Retrato Anónimo

palomino4th

Retrato Anónimo

人の肉体と魂の関係について考えている。

例えば、港の風景の中、係留けいりゅうされた船たちのような、そんなイメージを浮かべている。

私たちの魂が船だとして港という肉体に繋ぐ一本のもやい綱、そいつはどれくらい強いものなのだろう。

綱は私たちにとってはずいぶん強く、そしてもろい。

意に沿わず繋ぎ続け時にあっけなく放たれる。

漂う船は海の向こうに消えてゆくはずが、時に別の陸地に繋がれる時がある。

……例えば、「生まれ変わり」について、そんな風に理解してみたりするのだ。



以前の勤め先の頃の話だった。

つつがなく勤めていたが、もともと人付き合いの得意でなく、周りから浮いた人間として目立たずにいた。

特別、面倒なことがあったわけじゃないが、同僚とは仕事時間だけの交流でプライベートに職場の人間関係は入ってこなかった。

ある年の瀬だった。

忘年会が催され数カ所の部署の合同の全員で居酒屋に集まった。

普段には見られないようなはしゃぎ方をする同僚に混じり自分も年の終わりに向け僅かにお祭りらしく振る舞ってみた。

そんな中、自分と同じ空気の彼を見つけた。

適度に酒を口にしつつ、口に笑みを浮かべて周りに合わせているが、心からの楽しみとは違う、装っているような、そんな表情を読み取った。

別の部署なので顔だけは見かけたこともあるけれど名前は知らない。

大人しそうな顔で目立たない青年だったが一点、気に掛かることはあった。

職場の昼休憩の時、食事後の休憩室でいつも一人、文庫本を読んでいる姿を見かけていた。

今時珍しい……そんな風に彼は変わり者として職場では見られていた。

カバーをかけた本の中身は何なのか、気になることがたびたびあったが、それだけ訊くこちらも変わり者らしく、気後れで話す機会などなかった。

ふと、普段どんな本を読んでいるのか訊いてみようか?という好奇心が起きて彼の近くへ座を移してみた。

話しかけると微笑みつつ回答され、初めて互いに名乗り合った。

向こうもこちらの顔は知っていた。

それとなく適当な話をしたが、趣味の話に移った時に彼が話したのは、本読みではなく「博物館めぐり」という方だった。

所謂、郷土資料など民俗系の展示を見るのが好きでプライベートではそういうのを見て回っている、ということらしい。

穏やかながら滑らかな口ぶり彼の話はそれはそれで面白く、私の方が聴き手になった。

宴も終わりになった時、全員で店を出てさらなる飲み直し組や帰宅組に分かれた中、ふと彼を見た。

住んでいる場所は現在いる街の駅の路線とは別の、私鉄路線の駅で降りることになり、その時刻では接続の関係で最後の列車が出てしまっていた、らしかった。

「歩くしかないですね、徹夜になるまでではないですけど」

澄まして言う彼に私から始発まで泊まっていかないかと提案してみた。

路線沿いの街のアパートで一人暮らししていて、極端に散らかしてはいなかったので突然来客があっても別段困らなかった。

「迷惑じゃないですか」と言っていたが、問題ないと言うことで私のアパートに向かった。

部屋に入って楽にしてもらうと酔い覚ましに紅茶を淹れて、落ち着いた。

彼は私の本棚の並びを見て「読書家なんですね」と言った。

「そう言えば会社でいつも本を読んでたよね」と私が言うと

「そうですね。色々、古本屋で適当に買った本で自分でもよく分からないのばかりなんです」彼は答えた。「会社だと一人で何もしてないでいることは難しいんですけれど、本を読んでいれば一人でいても時間をやり過ごせますからね」

拍子抜けしたことに、特に本好きというわけでもなかったようだった。

ともに疲れを感じ、来客用の寝具を用意してその夜は並んで寝ることにした。

学生時代を思い出したけれど、昨夜初めて話した間柄で、盛り上がる話をするほど親しくなったわけでもなかった。

だからその後のことは夢の中でなされた事のようにも思っているのだが……


消灯し、布団を並べ横たわり夢現ゆめうつつの中にいた私の横で隣から彼の声が聞こえた。

「まだ起きてますか。あなたは僕に似てますね」

寝転んだまま、こちらの返事を待つ事なく、まるで穏やかに流れるラジオのように語り始めた。

「あなたは輪廻転生って信じますか。今の姿に生まれる前に別の人生があったということを。世間には「前世」だなんて言葉がありますね。もしかしたら僕には前世の記憶があるのですよ……今までこんなこと誰にも話したことはありませんでした。ずっと誰かに話したかったことかもしれません。でも今後もないでしょう。最初で最後なんだと思います……」



僕は生まれてからずっと、子供時代も周りから浮いた子供でした。

今でもそうなのですが、その頃から学校でも同じ歳のみんなに馴染めず、誰とも同じ話題ができず、一人でいる方が気楽。

そんな子供の頃から既に骨董など、今のものよりも古いものに興味を持ち惹かれてきました。

自分で歩き回れる年齢になると、もうあちこちの郷土博物館めぐりなどをするようになっていました。


ある時、古い素封家の居宅をそのまま保存した記念館の見学をしていました。

瀟洒なたたずまいの造りの部屋を廻り、間取りなど細かいつくりをみるうちに不思議な感覚が湧いてきました。

「かつて自分がこのような物に囲まれていた記憶がある」

暮らしていた?

