第5話
ピピピピ……
聞き慣れないアラームで目が覚める。ベッドの上で上体を起こすと、同じく目覚めたばかりの悠介さんと目が合う。
「すみません、起こしちゃいましたよね。平日は勝手にアラームが鳴るように設定してて、解除するの忘れちゃってました。」
「いえ……っていうか月曜日!今何時ですか?」
「えっと、7時半です。」
普段は1時間前には起きて、この時間には電車に揺られている。幸せな生活をしたことで忘れかけていた日常が、頭を駆け巡る。
「会社、間に合わない……」
「え、7時半起きで!?」
「始業は9時なんですけど、8時半には着いてないと後で先輩に呼び出されて、会社まで1時間半かかって……」
「は、はあ……っていうか、この状態で今から会社に行く気ですか?」
「……え?」
彼の発言を不思議に思ったそのとき、左の頬が柔らかい布で拭われた。その布は、温かい液体でしっとりと濡れていた。
「涙、起き上がったときからずっと流れてましたよ。会社にお休みの連絡しましょう。その後、僕が勤めてる病院に一緒に行きましょう。ドクターの指示がもらえれば、有休じゃなくて休職で手続きできるはずです。」
「え、でも、精神科とか、メンタルクリニック?とかって、全然予約取れないんじゃ」
「僕の紹介ってことで、ねじ込ませてもらいます。短時間の診察になっちゃうかもしれませんけど。」
職権乱用になるんじゃないか。他にもっと困っている人がいるんじゃないか。お医者さんにも迷惑なんじゃないか。そもそも、仕事がある悠介さんを朝から付き合わせるなんて。
「今は自分のことだけ考えてください。着替えできますか?」
その言葉と同時に膝に置かれた手が、わずかに残った生きる気力を呼び起こしてくれた。
「はい。」
◆
「それじゃあ、僕はこのまま小学校に行ってきます。19時頃に帰る予定です。昼ご飯は、キッチンに置いてあるシリアルとかパンとか食べちゃってください。暇なら本棚の本は勝手に読んで大丈夫なので。あっ、食後の薬、忘れないように。」
連絡事項を一気に伝えた彼は、慌ただしく家を出て行った。結局俺は着替えてパンを貪ることしかできず、会社への休みの連絡も彼がしてくれた。小学校への出勤時間を遅らせてくれた彼は、タクシーで俺を病院まで連れて行き、待合い室と薬局でも隣で付き添い、帰りもタクシーで送ってくれた。この時間はカウンセリングの予定が入っていないから、と何度も言ってくれたが、彼の私生活だけでなく、仕事にまで影響を及ぼしてしまっているのが嫌になった。
キッチンへ行き、コップに冷たい水道水を注いで、一気に飲み干す。起きてからいっぱいいっぱいになっていた頭が、内側から冷やされていった。
「おっと」
軽い目眩を感じ、両手でシンクを掴んで耐える。一人で倒れて動けなくなっては困るので、数時間前までいた寝室へ向かう。ベッドに横になると、朝から溜まった疲れが蒸発していき、程なくして意識を失った。
◆
カーテンでも塞ぎきれない、昼の強い日差しで目が覚める。起き上がってリビングへ行くと、掛け時計の針は午後2時過ぎを指していた。お昼ご飯を食べて、薬を飲まなきゃ。数少ない使命を思い出してキッチンへ行き、シリアルの袋に書かれた説明を見ながらボウルにシリアルを開ける。コップ以外に牛乳をかけるのは、不思議な感覚だった。
スプーンの中で牛乳でひたひたになった、コーンフレークとカラフルなドライフルーツを見つめる。母はテレビでシリアルのCMが流れるたびに「牛乳でふやけたお菓子を食事にするなんて!」と否定していたが、手軽で栄養があって、しかも美味しい。慣れない食感を楽しみながら食べ続けた。最後にボウルを持ち上げ、底に溜まって甘くなった牛乳を飲み干す。今まで込み上げても日の目を見ることなく喉元に留まっていた感情が、甘さと一緒に消化器をすんなり通って行った気がした。
リビングの壁際の本棚に目をやると、文庫本の小説、ハードカバーの専門書がジャンルやサイズごとに分けられて並んでおり、彼の興味関心と性格が表れている。それに混じって絵本や教科書も並んでいることから、小中学校で働いているという彼の話が現実味を帯びてくる。専門書はやはり、心理学関連の本が多い。認知心理学、行動心理学、発達心理学……。「心理学」と言うと、テレビやネットで面白おかしく紹介されているイメージが強いが、俺なんかが理解しきれないような難解なものもたくさんあるのだろう。その中で1つ、特に興味を惹かれるタイトルを見つけ、背表紙に指をかける。本を手前に引き出すと、同時に数枚のプリントが落ちてくる。見てみると、英語で書かれた論文だった。
