未明におやすみ

折り鶴

Sweet Dreams


 さえない住宅地の一角にある僕のバイト先のコンビニは、店を出たところにどうぞたむろしてくださいといわんばかりにベンチが置いてあって、ご丁寧にバス停みたいな屋根までついているものだから、さもとうぜんですといった具合にそこにひとが群がる。作業着のお兄さんたち、犬の散歩の休憩、居酒屋を出てもまだ飲み足りない大学生。だけれどそうやって賑わうのも深夜0時を過ぎたあたりまでで、午前二時ごろにはうら淋しい、街灯が誰もいないベンチを照らすだけの場所となる。

 そうして、この時間あたりからは、僕らバイトも好き放題なのだった。

「うおやばい八由良はちゆら死んだわ」

 レジカウンターの内側でしゃがみこんで、紙パックの日本酒をストローで吸いつつ週刊の漫画雑誌を読んでいた牧野まきのさんが呟く。もちろん酒も雑誌も商品だ。あかんでほらもうそこで裏切るのはなしやろと牧野さんは漫画の内容を延々と実況中継してくれる。しかし八由良は牧野さんのけっこうお気に入りのキャラだったはずなのだが、彼の口調は妙に冷めていてなんの感情も読み取れない。

「あの、牧野さん」

「ん?」

「僕まだ今週号読んでないんですよ」

「うん、知ってる」

「ネタバレするんやめてください」

 ごめんごめんと牧野さんは平坦な調子で謝って、眉間をぐりぐりと揉んで立ち上がる。続いて、右手に持っていた紙パックをゴミ箱に向かい放り投げる。入った。ナイスシュート。

 牧野さんはけっこう、背が高い。隣に並ぶとそれがよくわかる。僕の背が低いせいもきっとある。

 読む? と週刊誌を差し出される。首を横に振り、否定の意を示す。そうか、と短く頷いて、それから、いやー今週号は衝撃やったなあと、やはり冷めた口調で言いながら、レジカウンターを乗り越える牧野さん。わずかばかりの本と雑誌が置いてあるコーナーに向かい、さっきまで読んでいた週刊誌を並べ直す。やけに丁寧に。

 そのまま帰ってくるのかと思いきや、いやでも案の定というべきか、お酒のコーナーに立ち寄りまたひとつパックの日本酒を手にしてこちらへ戻ってくる。

武内たけうちくんも、なんか飲む?」

 同じやつ、と言いたかったけど、断られるのがわかっていたから口には出さない。いらないです、とまた首を横に振る。そう、と牧野さんは、やっぱり短く頷くだけ。以前にした会話を思い返す。子どもが酒飲んだらあかんやん。そうですね。牧野さんは、ときどき、当たり前のようなことを、当たり前みたいに話す。

 パックにストローを牧野さんがぶっ刺した瞬間、ぴんぽーんと気の抜けるような音が鳴る。いらっしゃいませー。ほぼ反射で、僕らはそろえて声を上げる。元気よく挨拶をしましょう。副店長がレジのお金を誤魔化してたり、バイトが監視カメラの履歴をいじって好き放題サボったり、十五歳、高校生の僕が年齢を誤魔化して深夜シフトに入れたりといろんなことがめちゃくちゃなこの職場だけど、ひとつだけ、なぜかみんなが律儀にきちんと守っている社訓がある。元気よく挨拶をしましょう。これさえ守っていれば、なんとか、こちら側にしがみつけるような気がしてる。誰に確認したこともないけど、たぶん、みんな、そうなんじゃないかって思ってる。

 灰色のパーカー、フードを被って店内へと入ってきたお客さんは、フロアを見向きもせずまっすぐレジへと向かってくる。彼の欲しいものはすぐに予測がつく。

「14番」

「はい」

 セブンスターのボックスね。はいはい了解です、少々お待ちください。コンビニでバイトしていると、煙草を吸わなくても銘柄は自然と覚えるようになる。

 牧野さんは、お酒を手にしたままカウンターの内側でしゃがみこんでいた。お客さんに見つからないようにしているらしい。監視カメラはあとでいくらでもいじれるけど、いまこの瞬間目の前にいる客に店員がレジカウンターの内側で酒を飲んでいる姿を見られるのはたぶんまずいので避けたい、とでも考えているのだと思う。もしかすると、接客の気分ではないだけかもしれない。

