あした、廻る犬
郷乃 有陽
Like a rolling dog
投げ捨てられたヒールが床のタイルを打つ音で目が覚めた。玄関の扉に鍵がかかり廊下の壁に肩を擦り付けながら、不安定な足音がリビングの方へと過ぎていく。
僕は寝返りを打って布団をかぶり、もうひと眠りしようと目を閉じた。
喉がやけに乾いていた。
頭上に手を伸ばしてカーテンを少しだけ開けてみた。感覚的に朝4時くらいだろう。身体は重く、まだ眠りを求めている。
同じベッドで一緒に寝ていたはずの
寝室を出てリビングに向かうと、脱ぎかけのジャケットとタイトスカート姿の妻が、ソファに体を丸くして横になっていた。煙草とアルコールと胃液の混ざった酷い匂い。乱れた髪で顔半分は隠れ、口元からソファにかけて新鮮な吐瀉物が散乱していた。
微かな呻き声が聞こえる。
それから僕はキッチンに向かいフライパンで湯を沸かした。カップ一杯分だけ注いで飲み、残りは再び火にかけた。炊飯器に残っていた白飯を入れ、それをレンゲでほぐしながら出汁とカニの缶詰を入れ、丁度良い柔らかさになってきたところで火を止めて溶き卵を入れ、仕上げに塩と牡蠣醤油で味を調えた。
このあと二度寝をして昼までゆっくり土曜日の静かな時間を堪能したかったので、途中で二日酔いの妻に叩き起こされて朝食を作らされるのは勘弁だった。
煙草を吸いにベランダへ出ると、少しだけ雪が降っていた。初めて妻と2人で食事をして、酔い潰れた彼女を背負って帰った夜も、確か似たような雪が降っていた。
安いアルコールに溺れた勢いで始まったような結婚生活だが、もう7年目になる。出会ったのはその1年前。僕は制作職で、彼女は営業職。今は僕の方がフリーランスになって辞めてしまったが、もともとは同じ職場にいた。妻は昔からトップ営業マンで金曜日はほぼ毎週飲みに出かけていた。地頭も要領も決して良い方ではなく、むしろ不器用なタイプだが、キャリアのためなら自分の時間と金を先行投資にすることを厭わない。勝てる賭けに注力するタイミングを知っていて、高くて美味しい酒と、人の本質を見極める嗅覚が鋭い。誰に愛されるべきか、どうすれば他人から愛されるのか。それが全て分かる、そんな厄介な女だった。
そこでふと僕は、無意識のうちに泣いている自分に気付いて我に返った。
なぜ急に、こんな風に妻への思いが溢れてきたのか?
それは突発的な、赤の他人が流した他人事の涙のような、まるで現実味のない涙だった。誰かが僕の内側に入ってきて、瞳に勝手に水を注いで、それが勝手に溢れてしまっただけのような、とても冷たい涙だった。
リビングに戻ると、妻がダイニングテーブルでさっき僕が作ったお粥を食べていた。お粥は
「自分で取ったの?」と僕は訊いた。妻はそんなことをする人ではないのだ。
妻は僕の問いには何も答えず、黙々と食事を続けた。濃いめのアイシャドウが崩れ、髪もぼさぼさに乱れているが、その表情は田舎町の教会で教えを説く聖人のように澄んでいた。
「……誰?」と僕は訊いた。
すると彼女は、ようやく僕の顔を一瞥して微笑み、手の甲で汚れた口元を拭った。それから再び食べかけのお粥に視線を戻し「わん」と一言だけ吠えた。そして「あの人は、次に行ったわ」と言った。
「次?」
「取引をしたの」
そう言うと彼女は綺麗に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
彼女は席を立ち、食べ終わった皿を持ってキッチンの流し台で洗い物を始めた。
「何をしているの?」
「洗い物」
「見ればわかる。でもそんなこと今まで一度だってしたことがないじゃないか」
「でも今日からはするわ。良かったわね」
