【031】贖罪

 □野山 茂


 ――初めて、彼女を見たとき、美しい、と思ってしまった。それが私の罪だ。


 今から二十年も前の話。

 私はある事件の担当をすることになった。

 それが秋ヶ丘学園の女生徒強姦事件だ。主犯と実行犯は取り締まった。が、未成年であるために、確実な報いをすることはできないだろう。

 私はその被害者である綾瀬奈々瀬の調書が主な役目だった。

「――失礼します」

 初めて、彼女と出会ったのは病院だ。

 彼女は検査入院をしていたので、直に私が足を運ぶ。その部屋に入ったとき、私は彼女に見惚れてしまった。

 大の大人が、と思うかもしれない。

 けど、奈々瀬にはそういう魅力があった。

 ある種の、儚さ。

 触れてしまえば、壊れてしまうような。

 そういう儚さがあったのだ。

「貴女の担当をする野山といいます」

「そう、……野山さん、ね。事件のことでしょ? いいよ、好きなだけ話してあげる」

 彼女の口から紡がれる事件の概要は、まるで他人事のようだった。自分のことなのに、自分とは掛け離れたことを言っているようだ。

 彼女は、とっくのとうに壊れていた。

 奈々瀬に両親はいなかった。

 そのため、最終的に施設で預かることになる。私は事件が終息したあとも、奈々瀬という存在を忘れることができなかった。


 ◇


 その日は、雨が降っていた。

 一件の電話がやって来た。非通知だ。

「もしもし?」

『あ、野山さん? 久しぶり』

「っ!? 綾瀬さん……か?」

『ああ、奈々瀬って呼んでくれないの?』

 電話先から雨音が漏れる。

 奈々瀬が外で話しているのがわかった。

「なんで、私の番号を……?」

『事情聴取するとき、一度席を立ったことがあるでしょう? その時少し、ね』

 ぞわっ、とした。

 さも当然のように、奈々瀬は語っている。

『ねえ、わたし、今、どこにいると思う?』

「いや、そんなことよりも……」

 私は声を荒げようとしたとき、当時のペアだった人物が私に声を掛けてきた。

「野山部長。報告です。例の強姦事件の被害者、綾瀬奈々瀬がここ数日、施設から帰ってきてない、と」

「――」

「野山部長?」

「いや、なんでもない。すぐに捜索しよう」

 ペアが去るのを待って、携帯に再び意識を寄せる。そこからくすくすと笑い声が聴こえてきた。

「綾瀬さん。今、どこに――!!」

『あなたの、家』

「っ――!!」

 私は通話を切ると動いていた。

 家の前に着くと、玄関前に座り込んでいた奈々瀬を見つけた。身体がびしょ濡れだった。寒さのせいか、少し身体が震えていた。

 奈々瀬は私を見た。

「あ、本当に帰ってきた」

「そりゃあ……帰ってくるさ」

「ふふ、なにそれ。――くしゅんっ」

「とりあえず、中に入れ。体が冷え込む。ああ、あとシャワーも浴びてこい。服は乾燥機に掛けておくから」

「なんか、保護者みたいだねー」

「保護者だよ」

 家に上がらせ、シャワーを浴びている奈々瀬をよそに、私は乾燥機をかける。

 署に報告をしようと、携帯を出そうとしたとき、お風呂場から扉が開く音。

「あ、着替えは洗面台の隣にあるからなー」

『はーい』

 そういえば、奈々瀬はここ数日施設に戻っていなかったと聞いた。

 なら、私の家に尋ねるまで、一体どうやって過ごしていたんだ?

 少しだけ、嫌な想像が浮かんだ。

 と、思っていたら、後ろから足音が聴こえてきた。私は振り向いた。

「なあ、綾瀬さ――ん!?」

 抱きつかれた。

 奈々瀬さんは服を着てなかった。一糸纏わぬ姿だった。

 私は視線を逸らしながら言う。

「綾瀬さんっ。服を着なさいッ!」

「ねえ、野山さん。なんで名前で呼んでくれないの?」

「そんなことよりもッ――!!」

「わたしねぇ、ここ数日、いろんな男の家を転々としていたの」

「っ――!?」

「もう汚い身体でしょう? だったら幾ら綺麗に取り繕っても、意味ないでしょう? ならさ、もういいと思わない?」

「……なにを、」

「わたしね、初めてだったの。野山さん、すごく優しくて、温かくて。ああ、これが恋かぁ、って思ったの」

 奈々瀬の言葉は甘美で人を陥れるものがあった。

 あるいは、と今なら思う。

 強姦事件は確かに起きた。けど、そう仕向けたのは、彼女だったのではないか、と。

 その真相は、誰にもわからないが。

「わたし、愛を知りたいの」

 奈々瀬は、言う。

「愛されたいし、愛したい。野山さん、わたし、あなたになら、わたしのすべてをあげてもいいの」

 私の拒む手はいつの間にか力を失っていた。奈々瀬はくすりと笑いながら、私に触れるほどの接吻をした。

「ふふ、……タバコ臭い」

 魔性の女。まさに、それが似合う。

「野山さんも、わたしのこと、好きでしょう? この体に触れたいでしょう? 愛したいでしょう? 愛されたいでしょう? 甘くて苦くて、でも、やっぱり甘い。わたしね、野山さんのこと好きよ。恋とか、今まで知らなかったけれど、あなたはわたしに優しくしてくれた。それが仕事だから、とか関係ない。あなたの人柄に惹かれたの。愛してるわ。愛を、実感したいの。生きてる証明がほしいの――」

 私は、床に倒れていた。

 奈々瀬が、私の上に乗っかっている。

「好きよ、

 もう一度、接吻。

「シゲルも、私の名前を、呼んで――?」

「……………………な、なせ」

 ふふ、と奈々瀬は笑った。

 私は堕ちた。

 底のない闇に、ひたすら堕ちた。


 ◇


 それはもう必然だった。

 奈々瀬が子を宿した。

 私は、愕然とした。

 現実に、一気に引き戻されるような。

 私は、罪深い男だった。

 だが、その子を生まれると同時に。

 その後、奈々瀬は子と共に姿を消した。


 ◇


 家の呼び鈴が鳴る。

 私は奈々瀬のことを忘れていない。

 玄関を開けたとき、不意打ちを食らった気分だった。

 目の前にいたのは、奈々瀬だった。

 ……いや、違う。

 奈々瀬の面影が似た少女だった。

 くすっ、と少女は笑っている。

 立ち振る舞い、雰囲気、笑い方。どれもが似ている。

 私は本能的に悟った。

 少女は奈々瀬と、私の娘だと。

「母は病で死にました」

 少女が言った。

「母からの遺言です。――愛してる、と」

 私は崩れ落ちた。

 ただ涙が止まらなかった。

 少女は私を見下ろしながら言った。

。わたしのお願い、聞いてくれるよね?」

 これは、私の起こした罪。

 これから行われるのは、私の贖罪だ。

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