雲を編むヘンリッカ

かかえ

 ひとつ足を踏み出すたびに、分厚い皮靴の下で雪が軋む。

 枯れかけの短い草に覆われていた平らな地面は、一夜にして白雪の底に消えた。冬の始まりの日。積もった量はかかとが埋もれる程度だが、張り詰めた外気は鋭く冷えている。

 ミルヤはかじかむ指先に煙のような息をかけてから、羽織ったケープに顎をうずめた。寒さに身を縮こまらせながらも、彼女の足取りは軽い。行く先に広がる黒々とした森に目を向けたまま、雪原に弾んだ足跡をつけていく。

 ――村の外れにある森に、ひとりで入ってはいけないよ。

 幼い頃から繰り返し聞かされてきた教えを破るのは、これで何度目になるだろう。かつては大人の言葉を絶対だと信じ込み、森に漠然とした恐れを抱いていた。

 しかし、ミルヤは今年で十四歳だ。教えが子どもを守るための方便にすぎないことに気づいているし、注意を怠らなければ問題ないと理解もしている。

 人目をかいくぐって村を抜け出すのは容易ではない。誰かに見つかれば厳しく叱られ、しばらく外出を制限されるはずだ。それでもミルヤは、どうしても彼女に会いたいと思ってしまう。

 ひと月前から森の奥で暮らしているヘンリッカに。

 ミルヤの日常に彩りを与えてくれた、美しき流浪の魔女に。


       *


 鬱蒼とした木々の群れに踏み込む瞬間の後ろめたさには、いつまで経っても慣れそうにない。

 歩きながら辺りを見回せば、視界に映るのは延々と立ち並ぶ針葉樹のみ。どれも抱えきれないくらいの太さがあり、真っ直ぐで、天を突くほど高く伸びている。雪を被った枝葉はわずかにたわんでいて、ときおり遠くから落雪の音が響いた。

 似たような景色に囲まれていても迷わず進むことができるのは、幹に目印のための色布が点々と打ちつけてあるからだ。

 昔はこういう物がなかったために、よく人が行方知れずになったという。だからだろう、もともと名前のないこの森を、未だに『呪いの森』だとか『神隠しの森』だとか呼ぶ村人も多い。代々すり込まれてきた漠然とした恐れが、誰の胸にもこびりついている。

 ふいに周囲の木々が途切れて、視界が広がった。

 ぽっかりと空いた雪景色のなかに、年季の入った丸太小屋が一軒建っている。大人が狩りをする際に使用する休憩所のひとつだ。

 ミルヤは小走りで小屋に近づいていくと、古ぼけた扉に遠慮なく手を伸ばした。

「ヘンリッカ、いる?」

 小屋の内部は雑然としていた。防寒のために毛皮で覆われた壁。いくつも重ねて敷かれた絨毯。長机と椅子。薬をつくるための材料と、手芸の道具がいくつか。

 天井には干した肉やハーブがぶら下がっていて、炉に吊された鍋のなかには食べ物がわずかに残っている。

 だが何よりも目に入るのは、部屋の奥。無造作に積み上げられた編みぐるみの山だ。

 ざっと見ても二十体は超えていそうだった。どれも淡い虹色の糸で編まれており、兎や熊などの動物を模した愛くるしい姿をしている。

 軽く室内を見回してから、ミルヤは首を傾けた。

「ここじゃない、ってことは……」

 つぶやいたのとほぼ同時に、外から軽やかな太鼓の音が聞こえ始めた。とん、とん、とひとつ叩くごとに区切られた単調な響き。ミルヤは素早く身をひるがえし、音のするほうへ駆けていく。

 小屋の裏手へ回り込んだ彼女は、すぐに足を止めた。視界の先に、探していた人物を見つけたのだ。鮮やかな青色の衣服を身にまとう、すらりと背の高いその人を。

 怪しい余所者。編み物ばかりしている変わった女。得体の知れない魔女。

 村人たちのあいだで広まっている様々な呼び名が、ミルヤは大嫌いだった。得体なら知れている。彼女はヘンリッカだ。

 ヘンリッカは片面にだけ皮を張った薄い太鼓を左手に持ち、棒を使って一定の拍子を刻み続けていた。その音につられて、空から何かが続々と地上めがけて降りてくる。

 光の鳥だった。冬日の輝きに形を与えたような、きらめく小鳥たち。

 ミルヤはしばらくその光景に魅入ったあとで、静かにヘンリッカのもとへ歩み寄る。

 よく見れば、どの鳥もくちばしに淡い虹色をした、綿のような物をくわえていた。鳥たちはそれを魔女の足もとに置くと、すぐにまた空へ飛び去っていく。羽音はない。静けさのなかを、次から次へ。真っ白だった雪の上は、瞬く間に七色で彩られていった。

