つまさき

ころっぷ

つまさき

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【つまさきが光に触れる。そこはあなたのゆくさき。

わたしのゆびさきはドアノブに掛けられたまま。ドアは開かれない】

母の恐らく人生最後であったろう、

その言葉はスーパーのチラシの裏に頼りない筆跡で書かれていた。

牛肉100グラム230円。レタス1玉160円。卵1パック120円。

その日の安売り目玉商品が透けて見える。

何かの引用だろうか。

あまり本を読む人ではなかったはずだ。

それとも詩を書くような趣味があったのだろうか。

いずれにせよ、もうそれを確かめる術は無い。母は死んでしまった。

12年もの間、顔を見せなかった娘が遠く離れた街で忙しく仕事に明け暮れている間に、母は1人で静かに死んでいったのだ。

それを知らせてくれた母の知人は、彼女に娘がいた事を知らなかった。

何につけても余計な事を一切喋らない人だった。

最後は全身に転移していた腫瘍による痛みも鈍くなり果て、

まるで眠っている様な穏やかな顔だったらしい。

全て終わった後で知らされた。

それも当然だろう。12年の年月は余りに長く、全ての人間に最善の選択が用意されている訳では無いのだ。母はとにかく自分らしく生きた。

それは本望であったのだろう。

私にも娘が1人いる。12年前に1人で生んだ娘。

母にこの娘を殺されそうになり、私は家を出た。

父親のいない子供を生もうとしていた私に母は中絶を迫った。

それが最後の引き金だった。 

遺品を整理しに来て欲しいとその知人は言った。

3日もあれば終わる位の量だろうとも言っていた。

気は進まなかったが、私は唯一の肉親だ。

一昨日から娘の学校もタイミング良く夏休みに入っている。

岐阜の寂れた温泉町から川崎の母の住まいまで、

ざっと400キロ。朝の8時に家を出て、途中お昼ごはんで休憩し、

川崎に着いたのは午後3時近く。

その間娘との会話は必要最低限数える程しか無かった。

母も私も娘も恐ろしく無口だ。性格も多分似ている。それは嫌になる位に。

特に最近娘を見ているとふと母の面影を思い出す。

それは大体において私の気持ちを塞いでしまう。

母が1人で暮らしていたマンションは

駅前の商店街を抜けた先に小高い丘を背にして建っていた。

その小高い丘に沿うように小さな川が流れていて、堤防と遊歩道が伸びている。

街路樹の袂に所々ベンチが置かれ、

夏休みの子供達がワイワイと群れている。

娘とは同年代だろうがやや幼く見える。

娘がどんどん大人びていく事に私は時々恐怖を覚える。

母も私にそんな事を思っていただろうか。

母が眉をひそめ、黙って静かな眼差しを私に向けている顔を思い出す。

常に薄い笑みを口元に纏い、まるでそれ以上の感情表現からは

免除を受けているかの様に表情に乏しい人だった。

私はそんな母にどう接して良いか分からずに、

いつも黙ってその口元を見つめていた。

「こんにちは。瀬川さんですよね?初めまして、お電話させていただいた小泉と申します」

目の前に人が立っているのにも気が付かなかった。

「あっ、はい。すいません。気が付かずに。瀬川です。えーと、これは娘の梓です」

「お待たせしました。マンションに岐阜ナンバーの車がありましたので、辺りを見廻したら、でも良かった。すぐに瀬川さんだって分かりました」

「えっ、どうして・・ですか?」

「お母様に似てらっしゃいます。遠くからでもすぐに分かりました」

小泉は20代半ば位の小柄な女性だった。

極端に飾り気の無い服装をしている。

「この度はご愁傷様でした。ご連絡が大変遅くなり申し訳ありませんでした。お電話でもお話させていただいたのですが、私にはご家族の存在が知らされておらず、この様な形になってしまい本当に申し訳ありません」

「いえ、そんな謝られないで下さい。母とはずっと疎遠になってしまい、その・・家族の問題で逆に大変ご迷惑をお掛けしまして・・・・本当にお世話になりました」

母に似ているという言葉に自分でも驚く位に動揺してしまい、

挨拶もたどたどしくなってしまう。

さっきまでどこか懐かしく感じていた周りの景色も

途端によそよそしく感じられる。

小泉は私の目を真っすぐ見つめ、その視線をゆっくりと梓の方に向ける。

「それでは、早速ですが、これがお部屋の鍵です。中の物には一切手を触れていません。勿論冷蔵庫の中身やゴミなどは処分してあります。お母様は殆どの家事をご自分で最後までしっかりされていて、私はほとんど世間話をさせていただきに来ていた様でした」

