡れてぎらぎらと光っていた。


(戦列機ってのは、鉄の箱が人の形に組み上がっていて、カニや昆虫の殻みたいに、装甲が身体を支える構造だと思い込んでたけど、違うんだな。見た感じでは、あの馬鹿でかい〈ガルグイユ〉ほど、重装甲ってわけじゃないか。どちらかと言えば軽量級の機体なのかなあ……)


 ケイが見ている機体は、まだ仕上げの塗装が済んでおらず、さび止めの白いつや消しの塗料だけが塗られていて、灰色がかった石灰岩のようなざらついた感じに見える。その向こうにあるもう1機の方は、機体の形状は同じだが、つやのあるスカイブルーにきれいに塗られていて、顔には白い羽飾りのような形状の仮面が付いていた。こちらが多分、シオン用の機体なのだろう。


「どうだい、いい面構えだろう。これが、君の機体だよ」


 コロネットが、白い機体の陰から、潤滑油で汚れた褐色の顔をのぞかせた。


(僕の機体……?)


 ケイはその言葉の意味を測りかねながら、白い〈エントーマβ〉の顔を見上げた。頭部の形状は、やはり騎士のかぶる兜に似た印象で、あまり飾り気のないすっきりした感じだった。のぞき穴のスリットの中には、人間の目のように二つのレンズが配置され、緑色に光っている。


「この新型は、あまり恐そうな感じじゃないんですね。敵を威圧するために、鬼とか髑髏の顔とかを付けるのが流行っていると聞きましたが」


 背後から、テアロマの声がした。その言葉を聞いて、コロネットは何だか悲しそうな顔をした。


「実は、そういう強面こわもての装甲を付ける予定だったんですが、女王陛下がご覧になって『かわいくない』とおっしゃいまして……没になった装甲が、あれです」


 残念そうな顔のコロネットが指さす先には、朱色に塗られた戦列機の頭部装甲が置かれていた。長い角が二本額に生えていて、顔も目がつり上がり口が耳まで裂けたような、恐ろしげなデザインだ。


(あっちの方が強そうなのに!)


 ケイはそう思った。しかしテアロマは、そばまで来てから、彼の顔をのぞき込み、そして〈エントーマβ〉の顔を見上げて、何かを確認するかのようにうなずいた。


「私は、こちらの顔の方が好きです。何だか、やさしいけど、強い意志を秘めているように見えますから」


 ケイはその言葉を聞きながら、もう一度機体の白い顔を見つめた。つや消しの白に塗られた端正な顔立ちのマスクが、朝の光を受けて明るく輝いていた。


「さてっと! じゃあ、とりあえず、エンジンを回してみようか」


 コロネットの言葉に、ケイは少し不安を覚えながらも、意を決してうなずいた。機体を起動する手順は、これまでの数日間で、彼女からひととおり教えられていた。


 機体のそばには、木製の作業台が置かれていて、階段を上ると機体の胸の高さまで登れるようになっていた。そこまで上がると、機体の顔が細かいところまで見える。分厚い装甲に開いたスリットから見える目の部分は、曇りなく磨き上げられた緑色のレンズと、反射を防ぐためにつや消しの黒に染められた、複雑な形状の金属部品が、精密なねじで組み合わさっていた。人間の目のように横に長い形状のレンズの上には、小さなワイパーが付いていて、戦闘中でも油や砂ぼこりの汚れを拭えるようになっている。


 その頭部の横を抜け、機体の肩口から背中側に出る。そこには、魔石エンジンを納めた鉄の箱が装着されていて、背中に大きな荷物でも背負っているように見えた。そのエンジンブロックの上面、装甲の中央に小さな蓋が開いて、中から四角い筒状のものが飛び出していた。


(ここに、魔剣を挿入すればいいのか……)


 ケイは、足をすべらせないように注意しながら、機体背面のエンジンブロックの上に登り、そこでしゃがんで、足元に飛び出している「魔剣ソケット」を見つめた。その先端には、ケイの魔剣に合わせた形のスリット状の穴が、縦に開いている。穴の上側には、透明なガラスか何かで作られた、小さな丸いランプが付いていた。そのソケット穴から視線を移し、エンジンブロックの下の床を見ると、機体の上がずいぶん高く感じた。


(あれ、僕は、何でこんなところにいるんだっけ?)