 雲の欠片と呼んでいるのだと、以前ヘンリッカからそう聞いた。空の果てから鳥たちがついばんできて、彼女のもとまで届けてくれるのだと。

 嘘か誠かはわからない。だが、触ろうとしてもミルヤの手をすり抜ける。不思議なものであることは事実だ。

 やがて太鼓の音が鳴り止むと、鳥の来訪もぴたりとなくなった。ヘンリッカはその場に腰をかがめ、散らばった雲の欠片を黙々と拾い始める。

「ねえ。ヘンリッカ」

 呼びかけたことで、ようやく彼女はミルヤの存在に気づいたらしい。かがんだ状態のまま、顔だけがこちらを向いた。

 歳は二十代後半か、三十代か。あるいはもっと上かもしれない。姿勢を低くしているせいで、癖の強い栗色の髪が地面を撫でている。にんまりとした笑みが口もとに浮かんでいるのは、おそらくこれからミルヤが言うことを察しているからだ。

 同じやり取りを何度も交わしてきた。返ってくる言葉もきっといつもと変わらない。それでもミルヤは正面から相手を見つめ、きっぱりと言い放つ。

「わたしを弟子にしてよ」

「はいはい。気が向いたらね」

 朗らかな口調につられて苦笑がもれた。

 この日もミルヤは、魔女の弟子にはなれそうにない。


       *


 朝日とともに目を冷まし、すすけた炉に火を入れる。

 桶を担いで川まで水を汲みに行き、家に帰って両親とともに食事を済ませ、家畜小屋で群がる羊に干した藁をやる。

 毎日毎日、同じ生活の繰り返し。決して嫌なわけではない。けれど、退屈だ。

 川と森のあいだに家屋がいくつか並んでいるだけの素朴な村。会話を交わすのは顔見知りばかり。変わり映えのしない暮らしを続けているうちに、気づけば大人と呼ばれる年齢に近づきつつある。

 しかしどんなにうんざりしていても、生まれ故郷を離れるための力も勇気も、ミルヤは持っていなかった。

 このまま淡々とした毎日を生きて、やがては死んでいくのだろう。やるせない考えが頭をよぎるたび、真っさらな雪原にひとり放り出されたような、とてつもない焦燥感に襲われる。

 そんなミルヤの日々を変えてくれたのが、ヘンリッカとの出会いだった。

 けたたましく鳴き喚いている羊たちの世話を大急ぎで終わらせて、ミルヤは家畜小屋からそっと離れた。冷たい空気に鼻先を赤くしながら、なるべく自然なふうを装って、村の外れに向かう。

