第3話

「さて、お前はこいつを――」


 コルスの姿が消える。一度瞬きしたその時、横に立っていた、レンを男が、水音の混じったような呻き声をこぼした。レンはそれを見上げようとしたが、そこにはコルスの背中があった。マントを翻した彼は、あの時と同じようにレンを抱え上げる。


「目を開けるな」


 そんなコルスの声がしたのと、身体が浮き上がる感覚を覚えたのは同時だった。額をコルスの胸に押しつけ目をつむった瞬間、足元から激しい音が響き、突風が吹き上がってくる。賊達の、爆弾か、いや目くらましだ、という怒号が聞こえ、レンはそれが爆発というものだったことを知った。


 コルスの跳躍は、この爆発から逃れるためだったようだ。地面に降り立った彼は素早く走り出し、また大きく跳んだ。がさがさという、木の葉のざわめきが耳に刺さる。どうやら、樹の上に身を隠したらしい。


「無駄だ、人攫いの化け物め。お前の正体は知っているぞ。ガキも一緒なら聞け、俺達はお前を助けようとしたんだぜ」


 太い枝に座らせられた時、頭目らしきあの男の声が響いた。コルスはしかしレンから距離を取り、枝に器用に座り込みながらも、その片手は自身の頭を握り潰すのではないかと思うほどに、ぎりぎりと爪立てられている。


 フードは背に落ち、彼の長い黒髪が露わになっていた。口元の布は取り払われたらしく、そこからはあの荒い息が漏れ出ている。


「そいつは、子供の血を吸いつくして生きる化け物だ。とっくに飢えてたそいつが、たった今また力を使った。自分がどうなるかわからねえほどの年じゃあないと思ったけどな」


 レンは、コルスから目を離せなくなっていた。彼の苦しみが、病気などではないのなら。苦しみを癒すものが、すぐ隣にあるのだとしたら。


「そいつの“目”に捕まる前に出てこい。俺らが殺せるのは弱った今しかない」


 仮面から覗いた目が赤い。そう思った時にやっと、目に捕らわれたことにレンは気づいた。そこに凶暴さはなく、むしろ今までのように穏やかだ。だが今までと違い、レンの身体は凍りついたように動けなくなっていた。


「まあ、間に合わなくても構わねえさ。食いつかれた相手は、激痛で悲鳴をあげるらしいからな。一人分飲み切る前に仕留めてやる」


 一枚の葉も揺り落とすことなく、コルスはレンに近づき、片手でその首筋を撫でた。途端に、その部分だけが何も感じなくなる。風も温度も、間近に迫っているコルスの息も。そして、二本の鋭い牙が、そこに突き刺された痛みも。


 彼がいつも口を隠していたのは、この牙を見られないようにするためだったのだ。彼が優しくしてくれたのは、餌として警戒心を持たれないようにするためだったのだ。彼がここにいたのは、襲いやすくした餌を追ってきただけなのだ。


 賊の頭目が言っていた痛みは、いつ起きるのだろう。何もできなくなったレンは、それだけが不安だった。彼の耳は、液体を飲み下す喉の音を拾っていたが、ふいにそれが途切れ、コルスの頭が離れた。血を全部吸われたんだろうか。でも、そうならなぜ自分は今、まるで泣き出しそうに震える赤い両目を見れている?


 レンの視界には赤い目の男――コルスの、口元も入っていた。かろうじて残っていた夕日のおかげで、そこが血に濡れているのがわかったし、唇の合間からは牙の先が見えている。


「君だったのか」


 意味を成さない台詞がコルスの口から出たかと思うと、彼は、人形のようにぐったりとしたレンの身体を、ぐいと引き寄せて抱き締めた。何も感じなかったはずの首筋に、彼の呼吸を感じた。


 コルスはそのまま、空中に身を躍らせた。樹の近くには、二人を探し回る賊がいたが、音もなく地面を踏みしめた彼には気づいていない。レンを樹の幹に寄りかからせると、コルスはその賊に襲いかかった。


 それは、人間が人間を襲うのとはまったく異なるものだった。一歩進むのと同じ速さで肉薄したコルスは、手にしていたナイフで男の首を掻き切った。次に近い場所をうろついていた賊にすぐさま飛びかかり、同じように喉を裂く。


 異変に気づいた賊達は、樹にもたれたレンをも見つけていた。だが、彼らがレンに近づくことはできなかった。人の血を命の源とする“化け物”が、その源を得て、本来の力を取り戻していたのだ。ただの“人間”が敵うはずがなかった。


 ナイフは血糊で使い物にならなくなったか、最後の数人は、コルスは自身の爪と牙で葬った。長く伸ばした鋭い爪で心臓を突き刺し、獣のように首筋に牙を突き立て、その肉を齧り抉った。そうなる頃には、レンの目にはコルスが、かろうじて人の形を取った、異形のものに見えていた。


