1 - 羽化の刻

 フィロが彼岸旅館に来てからそれなりの時間が経っていた。本好きが高じてこの世全ての本を読破しようと試みる変わった怨霊になったはいいものの、死んでしまっては現世の本を知れず三日三晩号泣していた所に偶然迷い込んだその旅館は、フィロにとって自分の欲求を満たす絶好の場所であった。迷い込んでくるお客様から逐次現世のトレンドを聞き、更には差し入れすら受け取っているのだ。というわけでフィロは一階の広間で独り生前からバイブルと崇めているジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』を少々気持ち悪い笑みを浮かべながら読んでいた。

「フィロちゃん、それ面白い?」

 そう声をかけたのは宝土蓮華という女性であった。フィロは思わず誰が見ても変な笑みを浮かべたまま「とてもとても興味深いですよ。不可能犯罪を前にして、なんと名探偵であるフェル博士が登場人物ではなく読者に対して『密室の講義』を始めるんです。ええとても突拍子もない始まり方で、ワトスン役のハドレイ警視などは怒るんですがそれでも続けるんです。ええ、ええ。ミステリにおける金字塔、密室のトリックは全てこの本に書かれています。ちなみにこの本で私が一番好きなセリフは「おやすみなさい皆さん、俺は自分の墓へ戻っていきましょう」なのですが……」と早口でまくし立てた。

 蓮華は見るからに嫌そうな顔をしながら「フィロちゃん、好きな事に対しては凄まじく早口になるね……お客様の前では気をつけてね」と突き放した。

 フィロは少しぽかんとしていたが、自分の醜態に気づいたようで赤面して本に顔を埋めた。

「のお、うちはミステリというものはぜんぜんせんのやけど、密室ってそんなにも種類あるもんなん? そもそも密室って非現実的じゃない?」

「実際的には非現実的ですね」フィロは口調を持ち直して話した。「しかし本格派と呼ばれるミステリ愛好家は非現実的な密室や怪しい館、残忍な事件、不可能犯罪に惹かれるんですよ」

 蓮華は少し笑みを浮かべ「フィロちゃんはぞっこんみたいね。しかし非現実的な怪しい館、この彼岸旅館こそ相応しいんじゃなか?」

「確かに相応しい場所ではありますが、ここの人たちは一癖二癖あれど皆いい人たちです。事件など起こってほしくないですね」とフィロは視線を反らした。

 蓮華はそれを見逃さず「嘘。実は何か起こってほしいんでしょ。目は口ほどに物を言うよ」と忠告した。

 フィロはまた本に顔を埋め、すみませんすみませんと謝り倒すのであった。

「そういえば今日は常世さん不在なんですね。今日出勤してるのって誰なんです?」

「ええとね、私、フィロちゃん、ベスティちゃん、ローズちゃん、玉藻さん、りふぉちゃん、月下香、ラボさん、まりんちゃんかな? と、噂をしてたらあっこからベスティちゃんが来たよ」

 フィロと蓮華が視線を移すと、いつも通り横たわりながら移動してくるベスティが居た。その愛らしさと特徴的な口調から、誘魅の中でも特に人気がある少女だ。

「ベスティちゃん、フィロちゃんに天誅するチャンスよ」と蓮華は笑う。フィロは手をばたばたさせながら顔を横にふる。それを見たベスティは訝しい目をフィロに向けた。

「フィロちゃんー、なんか天誅なこと考えてるー?」

「か、考えてません! なにか面白いことが起きないかなと話していただけですよ! ええ本当です!」

 そうフィロが声を荒らげた時、複数の悲鳴が旅館内に響いた。

 即座に動いたのはベスティであった。その次に蓮華、遅れてフィロが慌てて腰を上げる。三人が悲鳴をしたほうを見た時、すぐ確認できた人物は館内から鐘への通路入り口に立っていた月下香だった。月下香は外を見て呆気に取られている。フィロが二人に遅れて月下香のいる所に向かおうとした時、つい二の部屋に視線が向いた。そこに広がる光景に、声を上げる前に思わず眉を顰め厳しい顔をした。

