鳥兜 五

 夢は呪いだ。

 成功は犠牲だ。

 常々、そう思ってきた。

 諦めない限り、いつかは叶う。

 そんな当たり前の――しかし恐ろしく困難で容赦のない真理を言の葉の衣に着せて、人生を縛る。

 恐ろしいことだ。

 夢は夢だけでは叶わない。日常生活に食い込むほどの犠牲を伴って、清濁も超えたその先で、ようやっと、一握りだけがその寿命の中で大成する。

 要は器だ。諦めないでやり続けられる器。頭角を表せる器。

 そして覚悟だ。人生を棒にふる覚悟。他のことを全て擲つ覚悟。

 それに欠ける資質は結局――夢を見るだけで叶える資格はないのだ。

 それなのに、夢を見ることは良いことだと誰もが言う。

 子どもたちに自分の夢を語らせ、実現のために努力する大切さを教える。

 鼻先に人参を吊るして、人生を走らせる。

 いつかは知るのに。世界は、夢は――自分が思い描いたとおりになんて、未来を与えてはくれないということに。

 自分が、夢を叶えられる器でなんかなかったことに。


 

「――牧さん、あの子です、あの子」

 電信柱の影からひょっこり顔を覗かせて、白鳥沙友里が囁く。タイトなスーツで身体をぴしっと締め、サングラスと洒落たベレー帽。沙友理自身のスタイルの良さもあって、ファンションモデルの如く人の目を惹く見栄えだが、いる場所とやっていることが災いして、悪い意味での二度見の対象となっている。手にはアンパンと缶コーヒー。張り込みじゃないんだから、と牧に呆れられても、本人は至って真面目に今のスタイルを貫いている。

 沙友理の横から首を伸ばす牧大輔。こちらはいつも通りのスーツにサングラス。ネクタイまで黒いものだから、こっちは張り込みの刑事というよりは葬儀屋か筋者といった風体だ。沙友理よりも厚手のコート。少しばかり唇が紫色になっている。相当、寒さに堪えている様子であった。

 二人の視線の先には、通りを歩く一人の女性――。靴音をリズミカルに鳴らし、赤いコートの裾で冷風を切って歩く。このところ執拗に降り続いた雨、その狭間に顔を覗かせた晴れ模様につられて、ふらりと外に散歩に出た、そんな様子である。平日の週頭の昼過ぎ。勤め人には猫の手も借りたいほど忙しい時間帯に、呑気なものだ。

 尾行されていることになど全く気付いた様子はなく、二人が潜む電信柱の散歩ほど先を歩く。足取りは軽いが遅い。たっぷり時間を取って、相応に離れたところで、牧と沙友里は通りに出てきて、その後ろ姿を見送る。

 沙友里が、心配そうに呟いた。

「莉子ちゃん……本当にどうしたんだろう。やっぱり、変ですよね?」

 ただ歩いているだけの柚木莉子。その様子が二人の目には異様に映っていた。

 真っ直ぐ歩いているようで、身体はやや左に傾ぎ、安定を保とうとしてか足の踏み込み位置が安定しない。靴音はリズミカルと言うより、むしろ独特のステップを踏んでいるかのようだった。そして首――晴れ空を見上げながら歩いているようで、その視線と爪先が向こうは濁った曇り空であり、首を無理に上げてフラフラと彷徨い歩くその姿は、夢遊病か、下手な操り手に無理やり歩かされているマリオネットのような歪さを感じさせるのだった。

 沙友里の呟きに応えず、牧は沙友里から缶コーヒーを奪って暖を取る。顎に手を当てつつ、考えていた。あの様子――事前情報がそう見せるのか。何かに憑かれているかも知れぬと、そういった目で見れば足取りの些細な癖が異様に映る、そういったこともあるだろう。

 深く息を吐いて目頭を押さえ、もう一度、後ろ姿を見つめる牧。そのまま暫し不動を保った後、沙友里に向かって頷きかけた。

 間違いはない。先入観や事前知識に囚われているわけではない。むしろ、それらがあるからこそ、明確に異常だと判断できる。

「あの目、見ただろう。首がやや上に傾いでいるから、瞳に空が映って、空の青をそのまんま反射しているような色だった。焦点が合わないなんて話じゃァない。ありゃ、吃驚するくらい何も視ていない目だ」

 牧さん目が良いんですね、と驚く沙友里。

「こんな位置から、人の目なんて見れます? しかも、その目が何を映しているかを的確に言い当てるって――その観察眼と表現力には、ちょっと引きます」

 ストーカー見るような目で見るんじゃないよ、と牧は沙友里を叩く真似をする。沙友里は牧の顔にぐっと寄って、

「それに牧さん、サングラスでしょ。色まではっきり分かったんですか?」 

 まァそんなとこだ――とはぐらかすように言う牧。その目は大通りの向こうに消え行った柚木莉子の背中を未だに追っているようだった。

 牧から缶コーヒーを取り返して掌に転がし、深々と嘆息する沙友里。旧友の変貌に流石に堪えたか、いつもの溌剌さがなく、心細げな色さえ声に混じらせて牧に問いかける。

「あたしたちは……この後、どうしたら良いんでしょう」

 そうさな、と顎を撫でさすりながら、牧は答えた。

「こっちはスタートラインにも立てちゃいない。実際に見てみて、ただ事じゃねヱことだけは判明したが、うちの管轄になるかどうかだって分からんだろう。この前、涼介が言ってたように、憑き物と付喪神は重なる部分があるかも知れんが、全部の憑き物に付喪神が絡んでいるわけでもない」

