第31話

 日記を前にしたまま、私はしばらく言葉が出なかった。


 猫が開いてくれたページより以前のページも目を通してみたが、本当になんて事のない日々の事が書かれているだけ。


 家の周りを散歩した。花が咲いた。部屋の掃除をした。


 他にも読んだ本の感想や、自分で書いたのだろう短編の小説もあり、ドゥンケルハイトはここで慎ましく生きていたのだということが文字から鮮明に伝わってくるようだった。


 私は日記を閉じ、もう一度猫に顔を向け問いかける。


「猫さんは、どこまでを知っているのですか?」


 自分で聞いておいてさすがに抽象的すぎるとは思うが、猫は特に文句も言わず考える素振りをした。


「んー、この国の事と、ドゥンケルハイトの事はよく知ってるが、逆にお前はにゃにを知りたいんだ?」


 猫は目を細めて優しく返す。


 本音を言えば一から十まで全て教えて欲しいが、カイン様はあの何も無い沼地で私の事を心配しながら待っているし、ダラダラと観光気分でいるわけにもいかない。


 けれど、今の私には何が必要で何が不要な情報かの精査すらできないのが現状である。


「えっと……猫さん、実は魔国に来たのは私だけではなくてもう一人いるんです。私たちは貴方の日記に触れると吸い込まれるようにしてここに来ました。その理由が分からないと帰れないとも……」


 私はおもむろに腰についていた皮袋に触れ、中から一つ黄色のハートを取り出し話を続けた。


「このハートも、ここに来たらいつの間にか持っていて、私とカイン様――もう一人の男性とで袋に入っているハートの数も全然違いました。この国の仕組みが本当に分からなくて、正直、何から聞けば良いのかも分からないのが現状です」


 私が正直に述べると、猫は

「にゃるほど、あいわかった」

 と相槌を打って腰を上げた。


「百聞は一見にしかず。これが俺の座右の銘だ――――ついてきにゃ」


 そう言って猫は机から飛び降りると、また二足歩行で歩き出し、足早に階段を降りて行った。


 私もその後を追うと、猫はドアを開けて外に出たかと思えば、両手を後ろで組み、池を覗き込むようにして立っていた。


 猫が言っていた百聞は一見にしかずとはどういう事かと、猫が覗き込む先を同じように見れば、そこには来る時にも見た月が映っている。


「悪いが、家から桶を持って来てくれにゃいか? 俺は昔から水が苦手でねぇ。水瓶の横にあるから」


 私は言われるがまま家に戻り、水瓶の横に立て掛けてあった桶を持って猫に差し出した。


「これのことですか?」


「あぁ。それで月を掬ってごらん。重たいから気をつけて」


 月を掬うって、一体どういう意味?


 私が疑うような目で猫を見つめると、猫はいいからやってみろと私の背中を押す。


 私はよく分からないなりに橋の上から桶を池の中に沈めて、言われるがままに月を掬うようにして持ち上げた。


 すると、先程まで池に映り込んでいた月は私の持つ桶の中でゆらゆらと揺れる水面に映り込んでいる。


 本当に獲れたと驚きつつ、私は桶を持って猫の元へと戻った。


「と、獲れました……!」


 私が水を零さないようにゆっくりと地面に置くと、猫は眩しそうに目を細めた。


「ありがとう。じゃあ始めようか」


 そう言って猫は柔らかな肉球で私の手を取り、桶の中に入れた。


 手で月を支えるように手のひらを上に向けると私が月を持っているかのように錯覚する。


「今から月の子であるお前の力に反応して月が見せたいものを見せてくれるだろう。今からお前の瞼の裏に映るものは月が見ていた景色だ――――さぁ、目を瞑ってごらん」



 私はゆっくりと目を瞑ると、暗かった瞼の裏が急に明るくなるのを感じた。


 そして、白いモヤが晴れていくように色づいた景色が映し出された。



 夜の街だ。


 街といっても地面は塗装されておらず、岩場を削ってできた要塞のような街。


 街はぼんやりと灯った光で溢れており、人では無い生き物が行き交っている。


 動物のような姿の者、足がないスライムのような姿の者、翼のある者、人のような姿だが、目が沢山ある者など、一つとして同じ見た目のものは見られない。


 彼らは露店が並ぶ通りで買い物をしているようで、ガラクタのような物を指差し、お金のようにハートの石で支払っている。


「魔国では通貨としてハートが使われている。お前らの国のお金と違ってハートは他人と等価交換は出来るが盗むことはできにゃいから魔国のようにゃ規律が入り混じった街にぴったりにゃのさ」


