【037】愛情

 □綾瀬 奈々花 十四歳


 母が死んだ。

 いつの間にか、ぽっくりと死んだらしい。

 死ぬ間際でも、わたしと母の間に、これといった言葉は無かった。本当に最後の最後まで、母は母ではなく、一人の女として死んだらしい。

 死んだあと、遺言を見つけた。

 遺言は小さな手紙。

 そこには下手くそな字で、住所が記されていた。

 おそらく、父のものだろう。

 いつ、どこで調べたのやら。

 相変わらず、母は底知れない女だった。

 お金はたんまり残っていた。

 母が最後に残した手土産のようなものだ。

 どうにか一人でも暮らしていける。

 わたしは多村弥咲とは違う中学に進学した。多村弥咲とは、かれこれ会っていない。中学に上がると同時に引っ越してしまったからだ。

 その日、わたしは久しぶりに元いた街に戻っていた。

 特に、理由があったわけではない。

 ただ、なんとなく。

 足を運ばせていた。

「……なんも、変わんない街だな」

 わたしはその街を見た。

 本当に、変化がない。

「――……」

 不意に、視線が、止まった。

 その先に、見覚えのある人がいた。

 記憶よりも背が少し高くなっていて、前髪も伸びていた。

 多村弥咲、だった。

 まだ、この街にいたのか……。

 そういえば、多村弥咲の両親はあの事故で死んだようだ。ニュースにも取り上げられていた。その後、多村弥咲がどんな日常を過ごしているのかは、知らなかった。

 なんとなく、わたしは多村弥咲の後をつけていた。

 よくみると、多村弥咲の体はびしょ濡れだった。空を見る。今日は晴天だ。

 ……ああ、中学でもいじめられてるのか。

 ざまあみろ。

 けど、多村弥咲の表情には何もない。

 怒りも悲しみも、何もない。

 ただそこにあるだけ。

 まるで、死んでるみたいだ。

 多村弥咲は孤児院に入っていた。

 そうか、今は、孤児院のいるのか。

「……」

 わたしは、そこから去ろうとした。

 その寸前、後ろから声を掛けられた。

「あの〜」

「……?」

 わたしは振り向く。そこにはセーラー服を着た女の子がいた。わたしより、歳は下っぽく見える。

「うわ、すごい美人さん……」

 女の子はぽつりと呟いた。

「えっと、ウチに何か用ですか?」

 ウチ、とは、孤児院を指しているのだろう。ということは、この女の子も孤児なのか。

「……いえ、別に」

「ミサくんのこと、つけてましたよね?」

 見られていたか。

 それよりも気になる言葉があった。

「……ミサくん?」

「ん、ああ、弥咲だからミサくん。ウチは愛称をつけて呼ぶことにしてるの」

 親近感を強めるためか。

 ミサくん、ミサくん、ね……。

「弥咲くんって、家じゃどんな様子なの?」

 わたしは尋ねていた。

 弥咲くん、なんて。

 久しぶりに口にした。

 女の子はうーんと考える素振りをして、答えた。

「どう、って言われても……、普通だよ? ちょっと大人しいけど、会話もするし、……でも」

「でも?」

「なにを考えてるのか、わからないのが、あるね」

「……ふぅん」

「ほら、ウチに来る人って、それなりの事情があるからなんだけど、最初ミサくんに会ったとき、なにで来たのか、ちょっとわからなかったから。怒っても、悲しんでもない……えっと、なに言ってるかわからないけど」

 いや、わかるよ。

 多村弥咲という人間は。

 どこまでも空っぽなんだ。

 何も響かないから、何も感じない。

 ただ人としての人生を生かされているだけ。だから、両親が死んだことにも、他人事のように感じているのだろう。

 いじめも。何もかも。

 似たもの同士、だった?

 違う。今ならはっきり言える。

 お前は、何もない。空洞みたいなやつだ。

 幸福とも、不幸とも思えない。

 そういう、人間にすらなれないやつなんだ。

「お姉さんってさ、」

 女の子が言う。

 妙ににやにやしてる。

「ミサくんに、ホの字のやつ?」

「なにを――……」

 いや、待てよ。

 これって、良い機会がじゃないのか?

 多村弥咲はおそらく、何も知らないのだ。世界がいかに絶望に溢れていることを。なら、知らしめてやればいい。

 女の子の質問にわたしは唇にそっと人差し指を添えた。

「ないしょ、ね?」

 女の子は年頃のせいか、そういう話には目をキラキラとさせる。

 わたしの言葉に頷いている。わたしは孤児院から去ると、もう決心していた。

 多村弥咲は、両親に愛されていたことを知らない。自分という存在を、どこまでも認識しない。ただ生かされているだけの屍。

 なら、愛してやればいい。

 とことん不幸にして。

 わたしだけしか見えなくして。

 人間にしてやればいい。

 そして、多村弥咲が己を自覚した瞬間。

 こっぴどく捨ててやるのだ。

 自分で、自覚させてやる。

 孤独を、怒りを、悲しみを。

 何もかもを。

 お前に与えてやる。



 □中野 奈々花 十五歳


 ――ズキッ。


 頭が、痛い。

「……わたしは、ミサくんを、愛している?」

 いや、違う。

 わたしは、多村弥咲が嫌いだ。

 今、この感情も、すべて、多村弥咲を陥れるための偽物だ。


 ――ズキッ。


 ああ、今日の寝癖すごかったな、とか。

 寝ぼけた眼がかわいい、とか。

 たまに見せる真剣な顔がかっこいい、とか。

 多村弥咲が人としての何かを取り戻していくたびに。

 わたしの中の何かが崩れていく。


 ――ズキッ。ズキッ。


 視界が明滅した。

 わたしは音を立てて倒れていた。

 音に気づいたのか、父が駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫、か……!?」

「う、っさいな……!」

 触れようとしてきた手を弾いた。

 父の表情が揺れた。

 痛い。痛い痛い痛い。

 頭が、割れるように痛い。


 ――ズキッ。ズキッ。ズキッ。


 あれ、わたしって、なんでと接してるんだっけ?

 ああ、そうだ。

 愛しているからだ。

 わたしが、愛しているから。

 なにか、目的が、あったような気がするけど……。

 あれ? あれれ?

 ……なんだっけ?


 □中野 奈々花 現在


『――きみは、多村弥咲を憎んでいた』

 美香が突き出す電話の先から声がする。

『けど、多村弥咲と接していくうちに、変わってしまったんじゃないのか? きみ自身が』

 うるさい。うるさい。うるさい。

 それ以上、しゃべるな。

『きみの中に、多村弥咲を憎む人格と、多村弥咲を愛す人格が生まれてしまった』

「――」

『きみは多村弥咲のことを愛してしまったのだろう?』

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