それから彼女はボサボサになった髪を乱雑に搔きむしり「ホットミルクが欲しいわ」とリクエストした。僕は彼女と入れ替わりでキッチンに行き、彼女はリビングのソファに戻り膝を抱えて座った。僕は冷蔵庫からミルクを出し、カップに注いで電子レンジのスイッチを入れた。ターンテーブルが回る。
「生まれ変わりって、信じる?」
「信じないよ」
「でも、あの絵本は好きでしょ。100万回の…」
「物語だよ。それに猫だ」
彼女がAlexaにおすすめの音楽を頼んだ。この部屋で今まで一度もかかったことがないような、時代遅れの、でも気の利いた静かなジャズが流れ始めた。僕は少し温めすぎたミルクを持ってリビングに戻り彼女に渡した。「ありがとう」と彼女は言った。
「取引をしたの。私の”残り”をあの人にあげて、私はもう2度と生まれ変わらない」
彼女は微笑むと「これが最後」と言った。そしてミルクの表面をなぞるように恐る恐る舌先で触れた。
「アイツは?」
「どうなったかという質問?それとも、この取引に迷わなかったのかという質問?どちらにしても、あの人の性格はあなたが一番よく知っているでしょ」
「そんなの条件次第だろ」
「今よりも美しい顔で、裕福に、自由に、暮らせる」
彼女は同意を求めるように僕の目を見つめた。
「ジュースのような甘口のオーガニックワインを昼間から飲んで、飽きたらいつ捨ててもいいような服やアクセサリーや靴や鞄やコスメを好きなだけ買って、週に3回はエステとネイルに行って、年に3回は海外旅行に行く。もちろん家事もセックスもする必要はない」
僕は目を閉じて大きく息を吐いた。
「あの人がどこに行ってどうなったか、私は知らない。さっき生まれた赤ん坊かもしれないし、少女の姿かもしれない。あなたの記憶を持ったままかもしれない」
「なぜ断定しない?」
「私は手持ちのカードを切っただけ。自分で全て根回したわけじゃない」
「じゃあ運が良ければ、またどこかで巡り会えるかもしれない」
「そしてまた恋に落ちる?」
人と犬とは違うけど、彼女が譲った分も含めて、このあとも魂擦り切れて道端の石ころに行き着くまで、あの人は何度か生まれ変わる。それは10回かもしれないし、100万回かもしれない。もしかすると次はお喋りな文鳥か何かで、今までの記憶はないかもしれない。でもそれはそれでいいものだ、と。9割は刹那的で何も得れず散っていくけど、残りの1割くらいは誰かみたいな心優しい飼い主と穏やかに暮らせる、と。そう彼女は子供に読み聞かせするように淡々と話した。
「もし運よくまた会えたら…」
「うん」
「気づかないふりをする」
彼女は笑った。
「ねえ、あとでペットショップに行こうよ!」
僕は首を振った。
「それより家具を見に行きたい。それは捨てる。新しいソファがいる」
「3人で寝ても持て余すくらい大きいのにしましょ」
「ああ、そうしよう。あとなるべく高値のソファにする。もう誰かに噛まれる心配も、週末ゲロを吐かれる心配もない」
「ねえ?」
「何?」
「きっと私はあなたを幸せにするわ」
それから我々は一緒に風呂に入り、いつもより少し早めの朝の散歩に出かけた。しばし隣り合って歩いていても、いつしか追い抜く。雨粒が地面の上を跳ねるように、彼女は僕の数歩前を歩いた。目を細めて、首をいっぱいの伸ばして、その視線の先には2月の透明な青空がある。久しく見ていなかった化粧をしない彼女の横顔は、迷子の少女のように儚く、枷を失った首筋には、誰かの細い指が添えられていた。
あした、廻る犬 郷乃 有陽 @dipper_yuly
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