 唐突に、そんな戸惑いが生じた。混乱した感情のままに、ケイは、腰の魔剣をゆっくりと抜き放った。ガラス塊のような魔石の刀身が、彼の目の前で、全ての光を吸収して黒く、ただ暗く、闇の色に沈んでいた。


(師匠とけんかになって、カードで勝負して『呪いのレアカード』を引いて……姫さまとアンドリューさんが店に来て、この『夜の剣』と共鳴して魔剣士になって……僕の身に今、何が起きてるんだ? この巨大な鋼の巨人を、国同士の戦争を左右する力を持つ戦列機を、この凡人の僕が動かそうとしてる? 何でこんなことになってるんだ? 僕は、物語の主人公じゃないんだぞ?)


 ケイは、ソケットの前で『夜の剣』を構えたまま、もう一度機体の下を見やった。青いエプロンドレスのテアロマ姫が、顔を上げて、じっと彼を見上げている。その不思議な深い色の瞳は、彼のことを心配しているようにも、何かを期待しているようにも見えた。


(僕は開会式に間に合わせるだけの代役で、試しにエンジンを起動するだけだよな……なぜだ? この剣をここに差し込んだら、もう二度と、今の場所に戻ってこられないような気がする)


 そう思った瞬間、ケイの身体の中に、怒りとも戸惑いともつかない、混乱した激情が、炎のように吹き上がった。今ここで戦列機を起動しようとしている自分が、自分の意志でここにいるのか、それとも呪いのもたらす『偶然性』の濁流に呑まれているだけなのか、それすら見極めることができない。その自分の無力さと愚かさに、精神の矮小さに、どうしようもない怒りを覚えた。


 そして唐突に、今までの人生の全てを、ただ凡人として平穏に過ごしたいと願っていただけの自分を、くだらないゴミだ、と感じた。


(戻る? どこへ? ……どこから来て、どこへ行くっていうんだよ!?)


 ケイは、もう一度、眼下のテアロマ姫の小さな姿を見つめた。そして、激情のままに、自分の魔剣を、戦列機のソケットに挿入した!


 刀身は何の抵抗もなく滑らかにその穴に吸い込まれ、ソケットにぴったりと納まった。奥まで差し込むと、かすかにカチンという手応えで、専用の金具に固定される。穴の上にあるランプが、赤く輝いた。そして、自動的に、ソケットの筒全体が魔剣ごとエンジンブロックの中に引き込まれ、小さな蓋が閉じた。


(これで、エンジンが動くのか?)


 魔剣士と共振している状態の魔剣の周囲には、その「時間軸に沿って伸びる」特殊な結晶構造ゆえに、時間の流れの乱れが生じる。その時間の流れる速度の差を、運動エネルギーとして取り出す無限機関――それが「魔石エンジン」だ。ケイはそう教えられていたが、詳しいことは全く理解できなかった。ただ今は、「夜の剣」を呑み込んだエンジンが、回転を始める音を聞き逃すまいと、耳を澄ませるだけだ。


 最初は、何かがゆっくりとすべるような、かすかな音だった。それがすぐに脈打つようなウンウンという唸りに変わり、そして連続したビートを刻む機械音に上昇する。さらに回転速度は上がり、やがて、聞いたこともないようなキーンという高音を響かせるまでに高まった。その振動は、エンジンブロックの上にいるケイの身体をつらぬくように伝わり、頭蓋を揺さぶった。


(これが、魔石エンジン……数百馬力ものパワーを持つ、戦列機の心臓の、鼓動か!)


