第3話

「いただきます。」

入浴後の火照りが治まりはじめた頃、2人で向かい合って食卓に着く。卵とケチャップとバターの、温かい香りに包まれる。この部屋に来てから、嗅覚や味覚が別人のように敏感になった気がする。昨日までが鈍感すぎたのかもしれないが。

「あっ、待ってください。ケチャップかけますね。」

「あ、お願いします。」

ケチャップをかけるというだけの作業の割にはにこにこしている悠介さんを不思議に思っていると、オムライスの表面に、「ようこそ♡」という赤い文字が表れた。

「オムライスといえばやっぱりこれですよね!」

見たことのない文化に目をぱちくりさせていると、悠介さんが慌て出した。

「すいません、ハートなんか書いちゃって。メイド喫茶みたいなことを……。ただ智弥さんが家に来てくれたのが嬉しくて、つい。」

手を口元にやっても隠しきれない頬の赤らみは、彼の人間らしさを初めて感じさせた。

「あっ、いや、違うんです。こういうの、初めてで……。」

「そうなんですか?よかった……。しかも智弥さんの初めてを貰えて、嬉しいです。」

眉の下がった安心したような笑顔でそんなことを言える彼は、どんな人でも落としてしまうんだろう。


 彼からのメッセージを崩さないように、ケチャップのかかっていない部分だけをスプーンで切り分けて掬う。口に入れると、卵とケチャップライスの味に加えて、鶏肉の脂のうまみが広がる。美味しい。やっぱり彼の料理には不思議な力がある。食材のうまみなんて、これまで感じようとしたことすらなかった。

「文字、気にしないで食べていいんですからね。」

その一部始終を見ていた悠介さんが、くすりと笑いながら言った。

「あ、えと、いただきます。」

ハートマークの右側を丁寧に切り崩して、口へ運ぶ。先程と同じ美味しさにケチャップの酸味が加わり、味わいが更に深くなる。それだけでなく、彼の歓迎の気持ちが心を包み込んでくれた。

「とっても、美味しいです。」



「あ!」

4分の3くらいを食べ終わったところで、悠介さんが声を上げてキッチンへ走る。

「副菜出し忘れてました。食事の途中ですいませんが、よかったら食べてください。」

すぐに戻ってきた彼が両手に1つずつ持ってきた皿には、ほうれん草とベーコンのソテーがのっていた。

「ありがとうございます、いただきます。」

皿を受け取ってテーブルに置き、香りを嗅ぐ。美味しそう、と言いかけたそのとき、全身が硬直した。

「どうしました?」

不安そうに顔を覗き込んでくる彼のほうを向くこともできない。目の焦点が当たっているほうれん草の周りにもやがかかり、それしか視界に入らない。

「智弥はお野菜も大好きだもんね。」

「全部食べないといい子じゃなくなるよ。」

「今日もご飯美味しかったよね?」

甲高い耳鳴りとともに、忘れかけていた言葉がぐるぐると回りつづける。記憶から消えたはずだったのに、脳を蝕んで真っ黒にしていく。


「智弥さん?」

肩に手を置かれた刺激が、脳を現実世界に引き戻した。

「ぼく、これ、たべれない」

動きたがらない喉に精一杯力を込めて、やっと出た言葉だった。

「いいこじゃなくて、ごめんなさい」

耳に入ってくるのは確かに自分の声なのに、自分の言葉だと思えない。頭が情報を処理しきれずに目を泳がせていると、頭にふっと重さがかかる。

「教えてくれてありがとうね。全部食べられなくても、いい子だよ。」

真っ黒になった脳が、じわじわと浄化されていく音がした。


 ◆


「すみません、結局ご飯残しちゃって。」

「いえ、オムライスの方は全部食べてくれて嬉しいです。食べられないものを無理に食べてほしくもないですし、智弥さんが本心を教えてくれて僕も安心しました。」

悠介さんがお風呂に入っている間に平常心に戻したはずなのに、その一言だけでまた乱れてしまいそうになる。

「……ありがとうございます。」

「智弥さん、寝る前にホットミルク飲みますか?ココアもできますよ。」

「じゃあ、ホットミルクお願いします。」


ソファの前に設置されたダイニングテーブルに、マグカップが2つ、コトリと音を立てて並べられる。

「熱いので気を付けてくださいね。」

「はい、いただきます。……つっ」

忠告を受けて早々に、舌を火傷しかける。ふぅふぅと息を何度も吹きかけてからもう一度すすると、牛乳特有の甘さが舌に広がる。まろやかな香りに包まれて、緩やかな眠気が訪れる。夜に自然に眠くなるのが貴重すぎて、自分でも驚いた。



