僕のために生きてよ

しお

第1話

 床に倒れ込んでいるのに、永遠に落下しつづけている。それも、ジェットコースターのような計算された落下ではなく、乱気流に巻き込まれた飛行機のような、終わりのない不安定な揺れだ。同居人の話し声も、音としては聞こえてくるが、内容が理解できない。

 右頬に触れるフローリングが、冷たいのかどうかも分からなくなってくる。そういえば以前にも一度だけ、こんな酷い感覚を味わったことがある。彼と出会ったときだった。当時のことを思い出そうとするがそれは叶わず、意識が朧げになっていく。気持ち悪さに耐えつづけるよりはマシだと、全身の力を抜いてすべてを天に委ねることにした。


 ◆


 視界が真っ黒になるのと真っ白になるのを繰り返している。足に力が入らないわけではないのに、立とうとして上体を動かすだけで、脳が洗濯機に入れられたかのように揺さぶられる。酸っぱい液体が舌の根元まで何度も込み上げていて喉が焼けそうだが、理性が邪魔をしているのか吐き出すことはできない。最寄り駅から頑張って歩いてきたものの、自宅までは普段通り歩いたとしてもあと10分。無事に歩いて帰れる気がしない。

「うっ」

無意味な吐き気が再び催し、何も出ないと分かっていながら側溝の方へ這っていく。

「おえっ、く、んぐ」

ネクタイとワイシャツをまとめて掴んで力んでみても、何も変わらない。今ここで心臓ごと吐き出してしまえたら、どんなに楽だろう。


「すみません、大丈夫ですか?」

振り向くことすらできないが、同年代の男性に話しかけられているらしい。明らかに不審者だろうに、心配してくれるなんて。いや、明らかな不審者だからこそ、通報するかどうかを判断したいのかもしれない。「すみません、すぐ帰ります。」そう言いたいが、えずくことしかできない。

「……いや、これで大丈夫なわけないですよね。僕の家、すぐそこなんです。連れて行っても、構いませんか?」

もう自分ではどうにもできない。タクシーを呼ぶことすらできない。

「たす、けて」

ギリギリ視界に入っていたズボンの裾を掴み、力を振り絞って助けを求めた。次の瞬間、背中に圧がかかり、ずっとアスファルトに密着していた脚の感覚がなくなる。

「動いて気持ち悪くなっちゃうかもですけど、スピード優先でいきますね。無理せず吐いちゃってください。」

顔が分からないどころか、歩いているのか走っているのかも分からなかったが、彼が俺のためだけに焦ってくれていることは確かだった。服を汚してしまったらごめんなさい。いや既に多大な迷惑をかけてはいるけれど、何事もなく辿り着きますように。心の中で願いつづけた。


 家に入るとすぐ、服を替えてもらい、水を飲ませてもらった。ウィダーインゼリーも視界に入ったが、ゼリーを吸い込む余裕がなく、意識も朦朧としはじめたので飲まなかった。他に具体的なことは何も記憶にないが、彼はずっと優しかった。


 ◆


 目が覚めると、柔軟剤の香りのする柔らかい布団に包まれていた。カーテンと壁のわずかな隙間から朝の爽やかな光が漏れている。周囲にも意識を向けると、水道から水が流れる音や食器同士がぶつかる音が聞こえ、香ばしい食事の匂いがする。遠くの音や匂いを意識できるくらい穏やかな朝を迎えたのは、いつぶりだろう。大学ぶり、いやもしかすると幼稚園ぶりかもしれない。

 いや、穏やかな気持ちになっている場合ではない。昨晩の記憶が断片的に脳に浮かびはじめる。すべてから逃げたくなって、自分を傷付けたくなり、飲めない体質なのを知りながら成人式ぶりに酒を飲み、耐性が無さすぎて体調を崩し……。そうだ、助けてくれた彼。それに会社。今日は何曜日だろう。何曜日だろうと基本的に休みは無いのだけれども。部長からの連絡を確認しなくては。そして彼に感謝と謝罪を伝えなければ。一気に心が現実に戻り、焦ってベッドから降りようとする。しかし酒の影響はまだ残っていたようで、体を起こした瞬間に激しい頭痛に襲われ、床に倒れ込む。


「大丈夫ですか!?」

音を聞いたのであろう家主が、寝室のドアを開けて顔を見せる。

「……はい。転んだだけです。それよりもえっと、助けていただいてありがとうございます。そしてご迷惑をおかけしてすみません。あと、俺のスマホってどこにありますか?その、連絡をしないといけなくて。」

言いたいことすべてを怒涛のように続けてしまったことに気付き、ハッと顔を上げて彼の顔を確認する。

 彼はふふっと音を立てて微笑んだ。

「スマホならリビングにあります。でも、さっき田中部長という名前で電話がかかってきて、休日出勤をしろとおっしゃっていたのですが、断っちゃいました。親戚の者ですが、家に様子を見に来たら倒れていたので出勤できません、って。」

「え、そんな」

「その体調ですし、どのみち仕事も通勤もできないでしょう。顔を見た感じ、しばらくまともに食事も睡眠も摂ってないですよね。初対面で申し訳ないですが、助けたお返しとして、今日は休んでくれませんか。」

