第32話

 私はこれ以上涙が出ないように顔を上げると、猫はもう一度私の手を取り、桶の中に入れ、祈るように言葉を唱えた。


「汝、闇を照らす光となれ。光は月と共に、月は女神と共に――――」


 猫が唱え終わると同時に、桶の中の月はより一層白い光を放った。その光は私のブレスレットに吸い込まれるようにして収束し、暗い水の桶の中には私と猫の手だけが残る。


 辺りが突然暗くなったように感じるのは月が目の前から消えたからだろう。


 篝火だけが今の私達の視界を照らす唯一の灯りとなった。


 猫は寧ろ見やすくなったのか、黄色い目をクリリと丸め、私の目を見つめた。


「これでこの池の月はお前のブレスレットについていたムーンストーンに集約された。ここの月も還るべき場所へ還してやっておくれ」


 私のブレスレットはムーンストーンという石で出来ていたのかと今初めて知る。


 ただでさえお金がない我が家なので、高価な宝石ではない事は確かだけれど、何でできているかなんて特に興味も無かったから仕方が無い。


 しかし、まさかの月に由来する石だったとは……


 私は改めて左腕に付いているブレスレットを見つめた。


 今は暗くてよくわからないけれど、白く見えたり青く見えたりする中に、黄色が混じったような気がしないことも無い。


「この中にさっきの月が入ったんですか……?還るべき場所って、それは一体――――」


 猫は聞こえているのか聞こえていないのか、立ち上がり私に背中を向けて歩き出した。


「おいで、船着場まで送ってあげるよ。目的を達成した今、帰り道が分からにゃくにゃる事も少にゃくにゃいからね」


 両手を後ろ手に組んで小さな歩幅で歩く猫を追いかけ、橋を渡り切った辺りで後ろを振り返れば、もうそこには何処に続いているのか分からない暗い森が広がっていて、ドゥンケルハイトの家は見当たらなくなっていた。


 まるで違う場所に来たかのように戸惑っていると、猫は

「振り返るんじゃにゃいよ」

 と声を響かせた。


「前を向いて、歩みを止めずに帰りたいと強く願うんだ」


 来た時とは違い篝火のない森は暗くて、猫は時折こちらを振り返ってくれるのか、暗闇で黄色く光る目を追いかけて言われるがまま着いて歩いた。

 