「そうですね――。莉子ちゃんが怪しい壺でも収集してるとか、数珠でゴテゴテ飾り付いているとかだったら、或いは、と思ったんですが」

 そりゃァ霊感商法で話が別だよ、と牧は軽く笑い、

「乗り掛かった舟だから、柚木さんのことをもっとよく知らべてみよう。仮に、付喪神の仕業だったとしたら、明確にせにゃならんことが二つある。ほれ、いつも局長が言っている奴だ」

「付喪神の正体と、それが人と関わる切欠となる出来事、ですか」

 牧は頷いて、

「付喪神自体はありふれた存在だ。それが人の目につくかどうかは付喪神じゃなくて、それを見た側の心境次第だよ。柚木さんが付喪神に憑かれているッてんなら、本人に何かしらの事情があるはずだ。沙友、思い当たることは?」

 難しいですね……と、沙友里。

「やっぱり仕事なんじゃないですか? プライベートのことは、あたしにはさっぱり。杏美ちゃんなら、そこんとこ詳しいかも知れませんけど。――でも、それだったら、あたしに相談する時に教えてくれたと思いますよ。だから……何かあったとしても、周りからは見えなかったんじゃないかなぁ」

 そうさなあ、と頭をガシガシやる牧。

「そうなると厄介なんだよなあ。柚木さんの親から頼まれたわけではないから、身辺の調査にも限界があるし、家もどこまで協力的か分からんし……」

「あたしが直に会って、話聞きましょうか?」

「沙友よりも身近にいる宮沢さんにも分からなかったんなら、沙友にも見極めは難しいンじゃないか。あの様子だと多分――本人は困ってないんだよ」

「困って――ない?」

 眉を顰める沙友里に向かって、牧は寒さに身を竦めるようにして、

「あのな、今までウチに相談があった件ってのは、先に怪奇現象と思しき出来事があって、それに困った人がいて、話が持ち込まれるってパターンだろう。まあ、鰐口の時にはこっちから出向きもしたが、それにしたって、まずは事件ありき、付喪神の禍ありきだったじゃないか」

 それはそうですね、と肯く沙友里。

「今回はそこが大きく違うんだ。柚木さんの様子は明らかに奇妙だったし、痩せていたし、不健康そうな感じではあった。だが、表情に疲労の色はまったく見られなかった。それどころかむしろ、晴天の空に心晴れ晴れとした感じと言うか、解放感というか……まあ、言い方は何でも良いし、俺の主観もだいぶは入っているが、少なくとも憑かれていて辛そう、重そうって感じではなかっただろう。足取りも驚くほど軽かったしな」

「そう、それが逆に不安だったんですよね。ほっといたら空に飛んでいきそうで。え、でも杏美ちゃんと話した時は、もっと、どんよりしていたみたいでしたけど」

「そう。俺もそう聞いていた。その上で実際に会ってみて、ちょっとイメージと違うから腑に落ちんと思ってな。ありゃあ憑りつかれてる自覚がないか、あったとしてもそれを苦に感じていないか、どちらかだって思ったんだ。鰐口の件じゃないが、現実に倦んだ心に忍び入る彼岸の影は、誘われた側にとっては、実害が出るまでは心地よいものであったり、好ましいものに映る場合もよくあるらしいからな」

「実害が出るまで――いやいや、現に莉子ちゃん、憔悴しきっていますよ。害出てるじゃないですか」

「それが本当に付喪神のせいなのかだって、まだ決まったわけじゃない。とにかく情報が少な過ぎるんだよ。修さんがよく言ってるだろう。付喪が関わってるからと言って、何でもかんでもそれを理由とはできないんだよ」

「――」

 全てが腑に落ちたわけではない様子で、それでも一応は頷く沙友里。それにしても、と牧は話を続ける。

「あの夢遊病みたいな足取りは何かに憑かれたものと見て間違いないんだが、あんな不安定な体制で、よくもまあ転びもせずに歩けたもんだ。涼介が言っていたが、憑き物ってのはタチの悪いウイルスとよく似てるんだってよ。何せ姿は見えないし、いつ体に入り込まれたかも分からない。そしてウイルス――憑き物として不完全な奴ほど、すぐに宿主を殺してしまう。宿主の身体を乗っ取ったは良いが、扱いをヘマしてつい無理をさせたり、高熱を出させたりして死なせちまうんだ」

「今度の憑き物は、そんなヘマしないですよね?」

 心配そうに訊く沙友里。まだ分からない、と牧は眉を顰める。

「ただ姿を隠すのは下手だった。傍から見て宿主が異常と断定されるくらいだから、人の扱いには慣れていないよ。引き摺られているような足取りだったし。でもそうやって引っ張られているのを、上手いこと足を送って、安定を――少なくとも、転ばない程度の態勢を保とうとしている感じだった。さっきから考えているんだが、あの身のこなしは柚木さんの体幹の良さに寄るところが大きいンじゃないか?」

「莉子ちゃんの――体幹? ああ、それはそうかも知れません。あの子、元々はダンサー志望ですから」

 ダンサー? と訊き返した牧の声が存外に鋭くて、沙友里は牧の顔を見上げた。

「ええ。あ、言ってませんでしたか? あたしたち、大学ではダンスサークルに入ってたんですよ。あたしや杏美ちゃんはお遊び程度だったけど、莉子ちゃんは小さい頃からやってたみたいで、すっごく上手かったんです。将来は、ジャズダンスの先生か何かの教室を開きたいなんて、そんな夢を語ってくれたこともありましたっけ」

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九十九物怪取締局 @RITSUHIBI

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