案内された1階の角部屋の玄関には土だけの鉢植えが残されていた。

広々としたリビングの大きな窓からは遊歩道と街路樹が見える。

予想通りに必要最低限の物しか置かれていない。昔から母はそうだった。

遺品の整理に来た身としては大いに助かる。

「凄い、大きなピアノ」

梓が部屋に入るなり声を挙げるのも不思議は無い。

何も無いに等しい簡素な部屋の中央に母のスタインウェイが

静かに佇んでいた。一見してまだ現役のピアノであると分かる。

屋根にも鍵盤蓋にも埃は積もっていない。恐らく調律も完璧なはずだ。

「何でこんなに立派なピアノがあるの?」

ピアノの周りをぐるっと一周した梓が私に訪ねる。

「お母さんはピアノの先生だったの。私が生まれる前はピアニストで」

このスタインウェイは母の人生そのものだった。

母がこれを手にする為に、祖父は持っていた土地の殆どを手放したらしい。

音大を出て、東京の事務所でピアニストとして働いていた母は、

とある地方の交響楽団のホルン奏者と結婚し、私を生んだ。

それを機にピアニストからピアノ講師になり、

実家のリビングはピアノ教室となった。

私は物心付いた時から常にピアノの音色と寝食を共にし、

鍵盤に向かう母の背中を見て育った。丁寧なレッスンが評判になり、

ピアノ教室には常に一定数の生徒がいた様に記憶している。

私が12歳の時に父が交通事故で亡くなっても、

生活費に困る様な事は殆ど無かった。

四九日法要の翌日からレッスンを再会した時の母の顔は今でも忘れられない。

思えばあの時、私達の間の見えない壁は完成した様だった。

「瀬川さん、大丈夫ですか?お疲れですよね」

「あっ、はい。すいません。ぼーっとしてしまって」

母の最後を電話で知らせてくれた小泉は、

母のピアノの教え子という事だった。

最初の連絡は仕事中で出られずに、留守番メッセージに吹き込まれていた声を夜中に家に帰ってから聞いた。

母の死が知らされても何の実感も沸き上がらず、

ただこれから色々と忙しくなるのかという思いだけで疲れを感じた。

次の日に電話を掛けると小泉は母の最後の様子を丁寧に話してくれ、

マンションの鍵を預かっているので都合の良い日に遺品整理に来て欲しいと言った。

私の勤め先の温泉旅館は繁忙期にも関わらず3日間の有給休暇を認めてくれた。

「今日はこれで失礼させていただきます。もしお邪魔でなかったら明日もう一度お伺いさせて頂けないでしょうか?もう少しお話をさせて頂きたいと思いまして」

「ええ、勿論大丈夫です。そんなに片づけるものも無さそうですので、私達も今日はもうホテルに向います」

カーテンの無い部屋に西日が差し始めていた。

川の堤防の方角に陽が沈んでいく。

自宅で緩和ケアを受けていた母も、

毎日この夕日に目を細めていたのだろうか。

12年間会っていない母の顔は、当然12年前の記憶で止まっている。

でもきっとそれ程変わっていなかった様な気がする。

この部屋に入った瞬間にそう思った。

梓はピアノを何時までも見つめていた。

まるでそこに母の姿を初めて見る様に。


           2


翌日は朝から母の遺品を整理した。本当に必要最低限の物しか無い。

食器類や衣類、家具、家電などは母が生前に買取り業者の付け値で

引き取って貰ったらしい。

僅かに残されていた細々とした生活雑貨は分別して

ゴミとして出してしまった。

お昼を近くのコンビニの弁当で済まし、一休みしている頃には、

部屋に残る母の遺品は鉢植えとスタインウェイだけになってしまった。

「本当に余計な物がないね。もう終わっちゃった」

梓が空っぽになった部屋の中を見廻して呟いた。

「思ったより楽で良かったわ。明日は横浜で遊んで帰りましょう」

「うん。そうだね」

中学生になったばかりの梓は周りの同級生と比べて大人びている。

身長も高かったが、それ以上に子供らしい表情が殆ど無い子供だった。

無口で大人しい。思えば幼い頃から全く手の掛からない子供だった。