ここではないけれども、同じような和洋折衷の屋敷の、開化期の名残を残したような調度品の数々に不思議に馴染みを感じていた……。

しかし、両親の元に生まれてこのかた、そんな環境にいた可能性はまずない。

これまでに巡ってきたような民俗資料展示の記憶が呼び起こされてきたのか、とも思ったけれどもそれとも違う臨場感がありました。

ではそれらに触れていたのか?というとそういう記憶は一切ない。

納得できない心持ちでその見学の日以降、屋敷を巡る資料を調べてもそこには資料以上に記憶に呼び起こされるものはなかったのです。

気のせいではないか。

そう結論づけてその件を区切り半ば忘れてから数年後、今度は別の場所での見学に不思議な記憶が呼び起こされました。

そこでも和洋折衷の屋敷の中で、家族の食事のためにしつらえられたテーブルを中央に据えたやや小ぶりの洋風の食堂。

こんな食堂があったように思う、と同時に、確かに屋敷の中にいたけれどそこで食卓を囲んだ記憶がない。

僕はその食卓を囲む家族を少し離れた高い場所から見守っていた、と思うとしばらくして確信めいた記憶が立ち上ってきました。

自分は生身の人間としてその屋敷にいたのではなかった、と。



僕の前世は人間じゃなくて一枚の肖像画だった、というものでした。

その時の記憶がある。

それはまだ若くして亡くなった青年の在りし日の姿……彼を愛した家族が、無名の画家に描かせた青年の肖像画が僕でした。

ただし、青年そのものの記憶はなく、画家が画布に描き、顔料の彩色で象られてからの記憶だけが全てでした。

家族の哀惜により呼び起こされて芽生えたものなのか、本当の彼の魂とは別の、彼の影としての魂としてそこに宿り日々食卓を見守っていたのが僕でした。

僕の眼の先に彼の両親だったものたちの温かく愁いのある眼差し、兄弟らの深い思いの容貌があり、彼らの記憶の中に生きる青年は僕の魂に照射されていたのかもしれません。

でも時が流れ両親は逝去し一族の顔ぶれの変わる中で、青年の記憶は他の家族と共に歴史に埋もれて行ったようです。

掲げられた肖像画に注意を払うものもいなくなり、ただそこにあるものと見なされてゆきました。

それなのに、絵画の中の僕はそのままどこにも行けず中に閉じ込められたまま、繋がれたままなのでした。

いつしか僕は人間になる事を望むようになりました。

でも絵画の寿命は人間よりも遥か長い。

絵画である限り僕は滅ぶ事なくその中で生き続けなければなりませんでした。

永遠の生命の責め苦、この肖像画自体が何かで喪われない限り、魂は自由になれない。

いつしか肖像画を持った一族は衰退し、家財一切が世の中に散逸しました。

それに伴って僕は世の中に流れてゆきました。

誰とも知らない人物の肖像画ほど始末に困るものはないし、風景画と違って飾ることなど出来ない。

肖像画の作者は無名の画家で、生前も没後も注目されることなく埋もれた名前で、僕も誰の眼にもとまらずに破棄もされず、画商もどきの人物の倉庫でただのその他大勢の作品として放り込まれ、僕は生きながら長い眠りにつきました。

家族のどこにも存在しない時と場所で、僕はただ待つだけでした。



しかし……それが今、僕が人間として生まれたというなら一体、元の絵画はどうなったのだろう。

例えば保管場所が火災に見舞われるなどあって焼失したとでもいうのか、確かめようがない。

一方で絵画そのものは存在したまま魂だけが放たれたのではないか、という可能性を考えている。

絵画そのものに魂を定着させているのは、見る人間の思いの籠もった視線であり、信仰のようなその思いが地上から消え去った時に開放された……。

そうして人ならぬものの魂として生まれ、そこから新しい肉体に人間として生まれ変わったのが今の自分ではないか。

人間として生まれ変わった今、馴染みなく生き辛い現在を生きていますが、今の僕は自由に自分の身体で歩き、望めばその場所に行くことができる。

そして自分のように、人ならぬものから生まれ転生した魂の人間が自分以外にもどこかにいるんじゃないかと想像したりするのです。

このことは誰にも秘密にしてきました。

……もしかしたらあなたもそんな人間ではないのですか?



私が彼の話をどこまで聴いていたのかわからない。

眠りながら聴いていたのか、そもそも本物の彼の話していない話を夢見たのか、どちらとも言えない。

夜中の話を持ち出すこともなかった。

朝が来て二人が共に起きた後、朝の街でドーナツ屋で食事をし「また今度」と解散した。

その後特に機会もなく彼と話すことはない。

全部、夢の中だと思いつつ、自分の本棚の背表紙を見た。

そう……例えば『ドリアン・グレイの肖像』を思い合わせてみるし、少し伸ばした連想には『デミアン』のアブラクサスの一節がまとわりつき、いよいよ私自身の空想からの夢だったというオチな気がした。


私も転職をし、新しい職場に勤めて人間関係も刷新された。

しかし、今も時折彼を思い出す。

あの夜の話は本当に彼が話したことなのか、確かめてみたい気もする。

しかし本当に尋ねても確実な答えは返ってこないんじゃないか。

……夢とのあわいにだけ告白された秘密は光の下の日常にはそぐわない。


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