 時刻は真昼の少し前。昨晩から降り続いていた雪も今ではやみ、空のところどころに晴れ間が覗いていた。一面の雪景に細々とした陽光が反射して、ちかちかと目にまぶしい。

 大人たちは雪掻きや薪割りの作業で忙しそうにしている。好都合だ。彼らの気を引かないように注意しつつ、ミルヤは足早に物置の横を通り過ぎた――が。

「ミルヤ! こっちきて一緒に話さない?」

 いきなり名前を呼ばれ、両肩が跳ねた。

 動揺を隠して振り返ったその先で、同年代の女の子たちが大きく手を振っている。ミルヤは引きつった頬をなんとか動かすと、申し訳なさそうな表情を作り上げた。

「ごめん、まだ家の手伝いの途中なの!」

 いつもならふたつ返事で誘いに乗るところだが、今日はいけない。残念がっている彼女たちに心のうちで謝ってから、ミルヤは先を急ぐ。

 誰にも知られずに森へ入るためには、いくつか満たさなければならない条件がある。特に冬。地面が雪で覆われている時期は。

 この季節に村を抜けられる機会は、十日に一度。人前にほとんど姿を現さない魔女の監視と交流のため、村の上層部たちが定期的に森を訪れるときだけだ。

 ようやく村の外れまでたどり着いたミルヤは、一旦立ち止まって行く先へ目を向けた。

 森へと続く道は完全に埋もれてしまっていたが、代わりに複数の人間が歩いた跡が延々と残っている。もうひとつ足跡が増えたところでこれなら目立たない。

 近くに人がいないことを念入りに確認してから、ミルヤは口の端に笑みを乗せた。


       *


 ひと月前。彼女はごくわずかな荷物を持って、ふらりと村を訪れた。

 彼女は自らのことを魔女だと説明した。己の役目を果たすために、各地を旅して回っているという。

 魔女には良い噂も悪い噂もある。そもそも数が少なく、秘密を好む集団であるために謎も多い。

 村人たちが警戒して詰め寄るなかで、彼女は常に堂々とした振る舞いを見せていた。村外れの森にしばらく滞在したい、決して迷惑はかけないと、怯むことなく何度も説明を重ねていた姿をよく覚えている。

 集会所で行われた長い話し合いの末に、彼女は森で暮らすことを許された。

 どんな魔法を使ったのか、最終的には気難しい村長と笑顔で酒を飲み交わし、夏用の狩猟小屋で寝泊まりする許可までもぎ取っていた。

 不満を露わにする住人も多かったが、長の決定は絶対だ。顔をしかめながらも、皆黙って彼女の存在を受け入れた。

 両親からは絶対に彼女に近づかないよう強い口調で言われたが、ミルヤにはその理由がちっともわからなかった。

 確かに他所者ではあるけれど、厳しい態度を取る村人と正面から向き合っていた姿勢には、確かな誠意が感じられた。悪い人間だとは思えない。

 それに、淡い期待もあった。

 外からきた彼女なら、繰り返すばかりの退屈な毎日に、新しくて特別な変化をもたらしてくれるのではないかと。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなって、ミルヤはその日のうちに村を抜け出した。彼女のもとへ行ってどうするかなど考えていなかった。もう一度だけ姿を見られたら、それで満足できるだろうと思っていた。

 狩猟小屋のそばまでたどり着いたミルヤは、わずかに躊躇したあとで、窓から内部を覗き込んだ。そして息を飲む。

 彼女は編み物をしていた。

 淡い虹色の糸を指にからませながら、一本のかぎ針を巧みに動かして何かを作り出している。

 ミルヤも編み物をすることはよくあるが、手際がまったく違った。素早く動く手指がまるで神秘の儀式を行っているように見えて、どうしても目が離せない。

 ふとした気配を感じたのか、そのとき彼女が、豊かな栗色のを揺らして振り向いた。頭を引っ込め損ねたミルヤと目を合わせると、何も言わずに笑みを浮かべる。

 深い緑の瞳を細め、口もとを悪戯っぽく吊り上げて。

 おそらくあの瞬間から、ミルヤは彼女の魔法にかかっている。

「それでね、レーナのお兄さんは雪解けの頃に村を出ていくみたい。遠くの街で商売について学ぶんだって」

 光の鳥が集めてきた雲の欠片は、羊毛と同じように扱われる。

 ブラシを使って繊維の流れを整えたのち、少しずつ引き伸ばしながら、回転する道具を使ってよりをつけていくのだ。

 ヘンリッカは慣れた手つきでどんどん雲から糸を紡いでいく。七色の濃淡がついた、なめらかな輝く糸。その様子を長卓の反対側から眺めながら、ミルヤは相づちも待たずに話を続けた。