「あ、でも、その……」

「お願いです。一生のお願いにしたいくらいですし、それで駄目なら物理的にも全力で引き留めます。それくらい、今あなたの心と体は酷い状況です。」

「……分かりました。」

 3か月ぶりの休みは、赤の他人の善意による当日欠勤となった。まだ名前も知らない彼は、不思議な安心感をもたらす笑顔を向けてくれる。

「まずはご飯、食べましょうか。」




 縁の部分が茶色くカリカリになった目玉焼きの白身を、箸で切り、口へ運ぶ。

「……美味しい!」

「ふふ、お口に合って良かったです。」

鮮やかな黄色を保った黄身の部分を箸の先で押すと、とろりと中身が溢れ出す。添えられたベーコンに黄身を付け、再び箸を口へ運ぶ。卵と肉の脂と醤油の味が混ざり合って、どこか懐かしい味わいが口腔に広がる。

「本当に美味しいです、ほんとに、なんていうか……」

こらえる間もなく、温かい粒が目から零れ出る。

「ごめんなさい、そんな、泣くつもりはなくって」

「大丈夫です。落ち着くまで、気にせず続けていいですからね。」

わざわざ立ち上がって俺の背後に回り、背中に手を当ててくれる優しさに、ますます体の制御がきかなくなった。



「ご飯、チンしましょうか?」

「ずびばぜん、お願いじばず」

涙でぼやけつづけていた視界もやっとクリアになってきた。鼻をかんだティッシュがダイニングテーブルの上にいくつも転がっている。

「本当、すみません。介抱していただいて、名前も知らない男を泊めてくださって、それにご飯まで。」

「そういうタチなので、本当に気にしないでください。あのまま放置して帰ってたら、きっと1週間は引きずりました。」

感謝しても、謝罪しても、し足りない。目の前に座っている相手と目を合わせることもできず、8割以上残った白米をぼんやり見つめる。

「ところで昨日は、何杯くらい飲んだんですか?かなり酔ってたみたいですけど。」

こんな酷い男にも、会話を続けようという気遣いをしてくれる。優しさに甘えつづけるわけにはいかないと、自分の情報を開示しはじめた。実はサワーを1杯しか飲んでいないこと。全く飲めない体質なこと。その体質を知りながら、自傷のように酒を飲んでしまったこと。仕事がつらいこと。就職以前もそこはかとないつらさに付きまとわれていたこと。


「あっ、初対面なのにこんなことまで話してしまってすみません。」

「いえ、僕は人の話を聞くのが好きなんです。仕事にしているくらいなので。むしろ、つらいことなのに言葉にして教えてくれてありがとうございます。」

「お仕事って……カウンセラーさん、とか?」

「そうです。メインはスクールカウンセラーで、東小学校と北中学校に週2回ずつ、中央病院に週1回通ってます。」

「スクールカウンセラーさん……」

高校の頃、学校にカウンセラーが来るというお知らせを受け取った記憶が蘇る。当時はお喋りなんかしている場合じゃないと思い、よく見ずに捨ててしまった。でも、彼みたいな人とだったら、お喋りしているだけでも元気になれたかもしれない。

「そういえば、お名前って……あっ、俺は辻っていいます。」

「高橋 悠介です。辻さんは、お仕事は何を?」

「えっと」

次の言葉が出てこない。何度も尋ねられてその度に答えた内容のはずなのに、喉がつまったように声が出ない。息を吸っては喋ろうとするが、息が堰き止められる音が出るだけである。

「いや、これはまた今度ゆっくり聞かせてください。」

「すみません。高橋さんに、もっと早く会えてたらなあ。」

遅めの朝食を、いや俺が遅れさせてしまった朝食を摂る彼を見ながら、ため息をつくように呟いた。


 ◆


「本当にもういいんですか?頭痛は?」

「大丈夫です。いつも通り!とは言えませんけど、お世話になりすぎですし。また改めてお礼させてください。」

「……分かりました。お家も近いみたいですし、何かあったら来てくださいね。」

「はい。それでは、ありがとうございました。」

ドアノブに手をかけるが、何故だか手首が回らない。外に出ることを、一人で歩いて帰ることを考えると、足も硬直する。帰りたくない。

「帰りたくない。どこにも行きたくない。もっと一緒にいたい。」

頭に浮かんだ言葉がそのまま口から出ていた。うーっという呻き声を上げて、その場にしゃがみ込んでしまった。ビジネススーツを着た成人男性なのに、駄々を捏ねる園児のような振る舞いをしてしまう。気を張り詰めて何年間も守りつづけててきたものが、みるみると剥がれ落ちていく。

「辻さん、僕と一緒に暮らしませんか。」

血が巡らず冷えきった俺の指先が、彼の厚みのある温かい手で包まれる。地獄の底から救い上げてくれる、女神の手のように思えた。

「……うん」


 思えばこのとき縋り付いた神の手は、別の地獄へ誘う甘い罠だったのかもしれない。

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