「ありがとうございましたー」

 僕がそう言ったきっかり三秒後、ひょっこりと牧野さんがカウンターから這い出してくる。

「あーなんか腹減ったな」

 どこまでも自由なひとだった。牧野さんはおもむろに歩いていくと、業務用の冷蔵庫を開け、販売用の唐揚げ風ホットスナックのもとが入った袋を取り出した。そしてそれをフライヤーに投入し揚げはじめる。

「武内くんも食べる?」

 訊かれて、今度は頷いた。はい、食べます。何個いる? ふたつくらい。

「いっぱい食べて体力つけや、野球部やろ」

「バスケ部です」

 揚がるのを待ちながら、ついでのように水回りを掃除する牧野さん。手際がいい。なんというか、基本はまめで几帳面なひとなのだと思う。こうやって二時以降は好き放題やってられるのも、それまでに掃除やら商品の品出しやら発注なんかをさっさと終わらせているからで、まあでも在庫数を誤魔化して勝手に店のものを飲み食いしたりしてるわけだから、なにも誇れたことではないのだけど。

 そういえばこういうのってバレたら何罪になるんだろ、窃盗罪? 横領か詐欺罪とか。まあなんでもいいか。ぼんやりそんなことを考えていると、はい完成、と言いつつ牧野さんがフライヤーからスナックを取り出す。

 キッチンペーパーをお皿がわりにスナックを並べる。いただきます。ふたりでそろえて手を合わせる。ひとつつまんで、口に放る。おいしい。

 食べると喉が渇いた。冷蔵庫に置いていたパックのお茶を取り出してストローで吸う。これは、今日のシフトに入ってすぐ、あらかじめ失敬しておいたもの。

「バスケ部さあ、練習しんどい?」

「うーん、まあ、そこそこって感じですね」

「そうなんや」

 パック酒をすすりながら牧野さんは頷く。ちょっと考えるようにして、それから再び口を開く。

「俺の弟はさあ、運動苦手やねん。体育の球技も嫌いや言うてた」

「へえ」

「ちっちゃいときにさ、ふたりで公園連れていってもらったことあんねんな。めっちゃ長い滑り台あるとこ。ほんでも、あいつ、滑り台の上まで上がったはいいけど、怖くて降りんの嫌や言うて泣いてた」

 そもそも高いとこも苦手みたいやねん。そうなんですか。武内くんは、高いところ平気? まあ平気ですね、むしろ好きかも。へえ、俺も高いとこ好き。

 牧野さんの話には、彼の弟の話がよく出てくる。だから僕は、会ったことのない牧野さんの弟についてずいぶん詳しい。八月生まれ。運動が苦手。ルービックキューブが得意。目が悪い。ピアノが上手い。僕とはぜんぜん、似ていない。

「弟さん、部活とかやってるんですか」

「中学は囲碁部で、高校は帰宅部」

「へえ」

 こうして僕はまたひとつ、牧野さんの弟について詳しくなる。

「俺は高校のとき家庭科部で副部長やった」

「ぜったい嘘やん」

「ほんまやって」

 牧野さんは、煙草の陳列棚にもたれかかりながら話す。

「いまはどうか知らんけど、俺の高校さ、全員強制でなんか部活入らなあかんかってん。で、適当に選んだんが家庭科部」

「あ、なるほど」

 なんか納得。

「はじめは家庭科室で煙草吸うだけやってんけど、せっかくやしと思って、調理台使うようなってな。めっちゃ料理うまなったで」

 そうやって自身の高校時代をぼそぼそ話す牧野さんは、自称二十六歳だけど、もっと上の年齢に見えるときもあるし、反対に、それより若く幼く思えるときもある。

 牧野さんの弟は、牧野さんの五つ歳下らしい。だから、牧野さんがほんとうに二十六歳なら牧野さんの弟はいま二十一歳のはずなのだけれど、牧野さんの話の中で弟さんが大人になってからのエピソードが語られたことはない。

 いよっし、とやる気のなさそうな掛け声とともに、牧野さんはもたれていた棚から体を起こす。

「武内くん、元家庭科部の実力みせたるわ」

「いや別にいいです」

 そう返したけど、牧野さんはぜんぜん聞いていない。再び商品フロアへと出ていくと、卵といくつかの調味料を引っ掴んで戻ってくる。

 いったん食材を置くと、輪ゴムを手に取り髪の毛をくくる。肩のあたりまで伸びた黒い髪の、上のほうだけを適当に。

 いうてコンロないしたいしたもんつくれんけどな、と真顔で不満を表明しつつ、片手で器用に卵を割る牧野さん。ボウルないけどまあこれでええわと言って、深めのタッパーに慣れた手つきで割り入れる。黄色というより橙色に近い濃い色の黄身、とろりとした残りの部分。