 そんな戦い方を目の当たりにしたレンは、コルスと初めて会った日、彼の装いに覚えた違和感の正体に思い当たった。あれだけの装備をしているなら持っているはずのもの。敵と戦い退けるための長剣を、彼はどこにも携えていなかった。彼の真の力をもってすれば、剣など必要なかったのだ。


 肉塊と化した、人間だったものが転がる中、一人立ち尽くしていたコルスがこちらを見て、血まみれの口で笑った。人間にはない牙が見えたが、レンは露ほども怖くなかった。その時の目が、町で見せてくれていたものと変わらなかったからだ。大人の脚で十歩は離れていても、それはわかった。


 凍ったようだった身体は自由を取り戻していたので、レンはコルスに駆け寄った。聞きたいことは山ほどある。その中でレンは自然と、一つの問いを選んでいた。自分と彼しかいなくなったこの場で、彼が自分を殺そうとしなかったのが、レンをそうさせたのだろう。


「教えてください、ぼくはなぜ生きているんですか」


 大穴の空いた喉笛を晒し、すぐそこで事切れている頭目の話は嘘だったのか。激痛など、身体のどこにも感じない。


 マントにすがりついたレンに、コルスはゆっくりしゃがみ込んだ。


「ぼくは、いにしえの時代に“化け物”と呼ばれた存在と、とてもよく似た異能を持っている。人の血を糧とし、人から外れた力を持つ。でも、“彼ら”そのものではない。“彼ら”は血を奪った相手を殺さずにいられたらしいが、ぼくにはできない。“彼ら”はどんな人からも血を奪えたが、それもぼくにはできなかった」


 子供の血を吸いつくして殺す。頭目の話は本当だったのか。


「そして糧を得る時、この異能は必ず、相手に凄まじい痛みを与えた。それが物理的なものでなく、この身体に流れるもののせいなのは、感覚でわかった。血がなくなる前に、みんな痛みで死んだ。ぼくが殺した」


 震えるコルスの声を聞いて、自分を襲った時の彼に、彼の意思はなかったのだと悟った。餌の匂いを嗅ぎつけ、食らいつかんと暴れる犬と同じだ。


「でも、その痛みが弱い子もいた。結局は激痛だから死ぬことに違いはないけれど、そんな子から奪う血は、いつもより少なくても満足できた。それで気づいたんだ。ぼくの力に順応する血の持ち主が、どこかにいると」


 レンよりずっと背の高い男が、腰を低く落として彼を見上げ、懇願した。


「レン。ぼくを助けてくれないか」


 骨ばった二つの温かい手が、レンの手を包んだ。


「ぼくは殺人者だ、君のことだって殺そうとしてた。でも、ぼくを生かしこれまでの罪を償わせてくれるなら、ぼくは君を連れて王城に行こう」


 潰えたはずの小さな夢が、大きく形を変えてレンの前に現れていた。命を救ってくれた彼に、血を飲ませるだけでいい。痛むこともない。噛みつかれるさまを想像すると不気味ではあったが、レンには些細なことに思えた。


 なぜなら、彼の約束を守ると誓い、自分が首肯するだけで、彼は救われる。生きながらえるために殺してきた、きっと数え切ることもできない数の子供達のために、生まれ変わろうとしている彼を支えられる。

 自分が、人の役に立てる。


「……血をあげて人助けなんて、聞いたことないですけど。でも」


 レンのもう片方の手が、コルスの手の上に重なった。


「ぼくにしかできないとわかって、あなたはぼくを捕らえることだってできたのに、そうしなかった。こうして、ぼくに選択をさせてくれた。そんなふうに思いやってくれる人のことを助けたいと思うのは、おかしくないですよね?」


 仮面の奥で、黒い瞳が見開かれた。


「それに、異能を使う人に頼られたら、やっぱり、嬉しいですし」


 照れ隠しに言った台詞は、自らの両手に額を乗せ、嗚咽を漏らし始めたコルスには、届いていないようだった。


「レン。おこがましいのを承知で、一つだけ約束してくれ。ぼくの力と君の血の関係。これを絶対に、誰にも話さないでほしい。君は、ぼくがぼくでいるための、命そのものなんだ。異能を好かない者も多いという街で、これをひけらかすわけにはいかない。町での約束とは違う、これはきっと死ぬまでずっとだ。できるかい?」


 間を置かずに頷こうとしたレンだったが、コルスの体調を優先させようとしていたことが思い出され、つい逡巡する。


「あなたが死んでしまいそうになったら、できないかもしれません」

「それはぼくが気をつけなくてはいけないな。……ありがとう、レン」


 ぬくもりのある手が首筋に触れる。残ったほうの手が、仮面にかけられた。


「よく見せておくれ。傷が癒えたのを見るのは初めてなんだ」


 仮面が外れると、コルスの頬は涙で濡れた。

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贖罪の始まる日 透水 @blnsrk

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