塩むすび

増田朋美

塩むすび

寒い日ではあるが、なんとか外へ出られるかなと思われる、よく晴れた日であった。そんなわけで何人かの人は買い物に出たり、旅行に出たりしている。でもそんなふうにのんびりしている国家は、もはや少なくなっているのではないだろうか。誰もが普通のことをやれる国家なんて、日本くらいなものだろう。そんな日本であるからこそ、他の国の人は、羨ましくて仕方ないと思うかもしれない。

そんな事がある中、杉ちゃんたちはいつもどおりの日々を過ごしていた。というか、過ごすはずだった。時々、一日が終わろうとしているときに、変な人がやってくるときがある。そしてそういう人ほど、大変扱いが難しい人であることが多い。

「杉ちゃん、右城くん。ちょっと相談があるのよ。この人、私達のお琴教室に来てくれている人なんだけど。」

と、言う声が玄関先で聞こえてきた。一緒に来てと指示を出しているから、多分誰かを連れてきたのだろうなと思われた。

「ほら入って。悪いようにはしないから。」

このサザエさんの花沢さんの声ににた人物は、多分浜島咲だと、杉ちゃんも水穂さんもすぐにわかった。

「ああ、杉ちゃんも右城くんも、ちょっと聞いてほしいのよ。この女性のことなんだけど、実は都筑正男さんの奥さんなの。」

咲はそう言って、四畳半に入ってきた。確かに一人女性を連れてきている。瞳は青で、日本人らしくない顔をしているので、どこかの海外から来た女性だなと分かった。

「名前は、都筑マリーさん。今月から私達のお琴教室に来てるんです。なんでも、ご主人が週に一度でも、外へ出てほしいって言うもので、それで連れてきたんです。」

咲はそう説明した。

「お前さん、どっから来た?」

杉ちゃんがそう言うが、都筑マリーさんは挨拶もしないで黙っている。

「日本語、わかりますか?」

水穂さんがそうきくとマリーさんは、

「大体わかります。主人とは日本語で喋ってました。」

と小さな声で答えた。

「じゃあ、とにかくだな。お前さんの名前と、どこの国から来たのか、それを教えてくれ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「都筑マリーです。出身はシリアのダマスカスです。」

と彼女は答えた。

「シリアのダマスカス。歴史の古い街ですね。そんなところから、どうして日本にやってきたのですか?」

水穂さんが優しくそう言うと、

「戦争、で。」

それだけ言って、都筑マリーさんは、涙を流して泣き出してしまった。

「おいおい、ちゃんと話をしてくれよ。泣いてちゃわかんないだろうがよ。」

杉ちゃんにそう言われても、マリーさんは泣き続けてしまうのだ。

「わかりました。わかりましたよ。それほど悲しかったんですね。シリアは内戦がずっと続いていて、泥沼化していますからね。口で言うこともできないほど、ひどい壊滅状態だったのでしょう。それなら、言えなくて当然です。ましてや日本語にはまだなれていないでしょうし、言うのは難しいでしょう。」

水穂さんは静かに優しく言ってくれた。

「さすが右城くんだ。やっぱり、そういうことがすぐに分かっちゃうんだから。私も本当に困ったのよ。ご主人がお琴教室に連れてきて、お琴に触れればなんとかなりますって言うけど、彼女は泣いてばかりいるんだから。」

咲は大きなため息をついた。

「そうですね。シリアといえば大量破壊兵器のことで問題になったりしていますからね。いくら最近アラブの春があったと言っても、うまくはいきませんよね。」

水穂さんがそう言うと、

「ええ、本当に迷惑でした。私の家族も、みんな戦争で、」

マリーさんはそういうのだった。マリーさんは気持ちが優しすぎて、内戦で家族が死亡したということを口に出して言えないんだなと言うことが、杉ちゃんたちにもわかった。

「それで、都筑正男さんはなんて言ってるんです?あの失礼ですけど、都築正男さんというのは、今度の参議院選挙に立候補するとかそういう事を言われている人ですよね?」

と、水穂さんが言った。

「そうか。そういう変な人なんだ。まあ、偉いやつは、何でもできるけれど、それが人に迷惑をかけるということには弱いようだね。そうやって、権力でお琴教室に通わせたというのはあるんだろうけど、それを引き受けるやつのことは全く考えない。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「そうそう。杉ちゃんの言う通りなのよ。彼女お琴をひこうとさせても、何もできないし、1日中泣いてばかりだし、苑子さんと来たらもういいかげんにしろなんて怒り出すし。それだから、彼女にお琴は向いてないと思ったの。それでなんとかできないかって思って、ここへ連れてきたのよ。」

