ささやかな変化

あじさい

* * *

「あっ」


 10人余りが集まった職場の飲み会で、僕1人を相手に過去の苦労話をしていたとき、鬼川店長が何かに気付いた。


「こうやって長話に付き合わせるのって、パワハラになるかな?」


 顔の筋肉は笑ったままだったが、表情には一抹の不安が見て取れた。


 僕は曖昧あいまいに視線をそらし、首をかしげた。


 それでも鬼川店長は僕の反応を待ち続けているようだった。

 じっと僕を見つめたまま、何も言わない。

 アメリカ映画で聞いた、『答えを知りたくないことは質問するな』という台詞が頭をよぎる。


「さあ、どうでしょうね……」


 そこで言葉を切って、あとは再び、鬼川店長がしゃべりたいようにしゃべらせるつもりだった。


 ――パワハラとかセクハラとか世間では言いますけど、僕、そういうこと分からないんですよ。僕はそういうこと気にする人間じゃありませんし、そういう言葉を振りかざす側の人間じゃないですから。心配なら自分で本を読んだり、適当な言葉で検索したりして解決してくださいよ。あなたの自己省察に僕を巻き込まないでくださいよ。


 そんなつもりだった。


 本音は違う。

 でも、秘密だ。

 言えば何かが変わるかもしれないが、何も変わらない可能性の方が高い。

 変わるものはすぐに変わるし、変わらないものは100年経っても変わらない。

 学生の頃ならともかく、今の僕は社会の公正さよりも身の回りの平穏の方が大事だし、店長を怒らせるのは嫌だ。

 我慢できる内は我慢する、和を以て貴しとなす、郷に入っては郷に従え、長い物には巻かれろ……。


 なのに、言葉の方が口からぽろりとこぼれた。


「世間じゃパワハラ……か、飲みの席ですから、アルハラになるかもしれませんね」


「アルハラって、アルコール・ハラスメント?」


 言ってしまった僕が激しく後悔したにもかかわらず、鬼川店長はごくあっさりとそう聞いてきた。

 僕はブレーキが間に合わず、「僕は気にしませんけど」という予防線を先に張ってしまって、そのことにも後悔した。

 何にせよ、ボールは僕に渡されてしまっているので、言葉のキャッチボールを続けた。


「そうですね……」


「あれは無理に飲ませることを言うんでしょ?」


 ――酔った上での迷惑行為も含むはずですし、パワハラにせよアルハラにせよ、人が嫌がりそうなことはしないでくださいよ。


 とはさすがに言えなかった。

 そんな僕の心境を、鬼川店長は察したのか察していないのか。


「でも、酔って長話するのもそうか。――ごめんね。気をつけなきゃな」


 謝罪のはずなのに引き続きごくあっさりとしていた。


(この人、本当は何とも思ってないんじゃないかな)


 と僕は思った。


 お互い酔っているということもあり、鬼川店長がどこまで本気なのか分からない。

 この会話を明日以降も覚えているのか、そもそも覚えるつもりがあるのかさえ怪しい。


「もしかして」


 と鬼川店長は続けた。


「今までにも俺、そういうことしてた?」


(え、この話広げるの?)


 というのが正直なところだった。


 まだまだ不安の方が優勢だった。

 でも、わずかながらに、


(この人、価値観が平成初期で止まってると思ってたけど、意外と話が通じるのか?)


 などと、鬼川店長の人柄や今後に期待する気持ちが湧いた。

 今なら言えそうというか、言ってもまずいことにならないんじゃないか。

 と思ったら、あとは深く考えるより先に言葉が出ていた。


「僕はよく知りませんけど、むやみに体にさわるのは、上司と部下の関係だとちょっと怖いかもしれませんね。同性同士でも、距離感が近すぎてパワハラっぽいというか、実際にはそうじゃなくても、何か変な頼み事をされそうな空気を感じちゃうじゃないですか。普段そういうことをしないひと的には。それから、今どきの子たちは大声とか下ネタとか苦手なことが、昔より多いんで、そういうのは一種のアルハラだと思われるかもしれませんね。大学のサークルと違って会社の飲み会って色んな人がいますし、本当は内心思うところがあっても我慢してる人もいる、可能性があるんで。あと、――」