「そろそろ寝ましょうか。」

寝室に行くと、シングルベッドの隣に布団が敷かれていた。

「僕が布団で寝ようと思うんですけど、それで大丈夫ですか?」

「えっ、申し訳ないです。家主がベッドで寝てください。」

「いいんです。ほら寝た寝た。」

促されるままにベッドに潜り込むと、悠介さんが掛け布団をかけてくれた。

「智弥さん、普段寝るのにどのくらい時間かかります?」

「えっと……基本的に1時間は寝付けなくて、3時とか、朝まで眠れないこともあります。」

人と暮らすに際して最大の懸念点が、これだった。中学の半ば頃から寝付きが悪くなりはじめ、高校、大学、会社員、と時を経るほど寝付くまでにかかる時間が伸びていった。ただ寝転がっているだけだと落ち着かないので、普段はスマホを弄ってみたり、開き直って部屋をうろついてみたりしている。

「だから、その、途中でスマホ弄ったり起き上がったりしちゃうかもしれないんですけど、大丈夫ですか……?今更、すいません。」

否定的な反応をされたり、最悪同居解消を言い渡されたりしてもおかしくないと思い、掛け布団に隠れながら尋ねてみる。しかし、恐る恐る目を合わせた悠介さんの反応は、意外なものだった。

「僕に任せてみてくれませんか?上手くいくとは限らないですけど。」


「失礼しますね。」

ベッドに寝た俺の足元に移動した彼は、掛け布団を少しめくり、そこにある足を揉みはじめた。

「痛くないですか?」

「はい、気持ちいいです。」

足の裏やふくらはぎのツボが押され、血が巡るのが分かる。

「本当は寝る前にスマホとかパソコンは見ないほうがいいんですけど、それが癖になってたり、何か見てないと色々考えちゃったりして、難しいんですよね。」

彼の言う通りだ。スマホの光や情報は睡眠に良くないと、色々な方面で耳にタコができるほど言われているが、なかなかやめられない。過去に言われた嫌な言葉の数々が脳を駆け巡ってしまっても、SNSで大量の情報を眺めていると、少しだけダメージが薄れる気がする。

「何もしてないのも落ち着かないと思うので、昔話でもしますね。」

彼はそう言うと、むかしむかしあるところに―という聞き慣れたフレーズとともに、これまた聞き慣れた「桃太郎」を話しはじめた。


「……めでたし、めでたし。」

桃太郎が鬼を倒し故郷に財宝を持ち帰った頃、俺は足マッサージのおかげか全身が温かくなり、うとうとしはじめていた。もうひと押しされたら、このまま眠ってしまえるかもしれない。

「じゃあここからは、僕のオリジナルの桃太郎を話しますね。」

悠介さんは少し移動して、俺の手を揉みながら、胸をトントンと叩きはじめた。

 村に帰った桃太郎は、鬼のせいでつらい思いをした人たちの心を救いたいと思い、心理カウンセラーになることに決めました。そのためには、大学と、その後の大学院に進学する必要があります。桃太郎は英語と社会が苦手だったので、大学受験の勉強はとても大変でした。それでもなんとか行きたかった大学に合格し、カウンセラーになるための勉強を始めました。桃太郎は大学で、犬、猿、キジと同じくらい信頼できる友達に出会いました。研究や学童でのバイトをしているうちに、桃太郎は特に子どもたちの心を救いたいと思うようになりました。実習は大変でしたが、犬、猿、キジと一緒に……



 目が覚めると、今までにない爽快感に包まれていた。結局スマホを触らないまま、悠介さんのお話を最後まで聞かないうちに寝落ちていたらしい。昨日の朝と同じように、水や食器の音が聞こえ、朝食の香りが漂っており、ドアの向こうで彼が待っていることがすぐに分かる。

 俺の居場所は、ここにある。そう心の中で言うと、昨日よりも少し背筋を伸ばしてリビングへのドアを開けた。

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