咲がそういう事を言った。

「とにかくですね。偉い人の批判をしても仕方ありません。まず彼女をどうするかを考えましょう。まず初めに、彼女のこころを癒してやることが必要なんじゃないでしょうか。そういうことなら、素人が手を出しても仕方ないかもしれません。それなら、そういう事をしてくれる専門家を探さなければ。」

「医療関係者も、そういうのを信じてくれる人はいないと思うな。」

水穂さんがそう言うと、杉ちゃんはすぐいった。

「偉い人は、自分のことしか考えないからな。それに、平和ボケの日本で戦争の傷を癒やしてと依頼してくるクライエントも少なすぎると思うから、専門家でもこういうケースは経験ないと思うぞ。だからねえ、、、難しいと思うよ。」

「そうですね。日本は元々外国人を対象にしているセラピストなどは少ないですし、何よりも長年単一民族の国家としてやってきましたから、そういう他の思想を持っている人の治療を施すというのは難しいのではないでしょうか。」

杉ちゃんと水穂さんがそう言うと、

「だけどねえ。ふたりとも、ちゃんと考えてよ。彼女は家のお琴教室に来てくれるけど、お稽古の間ずっと泣いててお稽古にならないのよ。そりゃ、ご主人はお金を払ってくれるから、それでこっちへ来てもらってるけど、あたしたちは彼女のいる間、ずっと困ってなくちゃならないのよ。だからなんとかしてよ。」

と咲が杉ちゃんたちに言った。確かに当事者としてみれば、そういう感想を持っても仕方ないかもしれなかった。

「そうですね。それに彼女自身も、こう辛い感情を持っていられてはいつまでも辛いままで、可哀想ですよね。そういうことなら、なんとかして彼女の悩んでいることを一緒になんとかしてあげたいと思う気持ちもありますよ。そういうことなら、彼女を癒やしてあげる人を探しましょう。」

「僕、涼さんに連絡してみるよ。」

水穂さんと杉ちゃんはそう言い合って、杉ちゃんはすぐにスマートフォンを出して、これで涼さんの番号を打ってくれと言った。水穂さんがわかりましたと言って代理で番号を打ってやると、

「ああ!日本にもそういう人が居るんだ。良かった。私達仲間ですね。」

と、マリーさんは言うのだった。

「仲間?それはなんですか?」

と、咲が聞くと、

「はい。私も字が読めなくて大変だったんです。私は学校にいけませんでしたから。それより働くほうが優先で。それに、シリアでは、女の子は学校へ行く必要がないと考える人が多いんです。」

マリーさんはそういった。

「あの、すみません。あたしを、偉い人に引き渡すのではなくて、しばらくここで暮らさせてもらえないでしょうか。あたし、折角ここで仲間と知り合えたのに、またおかしくなったと言って、偉い人に渡されるのは辛いんです。」

「はあ、えーとそうですか。」

水穂さんはそういうのだが咲のほうは困った顔をしている。

「まあたしかにね、偉い人を信用できないってのはわかるよ。アラブの春だって、結局だまし絵に過ぎなかったんだもんな。なんかきっと、幸せになれるとか煽られたけど、結局は戦争をするようになっちまったわけだもんな。それじゃあ、たしかに偉い人は、信じられない気持ちもわからないわけじゃない。だけど、僕らは素人だもんでね。そういう、お前さんを癒やしてあげられるようなテクニックを持ってないわけよ。だから、そういうことができる人に、お前さんを引き渡すのが必要なんだ。」

杉ちゃんはできるだけ優しくそういったのであるが、マリーさんは、辛そうな顔をした。それを見た水穂さんが、

「そうですね。シリアでは、国のトップが信用できないわけですからね。それでは、偉い人を信用できない気持ちになってしまうのも仕方ないですよ。それなら、僕らのところで女中さんとして働いてください。理事長さんには僕が言っておきます。」

