【035】少女

 □綾瀬 奈々花 十一歳


 ――死ね、と人は口にする。

 その言葉を放つ重みを本当に理解しているのか、とわたしは問いたい。例えば、この場で死ねと言われたとき、わたしが死んだらどうなるのだろうか。わたしが死んだ原因はその人にならないのではないだろうか。

 その言葉を発したあとを、彼らは、考えないのだろうか。

 考えないから、そうやって。

 平気でその言葉を口にできる。

「綾瀬ー。死ねばいいのに」

 ぼそり、とまたどこから聞こえた。

 わたしは視線だけ向けた。

 同じクラスの女子が集団でコソコソ話してる。

 ……また、か。

 好きだった男の子が、わたしに告白してきて、わたしが振ったから、だっけ?

 それだけで、いじめは起きた。

 いじめなんて、些細なきっかけだ。

 わたしは、クラスからいじめを受けるようになった。

 どこから、か。お母さんが夜の仕事をしてることも嗅ぎつけてきた。男に媚びを売る女。だから、娘もそうなのだと。

 ちょっと、笑えた。

 こいつらは、何も知らないんだ。

 お母さんはその仕事でしか、稼ぐことができなかった。学もない。けど、生きていくためにはお金がいる。

 生きるために、夜の仕事をしている。

 それの、何が悪いの?

 無知で、その場限りの情報しか知らないから、そんなことが言える。

 愚かで、鈍感で、無知で。

 滑稽に思えた。

「――かわいそう」

 誰かが、わたしに言った。

 ……は? なにが、かわいそう?

 わたしの、何がかわいそうなの?

 父親がいないこと?

 いじめられていること?

 貧乏であること?

 母親が夜の仕事をしていること?

 わたしは、不幸なのか?

 お前たちの価値基準で、わたしを不幸と決めつけるな。

 なんで、わたしが、こんな目に。

 ある本で読んだことがある。

 人の幸福と不幸は平等になっており、結果的に同じ幸福と不幸を貰っているんだとか。

 その言葉に、わたしは否定的だ。

 幸福も不幸も、その人の価値基準によって判断される。ならば、それを幸福と思わなければ。不幸と思わなければ。幾らでも幸福や不幸はやって来る。

 わたしは、自分を不幸だと思ったことはない。

 だから、わたしには幸福も不幸もない。

 かわいそうだと、言われる筋合いは一切ない。


 ◇


 母が一日休みのときがあった。

 それは偶然にもわたしの休日と重なった。

 世の親子というのは、休日に遊びに行くこともあるらしい。けど、母は当然わたしと遊ぶことなんてあり得ない。

 ボロボロのアパートの中、敷かれっぱなしの布団の上で母は何かをずっと眺めている。

 かれこれ、一時間は経った。母はいつも、何かを眺めている。ただひたすら。何もせずに。ずっと、ずっと。

 わたしはふと疑問に思い、聞いたことがあった。

「お母さん、いつも何を見てるんですか?」

 母がわたしの方に振り向いた。

 にたぁ、と笑みを浮かべる。

 それは触れてしまえば崩れてしまいそうなほどに、透明で儚い。娘であるわたしでさえ、恐ろしく、不気味に見えた。

「これ」

「――」

 母が手に持っていたものを見て、息を呑んだ。

 誰かの、髪の毛だった。

 一房分。黒い髪を握っている。

「それ……」

「あなたのお父さんのだよ」

「お父さん……」

「わたしはねぇ、お父さんを愛してたんだよ? だけどね、いろんな事情があって、離れなきゃいけなくなったの」

「いろんな事情、って?」

「うーん、世間様とか?」

 母はあっけらかんとしていた。

 くすくすと笑い出す。

「でも、面白いわね、世間様って。十五歳と三十歳の恋愛を犯罪と言うのに、二十五歳と四十歳は年の差の恋愛っていうの。大人は、どこまでも、都合よく、解釈するのだから」

 わたしは、一歩引いてしまった。

 母はそのとき、確かに怒っていた。

 何に、怒っているのか。

 わたしには、わからなかったけれど。

 すごく、怖かった。


 ◇


 その日は、クラスのレクリエーション。

 ドッジボールだった。

 わたしは見学しようとしたけど、担任の先生は、強制的にわたしを参加させた。

 担任の先生は、少しズレていた。

 熱血系教師。その熱意を、人に押し付ける。人気者らしいけど、少し、嫌いだ。

 生徒に歩み寄ろうとするなら、なぜ、わたしの心情も察してくれないのか。

 これが、母のいう、大人は都合よく解釈することしかできない、ということか。

「うわ、残ってるの、綾瀬だけじゃん……」

 そこで気づいた。

 ドッジボールで、わたし一人だけしか残っていない。

 わたしはそんなに避けた記憶もない。わたしの存在が薄すぎて、今まで当てられていなかっただけ。

「なら、ちょうどいいや。よーし、制裁の時間だ」

 わたしの顔面に向かって、ボールを投げてきていた。

 わたしは咄嗟に避ける。

 顔に、当てるつもりだった……?

「おーい、避けるなよっ」

「当たれー、当たれー」

「避けるなよー」

 四方八方からボールを投げられ、わたしは、避ける。ボールは全部、わたしの顔に向かっている。

 外野も、敵側も、みんな。わたしを狙っていた。ドッジボールのルールなんて、お構いなしだ。

 なんで、こんなこと、されなきゃ。

「あっ、」

 転んだ。

 逃げ回っているせいで、足が重くなっていた。その場に手と膝をついてしまう。

「スキありっ」

 ボールが投げられた。

 わたしは避けられなかった。


 がつん! 


 鼻に直撃した。

 一瞬、視界が弾けた。

 ぽたっ、と何かが垂れた。

 鼻血だった。ボールはとんとんと転がり、わたしは鼻から血を流していた。手で抑えようとしたけど、止まらない。

 血が、流れ続ける。

 ああ、服についちゃった。

 血、落ちるかな……。

 服、あまり持ってないのに……。

 周囲を見渡した。

 みんな、ひそひそと笑ってる。

 投げた当人はにやにやと汚い笑みを浮かべていた。

 本当に、なんなんだ。

 わたしが、何をしたいんだ。

 ただ見てるだけのお前たちのほうが。

 よっぽど悪じゃないか。

 こんな連中――


「――大丈夫?」


 クラスから割って出てきた少年。

 それがわたしの側に駆け寄り、手を伸ばしてきた。

 わたしは、そのとき、その男子を初めて認識した。

 それまで、男子という括りに過ぎなったものが、名前として、記憶に残った。

 それが、多村弥咲だった。

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