第4話

「おはようございます。」

「ああ、おはようございます、智弥さん。ちょうどフレンチトーストが焼けたところです。」

キッチンから甘い香りが漂い、ダイニングテーブルには既に色鮮やかなサラダが載っている。

「お手伝いできること、ありますか?」

まだ彼があれこれ作業しているキッチンへ赴く。

「じゃあ、智弥さんの分のフレンチトーストを持って行ってくれますか?あとは僕の分を持って行くだけなので、そのまま座っててください。」

「はい!」

「ありがとうございます。」

こんな小さなことでも、褒めたり感謝したりしてくれる。この空間ほど「ありがとう」が溢れる場所は、そう無いんじゃないだろうか。香ばしい朝食を目の前にそわそわしながら待っていると、程なくして彼も皿を持ってきた。

「先に食べててよかったのに。待っててくれたんですね。ありがとうございます。」

「い、いえ、一緒に食べたかったですし。それに……ご飯を作っていただいて、あ、ありがとうございます。」

「ふふ、どういたしまして。」

子どもに言うように大げさにそう言う彼の目は、いたずらをする少年のように生き生きしていて、俺の腹の奥をほのかにざわつかせた。


「いただきます。」

彼に合わせて食事の挨拶をし、フォークを手に取る。4等分に切り分けられたフレンチトーストのうち1切れに、メープルシロップをかける。そのままフォークを刺して口元へ運びかぶりつくと、表面の焦げ目がパリッと音を立てる。咀嚼していくと、中から甘い液体がじんわりと染み出してくる。卵と牛乳のまろやかな甘さの中に、メープルシロップの華やかな甘さが入り込む。口の中からこの幸せが消えないうちに、作った本人に感動を伝える。

「美味しいです。」

「よかったです。休日の朝にフレンチトーストを食べると、特別な気持ちになれますよね。」

「はい。」

彼と同じものを食べて同じ気持ちになれていたのが、嬉しかった。



「そうだ、今日は日曜日ですし、少し外出しませんか?お昼ご飯でも、晩ご飯でも、おやつにカフェでも。」

悠介さんと外でご飯。その響きだけで一日が素晴らしいものになりそうな気さえする。

「行きたいです……!」

「何にしましょう?気になってるお店とか、行きつけのお店とかありますか?」

ご飯屋さんを思い出せるだけ思い出してみるが、会社の近くのラーメン屋さんと、格安のファミリーレストランしか思い浮かばない。悠介さんはそれでもいいと言ってくれるかもしれないが、初めてのお出かけがそうなるのは気が進まなかった。

「実は、あんまり外食しなくて……特にないです、すいません。」

「じゃあ一緒に考えましょうか。初めてのお出かけ、楽しみです。」

何も意見を言うことができなくても、責めないどころか一緒に考えてくれて、それを肯定的に捉えてくれる。

「ともやくんって、なんにもいってくれないよね。」

「お前といてもつまんねーわ。」

「辻、そろそろ自分の進路くらい決めたらどうだ?」

「辻くん、ずっと待ってないで自分で考えて動いてくれないと困るよ。」

どこに行っても何歳になっても、同じようなことを言われ続けてきた。いざ自分で決めようとしても、考える時間もチャンスも与えてくれないくせに。今更自分で考えるなんて行為、やろうとしてもできないけれども。フォークを握る力が、少しだけ強まった。


「お昼ご飯なら、カフェでパンケーキとか、レストランでゆっくりでもいいですね。コーヒーと焼き菓子が評判のお店もあるので、そこで軽くおやつにしてもいいですし。夜は洋食でも和食でも……あっ、奮発して焼肉なんていいですね。」

悠介さんが提案を列挙するのを聞いているうちに、頭が過去から現在に戻ってくる。右手に赤い線がついていることに気付き、誤魔化すようにサラダに手を伸ばす。

「……そうだ、焼肉!智弥さん、焼肉の食べ放題って行ったことありますか?」

先程までよりも声が少し高い。フォークを握り締めていたことに気付かれて、気を遣わせてしまっているのだろう。せっかく楽しいことに誘ってくれている最中なのに、申し訳なくなる。

「えっと、焼肉屋さんは行ったことありますけど、食べ放題はしたことないです。」

申し訳なさを払拭するために、意識して口角を上げて答えてみる。きっと不自然な笑顔になっているが、彼は変わらず優しい笑顔を返してくれる。

「じゃあ、夜に焼肉食べ放題、行ってみませんか?」

焼肉という言葉も、食べ放題という言葉も、あまり馴染みがない。馴染みがないけれど、小学校の遠足前のような高揚感のある、不思議な言葉だ。

「行ってみたいです!あ、でも、俺そんなに大食いじゃないし、食べられなかったら申し訳ないっていうか、なんていうか……」

「ああ、そこは気にしなくていいんですよ。ああいうのって、"食べ放題"っていうワクワク感を楽しむために行くところだと思ってるんです。胃もたれで何個も食べられないの分かってても、定期的にケーキバイキング行っちゃいますし。もし気が進まないなら違うのにしますけど、もし興味あるなら、行ってみませんか?」

「……行きます!」


「それじゃあ、夕方までは家にこもって遊びましょうか。マルオカートってやったことありますか?」

「えっと、親戚の家で何回か……。でも全然やり方分からないです。」

「僕も実はそんなに上手じゃないんです。子どもたちと共通の話題が欲しくて始めたので。一緒に練習してくれたら嬉しいです。」

「……是非。」

自分がやりたいことを、相手の気持ちを捏造せずに、純粋に「やりたい」と言ってくれる彼。やったことがなくても、自信がなくても、過去の自分なら絶対やらない内容でも、彼と一緒なら勇気を持てる。このときは本当にそう思っていた。