と言ってくれた。杉ちゃんと咲は、あたしたちが預かるのはちょっとという顔をしたが、水穂さんは、なにか決断を下したようで、

「少なくとも僕たちは、アラブの春を巻き起こした口ばかりの偉い人たちとは違って、あなたを簡単に捨ててしまうことはしませんから安心してくださいね。」

と、優しく言ってくれた。マリーさんは、ありがとうございますと小さい声で言った。

「じゃあ、早速だけどね。仕事をしてもらうか。竹箒で庭を掃いてくれ。今寒いから、ちょっとつらいかもしれないけど、頑張って。」

杉ちゃんがそう言うと、

「竹箒ってなんですか?」

とマリーさんは聞いた。

「竹箒は日本の掃除道具。竹でできている箒だよ。掃除用具入れがあるから、そこから出してくれ。」

杉ちゃんが答えると、マリーさんは、わかりましたと言って、掃除用具入れを探した。これですねと言って、掃除用具入れから、箒を一本出した。水穂さんが、

「こうやって使うんですよ。」

と、竹箒を持って、使い方を示すと、彼女はわかりましたと言って、箒で庭を掃き始めた。下手だけど、一生懸命やっている。

その時、風が吹いた。寒くて冷たい風だった。マリーさんはまた泣き出してしまう。

「どうしたんだよ。」

杉ちゃんが言うと、

「シリアの冬もこんな風が吹くんです。私の家族、父も母も姉も、みんな空襲で逃げ遅れました。私は、川に飛び込んで助かったけど、冷たい風は、私への罰のような気がするんですよ。」

マリーさんはそういうのだった。

「今は、そっとしておいてあげましょう。彼女は、辛い思いをしているんだと思いますよ。もしかしたら、自分だけ助かったことも悔いているのかもしれません。それは、人間ですからどうしても発生してしまいますよね。機械では無いですからね。」

水穂さんが優しく言った。

「あたし、どうしたんだろう。早く仕事をしなくちゃと思うんですけど、何もする気にならなくて、ただ泣いていて、ここで暮らすしかできなくて。」

そういうマリーさんに、

「まあ、そうかも知れないけどさ、お前さんに生きていてほしいと家族は思ってくれるんじゃないかな。お前さんだけ一人で生きているから悔やまれるでしょ。それは、仕方ないかもしれないけどね。でもさ、一家全滅ではなくて、一人だけ生き残ったって言うわけだからなあ。それは、多分きっとなにか重大な事業をするために一人助かったんじゃないか?違うのかよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうなんですか?」

マリーさんは杉ちゃんに言った。

「そんなこと、シリアでは一度も言われたことがありませんでした。一人だけ生き残った事を、あたしはいつも、辛い思いをしていました。」

「所変われば、こういうふうに解釈は色々あるってことをわかってほしいな。シリアと日本はそこが違うんだ。そういうふうに場所を変えることで、違う考えに出会えるってことは幸せなことだよ、違うのかよ。」

杉ちゃんに言われてマリーさんはハッとした。

「それでは、庭掃除を続けてもらえるかな?」

杉ちゃんが言うと、マリーさんは庭掃除を続けた。それはでも、本当に悲しそうで、とても庭掃除を続けられそうな感じではなかった。

「なんだか、無理やり、彼女に庭掃除させるのも可哀想ですね。」

咲が、そうつぶやくほど、マリーさんは哀れな感じだった。

「そうだねえ。そういう心がしんどいことで一番の薬は、同じ経験をしたことのある人のああそうか、お前もそうだったのかという言葉だと思うんだが、日本では、そういう経験をした人は少ないよ。ましてや、若いやつ、つまり彼女と同じ年齢の人は、戦争を知っている人なんてほとんど無いだろう。それを知っているんだったら、おじいちゃんかおばあちゃんだ。」

杉ちゃんがなにか考え込む顔をした。

「それなら、そういうことであれば、そういう人に合わせましょう。今の時代は何でも商売になりますよね。そういう戦争体験を商売にしている人も居るはずです。商売にしなくても、戦争体験を子供さんに語ったりするおばあさんはたくさんいます。」

こういうときに決断が早いのは水穂さんだ。水穂さんは自分のスマートフォンで、あの宅配弁当会社であるぽかほんたすの社長である、土師煕子さんに電話した。煕子さんは、はじめはびっくりしているようであるが、水穂さんの説明を聞いて、納得してくれたようだ。マリーさんは、また偉い人に私を引き渡すのと杉ちゃんに不安そうに聞いたのであるが、杉ちゃんはカラカラと笑って、戦争を体験しているおばあちゃんだよといった。

「悪いねえ。お前さんのような空襲とかそういうことは、僕らじゃなくて、おじいちゃんおばあちゃん無いと、体験していないんだよな。だからそういう、お前さんの話に共感してくれるやつを連れてきてくれるように、今頼んだから。我慢して。」

「そうなんですね。」

マリーさんは箒をぽとりと落とした。

「日本は、そういうふうに特定の人でないと、戦争の事を知らないんだ。誰もが戦争を知っていて、家族をなくした人の悲しみをわかってくれるわけじゃないんだ。あなた達も、きっとシリアの偉い人たちと同じなのでしょう?自分は何もしないで、そうやって他人になんでもしてもらって。シリアの人たちはみんなそうだったの。爆撃も何も、みんな自分はやってないって、上の空で笑ってたわ。」