「いいなあ。うちも何かめずらしい職業の家だったらよかったのに。いつも同じことばっかりやっててつまんない」

 ミルヤが愚痴をこぼしているあいだにも、目の前の作業は順調に進んでいた。ある程度の糸をねじり終えたら、今度は別の道具に巻きつけて細長い束にまとめ始める。

 ミルヤでは触れられない魔法の素材のはずなのに、こうして見ているとただの毛糸と変わらなく思えてくるから不思議だ。

 新しい糸束がみっつ出来上がったところで、黙々と動いていたヘンリッカの手がようやく止まった。

「私がやってることだって、あんまり変わらないと思うけどね。毎日毎日、雲を集めて糸を紡いで、ひたすら編み物を続けてさ」

「全然違うよ。雲から糸を紡ぎ出すなんて、わたしにはできないもの。見てるだけでわくわくする」

「うん、確かに。つまらないと思ったことはないかな」

 肩を揺らして答えつつ、ヘンリッカはおもむろに席を立つ。戸棚の上から彼女が持ってきたのは、虹色の糸でできた作りかけの編みぐるみだ。

 狩猟小屋で暮らし始めてからずっと、彼女は赤子ほどの大きさの編みぐるみを量産し続けている。理由は聞いていない。どれだけ増やせば終わるのかも。

「……本当に変った子。村の厳しい教えを破ってまで、私なんかのところにくるんだから」

 椅子を引きながらつぶやかれた言葉に、ミルヤは喜々として身を乗り出した。

「それってつまり、わたしが魔女に向いてるってことじゃない?」

「はは、言うと思った」

 わざとらしく唇を尖らせたところで、そのまま会話が途切れる。慣れた手つきで針を操り始めたヘンリッカを、しばらく無言で見つめ続けた。

 編んでいる物に終わりがきたら、彼女はきっとあっさり姿を消す。そういう確信に近い予感があった。

 あと何回、こうして他愛ないやり取りを交わすことができるのか。あとどのくらいでヘンリッカのいない毎日に戻されるのか。尋ねれば教えてくれるだろうけれど、答えを聞くための心の準備がまだ、ミルヤにはできていない。

 いつかは解けてしまう魔法だとわかっていながら、今の心地よさを手放せずにいる。


       *


 冬は日ごとに深まっていった。

 積雪の量が増えたせいで、朝になるとまず屋根から雪を降ろし、埋もれた村を掘り起こさなければならない。

 日常の仕事に除雪の作業が加わって、村は慌ただしさを増していった。ミルヤが少しでも暇そうな素振りを見せると、大人たちからあらゆる手伝いを頼まれる。村を抜け出す隙をなかなか得ることができず、やきもきする日々が続いた。

 ようやくミルヤが森に向かうことができたのは、前回の訪れからふた月も過ぎた頃だった。寒さがわずかにやわらいで、雪解けの時期が迫っているのだと、毎年の経験から感じていた。

 冷えた空気を掻き分けるように腕を振りながら、静けさに満ちた樹木のあいだを懸命に進む。

 水分の多い雪に何度も足を取られては、そのたびに顔をしかめた。早くヘンリッカに会いたい。ただそれだけを考えて、ひたすら森を急いだ。

 もうすぐ小屋が見えてくる。しかし、木々が途切れる直前で、ミルヤはぎくりと足を止めた。

 人の声がしたのだ。内容までははっきりとしないが、誰かとヘンリッカが会話をしているらしい。

 とっさに近くの幹にへばりつき、顔だけを慎重に覗かせる。木立の合間から見えた小屋の前には、いつも通りの青い衣をまとったヘンリッカと、こちらに背を向ける複数の人間が対峙していた。

 魔女の様子を見にきた村の上層部たちだ。木陰に身を隠しながら、ミルヤは己の失態に眉を寄せた。

 やっと村を抜け出すことができたことに浮かれるあまり、大人たちが戻ってきたかどうかの確認を怠っていた。鉢合わせれば咎められ、二度とこの場にこられない。最悪の想像に鼓動が騒がしくなる。

 そうこうしているうちに話が済んだのか、村人たちが森のほうへ引き返してきた。ミルヤは見つからないように慌ててその場にしゃがみ込む。

 幸い、彼らはミルヤの存在に気づかなかったようだ。ぞろぞろと村へ向かいながら、笑い混じりに雑談を交わしている。

 途切れ途切れに聞こえてきたのは、魔女に対する冷ややかな言葉の数々だった。軽蔑。揶揄。かっとなったミルヤは思わず飛び出しかけたが、その前に頭上から聞き慣れた声が降ってくる。