 僕がじっと卵を見ている視線に気づいたのか、牧野さんが僕に問いかける。

「卵、嫌い?」

「あ、いえ」

「アレルギーとか?」

「いや、ちゃいます。食べれます」

 それでも、僕の視線になにかを感じとったらしい。手を止めてこちらを見てくるので、僕はどう話そうかと考えながら口を開く。

「中学のときにね、スキー合宿ってあったんですよ」

「あー俺のときもあった。弟も行ってたな」

 そこでぴんぽーんと音が鳴り自動ドアが開く。いらっしゃいませー。72番、ひとつ。はい。どうも。ありがとうございましたー。

 なんの話してたっけ、と一瞬悩んで、ひと呼吸置いてから再び話し出す。

「で、夜ご飯がすき焼きやったんですね」

「まあ、ありがちやな」

「僕、それまで、すき焼きって食べたことなかったんです。そもそも、鍋囲む、みたいな食事したことなかった」

 視線を店の外、ぼんやりとした灯りが照らし出す空っぽのベンチに向ける。牧野さんと視線が合わないように。僕はたぶん、ほんとのことを話すとき、ひとと視線を合わせるのが得意じゃない。

「それで、ひとりいっこ、生卵がテーブルに置いてあったんですけど、その卵をどうやって食べたらいいんかわからなくて。みんな綺麗に割って肉浸すんですけど、それがぜんぜん意味わからんくて。ていうか卵の割り方知らんし」

 話しながら、ちょっとだけ、胸のあたりが気持ち悪いような感じになる。あのときは、たしか、隣に座っていた女子が困り果てた僕を見かねたのか、代わりに割ってくれたのだった。ありがたかったけど、結局、大鍋をつつくという食べ方があまりよくわからなかったので、ほとんど食べなかった記憶がある。

「そんときなんか、たるいな、いうか、しんど、みたいな気持ちなって、さっき急にそのこと思い出しました」

 こういうことがたくさんあるから、宿泊行事は好きじゃない。

 ガラス扉の向こうの外で、思い出したように風が鳴る。外はずいぶん寒そうだ。帰り道のことを考えると、少し憂鬱。

 横目で牧野さんのほうを見ると、なにか考えるように黙り込んで手を止めている。視線はもう、僕に向いていなくて、手にした卵に向けられている。喋りすぎたな、とちょっと反省。数秒のなんともいえない沈黙のあと、おもむろに牧野さんが僕を呼ぶ。

「武内くん」

「はい」

「卵の割り方、教えたるわ」

「は? あ、いや、別にいいです」

 そう返すけど、牧野さんはやっぱりぜんぜん聞いていない。ほら、あといっこ残ってるから。いやまじでいいです牧野さんが全部割ってください。大丈夫できるって俺教えるし、元家庭科部ナンバーツーやぞ。

「はい、じゃあ卵持って」

「ええ……」

 僕に卵を割らせる以外のすべての機能を失ったマシンと化した牧野さんを前に、しぶしぶ卵を握る。かたくて冷たい。だけど、さっきまで牧野さんが握っていたから、ちょっとだけあたたかい。

「そっか、武内くん、左利きやったな」

 はい、左利きです。そこだけは、貴方の大事な、自慢の弟さんと同じです。

「角で割るんやくて、平らなとこに打ち付けんねん。真ん中らへんを思い切ってこつんと。で、ひび入ったら両手で持つ。ひびが入ってる面が上な。そしたら両手の親指で押し込んでから、引っ張るみたいにして広げる」

 牧野さんの言うとおりに、卵をシンク横の平らな部分に打ち付ける。もうちょっと強めでも大丈夫。その言葉に従って、今度はもう少し強い力でもういっかい。かしゃりと音がして、ひびの入った気配がする。そうそう上手いやん、ほな両手で持って。で、親指入れて、あとは広げるだけ。

 あっけないほど、簡単にできた。

「おお、すごいやん。殻も入ってないし、ええ感じ」

 よくできました。そう言って、牧野さんは僕の左肩をぽんと叩く。どうも。視線を合わさないよう、俯いて僕はお礼を言う。タッパーに割られた卵が泳いでいる。牧野さんは箸でそれらをかき混ぜる。ある程度混ざったところで、続いて調味料を投入。

