【034】憎愛

 □葉山 武彦


 車を発進させる。

 館に向かっている途中だが、道が渋滞していた。交通規制をすると、更に時間をロスする。こういうときに限って、不幸は立て続けに起きる。

 携帯の着信履歴を見るが、高橋さんからの電話は無い。

 ――中野奈々花は、通院している記録があります。

 その病名を告げた後、高橋さんがどんな決断を下したのかはわからない。

 けど、もはや確定した。

 いつかの、井上との会話を思い出す。

『犯人はきっと、恐ろしく頭が良いです。けど、不自然な部分もあります』

『不自然?』

『掃除用ロッカーに遺体を詰め込んだことです。あそこまで徹底された犯行をぶち壊してるようなものです。犯行を秘匿するなら、わざわざ掃除用ロッカーに入れ込む必要はない』

 最初は、できる限り遺体を早く見つけさせようとしているのではないか、と僕は睨んでいた。

 だけど、違う。もっと、根本的な部分を見るべきだったのだ。

 この犯行の矛盾である部分を。

 そう、犯人は矛盾している。

 存在自体が、あやふやで。

 まるで、一人ではないかのように――

 それが、真実だった。

 井上、お前はそれに気づいていたのか?



 □高橋 美香


 ナナは多村と手を繋いでいた。

 少し、胸が痛む光景だ。こうやって、真正面で事実を突きつけられるのは、本当に辛い。

 けど、もう向き合わなければならない。

「ナナ、もう、やめにしよ」

 私はナナに向かって言った。

 ナナは私を見ていた。表情は落ち着いていて、何を考えているのか、全然わからない。

 ナナは、いつもそうだった。楽しいこと、嬉しいこと、悲しかったこと、怒ったこと。表情には確かに出ているのに、それが感じられない。本音を上手く隠している。

 私は、ナナと本音で話したことなんて、一度たりともなかったのかもしれない。

 ただ一つ。ナナが本音を見せていたのは、多村の話だけだったかもしれない。

 今なら、そうとも思える。

「やめるって、なにを?」

 ナナは、そう訊いてきた。

 話はわかってるくせに。私の口から言わせたいんだ。

 言えない、と思ってるのかもしれない。

 いや、もう、どっちでもいいとか。

「………………ナナ、なんでしょ? 全部」

「なにが?」

「全部、だよ。ぜんぶっ。痴漢も、ねっちーも、井上さんも、今の起きてる状況もっ。全部、ナナが、やったんでしょう……?」

「…………」

 ナナは答えなかった。

 ただ微笑みを浮かべるだけ。

 私はその微笑みに一歩引いてしまった。なんで、こうまで言われてるのに、何の反応も見せてくれないの。

 私に代わるように、佐藤さんが言う。

「谷山君と、芽吹さん、小林さんを殺したのは、中野さんの、お父さん?」

「…………」

「お母さんは、ずっと昔に秋ヶ丘で起きた事件の被害者だった。その担当していた刑事さんが、あなたのお父さん」

「…………」

「痴漢事件もそう。全部弥咲に罪を着せさせて、田中先生殺したのも、全部あなたなんでしょう?」

「…………ふぅ」

 ナナはひと息ついた。

 まるで、会話に一区切りを付けるように。

 ナナの隣で、すべてを聞いていた多村はナナの答えを待っている。震えた体で、懸命に待っている。もしかすると、信じたいのかもしれない。私と、同じように。

「よく調べられてる。さすが日本の警察もすごいね」

 その答えは。

「いつかは、バレると思ってたけど、まさか美香にバレるとはなぁ……」

 肯定だった。

 ナナは、自分の罪を認めた。

 目の前が一瞬だけ暗くなった。

「なんで、なんでよ……、ナナ」

「なんで? 美香には話したいことあるじゃない」

「は?」

 ナナのそれは恋する乙女だ。

 ナナは多村の腕を組んだ。多村はビクッと体を震わせている。

「わたしが、ミサくんと二人だけの世界を作るためだよ」

 …………なんだよ、それ。

「わたしは、ミサくんが好き。そのためならなんだってできる。わたしが好きな人のことをすごく好きでいるのを、美香は知ってるでしょう?」

「それは……異常よ」

「狂えるほどの愛なんて、素敵じゃないかな? ミサくんはどんどん不幸になっていく。独りになっていく。そこでわたしが彼女になる。わたしたち二人だけの世界の完成だよ? 痴漢事件も田中先生も、すべては尊い犠牲だよ」

