【004】幸福

 両親が死んだとき、僕は泣くことが出来なかった。

 写真の中に収められた両親の顔。

 それを呆然と見ていた。

 交通事故、だったらしい。

 居眠り運転をしていたトラックが突っ込む。最終的な判決はトラック運転手は執行猶予付きの有罪判決。曰く、そのトラック運転手は会社のブラックさにほとんど不眠不休を強いられており、その根本的な原因は会社の方にある、と判断されたのだ。

 中学生だった時の僕は詳しい事情を聞かされても、それを理解することはできなかった。ただわかったことは、もう両親はいない。これからは独りなんだということ。

 田中先生に両親の事を触れられたとき。

 僕は思い出していた。

 僕の両親の事を。

 そして、気づく。

 僕の両親は、決して良い親ではなかったことを。



 □多村 弥咲


 僕の両親はいわゆる仮面夫婦らしい。

 これは両親が亡くなった後に気づいたことだ。その時に僕が感じたのはショックではなく、納得だった。

 父はほとんど家には帰ってこなかった。母は深夜には帰ってくる。そして、食事を取ると再び仕事に戻ってしまう。実は何度か家に戻り、僕の食事の用意をしていた。一応、僕は問題のある育て方はされていなかった。

 ただ人並みの寂しさはあった、と思う。

 今となってしまえば、その記憶は過去のものであり、僕にとっての両親とは、少なくとも子供を生かし育てる考え方だった。

 決して良い親とは言えなかった。

 だが、悪い親ではなかった。

 少し家庭環境が変わっていただけ。その変わっていた、という価値観も僕によって作られたものに過ぎないのだから、本当に変わっていたかどうかは今もわからない。

 ただ、僕は父は苦手だった。

 父は、エリートだったらしい。

 それ故に、完璧主義だった。

 僕は生まれて間もなく父の元の英才教育が行われたそうだが、二年ほどで父は挫折した。

 曰く、僕には才能が無いようだ。

 だからこそ、父は早くに僕を見限った。

 完璧主義者ゆえに、時間の無駄だと判断したのだろう。

 それに対して、悲しくはなかった。

 ただ、申し訳なかった。

 出来の良い父から生まれたのは、出来の悪い子だった。

 それが、どうしようもなく、申し訳なかった。ここで親を批判する者もいるのだろう。子は親を選べない。その事実に憤慨する者も、きっといる。けど、その時の僕はそうは考えなかった。子が親を選べないように、親だって、生まれる子の優劣を決めることはできない。

 父の背中は遠く、大きく。

 僕は父に苦手意識を持った。

 母は僕にある程度の娯楽を与えた。

 本、ゲーム、食事、お金。

 それが親の愛情代わりのように。

 きっと、もしかすると。

 母も同じように育ったのかもしれない。

 親の愛情を知らない。だから、親の愛情を注げない。別のやり方でしか、自分の子を見ることができなかった。そう思うと、僕は母に愛着が持てた。

 そんな二人が珍しく共に出掛けていたらしい。どこに向かっていたかは不明。

 そして、交通事故に遭って、死んだ。



 僕は今日一日の授業を終えて、家に戻った。部屋に入ると、学生鞄をベッドの上に置いて、トン、と座り込んだ。

 何も、する気になれない。

 田中先生に両親のことを言われたとき、久しぶりに両親のことを思い出した。

 その時に、思い出せた、唯一の綺麗な記憶。

 それが頭にこびりついて、離れない。

 トントン、と扉のノック音。

 いつもなら、呼び鈴が鳴るけど。大きな音を鳴らすのを自重したような、控えめな様子が感じ取れた。

「開いてますよ」

 僕は扉に向かって言った。

 扉がゆっくりと開く。

 そこにいたのは――奈々花さんだった。

「ミサ、くん」

 奈々花さんは泣きそうな顔をしていた。

 玄関で靴を脱いで、僕の前に座ると、目線の高さを合わせた。

 綺麗な瞳に、僕の姿が映った。

「大丈夫?」

「なにが?」

「ねっちー……田中先生に、言われたこと、気にしてるんじゃないかな、って思って」

「……気にしては、ないよ」

「うそだよ。だって、あの後、ミサくん、ずっとぼおっとしてたし」

「……本当に、気にしてはないんだ。ただ思い出したことがあるんだ」

「思い出した、こと?」

 僕は頷いた。

「母が、一度だけ褒めてくれたことがあったんだ。僕の母は、あまり興味を示すことはなくて、それが本当に最初で最後の褒め言葉で……」

 僕は、記憶力がいいみたいだ。

 一度見たものや聞いたものをすぐに覚えられる。瞬間記憶能力というらしい。

 小学三年生の頃、一冊の本を渡された。小難しい学者の本だった。タイトルは『人の心の在り方』。内容は全くと言っていいほど理解できなかったが、本文をすべて暗記できた。それを母の前で言うと、母は少しだけ驚いた顔をした。

 ――すごいわ、弥咲。

 不覚にも、僕は泣いてしまった。

 母から褒められたことなんて一度もなかったから。それ以来、僕は自分の記憶力に自信を持てた。僕が唯一自分に誇っているものと言ってもいい。

「田中先生に言われるまで、僕はすべて、忘れた。両親は、あまり良い親じゃなかったなって、勝手に思って。僕は……両親のことも忘れてしまうような、酷いヤツだったんだって」

「そんなことないっ」

 奈々花さんは僕を抱き締めていた。

「そんなことないよ。ミサくんは、とても優しい人。人ってね、本当の優しさで、接するのは、難しい生き物だと思うの。偽善とか、自己満足とか、そういうふうに捉えちゃうから。けど、貴方は違う。本当に、優しい心を持っている。それは、貴方が酷い人なんかじゃない、証拠じゃない」

 奈々花さんの言葉は、僕の中に蟠っていた黒い何かを溶かすような、甘い言葉だった。僕は奈々花さんに誘われていく。

「両親のことだってそうだよ。貴方は田中先生に言われて、そう思えた。普通は、そんなふうに思えない。貴方だから、そう思えてるの」

 奈々花さんの声は震えていた。

「安心して。わたしは、側にいるから。だから、一人で抱え込まないで」

「……うん、うん……」

 僕は涙が溢れていた。

 こんなに、都合よく優しい人がいるなんて。彼女こそが天使だった。

 僕は彼女の言葉に浸った。

 それは心地よく、幸福に満ちていた。

 僕はいつまでも泣き続けた。



 □???


 翌日。

 学校に田中先生の姿は無かった。

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