「それ、なにつくってるんですか」

「卵焼き」

「できるん?」

「電子レンジでつくれんねん」

 言いながら、別の平たいタッパーにさきほどのかき混ぜたものを流し入れ、電子レンジに入れる。レンジの作動音が響く。きっと、外は冷たい静かな夜。でもここは、レンジの音と、店内ラジオと、僕と牧野さんのおかげで、ちょっと騒がしくて、寒くない。

「はい、完成」

 牧野さんがレンジを開けて、中身を取り出す。ラップの上にのせてかたちを整えると、たしかに、卵焼きだった。

 いただきます、とまたふたりで手を合わせる。箸でちぎって、口に運ぶ。そういえば僕は、お箸の持ち方も、たぶんおかしい。だから、誰かと一緒に食事をすることがあんまり好きじゃないんだけど、牧野さんの隣では、そういうことを気にしたことがない。

「おいしい?」

「はい」

 僕は、下を向いたままで感想を言う。おいしいです。ほなよかった。

「なあ、武内くん」

「はい」

「学校、たのしい?」

 唐突にも思えた問いに、顔を上げる。そこには、いつもどおりの顔をした牧野さんがいる。黒い瞳からは、相手の感情は読み取れない。

「……たのしいですよ」

 僕は、牧野さんを見上げてそう答える。ほんまに? はい、明日はね、みんなで学校抜け出してラーメン食べにいくんです。あーええなそれたのしそう。

「俺の弟はさあ」

「はい」

「学校、あんまり、好きやなかったみたい」

 特に高校入ってからは。

 そう話す牧野さんの見つめるさきには、店内を映す防犯ミラーがあるだけで、もちろん、その中に牧野さんの弟の姿は見つからない。

「なあ、もしもやけどさ」

 牧野さんがこちらに視線をよこす。相変わらずの、静かな黒い瞳。

「もしも、学校でも、他の場所でも、嫌なこととかしてくるやつおったらさ、耐えられへんようなる前に、俺に言うてな。そいつら全員──」

 そして続いて吐き出された牧野さんの言葉には、一切の躊躇いがなくて、なのに、なぜだか、ぞっとするほど優しかった。

「──殺したるから」

 僕は牧野さんを見上げたまま動けない。口を開くけど、言葉がうまく、発せない。たぶん、牧野さんは本気だと思ったから。僕が頼めば、ほんとうに、きっと、誰でも殺してくれる。

 意識していちど、息を吸う。ゆっくり吐き出して、僕は牧野さんの目を見て言う。

「いまのところは、いないです」

「……ほんまに?」

「はい」

 僕はまた下を向いて、卵焼きに手を伸ばす。箸でちぎって、口に運ぶ。牧野さんは、しばらく黙って僕のほうに視線を向けていたけど、やがて、自身も箸を動かして卵焼きをつつく。

 お互いあとひとくちほどで食べ終わる、というところで、ぴんぽーんと音が鳴り、自動ドアが開く。来客を告げる合図。いらっしゃいませーとふたりで声を上げる。常連のおじさんだった。このおじさんは、カウンター内で牧野さんがお酒を飲んでいようが僕がアイスを食べていようが、まったく気にする様子がない。だいたい決まって深夜三時前に現れ、あきらかに酔っていると思われるが、酒は買わずに毎回牛乳と菓子パンを買う。

 ありがとうございましたー。ふたりで客を見送ってから、最後のひとくち、卵焼きを口に運ぶ。ごちそうさまでした。ストローでお茶をすすっているうちに、なんだかまぶたが下がってきて、あくびがもれた。

「眠たい?」

 首を動かして、縦に振る。眠たい。だいたい、いつもこれくらいの時間で、強烈な眠気に襲われる。授業中ほとんど寝てるとはいえ、いちおうは朝から学校に行ってるから、たぶん、睡眠時間が足りてないんだと思う。

「寝る?」

「……うん」

 僕が頷くと、牧野さんは僕の隣をするりと抜けて、カウンターの奥、業務用冷蔵庫も通り過ぎ、バックヤードへとへと向かう。倉庫兼、従業員の休憩場所。僕は、片手で目をこすりながら牧野さんについていく。幼い子どもみたいに。

 在庫の飲料やスナック菓子の段ボールで雑多としているスペースの片隅に、ロッカーと、黒い小型のソファがある。牧野さんはロッカーへ向かう。僕は、もうほとんど目を開けていられないレベルで眠たくて、倒れ込むようにソファに横になる。