 整備場の下を見ると、コロネットが親指を立てて微笑んでいた。どうやら、エンジンの起動には成功したらしい。ふと見ると、機体の背中から突き出したエンジンブロックの後部から、白い蒸気が小刻みに噴き出していた。


 ケイは、命が宿ったかのように細かく振動するエンジンブロックから降りると、作業台の上を歩いて、分厚い装甲に覆われた戦列機の肩を回り込み、機体の胸部にたどり着いた。胸の横にある取っ手を引くと、分厚い鉄の胸部装甲が、ばね仕掛けなのか、音もなくゆっくりと前方に開く。胸部ハッチが開くと、茶色の革で覆われた操縦席と、複雑な操縦装置が現れた。新品の革製品の香りと、機械油の匂いが、機体内部の狭い空間を満たしている。


(操縦系は、もう僕の身体のサイズに合わせて調整してあるって言ってたな……)


 ケイは、教えられたとおりに、まず自分の尻を革製の小さなサドルに落ち着けた。そして、その下にある脚部の操縦装置に、ちょうど機械部品でできたズボンをはくような感じで、両脚をすべり込ませる。その末端には、スリッパのような部品がついていて、それに足を差し込んで操作するようになっている。そのスリッパ状のフットペダルの少し上には、金属製のレバーが付いていた。これは例の「拍車滑走」用の車輪を制御するためのフットレバーで、スリッパから足を抜いてこれを踏むことで、脚部が変形して車輪で走行できるのだ。


 次にケイは、革製の大きなパッドを下ろして、自分の肩を固定した。それはちょうど、皮手袋の大きな手で、両肩を後ろからつかんでいるようにも見える。パッドを下ろすとカチリと手応えがあって、しっかりと固定されたが、ケイが上半身を動かすと、肩パッドも、背中や腰を支える革製の部品も、カチカチと機械音を立てて正確に動く。これらも、身体の動きを機体に伝えるための、操縦装置の一部なのだ。


 自分の身体を操縦装置に固定し終わると、最後に、サドルの前――ケイの股間から突き出すように付いている複雑な装置の中の、スイッチの一つを押し下げた。すると、ケイの身体は操縦装置ごと機体の中へ、1メートル近く沈み込んだ。これで、操縦者の身体は、ちょうど機体の胴体の中心、胸部から股間の辺りまでに、立った状態で位置している形になる。


(狭い……けっこう、圧迫感があるなあ)


 サドルを下げると、頭の位置は開いている胸部ハッチよりも下になり、目の前には鋼鉄の装甲しか見えない。ケイの身体は、鋼鉄でできた穴に落ち込んだような感じだった。その穴の横壁には、機体の腕部を操作するための操縦桿が取り付けられていて、サドルを下げた状態でちょうどつかめる位置になっていた。しかしそれにはまだ触らず、ケイはただ、サドルの前、自分の股間のところにある、複雑な装置に集中していた。


 それはエンジンからの駆動力を蓄積し、四肢に伝えるトランスミッションなどの操作レバーだった。複雑なスイッチや小さなレバーがたくさん付いている他に、メーター類が付いている。エンジンの回転計が一つと、四肢それぞれのトランスミッションの、回転数や出力負荷を示す計器が四つ。そして、機体の姿勢を安定させる「機軸ジャイロ」の回転計、それから潤滑系の油圧、油温計という構成だった。


 整備士たちが、機体の周囲にあった作業台を引っ張って、機体から離した。


(エンジンの回転数が一定以上に上がったら、マスタークラッチをつなぐ、だったな……)


 装置の中央についている丸いメーターの針が、黄色から緑に塗られたところまで移動するのを確認してから、ケイは、エンジン音に負けないように大声で叫んだ。


「つなぎます!」


 すぐに、コロネットの鋭い声が飛んだ。


「戦列機が起動する! 下がれ!」


 これは、誤動作による事故を防ぐために、魔剣士に義務付けられた手順だった。身長4メートルを超える鉄の巨体なのだ。ちょっと手足を動かすだけでも、近くの人間を吹き飛ばしかねない。


 ケイは、サドル前に突き出したトランスミッション操作系の、マスタークラッチレバーを親指で押し上げた。ゴン、というくぐもった金属音が背中から響くと、今までは背部のエンジンだけだった振動と音が、機体の胴体からも響き始める。エンジンからの出力が、四肢それぞれに対応して肩と腰に四つあるサブトランスミッションに伝達され、特殊な鉱物で作られた大質量のフライホイールがゆっくり回転し始めたのだ。


(機軸ジャイロやトランスミッション内蔵のフライホイールは……魔石の一種である特殊な鉱物で、『結晶の特定の軸に対してだけ巨大な慣性を維持する』性質を持っている、って話だったな……それに蓄積された回転力を吐き出しながら、手足を動かす仕組みなんだっけ)