「ひさしぶり」

 ヘンリッカだ。逆光で影になっているものの、口もとにはいつも通りのにこやかな笑みが浮かんで見えた。

「そんなところでうずくまってたら寒いだろうに。風邪を引くよ」

 差し出された冷たい手を握り、よろよろと立ち上がる。

 何ごともなかったかのように背を向けて歩き出したヘンリッカを、ミルヤはとっさに呼び止めた。

「ねえ、今の、村の大人たちに嫌なこと言われたんでしょう」

「まあね。でも少しだけさ。慣れてる」

「ごめんなさい。帰ったらちゃんと抗議しておくから」

 頭を下げるミルヤに向かって、ヘンリッカは一瞬の間をあけてから、苦笑とともに肩をすくめる。

「だから慣れてるって。それに、そんなことしたらあんたが怒られるじゃないか」

「でも」

「いいんだよ。そうやって心配してくれるだけで嬉しい。ありがとうね」

 何か言おうと口をひらきかけて、代わりにミルヤは下唇を噛んだ。ここで怒りや同情のままに行動を起こしても、自分の胸がすくだけだ。ヘンリッカはきっとそれを望まない。

 うつむくミルヤの肩に、優しく手のひらが乗せられた。

「それより、ずっとあんたがくるのを待ってたんだ。こっちから呼びに行くと迷惑になるだろうから」

 言葉に促されるように、そろりと顔を上げる。ヘンリッカは深い緑の瞳を細め、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。

「ついておいで。魔女の仕事を見せてあげる」

(ああ……)

 ついに魔法が解けてしまう。そんな気がした。


       *


 雑然としていた小屋の内部が綺麗に片づけられているのを見て、ミルヤは息を詰まらせた。

 散乱していた薬の材料や手芸道具はどこにもなく、吊るしてあったハーブもすっかり消えていた。部屋の奥に積まれたままになっている編みぐるみの山が、ひどく異質なものに思える。

「ヘンリッカ、もしかして」

「そう。終わったんだよ、ようやくね」

 突然すぎてなんの反応もできないでいるミルヤをよそに、ヘンリッカが壁に立てかけられていた何かを拾い上げる。いつも光の鳥を呼ぶ際に使っている、薄い皮の張られた太鼓と叩き棒だった。

「あんたはこれを持って。私はあの子たちを外に連れ出すから」

「あ、あれを運ぶの? ひとりで全部?」

「大丈夫。見てなよ」

 押しつけられた太鼓を手にミルヤはうろたえたが、ヘンリッカはどこ吹く風だ。さっさと部屋の奥へ進んでいくと、彼女は編みぐるみの山の前で両手を広げて、強く打ち合わせた。

「さあ、起きろ!」

 その瞬間、ただの編み物であったはずの動物たちが一斉に身体を震わせた。かと思えば、柔らかそうな両脚を使って器用に立ち上がり、よたよたと歩き始めたではないか。

 唖然とするミルヤの前で、ヘンリッカは動き出した編みぐるみたちを追いかけてのんびりと小屋を出る。遠ざかっていく彩り豊かな群れをしばらく見送ってから、我に返ったミルヤは慌ててあとに続いた。

 危なっかしい足取りで行進していた動物たちは、小屋のすぐ裏手で立ち止まった。ヘンリッカがいつも鳥を呼び、雲の欠片を集めている場所だ。

 広いところで改めて見ると、本当に数が多い。五十体はいるだろう。愛くるしい姿の彼らは、何故かその場で飛んだり踊ったり、自由に動き回っている。口がきければ楽しげな声を上げていそうだった。

 その様子にヘンリッカは満足そうな笑みを浮かべたあとで、混乱したまま突っ立っていたミルヤに向き直る。

「それじゃあ、太鼓を叩いてみて。やり方はわかるよね」

 急な要求に驚いたものの、好奇心のほうが大きかった。何度も目にしていた魔女の姿を心のうちに思い浮かべながら、ミルヤは聞き慣れた拍子を刻む。

 音に呼ばれて、遠くの空から輝く鳥たちがゆっくり近づいてくるのが見えた。しかしいつもとは様子が違う。雲をくわえていない上に、ものすごい大群だ。

 叩き方を間違ったのかもしれない。不安になったミルヤが視線を地上に移したそのときだった。わらわらと動き回っていた編みぐるみたちの足もとから、巨大な何かがのっそりと隆起してきたのである。

