【036】憎悪
□綾瀬 奈々花 十一歳
「保健室に先生は……いまは、いないみたい」
わたしは多村弥咲に連れられて、保健室にやって来た。保健室に先生はいない。外出中だろう。
多村弥咲はきょろきょろと辺りを見渡すと、棚に目をつけて、漁り出した。
そこから消毒液とガーゼを持ってきた。
「あ、鼻血と膝の擦り傷は水で流したほうがいいよ」
多村弥咲はそんなことを言う。
膝? わたしは自分の足を見ると、確かに擦り傷を負っていた。転んだときだろうか。今更痛みが来る。
保健室の外にある水道で血を洗い流す。
戻ると、多村弥咲が手慣れた様子で怪我の対処をし出した。
「……慣れてるのね」
わたしは多村弥咲に言った。
「あ、いや、まあ……」
なんだ、はっきりしない言い方だな。
「えっと……よく、怪我するから」
……ああ、そうだった。
こいつも、いじめられていた。
多村弥咲はわたしのように、何かがきっかけでいじめが起きたわけではない。ただ体質のように、いじめられている人間だった。
いつも、おどおどしていて、周りを気にしている。その割に、自分の受けた傷なんかに、気持ち悪いほど鈍感。
何か一つやり返せばいいのに、そういうこともしない。
まるで、自分にも他人にも諦めてるようなやつ。
それが、多村弥咲だった。
いじめの原因で、怪我もよくする。
だから、怪我の対処も学んでいるのか。
「……なんで、助けたの?」
わたしは、訊いていた。
「え、た、助けた?」
いちいち挙動不審になるな。
「べ、別に、助けた、つもりは……」
「いじめられてるわたしに、同情でもした?」
「……そういうのじゃ、ないよ」
多村弥咲は首を横に振った。
「ただ、綾瀬さんと、僕は、似てると、思ったから……」
似てる?
「何もかもを、諦めてるみたい、な感じ」
「――」
ムカつく。ひどく、ムカついた。
知ったような言い方をされて。
けど、当たっていた。
何もかもを諦めている。
母のことも、どこにいるのかもわからない父のことも。いじめる連中も。
すべて、どうでもよくなるほどに。
諦めている。
「……あんた、わたしのこと好きなの?」
「いや、違うよ?」
何を言ってるんだ、みたいな顔をされた。
「ただ、友達には、なりたい、かな。僕、友達いないし」
「いなそうだもんね」
「え、えー……」
「いいよ。友達になっても」
別に、意図はなかった。
ただ、こいつとなら、別にいいかなって。
その時、そう思えたから。
「似たもの同士、仲良くしましょ」
わたしは、多村弥咲と、仲間になった。
◇
小学校の隣に小さな小屋がある。
薄暗くて、何もない空の部屋。
昔、小学校が荷物置き場として使っていたが、建物自体が古くなってしまったために、形だけが残った場所。
汚く、暗く、一部の生徒からは幽霊が出るのではないか、と言われて、人が寄り付かない。
わたしと、弥咲くんは、放課後そこに集まると、お喋りをする。
割と、楽しい時間だった。
似たもの同士のせいか、話が合う。
自分の中にあるもやもやを一気に吐き出せるような。
とにかく、気分が良い。
すぐに、家に帰らなくていいのも良かった。どうせ家に帰っても、母は仕事だ。
「今日、上履き盗まれた。バケツの中に沈められてた。ほんと、ろくでもない連中ね」
「上履きは毎日持ち帰ればいいんじゃない?」
「イヤ。なんで、あんな連中の為に、わたしが何かしなくちゃいけないの? あいつら、わたしのこと、好きなのかな?」
「さあ?」
冷めた対応をされた。
「……ねえ、弥咲くんは、わたしのこと、どう思う?」
「似たもの同士」
「それ以外」
「……友達?」
わたしは、自分の容姿に、それなりの自信があった。冷めた態度はむっとくる。
「わたし、モテるよの」
「みたいだね」
「……好きになったり、しないの?」
「好きになったら、困るのは、綾瀬さんのほうじゃないの?」
「……む、」
弥咲くんのほうが、少し大人っぽくて、悔しかった。
すると、十七時を告げる鐘が鳴った。
この時間になると、外で遊んでいた子どもたちが、こぞって帰り出す。
わたしは、すぐに動かない。
弥咲くんも、動かなかった。
「……帰らないの?」
わたしの言葉に、弥咲くんはくすりと笑った。
「別に、家に帰っても一人だし」
「……ああ、わたしと一緒だ」
「そっか……」
ああ、わたしたちって、本当に似ている。
……それを嬉しく思っていた。
ああ、わたしは、嬉しいのか。
同じ、仲間に、会えたことに。
同じように、いじめられて。
いつも、一人で。
……もしかして。
わたしって。
弥咲くんのこと、好きなのかな?