「The Effect of……Psychology……」
論文特有のタイポグラフィで、大学で研究室に配属された直後の、専攻に関連する英語論文を読み漁った時期を思い出した。当時の専門分野とは全く違う内容だが、あの頃のように、数枚の紙から未知の知識を得るという経験をしたくなった。知らない単語も多かったが、本棚に入っていた英和辞典と脳内での補完を駆使してどんどん読み進めていった。一目ではほとんど理解できなかった先行研究や実験の内容が、徐々に判明していく。ジグソーパズルを1ピースずつ嵌めて、綺麗な絵画が出来上がっていくような感覚だった。
◆
「ただいまー。」
「……あ、おかえりなさい」
8割方読むことのできた論文から目を離して時計を見ると、もう19時を過ぎていた。ここ数か月、寝ているとき以外は体感時間が現実の3倍くらいだった。そのときと同じ世界を生きているとは思えない。
「どの本読んでたんですか?……ってそれ、僕が前に読み切れないまま失くした論文!」
「本棚に挟まってたみたいです。この本を取ったら、落ちてきて。なんか、久しぶりに"面白い"って思えました。」
「それは良かったです。でもそれ、結構難しくないですか?」
「専門用語とか、実験について書いてる部分は難しかったですが、大体読めました。なんとなくですけど。大学時代を思い出して、懐かしい気持ちです。」
「智弥さんって大学どこだったんですか?」
「えっと……一応、京葉大学っていう……」
小学校高学年の頃から、この手の質問が苦手だった。
「中学受験はするの?」「開平中学を受ける予定です。」「まあ、すごくお勉強ができるのね。」
「高校はどこに行くの?」「中高一貫なので、そのまま開平です。」「へえ、小学生の頃頑張ったのね。」
「大学はどこを受けるの?」「第一志望は早京大学です。」「あら、うちの子とは住む世界が違うわね。」
「キミ、大学どこ?」「京葉大学です。」「そんないいとこ出てるのに、こんなこともできないの?所詮お勉強だけなんだね。」
学校名という単なる固有名詞を伝えただけで、全く別の生き物のような反応をされたり、揶揄されたりする。"お勉強"すら頑張ってこなかった、頭の固い怠惰な人たちに。
「京葉大学!あそこって建物が立派で設備もしっかりしてるし、心理学だけでも色んな分野の先生がいるんだよね。智弥さんの専攻は何だったんですか?」
身構えていた心身が、一気に拍子抜けする。ほとんどの人が大学名だけで決めつけて話を進めて、踏み込んだとしても学部名で入試の難易度を値踏みする程度だった。専攻という俺自身の情報を尋ねてくれたのは、彼が初めてだった。
「えっと、理学部の物理学科の中の、物性物理学っていう……えーと、なんていうか、すごくざっくり言うと、物質の性質を研究しよう、みたいな……。」
聞かれたことのない質問に答えるのは、難しい。しどろもどろになりながら答えるのを、彼は笑顔のまま待ってくれた。
「へえ、すごいですね!研究室でたくさん論文を読んだりしたんですか?」
「えっと、しました。」
「それでかー!僕が途中で諦めた、しかも専門と違う論文を1日で読めちゃうなんて、大学でも高校まででも頑張ったんですね。」
「えっと、が、がんばりました……」
周りの大人たちに言ってもらえなかった、そのせいで性格が捻くれてしまったくらい言ってほしかった言葉を、余すところなく語りかけてくれる。曲がってしまった骨盤を一瞬で治す整体師のように、ぼくの縮こまった背筋を本来の位置に戻してくれた。
今日はもう泣かない。心配も迷惑もかけないんだ。そう決意して眉に力を入れる。
「どうして物理を専攻しようと思ったんですか?」
「えっと、オープンキャンパスで話してくれた学生さんが、身の回りにある物がどんな性質なのか解明されていくのが面白いって言ってて、それで興味を持って。実験もしてみたかったので、それができる分野を選びました。」
「どんな実験してたんですか?」
「えっと……」
目の前で目を見て会話してくれる彼は、勝手に想像した外面なんかじゃなく、本当の中身を見ている。そんな大人が存在していたことを、10代の自分が知っていたら、どんなに救われただろう。
ちゃんと理解してくれる人、いるよ。10年前の自分に念を送り、ずっと誰かに聞いてほしかったことを、思い付くままに、下手くそに話した。
僕のために生きてよ しお @shio_yakinasu
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