温泉旅館で朝から遅くまで働く私の生活のリズムに合わせ、

自分の成長速度を調整してくれたかの様だった。

身寄りの無い土地で1人で子供を育てるという困難を

一番助けてくれたのは、当の育てられる本人だった。

どうして私の娘なのにこんなにしっかりしているんだろうかと

よく思ったりしていた。

最近は年頃なのか、会話が少なくなってきてはいたが、

反抗したりという事が殆ど無い。

一緒にいて煩わしさがまるで無いのは助かっているが、

母娘として少し関係が希薄なのかも知れないと気になってはいた。

「ねぇ、このピアノはどうするの?」

革張りのピアノ椅子に腰を掛け、

鍵盤蓋の上を指でなぞりながら梓は私の方に視線を向ける。

「これも業者に買い取って貰うしかないわね」

「お母さんはピアノ弾けるの?」

「えっ?」

「お祖母ちゃんにピアノ習わなかったの?」

「本当に小さい頃にはちょっとやってたけど・・・・殆ど弾けない内にやめちゃった」

まだ父が事故で亡くなる前、母は私をピアノ椅子の端に座らせ、

簡単なエチュードを教えてくれた。

しかし音楽家の両親を持ちながら私には音楽的なセンスは無かったようだ。

当時の私にはピアノに向き合う事よりも、

もっと外の世界に興味があったのだと思う。

実家の決して広くない居間をピアノに占拠されていたのも面白くなかった。

毎日ピアノ教室の生徒が家にやってくるのも。

週末などは居場所が無いように感じていた。

父も複数の交響楽団を掛け持ちしていて家にいる事が少なかった。

家事一切は当時同居していた母方の祖母がやってくれていた。

私は祖母に育てられた子供だった。

玄関チャイムが鳴り、我に帰る。約束の時間通りに小泉がやってきた。

昨日と同様に飾り気の無い地味な服装だ。

髪もシンプルに後ろに束ね、必要最低限の化粧しかしていない。

「すっかり片付きましたね。お疲れの所、お邪魔して申し訳ありません」

「いいえ、本当にすぐ終わってしまいましたので」

「お母様は病院を出てこちらで緩和ケアを受ける様になってから、少しづつ身辺整理されていた様です。私は週に2回程様子を見に寄らせていただいていたのですが、来る度に物が少なくなっていく様でした」

リビングには家具一切無くなってしまっていたので、持参してきた座布団を並べた。

昨日初めて会った他人と、何も無い部屋で今日こうして向かい合って座っているのが、何だか非現実的に感じる。

随分と遠くに来た気がした。

「何からお話すれば良いのかと色々と考えていました。瀬川さんはお母様と長くお会いになっていなかったと伺いましたので、何か知りたい事があれば仰って下さい。私は10年程前からお母様のピアノ教室の生徒でした。お母様はとても教え方が丁寧で、穏やかな方でしたので、沢山の教え子がいました。私は幼い頃に母を亡くしてまして、瀬川先生を母親の様にも感じていたんだと思います」

「そうだったんですね。ここでもレッスンをしていたんですか?」

「ええ、ここにも何人かの生徒さんが通ってました。ここは壁も窓も防音になっています。私もこちらでレッスンを受けていました」

母は教え方が丁寧で穏やか。

多くの生徒に慕われ、幼い頃に母親を亡くした人からは母親の様に思われていた、

らしい。

何もかもリアリティが感じられない。

どこか知らない人の事を聞いている様だった。

梓も黙って話を聞いている。

会った事も無い祖母の話を聞いて何を考えているのだろうか。

彼女に父親がいない理由。祖母と会えなかった理由。

私が1人で自分を生もうとした理由。

話さなければならない事がこんなにも沢山あったのに、

今まで何も話さずにいた事に自分でも驚いてしまう。

そして梓がその事を何一つ聞いて来ない事にも。

「ご病気が分かってからレッスンは辞めておられたのですが、私は何かと理由を付けてここへ通っていました。何か出来る事は無いかと思って。先生は何も言わず、何も変わらず、穏やかに笑ってらして、ピアノの事や私の仕事の話なんかを聞いて下さっていました」