「じゃあっ――……井上さんは、どこに、」

「ああ、もう死んでるよ」

 もう心のどこかでは、わかっていたとはいえ、それでも衝撃はあった。

「だって、井上麗奈は、わたしたちだけの世界を壊そうとしたんだよ? なら、どうにかしないと。そんなの、当然でしょう?」

 そうか。そうだったのか。

 目の前の少女は、やっぱり壊れているんだ。人を殺すことに、躊躇いがない。罪の意識すら持たない。

 ただひたすら、どこまでも狂ってる。

 不意に、私の持つ携帯が鳴った。

 私はナナを視界に収めながら、通話を繋いだ。

『良かった……! 今どこに……?』

 葉山さんからだ。私は遅れて答えた。

「中野奈々花と、話してます」

 通話先から息を呑む声。それに紛れるように、運転中の音が漏れていた。

『スピーカーを、つけてもらっても?』

「……はい」

 私はスピーカーをオンにして、携帯を前に突き出した。ナナは私の行動に首を傾げていた。

『……こんばんは、中野奈々花さん』

「あー、その声は確か……葉山武彦さん、でしたっけ? 父から話は聞いてます」

『……隠す気はないと?』

「隠しても無駄でしょう?」

 ナナは葉山さんとの会話でも、動揺一つない。

『僕から、一つ推理を聞かせてもらってもいいかな?』

 葉山さんはそう言った。

 葉山さんが何を言うのか、私にも、佐藤さんにもわかった。

『僕は性分で、何でも疑う性格なんだ。だから、田中明夫殺害事件のときも、まずもって痴漢事件は前座ではないかと睨んでいた。多村君を犯人に仕立て上げるために、起こした事件だと。……けど、違ったんだよ』

「二人だけの世界を作るため……、とナナは言ってました」

『そう。つまり、愛の為だったと。そう中野さんは主張すると?』

「ええ」

『――愛のためなんかじゃあないんでしょう?』

 そこで、初めてナナの表情が揺れ動いた。

 それは、明確な怒りだ。

「え?」

『痴漢事件では、中野さんは多村君を冤罪にするための噂を作った。田中殺害では、人殺しの噂を作った。そして、ロッカーに押し込んだ。そして、館でも事件を起こした。この共通点はただ一つ。多村君がいわれのない罪を着せられていることだ』

 葉山さんから聞いた話と、ナナから聞いた話。ナナは多村と二人きりの世界を作りたいからと言った。これは、すべて、そのための犠牲であると。

 なら、なぜ。

 多村を不幸にする必要がある?

『中野さん、あなたは多村君とどうなりたいの?』

「それは二人だけの世界で……」

『違うよ。きみは、多村君を

 つまりね、と葉山さんは続ける。

『中野さんが今まで行ってきたあらゆる言動は、すべて矛盾してるんだよ』

 好きな人と一緒になりたい。

 好きな人を不幸にしたい。

 ……それは、確かな矛盾。

 ナナの、正体。

「ふふっ、なんですか、それ。それじゃあ、まるで、わたしがミサくんを嫌いみたいじゃないですか」

『…………そうか、きみは気づいていなんだね』

「え?」

『きみは通院してるだろう? 調べてわかった。それが中野奈々花。きみの正体だ』

 すべてが、決定的にずれる。

 その病名は――


『――解離性同一症。つまり、きみは二重人格者だ』


 今、私たちが話しているナナは、もう一人の『中野奈々花』だ。

 


 □中野 奈々花


 ――ズキッ。


 ん? んん??

 わたしが、ミサくんの不幸を望む?

 いや、わたしはミサくんを愛してる。

 誰よりも愛してる。

 すべて、彼を好きだから。


 ――ズキッ。ズキッ。


 ……あれ、そうだっけ?

 なら、なんで、ねっちーの犯人をミサくんに仕立て上げようとしたんだっけ?

 ねっちーを殺したのは……あいつが、家族を侮辱したから。

 わたしは、ミサくんのことが好きだったから。ミサくんの代わりに、殺してやったんだ。


 ――ズキッ。ズキッ。ズキッ。


 あれ?

 だったら、犯人にする必要なくない?

 なんで、犯人にしようとしたんだろ?

 あれ? あれれ?

 どうしたの? わたし?


 ――ズキッ


 わたしは、不幸になって。

 天使みたいに、二人だけの世界を作ろうと思って……。

 なら、どうして、いじめを放置したの?

 なんで、わたしはミサくんに振りかかっていた不幸を、どうにかしようと思わなかったの?

 どうして、恋人になったのに。

 彼の不幸を望んでいるの?


 ――ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。


 頭が、割れるように痛い。

 あれ、わたしは、あれ?


 ――ズキッ。


 ……あ、思い出した。


「わたし、のこと、憎いんだった」


 そうだ、わたしは。

 誰よりも多村弥咲が。


 嫌いだった。

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