【003】日常

 □多村 弥咲


 登校すると、手持ちバッグに入れていた上履きを取り出す。下駄箱で運動靴を履き替える。運動靴は再び手持ちバッグに入れる。

 これは小中高いじめを受け続けた僕が得た経験に基づいた行動だ。上履きも運動靴も置きっぱなしにすれば無くなってしまう。ついでに下駄箱はゴミ箱のように扱われている。なら、最初から自分で持っていたほうが良いのだ。

 一応、自分の下駄箱を見る。

 変態。クズ。消えろ。エトセトラ。

 油性のマジックペンで書かれており、形も殴られた跡がある。

 これは酷い。酷すぎる。

 僕は下駄箱から視線を外した。

 見ていられなかった。

「あ――、」

 後ろから声がした。

 僕は振り向いて、少しだけ体が強張った。

 一人の女子生徒だ。

 制服を校則ぎりぎりのラインで着崩し、それをおしゃれとして確率している。赤のマフラーを巻いていた。

 赤に近い髪色に、大きな瞳。

 本来整った顔立ちは、引き攣っていた。

 僕はポーカーフェイスを努めた。

 だけど、それが出来ていたかどうかは、わからない。

 彼女は、佐藤さとう茜音あかね

 僕の幼馴染み、だった。

「……」

 僕は佐藤さんに背中を向けた。

 今、佐藤さんの顔を真正面に見れなかった。

 佐藤さんは例の痴漢事件の被害者。僕はその加害者、という扱いを受けている。佐藤さんは僕が加害者でないことは知っていたはずだった。

 憎んではいない。これは本心だ。

 佐藤さんもあのときの空気に従うしかなかった。そうであるなら仕方ない。許す許さない以前の問題だと割り切ろうとした。

 だが、実はこの空気を作り出したのは、佐藤さんである、と奈々花さんに言われたとき、戸惑った。

 今まで築いてきたものが、一気に崩れるような。そんな感覚だった。

「あ、ミサ――」

 僕は歩き出す。後ろから声が聞こえたかもしれない。僕は無視した。

 教室の扉の前に立つ。教室の中から笑い声が聞こえてくる。今日もまた一日が始まる。少しだけ気が重かった。

 僕は扉を開けて中に入ろうとした。


 ボスっ。


 頭上に何かが落ちた。

 パサッと白い粉が頭や肩にばら撒かれた。

 こてん、と頭上に落ちたものが足元に落ちた。

 僕が教室に入った瞬間、音が静まり返った。

 くす。くすくす。くすくすくす。

 小さな嗤いが静寂さを際立たせている。

 落ちたのは黒板消しだった。ご丁寧にチョークの粉をたっぷりと付着させたものだ。舞う粉を吸い込み、僕は思わず咳き込んだ。

「お、なんだよ、多村だったのかよー」

 そう教室で響かせた声は男生徒のもの。

 この教室の実質的なリーダーである谷山たにやま君。成績優秀、運動神経抜群とエリート組だ。どこか棒読み口調で言い続ける。

「本当は熊井くまいにやろうと思ったのにー。わ運悪いなー」

 熊井、とは担任の先生の名前だ。

 白々しい言い訳だった。

 このクラスは、少しおかしい。

 いや、だいぶおかしい。

 この空気が、当然のものとなっている。

 僕の状態を見て、くすくすと嗤い、あるいはザマァ見ろと思っている。犯罪者に、制裁を。制裁という大義名分を、見事に振り回す。空気が、それが正しいと言っていた。

 僕は黒板消しを取ると、黒板の前に置いた。それから粉を取るために、水道場に向かおうとした。

 僕が教室の扉を開ける前に、扉が開いた。

 そこに現れた男生徒が僕を見て、うわっと声を上げる。

 学級委員の西田にしだ君だ。

「うわぁ、きったねぇ」

 西田君は僕に聞こえるようにそう言うと、僕の横を通り過ぎていく。同じグループの谷山君に挨拶をしていた。

 遅れて入ってきたのは奈々花さんだ。

 奈々花さんは僕を見て目を丸くした。

 僕はすぐに目を逸らした。