 今度は、四つある四肢トランスミッションのメーターの針が、少し震えながら上昇していく。メーターの面には分かりやすく、緑や黄色の帯で値の目安が示してある。機械について素人でも何とかなるように、というありがたい配慮だ。だが、さすがにレバーやスイッチの全てにまで説明が書いてあるわけではないので、それは覚えるしかなかった。


 油圧計は、最初急上昇し警告灯がまたたいたが、油温の上昇につれて潤滑油の粘性が低下し、安定してきた。それと同時に、四つのメーターの針も、そろって緑色の範囲に達した。四肢のトランスミッション内のフライホイールが十分スピンアップされ、安定した機体の動作に必要なだけの運動エネルギーが蓄積されたのだ。


 それを確認してから、ケイは、今度は四肢トランスミッションそれぞれの、四つあるシフトレバーを、一つずつ慎重に、ニュートラルから「標準駆動ドライブ」の位置へ入れた。すると、今までは建物の柱のように微動だにしなかった機体が、驚いて目覚めた動物のように、いきなりビクンと動いた。


(おっと……これで、ギヤがつながった。機体の腕や脚に駆動力が伝わって、動かせる状態になったんだ。ここからは慎重にいかないと)


 ケイは手を伸ばし、操縦席の横に付いているハッチ開閉レバーを引いて、胸部ハッチを閉じた。厚さが10センチはある重い鋼の装甲がばねで引き戻され、ごうんという音を響かせて閉じる。ケイの身体は完全に機体の中に閉じ込められ、操縦席は、真っ暗になった。ただ、目の前のメーターと、トランスミッションの操作レバーの位置を示す目盛りなどは、夜光塗料で淡く光って見える。


(ペリスコープは……ここか)


 ケイは、暗闇の中、手探りで自分の頭上に手を伸ばした。閉じた胸部ハッチの上には、機体の頭部が付いていて、それは今、ちょうど彼の頭の真上に位置していることになる。その頭部の中にある「潜望鏡ペリスコープ」をつかみ、ゆっくりと引き下ろした。何度も練習したとおりに、そのペリスコープを、そのまま真っすぐ下ろして、小さな兜ヘルメットのように頭にかぶった。


 すぐに、目の前に明るい景色が広がった。かぶったヘルメットの目の部分は、ガラスでできた大きな反射鏡になっていて、それに機体の目が捉えた外界の景色が映る仕掛けだ。ヘルメットは鼻から下辺りは開いているので、視線を下げれば、操縦席内の操作レバーやメーターを見ることができる。


(すごいな……まるで、巨人になったみたいだ!)


 ペリスコープの視野には今、機体の鋼の胸部や肩が映っているが、まるでそれが、自分の身体を見ているように感じられる。コロネットの弁によれば、この〈エントーマβ〉の視覚系は最新式で、魔法の仕掛けや精密な光学系の組み合わせで像を補正し、機体が自分の身体になったかのように自然な視界を提供する、ということだった。


 ケイは、首をめぐらせて整備場の中を見回した。かぶったヘルメットの動きがそのまま機体の頭部に伝わり、自分の目で見るのと同じように視野を動かすことができる。機体の――自分の身体の周囲をチェックし、危険がないことを確かめた。


 それから、少し離れたところでこちらを見守っている、テアロマとシオンの姿を見つけた。その人影は、ペリスコープの視界の中でとても小さく、なぜか、はかなげに見えた。


(よし……よし、立つぞ!)


 ケイは、脚部の操縦装置に掛けた足に力を込めた。少し前に重心を移動させながら、ゆっくり、ゆっくり、爪先に力を込め、地面を踏みしめ、重力に逆らって遠ざける。自分の背後にある機体の駆動系が、驚くほど複雑な音階とメロディーで唸りを上げ、エンジンのパワーを手足に伝達した。加速度で全身が重くなったように感じ、ペリスコープの視界の中の地面が、急に遠ざかる。


 そして彼は、整備場に差し込む日の光の中、巨人の視界で世界を見下ろして、立っていた。


(これが、戦列機……!)


 その日、ケイ・ボルガは、自分が、何者かになった、と感じた。だが、いったい何になったのか、それを正確に表せる言葉は、知らなかった。


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