第2話
「昨日の夜はそのまま着せちゃいましたけど、僕が一回着たやつですいません。」
「そんな、貸していただけるだけでありがたいです。」
幼児のように泣きわめいてしまったのもやっと落ち着き、温かいリビングに戻って、先程まで着ていた部屋着をもう一度貸してもらった。ソファに隣り合って座ると、心なしか髙橋さんは大きく見えた。
「サイズが丁度よくて良かった。でもちょっとぶかぶか気味ですかね?僕と身長同じくらいですよね?」
「春の健康診断では172cmでした。」
「ああ、じゃあ1cmしか変わらないんだ。辻さんはきっと、痩せすぎです。ちゃんとご飯食べれてますか?」
直近1週間のご飯を思い出してみると、朝は食パン1枚、昼は休憩が取れず食べないことが多くて、食べてもコンビニおにぎり1個、夜は疲れきって食べないかコンビニ弁当……。人に言われて改めて考えると、なかなか酷い。
「ま、まあ、それなりに……」
「あっ、今嘘ついたでしょう。僕そういうの敏感なんですよ。おおかた時間が無くて食べてないとか、コンビニ飯とかでしょう。」
さすが、毎日仕事として人を相手にしているだけある。彼に変なことは言わないほうがいいのだろう。
「はは、そのとおりです……」
「でも仕事をこなしながら三食きちんと食べるなんてなかなか難しいですよね。僕も、子どもたちに『ゆーすけせんせーだいじょーぶ?』なんて言われて、初めて自分の不健康さに気付きました。」
改めて彼の体を見てみると、程よく筋肉がついていそうで血色も良い。手も指先まで温かかった。キッチンだって、ゴミが散らかってなんていないし、掃除と整頓がされている。
「悠介先生って呼ばれるんですね。みんなのお兄ちゃんみたい。」
小学生や中学生に囲まれて「悠介先生」と手を引かれているところが容易に想像でき、思わずクスリとしてしまう。
「辻さんはご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「いえ、一人っ子です。」
「僕と同じだ。年はおいくつですか?」
「23です。」
「じゃあ、本当にお兄ちゃんになれちゃいますね。僕今年25なので。」
髙橋さんがお兄ちゃん。2歳上のお兄ちゃん。年長さんの頃に、来年から通うからとお兄ちゃんの通う小学校に遊びに行ってみたり、お兄ちゃんと同じランドセルにしたいと駄々を捏ねたりするんだ。小学校の頃は、同級生に「お兄ちゃんかっこいいね」なんて言われたり、お兄ちゃんが受験した中学校を追っかけ受験しちゃったりするんだ。中学校の頃は、お兄ちゃんのお友達に「悠介の弟じゃん」と気さくに話しかけられたり、制服やジャージが小さくなったからとおさがりを強請ったりするんだ。高校の頃は、やっぱりお兄ちゃんと同じ大学を追っかけ受験して、それを口実に勉強を見てもらったりするんだ。そして大学でも勉強を教わったりサークルの試合や発表を見に行ったりするし、就職後もお兄ちゃんと会うのを楽しみに仕事を頑張れちゃったりするんだ。
ゆっくり瞬きをする間に、「悠介お兄ちゃん」との幸せな人生が走馬灯のように脳を駆け巡る。現実はそんな上手いこといくわけないだろうが、限界に陥った人間の性なのだろう。都合の良い幸せをイメージすることで快楽物質がどんどん回ってくるのが分かる。
「髙橋さんみたいなお兄ちゃん、欲しかったです。」
妄想の世界から現実に戻りながら、映画の感想を言うように言葉を発した。
「そういえば、辻さん下のお名前は?」
「智弥です。」
「ともや、おにいちゃんだよー」
にっこり、という擬態語がぴったりな笑顔を浮かべ、軽く首を傾げる髙橋さん。さっきまで脳内にいた理想のお兄ちゃんが現実であっさりと再現されてしまい、あまりに大きな驚きと歓喜が混ざって声も出なかった。
「なんてね。変なことしてすみません、辻さん。」
「……智弥でいいです。」
「じゃあ僕も、悠介で。」
「悠介、さん」
そのまま花丸のスタンプを押してくれそうなくらい、お兄ちゃんは穏やかな眼差しを向けてくれた。よく見ると、彼はまつ毛が長く、少し茶色がかった瞳は大きい。目だけでなく、鼻筋も通っているし、唇は薄く口は小さい。俗に言う塩顔イケメンというやつだろうか。口調もゆったりとしていて穏やかだし、女性からも男性からも、年齢問わず好かれるのだろう。しかし、見ず知らずの男と一緒に暮らそうなんて言ってしまうくらいだから、恋人がいそうな気配はない。