 奈々花さんが教室に入ると、クラスメイトたちがこぞって奈々花さんの周りに集まる。

「おっはよーう、ナナ」

「おはよう、美香」

 奈々花さんの親友である高橋美香さんが奈々花さんに抱きついていた。

 楽しそうな、温かな光景。

 そこに僕はいない。

 僕の存在は抹消されていた。


  ◇

 

 水道場で粉だらけの制服と髪を綺麗にして、教室に戻る。自分の机は廊下側の後ろから二番目の席。隣が一人しかいないのは僕にとって運がいい事だ。

 今日の机は粉だらけになっていた。

 どうやら今日はチョークの粉ブームが来ているようだ。

 僕はティッシュで粉を拭いゴミ箱に捨てる。その作業をしている間に担任の熊井先生が入ってきた。

「おーし、今日も問題ないなー」

 熊井先生もいじめは認知していながら無視する方針を徹底している。もしかすると、学校自体が無視を決め込むのかもしれない。

 話によると、数年前に秋ヶ丘学園は不祥事を起こしている。その時にひどく叩かれたようだ。その為、問題を表沙汰にしたくないらしい。

 毎週行われているあいさつ活動もイメージアップの一貫だとか。

 一限目は、ねっちーこと田中先生の数学だった。

 また、難しい問題をやらされるなぁ。

 毎回授業が終わった日に調べているけど、大学レベルの問題らしい。

 田中先生の授業はひたすら先生が語り、板書を書く授業だ。こんな問題もわからないのか。それが田中先生の口癖。

 その日も、僕は指名された。

 僕は黒板の前に立ち、チョークを手に持つ。

 問題は、当然わからない。

 予習復習は欠かさずやっているからわかる。この問題は高校で行う範囲じゃない。

 後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。

 僕は黒板前でチョークを持ったまま固まった。

 ……チョークを置いた。

「……わかりません」

「こんな問題もわからないのかぁ?」

 田中先生の少し高めの声が教室に響く。

「キミィ、今の時間で三分を無駄にしてしまったよ? 時間は有限。もうキミに何度もチャンスをあげているのに、キミは全然上達する気配を見せないなぁ。チャンスは勝手にやってこないんだ。この程度の問題ぐらい解かなければ。キミ、予習してるかい? した気になっているだけじゃないのかな? あ?」

 ねちねちねち。

 田中先生が言ってくる。

 その表情には、優越感の色が見えた。

「本当に、このクラスには谷山君や中野君のような、優秀な人が揃っているのに、キミみたいな人がクラスの成績を下げる。わかるかい? キミの成績が低くなれば、私にも悪影響が出るのさ。キミは本当に駄目だなァ」

 田中先生はニタァと笑みを浮かべた。

 もう何度も田中先生の言葉を聞いてるけど、未だに心を抉られるような鋭い言葉だ。

「ほんと、まともに育てられなかったからだろうな」

 田中先生はそう言った。

「――」

 …………は?



 □中野 奈々花


 ミサくんは、固まっていた。

 ねっちーの言葉に目を見開いていた。

 あれだけのいじめにも動揺を見せなかったミサくんが両親の話題に触れられて、感情が表に出かけていた。

 ミサくんはそれからもねっちーに色々と言われて、席に戻っていった。その後、呆然としていた。

 ミサくんの状態を見て。

 わたしは苛立ちを覚えた。

 ねっちーは言ってやったり、みたいな顔をしている。

 ねえ、ねっちー。

 ミサくんを傷つけていいのは。

 わたしだけなんだよ?

 お前は、ミサくんの触れてはいけない部分に触れてしまった。

 許さないなぁ。許せないなぁ。

 ミサくんも、そう思うよね?

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