 二の部屋ではまりんが倒れていた。注視したが、胸元が動いていない。おそらく呼吸が止まっている。

 フィロは思わず立ち止まり、さながら探偵のように二の部屋を見渡した。中には静かに倒れているまりん以外には全くの乱れが無く、人も居なければ座布団がズレているようなことすらなかった。フィロはその場に留まり蓮華とベスティに叫んだ。

「お二人とも、悲鳴の主を確認したらすぐ戻ってきてください!」

 それを聞いた蓮華は思わずフィロの方を振り向いたが、身体は月下香のそばまで達していた。ただ先程の悲鳴は明らかに月下香のものではない。場所としては鐘つきの山道のほうと、廊下の奥の温泉の方からだった。

「月下香、なにかあった?」恐る恐る蓮華は問う。

「それがのう……山道のほうにおったろーずが声を上げたと思ったら卒倒したのじゃ……」

「ベスティちゃん、温泉の方からも声がしたからそっち見てもらえる? 私はローズちゃんを見てくるわね」

「りょーかい」

 蓮華は山道の方に顔を向けた。なるほど確かにローズが倒れている。向きとしては外から二の部屋の窓を見ていた形だ。すぐにローズの元へ向かう。息はある。おそらくショックで倒れただけだ。そこでフィロが二の部屋で足を止めたことを思い出す。想像に容易く、二の部屋でなにかあったのだろう。蓮華もローズと同じ場所から二の部屋の窓を見た。何も映っては居なかったがローズがわけもなく倒れるわけもない。何かがあったことだけは確かだ。

「ローズちゃん大丈夫? おきれる?」優しく額を叩く。ローズは目を開ける。

「れ、蓮華さん……二の部屋で……えっとね……」

「無理はしなくていいわよ。肩を貸すから一旦あそこの月下香の所まで行きましょう」

 蓮華はローズに肩を貸し、その軽い体重を受け止めつつ館へと歩いた。それほど距離があったわけではないが、何かが起こったという緊張感から、蓮華の足取りは重たかった。

 ベスティは温泉の暖簾を潜った。そこにはらぼと玉藻とりふぉが居り、三者三様の格好を取っていた。しかし一つだけ三人に共通する点があったとしたら、さながら通常の業務をこなすがように手慣れた雰囲気であった。思えばベスティが聞いた温泉側の悲鳴は山道側とは違い、少しトーンが低く厭なものを見たという風な悲鳴であった。

「なにがあったのー?」ベスティは三人に尋ねつつ、動きを観察する。りふぉは半ば諦観したような表情を温泉内部のほうに向けている。玉藻は口に手を当ててはいるものの、どこか三白眼のように目を絞らせている。ラボは二人と違ってテキパキと動いている。職業柄といった所か。ベスティは思わず感心する。

「ああ、ベスティちゃん」ラボが声を上げた。「温泉の中でね、お客様が亡くなっているの」声色的に手のつけられない、助からない状態なのだろう。ラボはベスティに目も合わせずさながら実況見分をしていた。

「でも」と玉藻が声を出す。「今日ってお客様が来る予定、ありましたっけ……?」

「いや、無いよ」ラボが即座に否定する。「手口は簡単だね。正面から両手で首を絞めている。手による絞殺、今日来ている中で一番力が弱いはずのベスティちゃんやフィロちゃんでもできるぐらい、言ってしまえば誰でもできるね」そこでラボが振り向く。「もう一つ悲鳴が上がってたけどこっちではないよ。そっちは深刻な悲鳴だったけど大丈夫だった?」ベスティに問う。

「え? 大丈夫だと思うけどー……フィロちゃんがすぐ戻ってきてって言ってたかな?」

「そう」ラボは体を上げる。少し服が濡れてしまっているが気にしてはいないようだ。「なら向かおうか。どうやらそっちのほうが大変らしいね」

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逢瀬 - 或る女の挑戦状 @philo_0108

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