みんなのアイドルを独り占めしているような感覚に、頭が熱くなった。この一時だけでも、彼の視線が自分だけに向いているのが嬉しかった。
◆
「もうそろそろ夕飯の支度しますね。好きなものとか、苦手なものとかありますか?」
「んーと、特に……」
幼稚園や小学校低学年の頃に、なかなか受け付けない食材はあった気がする。ただ、何でも美味しくいただくように言われてきたので、もう何が苦手だったのかすら思い出せない。これと言って好きな食べ物も、1つも思い当たらない。でも、悠介さんが作ってくれたものなら、何でも好きになってしまいそうだ。
「じゃあメインはオムライスにしますね。僕、得意なんです。オムライス、好きですか?」
「えっと、好きです、たぶん」
「じゃあ作りますね。楽しみにしてください。準備してる間、お風呂入ってもらえますか?」
案内してもらった浴室は、想像以上に広くてハイテクだった。操作パネルも浴室用の小さいテレビもついている。
「多分体洗ってる間にお湯が沸くと思うので。シャンプーはこれで、コンディショナーはこれ。それで洗顔がこれ。ボディソープは2種類あるので好きな方使ってください。こっちの方が香りが良くておすすめです。」
「じゃあこっち、使ってみます。」
美容全般に疎くてスーパーの特売シャンプーしか使わない俺でもブランド名を耳にしたことのある、高級そうでお洒落なシャンプー。こういう良い物を使っていれば、俺なんかでも彼のようになれるだろうか。
「着替えはここに置いとくので、脱いだ服も近くにポイってしちゃってください。それじゃ。」
突っ込みどころもないくらい完璧な説明をして、彼は脱衣室のドアを閉めていった。服を脱ぎ、浴室に足を踏み入れる。全然冷たくない。特にこだわりも無いので、言われた通りに全身を洗う。全裸で泡だらけの居候だけれど、お湯ですすぐたびにアイドルに近付いていくような気がした。全身を洗い終わりそうなところで、ちょうどお風呂が湧いたことを知らせる音楽が鳴った。
なみなみのお湯に、右足の親指を少しだけ入れてみる。少し熱いが、入れそうだ。右足全部、左足、腰、体全部……とゆっくり入っていく。肩までしっかり浸かることができ、足を前進させていくと膝を曲げないでも座ることができた。入浴剤の入っていないただのお湯なのに、心身の疲れが全て吸い取られていくようだ。水滴ひとつぶひとつぶが、肌の表面を撫でていっている。もし悠介さんに抱き締められたりしたら、こんな感覚なんだろうか。湯船なんてお湯の無駄だと思っていたけれど、むしろ使ったお湯以上の喜びが得られるものなのかもしれない。極楽、極楽……。
「―ですか?智弥さん?」
浴室のドアを勢いよく開ける音で目が覚める。
「へ……?」
久しぶりのお風呂に感動しているうちに、意識を失っていたらしい。
「溺れる前に気付けてよかった……。危ないのでお風呂あがっちゃいましょう。」
「へ、は、はい」
タオルで全身をざっと拭き取り、下着と部屋着を着る。頭にタオルをのせてがさがさと動かしていると、目の前が一瞬暗くなり、次の瞬間にはマットにしゃがみ込んでいた。
「智弥さん!?」
脚に力を入れ直して、ゆっくりと立ち上がる。ふらついたりはしないが、マラソンを走り終わったときのような、全身の怠さと呼吸の乱れを感じる。
「すいません、なんか、風呂って疲れるんですね……。」
「無理しないで、座ってください。僕が乾かしますよ。」
「いや、自分でできますから」
彼の手からドライヤーを奪い取る。と思いきや、上手く力が入らず落としてしまう。彼の厚い手が、俺の体を支え、そして空中でドライヤーを受け止める。
「ほら見たことか。大人しく座っててください。」
ブオーという大きな音と温風、そして髪の根元を掻き分ける彼の手を、頭の色々な方向から感じる。
「熱かったら教えてくださいねー。」
入浴すら一人でできない男なのに、嫌な顔ひとつしないどころか女神のように受け入れてくれる。目を閉じると、彼に頭をわしわしと撫でられているような感覚になった。テストで100点を取ったとき、受験で合格したとき、就職が決まったとき、彼がいればこんなふうに大きな手で、大げさなくらいに褒めてくれたんだろうか。
ドライヤーの音と前髪があってよかった。風で吹かれて飛び散る水滴の中に、1粒だけ涙を混ぜてしまった。
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