穏やかに笑って?あの母の笑った顔なんて想像出来ない。

眉間に寄せられた深い皺は永遠に取れないものだと思っていた。

その口からはわずかな溜息しか漏れず、

あの哀しい位に細かった指は鍵盤の上でしか動かないものだと思っていた。

まるで世界中の不幸を背負った様に譜面にかがみ、

背中しか見せなかった母。

12年という年月は何もかも全て変えてしまっていた様だ。

私は今初めて、その時間の重みに気が付いた。

「瀬川さん、この話はもしかしたらお気を悪くされてしまうかも知れないのですが、こうして私が先生のご家族にお会いできたのも何か意味がある事の様に思えるんです。差し出がましくて申し訳無いのですが、お話させていただいても宜しいでしょうか」

何の話かも分からないのに宜しいかどうかなんて判断出来ないが、

今の私には聞かされるべき理由がある様な気がした。

「ええ、お話下さい、お願いします」

その話には私の知らない母がいて、私の知らない世界があるのだろう。

私には知らない事が多すぎる。

まるでリニューアルしたスーパーの陳列棚の様に世界は急に他人行儀になってしまった。


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「私が先生と初めて会ったのは、中学に入ったばかりの時のピアノコンクールの会場でした。ピアノ自体は幼い頃から続けていて、その時はもっと本格的なレッスンを受けたいと思いピアノ講師を探していたんです。ある人から先生を紹介して頂いて、コンクールの演奏を聞いてもらう事になっていたんです」

カーテンの無い窓の外をじっと見詰め、小泉はゆっくりと言葉を選びながら話す。

私も視線に困りそちらを眺める。

梓はピアノ椅子に鍵盤とは逆向きに座り、小泉の側頭部に視線を落としている。

「私はその日初めて会った先生の事を、不思議とずっと前から知っている様な気がしたんです。キレイな人だなと思いました。4歳の時に亡くなった母の記憶はボンヤリとしていたのですが、どこか面影を感じたのだと思います。後から思うとピアノの為と言うよりも、先生に会いたくてレッスンを続けていた様な気がします」

小泉は自分の掌に視線を落とし、懸命に私に何か伝えようと話している。

私はさっきから彼女の白くて細い指から目が離せなくなっている。

私はこの場所にきて、誰かの母との思い出話を聞くとは夢にも思っていなかった。

人から母の話を聞くのは初めての事だ。

「先生のお家のお庭にあった花壇。覚えていらっしゃいますか?昨日、瀬川さんに鉢植えの事を聞かれて思い出したんです。お庭の花壇にはマリーゴールドがいっぱいに咲いていました。先生はあまりご自分の事を話さない人でしたけど、音楽とお花の話はよく聞かせてくれました。リストのピアノ曲が好きで、特に愛の夢第3番をいつも好んで弾いていました」