◇
弥咲くんに会うのが楽しみになっている自分がいた。
授業も給食の時間も昼休みも、受けていたいじめがどうでもいいやと思えるほどに。
楽しいと思えていた。
放課後になると、わたしはすぐに小屋に向かっていた。そこで待ち合わせするのが、最近の自然とできた決め事だった。
その日は、わたしのほうが早く着いた。
いつもは、弥咲くんのほうが早いのに。
……迎えに行こっかな。
そんなことを思った。
あえて、驚かせてやろう。
物陰に隠れながら、弥咲くんを探す。
そこで、小学校から少し離れた場所で、弥咲くんを見つけた。
「弥咲く――、」
言葉は途切れた。
「話すの、久しぶりだね」
「うん」
弥咲くん、誰その女……?
弥咲くんが、知らない女と、話してた。
「その、大丈夫?」
「大丈夫だって、茜音」
「ほんと?」
「うん、平気だから」
「まあ、弥咲がそういうなら……」
あかね、あかね……。
確か、佐藤茜音って人がいたような……。
二人は何か会話している。
そうして、楽しそうに笑っていた。
わたしは、逃げていた。
小屋に戻らず、家に帰っていた。
一人の、家に。
……なんだよ。
なんだよ、なんだよ……!
一人じゃ、ないじゃん……!
全然、似てないじゃない……!
わたしは、ずっと独りだったのに。
弥咲くんには、友達が、いるじゃない。
嘘つき。
◇
あれから、小屋に行かなくなった。
というか、学校にも行かなくなった。
行くのも、面倒になっていた。
いつの間にか、小学校は卒業間近になっていた。学校を行かないわたしに対しても、母は何も言わなかった。
そんなある日。
母が唐突に言った。
「わたし、死ぬみたい」
「………………は?」
何を言われたのか、最初は理解できなかった。
「なんかね、病気みたい。まあ、あと二、三年は頑張って生きてみるけど、健康的とは思ってないから、すぐ死ぬんじゃないかな?」
母にしては珍しく、長台詞だった。
わたしは、混乱していた。
「え、あ、お母さん、……死ぬの?」
「え? 悲しいの?」
……悲しい、のか?
「わたしの娘なんだから。悲しいなんて、思わないでしょう? 大丈夫。わたしが死んだら、お父さんのところに行くといいよ」
なんで、この人は。
死に対して、こんなにも平気でいられるんだ。
「え、あ、その……」
「わたし、あなたを愛そうと思ったこと、一度もないから。何も思わないよ?」
「………………そう、ですか」
はは、ははは……。
わたしは、本当に独りだ。
◇
久しぶりに外を出た。
小学校の卒業式は終わってたみたい。
特に目的があったわけじゃない。
ただ、外に出たい気分だった。
母は、あまり仕事をしなくなった。
家にいるけど会話は無い。
……独りになるのが嫌だったはずなのに、独りじゃなくなるのが、嫌になるなんて。
もう、最悪だ。
なんのために……。
わたしはぼぉーとしていた。
だから、信号が赤になるのに気づけなかった。
キキキッッッ!!!!
「あ――、」
車の急ブレーキの音で気づいた。
横から車が近づいていたことに。
横断歩道の真ん中にいた。
避けられない。
死ぬ。……死ぬ?
別に、いっか……。
思い浮かんだのは、弥咲くんの顔。
なんで、こんなときに限って。
あいつの顔が。
似たもの同士だって言ったくせに。
全然、違かった。
もう、いいや――。
キキキキッッッッ!!!!
「え――?」
車が急に方向を変えた。
わたしの前でカーブして、そのまま電柱に激突した。轟音が響き渡り、ガラスが散って、車から人が飛び出て、ガスが飛び散った。
歩行人が事故を見て、悲鳴を上げる。
避け、た……?
わたしを、助けるため?
どうしよう……。
わたしは、車に近寄ろうとした。
そこで足に何かが当たった。車から飛び出てきたものだった。
それを見たとき、心臓を掴まれたかのような気分になった。
それはラッピングされたプレゼントだった。ハッピーバースデーと書かれている。
袋からカードが飛び出ていた。
そこに――
弥咲、誕生日おめでとう!!
わたしはその場から逃げていた。
――ただ、綾瀬さんと、僕は、似てると、思ったから……
似てないよ。
わたしと、お前は似てない。
――別に、家に帰っても一人だし
独りじゃないよ。
お前には友達も、家族もいるじゃないか。
誕生日にプレゼントを用意してくれる人だっているじゃない。
愛してくれる人が、いる。
わたしは、誕生日を貰ったこともない。
愛されたこともない。
母は、わたしを愛してくれなかった。
お前は、愛してもらっていた。
何が、似たもの同士だ。
嘘つき。嘘つき。嘘つき!
――大丈夫?
ねえ、あのとき、なんでわたしを助けたの?
同情だったんじゃないなら。
それは、憐れみだったのか。
わたしは、お前に不幸だと思われていたのか。
今までのことは全部嘘だった。
お前は、仲間なんかじゃない。
ねえ、多村弥咲。
お前なんて、死んじゃえばいいのよ。
誰よりも、不幸になればいいの。
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