【006】化物

 □田中 明夫


「最初はきっと出来心だったんでしょうね。愛に飢えていたんでしょうか。それとも、高校生ぐらいの年代に性的な興奮を覚える性癖もあったんでしょうか。先生はよく多村君を指名しますよね。それってつまり優越感に浸りたいわけです。けど、わたしには一度指名したきりでそれ以降一度指名してきませんでした。先生は自分が下に見られるのが嫌なんですよ。自分が下である事実に気付きたくないんです。知ってますよ? 先生は大学では最初天才と囃し立てられたのに、独りよがりのものばかりの論文を書いては却下されていたんですよね。当然、それを自分のせいとは思わなかった。それから先生は見下されるようになった。それでも先生は変わろうとしなかった。全ては周りが悪いのだと、自己完結してしまった。自分以外は全員馬鹿で、自分の資質に気づいていないのだと。けど、先生。よく考えてみてくださいよ。人って、わざわざ下を見ると思いますか? そんな労力を使っている暇があるなら、自分のために使うものでしょう。人を馬鹿にするって結構大変なんですよ? あなたは自己完結して、周りが全く見えていなかったから、気づかなかったでしょうけど、きっと、あなたの同期はあなたのことを全く馬鹿にはしてなかったんじゃないでしょうか? 馬鹿にする価値すらなかったんじゃないかな? 好きの反対は無関心と言いますよね。あれと一緒です。けど、あなたはそれ以来、人に見下されるのが大嫌いになってしまった。同時に、人を見下すことの快感を覚えてしまった。援交もその一つなんですよね? あなたと援交した人たちは、あなたに首を絞められたり、乱暴にされたりしたと言っていました。あなたは気丈に振る舞うことで、自分を大きく見せたいんです。授業の指名もそうです。自分の実力をひけらかしたいんですよ。生徒からの視線は気持ちよかったですか? 下を見下すことは楽しかったですか? でも、悲しいことだとは思いませんか? あなたは元々、同じ志を持つ者と一緒に上を目指していたはずです。それなのに、いつの間にか、下ばかりを見て、生徒を痛ぶることに快感を得るような、気持ちの悪い人になってしまいました。亡くなった母君はあなたをどう思っているでしょうね。ああ、多村君の両親を話題にしたのは、自分と重ねた部分もあったのかもしれませんね。母君は夜の仕事で稼いでいて、あなたはほとんど構ってくれることができなかった。早くに亡くなってしまって、親の愛情を知らずに育ってしまった。お前は多村君も同じように重ねたんですよね? 多村君を痛ぶるのはどうでしたか? 楽しかったですか? 気持ちよかったですか? 優越感に浸れましたか? 少しも罪悪感はありませんでしたか? あるわけないですよね。お前はそういう人間なんです。そういう存在なんです。本当に、本当にどこまでも可哀想な人です」


 ◇


 誰だ、コイツは……?

 私は、恐ろしい、と思った。

 こんなに、誰かを恐ろしいと思ったことはなかった。目の前の人物を、同じ人間として見ることができなかった。

 本当に、あの中野奈々花か?

 高嶺の花。学校一の美少女。成績優秀、運動神経抜群、人柄も良し。完璧才女。それが私たち教師の認識。

 けど、目の前にいる中野は違う。

 笑っている。にこにこ、と人柄の良いと言われるあの笑顔を浮かべている。それが逆に不気味だ。

「お前は、誰だ?」

 私は思わず訊ねていた。

 それぐらい、目の前の人物が、同じ中野とは思えなかった。

「誰? とは。ふふっ、おかしなことを言いますね」

 中野は笑っていた。

 こんな状況でも笑っていた。

「中野奈々花ですよ。先生の教え子です」

「違う、違う……、お前は、誰だ」

「だから、違くないですってー」

 それでも私は信じられなかった。

 目の前が中野であれば何なんだ。

 何で、私の個人情報を知っている。

 どうして母親のことを知っている。

 お前は誰だ。誰なんだ。

「援交って犯罪なんですよ。常識ですよね」

 ハッとした。

 本題を思い出した。

「わ、私は援交なんて、していない。何の根拠があって」

「駄目ですよー、SNSなんかに記録を投稿さちゃってー。JK調教記録、でしたっけ? 正直引きました。あれほどまで独りよがりのえっちなんてドMでも誰も喜びませんよー」

「なにを、なんで、ぁ、なぜ」

「画像も動画も既に投稿しました。明日の朝には学校中に広まっているんじゃないですかねー」

 学校中に、広まっている……?