 太くて長い、半透明の影だった。丸みを帯びた頭部のような部分を左右に揺らし、周りの編みぐるみたちを追い払おうとしているように見える。

 異様な光景に、ミルヤは思わずヘンリッカの腕にしがみついた。

「大丈夫。こっちには気づかないよ」

 彼女の言う通り、見ている側に害が及ぶことはなかった。編みぐるみたちが暴れる影に飛びかかって動きを封じると、さらに空から降りてきた鳥が、一匹に一体ずつ虹色の身体をくわえて飛び立ったのだ。

 影は周りの木と同じくらいの長さまで引きずり出され、とうとう地面から末端が離れた。編みぐるみごと鳥に運ばれていった影は、そのまま空の彼方へ消えた。

 すべてが終わったあとには、取り繕ったような静けさだけが残る。

「……なんだったの、今の」

「なんて言えばいいのかなあ」

 めまぐるしく色々なことが起こったせいで理解が追いつかない。呆然とするミルヤの隣で、ヘンリッカがのんびりと言う。

「この森、昔から呪われてるだのなんだのって散々言われてきただろ。そういう言葉や恐れが地面に染みこんで、形になったもの。わかる?」

 わかったような、わからないような。ミルヤが素直に首をかしげると、明るい笑いが返ってきた。

「わからないのが普通だよ。ともかく、もうここは大丈夫」

「今ので追い出したから?」

「百年くらい経ったらまた溜まるだろうけどね。そのときになったら、また別の魔女がくるさ」

 百年という言葉に、胸が詰まった。それはつまり、生きているうちにヘンリッカと会えなくなるということだ。うなだれるミルヤの気をそらすように、ヘンリッカが少し声を張る。

「さてと。あんなにでかいものが飛んでったんだ、すぐに村人たちが戻ってくるだろう。その前にあんたと話をしておきたい」

 顔を上げれば、すぐそばにある深い緑の瞳と視線が合った。綺麗だな、と場違いにもミルヤは思う。どんな雪の日でも鮮やかで暖かい、魔法みたいな瞳だ。

「この数ヶ月、あんたのおかげで楽しかったよ。孤独には慣れているけど、誰かと同じ時を過ごすのも悪くないと思えた。お礼にひとつ、提案がある」

 ヘンリッカの手が、目の前にゆっくりと差し出された。

「弟子になるかい、ミルヤ」

 いつもと同じ、面白がるような笑みを浮かべながら。

「雲の欠片のことも、魔女としての生き方も、これから全部教えてあげる。今の生活に未練がないなら、私と一緒にこの村を出るかい」

 ミルヤはしばらく彼女を見つめてから、苦く笑って、静かに首を横に振った。

 初めからわかっていた。弟子になりたいなんて、それらしくかこつけただけだ。ミルヤはただ、ヘンリッカのそばにいたかった。曖昧でふわふわとした、何気ない彼女との関係が、どうしようもないくらい好きだった。

 だからこそ、頷けない。目もとに熱が集まるのを感じながら、ミルヤは口をひらいた。

「わたしはヘンリッカみたいにはなれないよ。今の暮らしは退屈だけど、全部を捨てる勇気はない。そんなに強くないもの」

 流れ落ちた涙はすぐに冷たくなった。ミルヤがそれを拭う前に、ヘンリッカの指が頬を撫でていく。

「勇気も強さも、あんたはちゃんと持ってると思うけどね。なんたって、村の教えを何度も破れるような子なんだから。ミルヤならいつだって、どこへだって行ける。私が保証する」

 からりと笑う彼女の顔は、たちまちにぼやけてしまった。今度は自分の手のひらで乱暴に目もとをこすってから、ミルヤはぎこちない笑みを返した。

「そう、かな」

「そうとも」

 ヘンリッカが言うなら、本当にそうかもしれない。もらった言葉を閉じ込めるように、胸に手を当てる。やっぱり彼女は、ミルヤにとって特別な魔女だ。

「さあ、そろそろ戻ったほうがいいだろう。湿っぽい挨拶はなしだ。それじゃあ元気で」

 一歩後ろへ下がったヘンリッカにひとつ頷いてから、同じ分だけ離れた。

「うん。ヘンリッカも」

 そう言い残し、ミルヤは彼女に背を向ける。歩きながら大きく息を吸うと、澄んだ空気が全身を満たした。

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雲を編むヘンリッカ かかえ @kakukakae

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