「そうですね。」

と、水穂さんがそう彼女に言った。

「確かに、大きな戦争は、70年以上昔に終了しており、それを知っている人はだんだん高齢化してきて、若い人たちはその体験を共有したりすることはできなくなりました。だけど、決して、あなたのことを、騙そうとか、バカにしようとか、そういうことはありません。」

「嘘!」

とマリーさんは言った。

「誰もが戦争の事を知っているわけじゃないのに、どうして戦争を知っている人を連れてこようなんて言えるのよ。そもそも、そこが私、理解できない。」

「まあできないのならできなくても結構です。それは、仕方ないことであることは僕も知ってます。」

「そうそう。同和問題の事を理解しようと思っても、できないことと一緒だよな。」

杉ちゃんと水穂さんはそういった。だけど、彼女の悲しみをより一層強くしてしまったと水穂さんも杉ちゃんも思った。それは返って悪いことをしてしまったのだろうか。水穂さんが思わずごめんなさいというと、

「失礼致します。土師煕子です。宅配弁当ぽかほんたすの土師煕子です。」

と玄関先で声が聞こえてきた。杉ちゃんが、

「ああ良いよ。入れ。」

というと、煕子さんは、重箱を持って、四畳半にやってきた。こんにちはと挨拶して、みんなの前に重箱をおいた。とても美味しそうな匂いが、部屋の中に充満した。

「ごめんなさい遅くなって。あらましは水穂さんからだいたい聞きました。それでは辛い思いをしているだろうなと思って、こちらを持ってきました。」

煕子さんは重箱を開けた。中身は、おむすびであった。

「わあうまそう。日本では、ご飯を携帯して持ち歩くことがあるんだよ。これはその代表選手でおむすびという。お前さんも食べてみな。」

杉ちゃんはもうおむすびを取ってむしゃむしゃと食べ始めた。

「ほらあ食べろよ。すごくうまいぞ。日本独自のおむすびだぞ。」

杉ちゃんに言われて、咲も匂いにつられて食べ始めた。煕子さんが水穂さんに、塩むすびも作っておきましたから食べてくださいというが、水穂さんは、手をつけなかった。

「うん。うまいうまい。お前さんも食べろ。ほら、悩んでいるやつはだいたい腹が減ってるんだよ。美味しく食べてくれよ。何なら塩むすびだけでも食べてみろ。ほら、お前さんも食べて。」

杉ちゃんに言われて、マリーさんは、塩むすびに手を出してそっと食べた。単に塩をまぶしたご飯を三角形にしただけのものであるが、それなのになんで美味しいんだろう?

「なんで、日本ではそういうことができるんでしょうか。あたしたちの、シリアでは全然できませんでした。こんなすごいことが、日本では平気でできるなんて。こんなに恨めしいことはないわ。ああ、言い方が間違っているかもしれない。」

マリーさんはそう言ってまた涙をこぼしそうになったが、

「あなたも、シリアでは随分大変な目にあったのでしょう?空襲があったり、眼の前で人がなくなったこともあったんでしょうね。本当に、悲しい体験をしたんでしょう。戦争は、いつでも嫌なものよね。だって、今までやってきたことが、全部台無しになってしまうんですからね。」

煕子さんは優しくマリーさんに言った。

「そうなんですよ。だからアラブの春なんてね。結局だまし絵だったんだよ。今は、アラブの春でなくて、アラブの冬とか呼ばれてるんでしょ。全く、困ったものだね。」

杉ちゃんが顔にご飯粒をつけてそういった。マリーさんは初めて、煕子さんにそう言ってもらえて、とても嬉しいと思ったのだろうか。彼女は、涙を静かに流して泣き始めた。煕子さんがマリーさんを抱きしめてやると、マリーさんはやっと緊張が緩んでくれたらしい。一番したかったこと、つまり幼児のように泣き叫んだのだ。誰も止めなかった。そうしてあげるのが当然だと思ったから。

「そういう体験を共有できるってことが、もしかしたら平和ってもんなんじゃないかと思うな。それは違うかな?」

杉ちゃんが思わずそうつぶやくと、水穂さんは、

「そうかも知れませんね。」

とだけ言った。咲も、やっと彼女が望んでいる言葉を聞くことができたと、大きなため息をついた。

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塩むすび 増田朋美 @masubuchi4996

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