 は? つまり、どういうことだ。

「お、お前っ、なんてことをっ!」

 私は、我を忘れていた。

 中野に襲いかかっていた。

 許せない。許せなかった。

 私の人生設計は、ボロボロだった。

 せめて、一矢を報いなければ。

 いや、そんな考えすら及んでいなかった。ただ身体が、この女を殺すことに必死だった。首根っこを掴んでやろうとした。

 だが、その寸前。


 バチッ!


 意識が暗転した。


 ◇


 目が覚めると、暗い場所にいた。

 私は地面に仰向けにされて、手足を縛られていた。口にもタオルを巻かれて喋れない。身体を動かそうにも、身体中を縄のようなものです雁字搦めにされていて、動けない。

 くそっ、何がどうなっている。

 なぜ、私はこんなことに……!

 私は勢いでごろんと寝転がった。

 黒い部屋にいた。どこにいるかわからない。窓すらない。

 ただこの床の感触を私は知っている。

 どこだったか……。

「起きました?」

「――!」

 私は声の方に視線だけ向けた。

 中野が見下すように立っていた。

「ぅぅぅ――!」

 息を呑んだ。中野は手にナイフを持っていた。暗い場所の中でキラリと光っている。

「あ、これ? 使いませんよ。脅し用です」

 中野はひらひらとナイフを見せつけてくる。脅し用? そんなこと関係無かった。

 この女は、狂ってる。

 私を、殺そうとしている……!

「な、ぁ、うえッ!!!!」

 私は叫んだ。

 それでもタオルに邪魔されてほとんど言語化されていない。

 それでも中野には通じた。

「何故、ですか? そんなの簡単ですよ。田中先生。あなたが多村くんを――ミサくんの両親を話題にして傷付けたから」

 ミサ、くん?

 一瞬誰だかわからなかった。

 まさか、多村弥咲のことか。

 中野は、ヤツのために今この状況を作り出しているというのか。

「ミサくんはね、不幸をいっぱい、いっぱい経験して、いつだったのか、不幸を不幸と思わないようになったんです。いじめられていることにも、自分が原因と思い込む。両親が失っても、自分の醜さに悲しむ。ミサくんは、そういう人なんです。それはもう悲劇の主人公なんかじゃない。ただの人ですよ。空っぽのヒト。――けど、それじゃあ、ダメ」

 何を、言っているのか、わからない。

「ミサくんは、不幸にならないと。不幸だと感じてくれないと。誰よりも不幸になって、誰よりも傷付いて、誰よりも悲しくなくちゃいけない。そこに、わたしが現れるの。天使みたいに。わたしと、ミサくんだけの世界が出来上がる。わたしがいっぱい、いじめられている愛を与えるために、不幸を感じてもらわないと――」

 何が、天使だ。

 お前が天使なわけあるか。

 そんなおぞましい存在がいてたまるか。

 お前は、化物だ。

「けど、あなたはダメ。わたしたちの世界に踏み込んだあなたには罰を与えなければならない。安心してください、先生。先生の尊い犠牲は無駄にはなりません。きっと、わたしとミサくんだけの世界を作る礎になるんだから」

 ナイフを振り上げた。

 おい、それは脅し用じゃなかったのかよ。

 コイツ、言っていることが矛盾してる。

 愛してるから不幸にさせる?

 何を言ってるんだ。

 何をしているんだ。

 なんで! 私が殺される!?

 どうして! 私が死ぬ!?

 やめてくれ。

 殺さないでくれ。


「さよなら、先生――」


 やめ――

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