 語り始めたら自分でも止められなくなった。 

 ただ、心の準備ができていない人を巻き込むのは良くないと思い、具体的な人名を出すのだけは避けた。

 鬼川店長は僕の話をふんふんとうなずきながら聞き、時々、言葉の意味や状況の確認のために質問を挟んだ。

 険悪な雰囲気は感じなかった。


 僕はしゃべりながら、2種類の自己嫌悪にさいなまれて、落ち着かなかった。

 1つは、自分も鬼川店長と同じように、酔いに任せて長話をしてしまっていること。

 もう1つは、僕自身の意見としてではなく、あくまで世間や最近の潮流として話をするという、婉曲的で卑怯なやり方から抜け出せないことだった。

「僕は気にしませんけど」

 というスタンスを崩す度胸がないせいで、話がすごく回りくどく、ぼやけたものになり、言葉数ばかり多くなっていった。



「ごめん、ちょっとトイレ」


 僕の話が終わる前に、鬼川店長が席を立った。

 こちらが不思議に思うくらい、ごく何気ない調子だった。

 腹が立ったからとか、気まずかったからとかではなく、本当にお手洗いに行きたかっただけだ、と信じたい。


 急に手持ち無沙汰になった僕は、仕方がないからテーブルや料理なんかを眺めてみた。

 眺めたところで手を付ける気にはならないし、それは分かり切っていたのだが、とにかく思考の空白を埋めたかった。

 もちろん、上手くいかない。


 その後、鬼川店長は再び会場に戻ってきたものの、他の人としゃべり始めてしまって、僕はすっかり取り残された。


 そこに先輩の高木さんと加賀さんが声をかけてきた。


「ちらっと聞こえたんだけど、店長にパワハラを注意してた?」


「ええ、まあ」


(聞いてたんなら入ってきてよ)


 というツッコミは心の中だけにとどめた。

 僕が傍観者の立場なら、自ら進んで渦中に飛び込むことは選ばなかったはずだ。


「お疲れ様。ありがとね、佐藤さん。任せきりにしちゃって悪いなと思ったんだけど、私も内心ずっと引っ掛かってたから、佐藤さんがはっきり言ってくれて良かったよ」


 高木さんは心から僕を称賛しているような、全面的に肯定しているような調子でそう言った。

 加賀さんも頷いている。

 僕は照れ隠しで、苦し紛れに謙遜した。


「でも、酒の席ですから、どこまで聞いてもらえたか分かりませんよ」


 高木さんはパタパタと手を振った。


「こういうのはね、言うことに意味があるんだよ。店長が覚えてなくても、言っていいんだってことを私らが共有できたことが大事なの」


(『私ら』?)


 高木さんと加賀さん2人のことかとも思ったが、ちらちらと周りを見ると、先輩や同期の何人かとすぐに目が合って、頷いたり笑いかけたりされた。


(鬼川店長のハラスメントに不満がある人がこれだけいて、聞き耳まで立ててたのに、みんなして僕1人に押し付けてたんだな)


 と思わなくもなかったが、さっきも書いた通り、そういうのはお互い様だ。

 それに、事後的とはいえ「多数派」の賛同を得られて、悪い気はしなかった。



 結局、その日はもう鬼川店長と話すことはなかった。


 後日、職場で顔を合わせたとき、鬼川店長は飲み会で話したことを何も言わず、普通に世間話や事務連絡をしただけだった。

 覚えてないのかな、とも思ったが、今のところ、従業員の肩を触ったり下ネタを言ったりすることが減っているようにも感じる。

 鬼川店長の心境や価値観が変化したのか否か、変化したとして、今後もそれが持続するのか、それはまだ分からない。

 でも、もしかするともしかするのではないか、と僕は秘かに期待している。




<完>

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ささやかな変化 あじさい @shepherdtaro

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