その時、黙って話を聞いていた梓が突然立ち上がった。

「もし、よかったらその曲を弾いてもらえませんか?」

普段から大人しく控えめな梓が、昨日初めて会ったばかりの人間にこんなにハッキリと何かを要求するなんて驚いてしまった。

その目が何時になく真剣であった事にも。

「はい。勿論。ちょっと準備しますね」

まるでこうなる事が分かっていたかの様に小泉は落ち着いている。

開いていたリビングの窓を全て閉めて回り、

ピアノの屋根を少し開け、鍵盤蓋を静かに上げた。

ピアノ椅子に腰を下ろすと目を閉じて大きく息を吐いた。

両手が同時に持ちあがり、音も無く振り下ろされた瞬間、

耳馴染みのある音の連なりが波の様に押し寄せた。

母が何時も弾いていた曲。

左手の哀しく優しいメロディとそれを包み込む様な右手の舞踊る伴奏。

音が緩やかにたゆたい、空間を包み込んでいく。

実家の2階の自分の部屋で、母が弾くこの曲に耳をそばだてていた事を思い出す。

レッスンが終わって生徒が帰った後、母は決まってこの曲を弾いていた。

1人で何を思い弾いていたのだろう。

小泉の演奏は見事だった。

暗譜でこの曲をここまで正確に、感情豊かに弾く事は容易な事ではないはずだ。

鍵盤を行きかう指の力強さに先程迄の小泉の面影は無い。

何か強い意志と決意を持って演奏しているのが伝わってくる。

12年振りに聴くリストの曲は思いの他私の感情を揺さぶった。

曲がピークに差し掛かり、高音から低音へ両手が一気に鍵盤を駆け降りる。

色んな思いがグルグル回る。

どうして私は母を許せなかったのか。

今となってはその理由すらもぼんやりと薄らいでしまった。

何も言わず、私の考えには疲れた顔で否定する母だった。

私の気持ちに興味を持っていない様だった。

そんな母に反抗する様に、ずっと私は母の嫌がる事を選択してきた。

進学も、就職も、詰まらない男に掴まって、

1人で梓を生む事を決めた時も。

母は私に自分の様になって欲しくなかったのかも知れない。

母の感情はきっと父の死を越えられなかったのだろう。

父の死は母の何かを終わらせた。

母は段々と喪失に体を慣らし、何かを得る事から距離を取った。

変化を嫌い、僅かな兆候にさえ不安定だった。今なら少し分かる気がする。

感情に蓋をしたまま生きる事の困難を。

ましてや感情を表現するピアノを生活の糧にしているのに。

小泉の両手の動きが止まり、静かな余韻を残し演奏が終わった。

最後の1音を打った指先は鍵盤から弾かれ

宙に上げられたまま静止していた。

「先生にお子さんがいらっしゃるのは何となく分かっていました」

小泉がゆっくりと私の方に体を向けて言った。

「先生は何もお話になりませんでしたが、でもそういう事って何となく分かるんです」

小泉は鍵盤蓋を静かに下ろし、屋根を閉め、部屋の窓を開けた。

僅かに風が入り、俯いて私の隣に座っていた梓の長い髪を揺らした。

「ご病気の経過が悪く、私は先生にご家族がいるのなら連絡を取るべきだと何度か言いました。でも先生は笑ってそれを否定されました。私に子供はいないと、私が死んでもあなたは何も心配しなくて良い、全部手続きは済ませていると仰っていました」

小泉の話を私はただ黙って聞いていた。

何も考えが纏まらない。

ピアノの演奏で記憶が混濁し、今の自分の感情がうまく立ち上がってこない。

まるで中々起動しない古いパソコンの様でもどかしい。

「それでどうやって私達の存在を知って、連絡したんですか」

梓が突然口を開いた。その声で私も現実に戻された。

当然の疑問だと思った。

「手紙が届いたんです。差出人は先生でした。瀬川さんにお電話する前の日です。先生がどうやってその手紙を投函したのかは分かりません。そこには瀬川さんの電話番号と連絡をして欲しいと書かれていました。その時にはもう葬儀も納骨も終わっていました」

母らしいと思った。或いは母らしく無いのかも知れない。

それも今となってはどちらでも良い事だ。全ては終わってしまった事だ。

結局母が何を思っていたのかは分からない。

事実だけでは伝わらない事だらけだった。

それはまるで遠い国の戦争のニュースの様に。


           4


いつの間にか部屋にまた西日が差していた。

この部屋では時間が一定に流れていってくれない。

いないはずの母の気配が私の気持ちを揺さぶる。

「私が緩和ケアのスタッフの方から連絡を受けて、この部屋に駆けつけた時に、ピアノの譜面台にこの紙が挟まれていました」

小泉がバックから折り畳まれた紙を取り出し私に手渡した。

スーパーのチラシだった。

裏に書かれた頼りない筆跡の文章を何度か読み直すと、

全く予期せぬ事に涙が落ちてきた。


【つまさきが光に触れる。そこはあなたのゆくさき。わたしのゆびさきはドアノブに掛けられたまま。ドアは開かれない】


母の書く文字は何時も怖い位に整っていて、

その事も何だか冷たい感じがして好きではなかった。

しかしこの手紙なのか詩なのか分からない文章の文字は、

弱く乱れながら蛇行している。

ペンに上手く力が伝わらずに震えている筆跡が、不意に胸を締め付けた。

「この文章を何度も読み直していると、先生がお子さんに向けて書かれたんじゃないかと思ったんです。ゆくさきを案じている母親の気持ちと、何か大きな後悔の様なものを感じたんです」