 ぱたん、と牧野さんがロッカーを開けて、続いてすぐに閉める音がする。足音がこちらへ向かってくる、と思った次の瞬間、やわらかな毛布がからだにかけられる。

 頑張ってまぶたをあげると、監視カメラを管理しているコンピュータの前に、くくった髪をぴょんと跳ねさせた牧野さんが座っているのが見えた。牧野さんは、迷いのない手つきでそれを操作する。よく仕組みはわからないけど、真面目に仕事をしていた時間がずっと映っているように見せかける、らしい。

 カメラの履歴を誤魔化すのなんか、僕には到底できなくて、たぶん他のバイトも誰もできなくて、こともなげにやってのけるのは、牧野さんだけだ。牧野さんは昔、大手の会社のエンジニアだったらしい。ほんとうかどうかは、知らない。

 作業を終えたらしい牧野さんが、立ち上がる気配がする。そして、再びこちらへ近づいてくる足音。

晴太はるた

 牧野さんが、僕の名前を呼ぶ。下の名前。ほんとの名前。僕の名字は実は武内じゃなくて武下たけしたで、それは、万が一、夜勤に入っているときに知り合いに見つかったときに他人の空似だと言い張るために偽名を使っているからで、だけど、下の名前は考えるのが面倒だったから、そのまま本名を使っている。

 牧野さんの手が、髪に触れる。やさしく二回、撫でるように頭に触れられる。

「おやすみ」

 ──いい夢を。

 そう言った牧野さんの声は、ちいさな子どもに、歳の離れた弟にでも話しかけるように、とびきり甘くてやわらかい。

 遠ざかっていく足音を耳で捉えながら、僕は、ぼんやりと思い返す。

 こうやって牧野さんにレジを任せて眠るようになったのは、僕がレジカウンターで立ったまま寝かけていたときにバックヤードに連れていかれて子どもは眠いなら寝ろと言い聞かせられてからで、最近では、牧野さんとのシフトのたびに、僕はバイトの残り数時間を毛布にくるまれて過ごしている。いつからか、牧野さんが持ってきてくれた毛布。

 たぶん、牧野さんの弟は、もうとっくにこの世にいないのだと思う。牧野さんの話の中で、弟さんは、しばしば現在形で語られる。だけれど、十六歳より歳を重ねた弟さんの話は、ひとつとして語られたことがない。

 それから僕は、さっきの牧野さんの言葉を思い返す──耐えられへんようなる前に、俺に言うてな。殺したるから。

 牧野さんは、きっと殺してくれるだろう。おじいちゃんを殴って庭に埋めてそれを隠して年金を不正受給しているくせに僕にお金をせびってくるお父さんも、授業をまったく聞かずホームルームも参加せず眠りこけて無愛想な僕をいないものとして扱ってくる担任の教師も。バスケ部は朝練に遅刻しまくって先輩に舐めてんのかクズって怒鳴られてそれにうっさいねん下手くそって怒鳴り返して大喧嘩になって以来辞めていて、授業中どころか休み時間も机に突っ伏して過ごしている僕には一緒にラーメンを食べに行く友だちなんかいない。牧野さんの弟ほどじゃないだろうけど得意だったはずの数学も最近はさっぱりだから成績はどんどん下がっていて、僕の生活はもうなにもかもめちゃくちゃなのだった。

 だけど、牧野さんに、お父さんたちを殺してほしくなんかない。そんなことしなくていいから、弟さんの話を、話したいだけ話してくれたらいい。できるだけ、いまみたいな時間が、ちょっとでも長く続けばいい。窃盗罪だか詐欺罪だかなに罪だかわからないけれど、僕らのやってることがバレませんように。祈る対象も持たないくせに、僕は毎日ずっと、そんなことを祈っている。

 牧野さんがお酒を飲む量は少しずつ増えてきていて、お父さんが要求してくるお金の額はますますエスカレートしてくる。どう考えてもこんな日々を続けていていいわけない。僕にとっても、牧野さんにとっても、ぜんぜん最適じゃない、正しくない日々だってのはわかってる。

 いらっしゃいませー。牧野さんの声がちいさく響く。朝が来れば、また、冷たい外へと出て行かなきゃいけなくて、それでも、いま、この瞬間の僕には、牧野さんの気配がすぐそばにある、やすらかな眠りが訪れる。未明、毛布の端を握り込んで、僕は、束の間の眠りに沈んでゆく。

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未明におやすみ 折り鶴 @mizuuminoue

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