秘密のHumanity
壱ノ瀬和実
秘密
小学校の校庭に迷い込んだ子犬に、餌をくれてやる義理はない。
僕はそもそも動物が嫌いだし、むしろとっとといなくなってくれた方がありがたいくらいだ。
幸い他の生徒は気付いていない。もし授業中に見つかっていたらクラスメイトは犬が入ってきたとこれでもかと騒いでいただろう。
見つけたのは放課後だった。
最終下校時間ギリギリまで図書館で本を読んで生徒の気配が感じられなくなるまで学校に残る僕だから、校庭に迷い込んだ犬を僕だけが見つけることができたのだ。
それはこの犬にとって幸運だったのか、それとも不運だったのかは分からない。
翌日も、僕は図書室で放課後を過ごした。
普段ならそこまで重くないランドセルを背負って、僕は体育館の裏を通り、下校する。
次の日も、またその次の日も、僕は同じように帰った。
そして今日。僕のいる教室で少しだけ騒ぎがあった。
僕らのクラスで、干し芋の袋が落ちていたというのだ。
チャック付きの袋だったが、封は切られていた。中身は残っていて、誰かがお菓子を持ってきたと生徒たちは色めき立ったが、騒ぎを聞きつけた担任の先生に没収され、その熱は一気に冷めた。犯人を見つけようという方向に行かなかったのは、きっとテストの直前だったからだろう。
僕は放課後、いつものように図書室に寄ってから帰路に就く。
まずは通るのは、体育館の裏だ。
もう何度ここに来たか、あえて数えるようなことはしない。
覆い被さった枝葉が夕暮れのオレンジを遮って、僅かな木漏れ日を頼りに歩く狭く薄暗い空間は、立ち入るにも茂る草木を掻き分けて行く必要があり、わんぱくな低学年もそうそう入ってはこない。だからこそ、僕はここを選んだのだ。
乾いた地面に腰を下ろして、僕は行った。
「悪いね。今日は何もないんだ」
その時だった。
「干し芋ならここにあるけど要る?」
後ろから急に声を掛けられた。
びくんっ、と肩を弾ませて、僕はおそるおそる振り返る。
「天宮さん……どうしたの、こんなところで」
「こっちのセリフなんだよね。こんなところでうずくまって、何か悪いことでもしてるの?」
彼女は
「なんで天宮さんがここにいるの。それに、干し芋」
天宮さんは先生に没収されたはずの干し芋の袋を持っていた。
「干し芋は先生に渡してもらった。わたしのだから返してくださいって嘘吐いて。それと、ここにいるのは、
「尾行? どうして」
「図書室からつけてたの。わたし、図書委員だし」
「どこから尾行したかは聞いてないよ」
「ああ。そういえばそうだね」
天宮さんは口許に小さな笑みを浮かべて、僕じゃなく、僕の足に纏わり付く、一匹の犬を見ていた。
「羽田くんが校内に犬を隠してる、って思ったからついてきた。それが理由。当たってたみたいだね」
「……え。どうして?」
僕は校内に犬がいたことを誰にも話していない。
もちろん、この体育館裏の木に繋いで隠していたことも。
それなのにどうして、天宮さんはそんなことを思ったのだろう。
「羽田くん、毎日図書室に来るでしょ。いつもは伝記とか読んでるのに、ここ何日か犬に関する本ばかり読んでるなーって思ってたの。それに、最近羽田くんの持ってるランドセルが皆より明らかに膨らんでて重そうだったから、中に何か隠してるなーって。そうしたら、今日クラスで干し芋の袋が見つかった。干し芋って確か犬にもあげられるんだったな……って思ったときにね、犬の本を読んでいた羽田くんを思い出して、あ、もしかして干し芋は羽田くんが落としたのかなって思ったの。ランドセルが膨らんでいたのは犬に餌をあげる容器か首輪を持ってきているから。本は、犬について勉強するため、それを学校という場所でやっているってことは、捨て犬か迷い込んだ犬を校内に隠しているからじゃないか、って」
天宮さんは付け加えるように、
「それに、休み時間もよく教室を出てどこかに行ってたし」
天宮さんは不思議な人だ。いつもどこかぼーっとしていて、クールで、他のクラスメイトとまとっている空気が違う。全てを見透かされているみたいだった。
明かりの少ない体育館裏に、僕は毎日餌をあげにきていた。ドッグフードは家族にバレるかもしれないと思って、僕は干し芋が食べたいと親に嘘を言って買ってもらい、それを犬に与えていたのだ。
餌の容器は家にあったものを、木に繋ぐ首輪も、家にあるものを使った。
「どうして隠したりなんかしてたの」
天宮さんの問いに、僕は仕方なく答えた。
「僕、動物は苦手なんだ。少し前まで猫を飼っててね」
「……死んじゃったんだね」
僕は頷いた。
「すぐにお別れするくらいなら、僕はもう動物とは関わりたくないって思ってた。でもこいつのこと、可愛いって思っちゃって。家に連れて帰るわけにはいかないし、でも先生に話したら、保健所とかに連れて行かれちゃうかもしれないって思って……ここに」
ちょっとだけ吹いた風が、木々の葉をざわつかせた。
天宮さんは、「へえ」とだけ言って、手に持っていた干し芋のチャックを開けた。
「わたしね、犬って嫌い。あと猫も嫌いだし、ハムスターも嫌い。動物って嫌い。ただでさえ人の言葉をしゃべれないのに、予想外の動きをするから嫌い」
そう言いながらしゃがんで、天宮さんは袋から干し芋を取り出して、小さくちぎって手のひらに載せた。
「でも、可愛くないわけじゃない」
天宮さんは手を差し出した。茶色い毛並みの子犬は、その上の干し芋を舌で口の中に運ぶ。何回か噛むと、天宮さんの手をぺろぺろと舐めはじめた。
「この子、名前は付けたの?」
「付けなかった。そうした方が良いような気がして」
「そっか。そうだね。別れるとき、辛くなるもんね」
天宮さんは微笑んでいた。犬の可愛さにうっとりしていたのか、ただ単にくすぐったかったのかは分からない。でも、僅かに差し込むオレンジの光が天宮さんの優しげな表情を包むように輝いて、僕はその姿から、少しの間、目が離せないでいた。
その後、僕は天宮さんと二人で職員室に行き、犬のことを先生に話した。怒られるかと思ったけど、先生は軽く注意をしただけで、僕を叱りはしなかった。
犬は保健所へと送られた。幸い、すぐに飼い主が見つかったらしい。先生がそう言っていたから間違いないと思う。
あれ以来、天宮さんとは話していない。
以前と変わらず教室で一人、何を考えているのか分からない表情でどこを見るでもなく目をぱちくりとさせている。
皆は知らない。
そんな天宮禅南が見せた人間味溢れる笑みを。優しい美しさを。
あの日の天宮禅南の姿は、言うならば、誰にも知られたくない、僕だけの秘密だ。
秘密のHumanity 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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