小泉の言葉がやけに遠くで響いている様だった。

母の鍵盤を這うゆびさきと、ペダルを踏み込むつまさきを思い出した。

確かに母はドアノブに触れたのだろう。

でも結局そのドアは閉ざされたままだった。

12年間娘と会わず、孫の顔も見ずに死んでしまった。

「母の気持ちは分かりません。余りにも長い時間が過ぎてしまいました。私にも後悔はありますが、だからと言ってどうすれば良かったのかはやっぱり分からない。今となってはきっとこうなる他無かったのだと思うんです」

私はどうしたのだろう。

昨日会ったばかりの他人に纏まらないままの気持ちを話している。

何度もチラシに目を這わす。

わたしのつまさきは光に触れているのだろうか。

わたしのゆくさきは正しかったのだろうか。

頭の中をグルグルと思考が巡る。思えば梓に涙を見せた事も初めてだった。

長い間留められていた感情は、流れが急で勢いが凄まじい。

私は全身の力が抜けていく様な虚脱感に襲われていた。

その時、隣で微動だにしなかった梓が突然立ち上がり、

ピアノに歩み寄った。鍵盤蓋を開けて大きく息を吐くと、

立ったまま左手を動かした。

愛の夢の哀しいメロディがゆっくりと奏でられる。

「梓、あなたピアノ弾けるの?」

私は梓がピアノを弾けるのを知らなった。

「少しだけ。この曲は難しいから左手だけ練習したの。去年から少しずつ学校で音楽の先生に教えてもらったの。中学ではピアノ部に入ったんだよ」

私は娘の事も何も知らなかった。

私の知っている事なんてこの世にあるのだろうか。

「もう一度、弾いてみて」

小泉がピアノに歩み寄り、梓の隣に立って右手を伸ばす。

梓の弾くゆったりとしたメロディに小泉の滑らかなアルペジオの伴奏が合わさる。

何度もメロディが躓くが、その度に伴奏が優しく起き上がらせる。

部屋の歪んでいた時間の流れに一定のリズムが生まれ、

張り詰めていた空気が緩んでいく。

母がピアノ講師だった事を梓は知らなかったはずだ。

私が母の話をしたがらないので、梓も何時からか聞かなくなっていた。

曲の途中から梓の左手は止まり、代わりに小泉が両手を動かす。

梓は小泉のゆびさきをじっと見つめている。

二度目の演奏が終わり、静まり返った部屋の中で暫く3人とも口を開かなかった。

表を車が通り過ぎる音や、子供等の遊ぶ声が聞こえてくる。

窓が開いたままだった。

私はもう一度チラシに目をやり、書かれた文字を何度も繰り返し読んだ。

まるでそこに私が口にすべき台詞が書かれているかの様に。

「今まで私は、自分のゆくさきを自分で決めて生きてきたのだと思っていました。でもそれは母から逃げていただけだったのだと思います。母が決して追い掛けてこない事も分かっていて。この先も逃げ続ける事は出来ない。知らない振りを続ける事も出来ない」

私はその時、妙に気持ちが落ち着いていた。

スッキリとした頭で、

今思いついた事をずっと考えていた事の様に感じていた。

「ここで梓にピアノを教えて頂けないでしょうか」

自分でも大それた事を言っているのは分かっていた。

置かれている状況も立場も、これまでの生活も完全に無視した発言だ。

それでも今言わなかったら、一生その事を悔いる様な気がしていた。

「私のゆびさきもずっとドアノブに掛けられたままなんです」

そこまで言うのが精一杯だった。

小泉も梓も何の事かさっぱり分からなかっただろう。

母と私の間にあった壁は、私達にしか見えないものだったから。

     

           5


窓の外がぼんやりとほの明るい。

カーテンの隙間から外を見ると雪が積もっていた。

今年初めての積雪が街灯の光を反射している。

人影の無い遊歩道に音も無く雪が振り続けている。

「先生、積もっちゃったよ。気が付かなくてごめんなさい。自転車大丈夫かな?」

窓から伝わる外気の寒さに思わず背中を震わせ私は言った。

ピアノの隣に置かれたダイニングチェアに座っていた小泉が窓辺の方に振り向く。

「大丈夫です。歩いても帰れますから」

部屋の中はゆったりとしたピアノの音色で満たされていた。

梓の指先は心細さを感じさせながらも、確実に旋律を辿っている。

どうやら隔世遺伝は本当にあるらしい。

徐々にだが、フランツ・リストのあの美しい曲の輪郭が浮かび上がっていた。


           完

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