 急に猫の声が聞こえて驚いたが、今の自分は映像を見ているだけで、この景色の中にいるわけではなかった。


「ほら、一番南にある店の裏をみてごらん」


 私は猫に指示された場所に視点を移すと、そこには痩せ細った黒髪の小さな男の子が座っていた。


「あの少年がおよそ千年前のドゥンケルハイトさ」


 少年は足元に缶を置き、ハートを下さいと書かれた板を持って通りすがりの人を目で追っているようだった。


「この国で産まれた者はハートを貰って生きていかねばにゃらない。多くの者は生まれた時に両親から赤いハートを貰う。そして成長するにつれて友から黄色いハートを貰い、思春期には恋愛対象としてピンクのハートを貰える。しかし……」


 猫は少し間をあけて話を続けた。


「中にはハートの貰い方……誰かの愛し方や愛され方が分からにゃい者がいる。そういう者は最初に貰えるはずの赤いハートが無いと腹を空かせたままの大人になってしまうのにゃ。そして、どんなに腹が空いても人間のように死ぬことはできにゃい。この国では何年あるか分からない寿命を全うするしかにゃいのさ。運が良いのか悪いのか、ドゥンケルハイトは誰よりも寿命が長かった」


 すると、視界が少しぼやけ、映像が切り替わった。


 ドゥンケルハイトと思われる少年は少し成長し、背が高くなったが相変わらず痩せ細ったままだ。


 成長に伴い着ていた服の袖は短くなっており、寒そうに体を震わせている。


 ドゥンケルハイトは同じ場所に座って、相変わらずハートを下さいと書いた板を手に目の前を通り過ぎる親子を見つめていた。


 小さな子猿が露店で親に何か強請ねだっているようだ。

 親はそれに対し頑なに首を振っており、子猿が座り込みうずくまると、諭すように語りかけ、優しく抱きかかえて去っていった。


 その時、子猿の手の中に赤いハートが一つ握られている事にドゥンケルハイトは気が付いたらしい。

 無邪気な子猿が手を振ったと同時に落ちたそのハートを急いで拾いに行ったが、何度も手からすり抜けていくハートを見て、焦りを含んだ不可解な表情をする。


 そして何かに気がついたように、去っていった親子を恨めしそうな顔で見つめた。そのままゆっくりと顔を伏せると、明かりの付いていない闇へと歩いて行ってしまった。


 顔を伏せる直前にドゥンケルハイトが口をへの字で震わせているのを見て、悲しみなのか、悔しさなのか、怒りなのか、長い前髪で隠れた後では察する事がかなわなかった。


「……ドゥンケルハイトはこの時やっと知ったのさ。他人のハートは貰えないって。何年もここに座っていたのに、誰もその事を教えてあげはしなかった……いや、誰もドゥンケルハイトに気が付いてなかったかもしれねぇ。この時のドゥンケルハイトの気持ちを全て理解してやる事が出来にゃいが、心がすっぽり抜け落ちちまってもおかしくはにゃいだろうよ。自分は誰からも愛されない。他人に疎まれるどころか、視界にさえ入っていなかった……そして絶望の果てに一人たどり着いたのがこの家さ」


 私の視界はどんどんぼやけてきて映像にもやがかかり始めた。ドゥンケルハイトの姿は見えなくなったが、耳元には猫のダミ声が届き続ける。


「気にかけてくれる人も居にゃい、皆が当たり前に知っている事も知らにゃいもんだから、独学で読み書きができる地頭の良さも、魔法が使えないこの国では魔力の高さにも気づく事なく自分自身すら自分を愛してやれなかった。……ただ誰かに必要とされたいという願いすらあいつにとっては雲を掴むよりも難しいことだったんだ。ようやく出来たアンドロイドの友達でさえ、にゃんの力にもにゃれず死にゆくのを見ている事しか出来にゃかった。……辛かっただろうさ。一緒に死ぬ事もできず、無力をにゃげき、自分を呪って生き続けるしかできにゃいんだから」


 猫の話を聞きながら目を擦っても擦っても目の前のもやは晴れず、なんとか目を開くと目の前には眉をハの字にした猫が掠れるような声で優しく笑った。


「――――あいつのために、にゃいてくれてありがとう」


 その言葉でやっと気づいた。そうか、私は泣いていたんだ。


 ドゥンケルハイトの全てを諦めたような泣き顔がノクタスの森で出会った頃のリヒト––––––カイン様に重なってしまったからだろうか。


 きっとドゥンケルハイトは何年も、何世代も同じ事を繰り返して、何も満たされず絶望のままに今も生き続けているんだろう。


 それでも、先ほど読んだドゥンケルハイトの日記からは世の中への恨みや憎しみは感じられなかった。


 日記の最後にドゥンケルハイトが月の国へ行くと書いてあったけれど、もしかしたらそこで彼を変えるような何かがあったのかもしれない。


 ドゥンケルハイトの軌跡を追おう。

 きっと、それが私の知りたい事に繋がってる。


 私は目頭を押さえ、今にも垂れてきそうな鼻水を啜った。


 泣いてる場合じゃない。

 今は早くカイン様に会いたい――――

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