 ◆


「そろそろ行きますか?」

マルオカート対決は思った以上に白熱し、昼食と数回の休憩を挟んで合計3時間ほどやっていた。流石に手が疲れてきたのでテレビをつけて、緩く雑談をしながら再放送のバラエティー番組やアニメ番組を流し見していた。

「はい!」

自分の服はスーツしかないので、悠介さんの私服を借りて着替える。彼は水色のワイシャツに紺のセーター、俺は白の長袖Tシャツにベージュのカーディガン。全身鏡の前で並んでみると、兄弟のように見えた。


「じゃあ、行きましょうか。」

トートバッグを右肩にかけた彼に続いて、玄関へ向かう。彼がドアを開けると、外から涼しい風が吹き込む。

「うっ」

胸元が熱くなり、昼に食べたサンドイッチが消化器を逆流するのが分かる。昨日のように座り込みはしなかったが、胸を押さえて身を屈める。鼻の先がツンと痛くなり、両目に涙がたまる。

「智弥さん!?えっと、一度リビングに戻りましょう」

様子が急変したことに焦りながらも、悠介さんが肩を貸してくれる。

「ソファに寝転がれますか?」

答える余裕が無く、浅く頷きながらソファにもたれる。

「深呼吸、できますか?吸って、吐いて。吸って、吐いて。」

彼が言うのに合わせて息を吸ったり吐いたりしていると、徐々に体が落ち着いてくる。


「落ち着いてきましたね。何か嫌なこと、しちゃいましたか?」

「えっと、悠介さんは全然関係なくて、なんか、会社に行くときの感覚を思い出しちゃって、あと、会社の人と会ったら責められるんじゃないかって」

第一志望の大学に合格できなかったときの、両親や学校・塾の先生たちの、失望したような、諦めるような顔が頭に次々と浮かぶ。そして、会社の上司や先輩、あまり仲の良くない同期たちが同じ表情をしているところが、ありありと浮かぶ。

「……すみません、外に出ることすらできなくて。」

「大丈夫です。外食なんかより、智弥さんが元気でいてくれることの方が重要です。無意識のうちに体が拒絶してしまうくらい、強いストレスがかかっているんでしょう。しばらくは家の中でゆっくりすることにしましょう。」

自分の不甲斐なさに、再び鼻がツンとする。頭が熱くなり、顔から出るものが全部出そうになったとき、額が彼の手に覆われた。

「ちょっとだけ熱い。」

「悠介さんの手の方があったかいですよ。」

「あ、バレました?熱があるわけじゃないので安心してくださいね。」

おどけた彼につられるようにふふっと笑うと、さっきまで辛かった心も体もすっと楽になった。

「智弥さん、1時間だけお留守番できますか?」


 ◆


「ただいま帰りましたー」

1時間も経たないうちに、悠介さんは大きな買い物袋を抱えて帰ってきた。

「智弥さん、キッチンにホットプレートの箱が置いてあるので、中身を出してダイニングテーブルに置いてもらってもいいですか?」

「は、はい」

何に使うのか分からないホットプレートをキッチンから移動させ、ぴったりと納まっている箱から取り出して、電源をコンセントに繋いで……とやっている間に、悠介さんは買ってきたものをトントンと切ったり皿を出したりしている。

「お手伝いありがとうございます。こっちも準備できました。」

そう言いながら彼がキッチンから持ってきた皿には、たくさんの生肉が載っていた。

「肉……?」

「焼肉食べ放題、お家でやっちゃいましょう!スーパーで買った分、外食よりも割安ですし、思う存分食べてください。僕いくらでも焼いちゃいますよ~。」

嬉しそうにトングをカチカチ動かす彼を見ると、外へ行けない申し訳なさも不甲斐なさも吹き飛んだ。

「悠介さん、ありがとうございます。いっぱい食べます。」


白い脂が程よく混じった赤い肉を、間隔を開けながらホットプレートに載せる。ジーという小さな音を立てながら、肉の縁の色が徐々に変化していく。ひっくり返すと、うっすらと焼き目が付いている。

「智弥さんはレア派ですか?ウェルダン派ですか?」

「えっと、真ん中くらいで」

「そう言うと思った。そろそろ良い焼き加減だと思います。この辺とか。」

「あ、じゃあ、いただきます。」

彼がトングで指し示した肉を自分の皿に取り、焼肉のタレを付ける。ふーと息をかけてからゆっくりと口で迎えると、口に肉が入った瞬間にタレの味が広がる。焼肉を食べていることを強く実感できる噛み応えがあるが、硬すぎるわけでもない。咀嚼していくと、脂の香りが増した。

「……美味しい。お店よりも美味しいです。」

「そんな、ただ焼いただけですよ。」

口では否定しながらも、愛想笑いではなく本当に嬉しそうだった。

「じゃあ僕もいただこうかな。……あちっ」

外に出られなくても、楽しみだった焼肉屋さんに行けなくても、彼となら楽しい。俺だけじゃなくて、お互いにそう思い合えていたらいいな。そう思いながら、肉を焼く彼を眺める。


「そうだ、焼肉屋さんの美味しいキャベツあるじゃないですか。あれのタレとキャベツ買ってきたんです!混ぜるの一緒にやりませんか?」

「え、やります!」

彼の後を追ってキッチンへ向かう。楽しそうな表情を浮かべ続ける彼を見ると、本当に少しだけ、期待が膨らんだ。

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