 帰りたい。帰りたい。

 カイン様と一緒に帰りたい。

 きっとラホール卿も心配してるわ。


 汚れて泥だらけになったドレスの裾を見たら二人はなんて言うかしら。


 しかめっ面と痛々しげな顔を想像して思わず口元が緩むと、突然灯りが木の隙間から漏れ、森を抜けてひらけた場所に出た。


 篝火が道に沿って並んでおり、到着した時に見覚えがある。


「ここまで来れば大丈夫だろう」


 そう言って猫は振り返り、安心したように私を見上げた。


「猫さん、ありがとうございます」


 私はそう言った後に、そういえば、と言葉を続けた。


「猫さんはどうして月の子である私をここへ呼んだのですか? 私のお願いばかり聞いてもらっちゃって猫さんにも何か目的があったのではないかと今更ながら思ったんですが」


 強い想いが無いと魔国とドレスト帝国は行き来できないと言うけれど、猫が込めた強い想いとは何なのか。


 純粋に知りたいと思って聞くと、猫はニッと目を細めたまま笑って答えた。


「俺はただ、もう一度、ドゥンケルハイトに会いたいだけさ」


「お友達って言ってましたもんね」


「あぁ、あいつはもう忘れてるかもしれにゃいけど」


 そんなこと無いと言えれば良かったけれど、無責任な言葉を発することはできない。


 少しの沈黙が流れ、私は静けさに耐えられなくなり

「あ、あと!」

 と声を絞り出した。


「あと……もうひとつ――――猫さんのお名前を伺ってもよろしいですか? ドゥンケルハイトと話ができるか分からないけど、伝えられる機会があれば伝えます!」


 猫は暗い森へ足を踏み入れながら片眉を上げ、出会った時同様に白い歯を見せて笑った。


 顔の半分以上も上げた口角は、暗闇の中で白く光り、まるで三日月のようにも見える。


「俺の名前にゃまえ


 〝ルナるにゃ〟だよ」



 そう言って、笑い声と共に白い三日月は徐々に欠け、暗い森の中に消えていった。



「……え?」


 思わず私の口から溢れ落ちた声は、吸い込まれるように暗闇へ消えた。


 猫のダミ声が名乗った名は、確かにあの動かなくなったアンドロイドと同名だ。


 いやいやそんなまさか、と偶然で片付けるには無理がある。


 すとんと胸に落ちる感覚とはこの事だろうか。


「そっか…………あなたは姿を変えてドゥンケルハイトが帰ってくるのを待っていたのね――――」


 どういう仕組みかまではわからない。


 けれど、そうだと考えるのが一番辻褄が合うような気がしたのだ。



 私は森へ背を向け、闇の池と書かれた看板まで歩みを進めると、木の船頭の影が霧の向こうで揺れた。


 徐々に近づいてきて船は私の前で止まる。


「オマタセシマシタ〜ツギハ〜沼地ノ一〜」


 私は腰元の皮袋から赤いハートを一枚取り出して木の船頭に渡そうとすると、木の船頭は「帰リハ、ピンク一枚」と言って指の様な枝を左右に揺らした。


 私はそうなんだ、と赤いハートとピンクのハートを取り替えて渡すと木の船頭は「確カニ」と言って受け取る。



 私が船に乗り込むと、沼地に向かって船は漕ぎ出した。


 ギシギシと軋む音を聞きながら周りの景色を眺めていると、木から恐る恐るとしゃがれた声が発せられる。


「オマエ、理由見ツケタ?」


 拙い言葉だが、心配して言ってくれたのだろうことが分かる言い方だった。


「はい!多分、見つけたのだと思います」


「ソウカ。デモ、男ハ見ツケテナイ。デモ、ダイジョウブ」


「大丈夫ですか? カイン様も一緒に帰れますよね?」


「アノ男ハ、来ル理由無カッタ。アノ男、何モ無イ」


 何も無いとはどう言う事だろう?


 ここに来る理由も無かったと言うことかしら?


「とにかく、帰れるんですよね?」


「オマエガ、望ムナラ」


 完璧にコミュニケーションが取れるわけではないから真意を理解するのが難しいが、此処へは私が来るべくして来たわけであって、カイン様は私に巻き込まれただけだったりするのだろうか?


 その可能性も十分にある。


 少しの罪悪感が開き直りに変わる頃には霧が晴れ、陸の輪郭が見え始めた。


 カイン様の方からもこちらが確認出来たのか、人影は立ち上がり、こっちに向かって手を振り、今にも沼に飛び込みそうな勢いだ。


「カイン様ー!!」


 岸辺からも私の名前を呼ぶ声が聞こえる。


 私も、もう一度応えるようにカイン様の名前を呼びながら大きく手を振った。


 私が乗った船が岸辺に辿り着くと、カイン様は私が降りやすいように手を差し出したので、私がその手を掴み、船から降りた瞬間、カイン様に強く抱き寄せられた。



「無事でよかった……」


 抱きしめられているため顔は見えないが、私の頭の横から聞こえる声からは心配でたまらなかったことがひしひしと伝わってくる。


 私も今までで一番強く抱きしめ返しカイン様の胸元に顔をうずめると、嗅ぎ慣れたラベンダーの匂いがほんのりと鼻腔に纏う。


 その安心する香りに包まれると強張っていた力が抜けていくような気がした。


 私自身、強がっていたけれどやっぱり不安だったみたいだ。


「カイン様も無事でよかった。待っていてくれてありがとうございます」


「私は――何もしてない。何も出来なかった……」


 不甲斐なさを恥じるような小さな小さな声だ。


 私は抱きしめていた腕を離し

「そんなこと無いです!」

 と、言葉を続けた。


「何かあってもきっとカイン様が何とかしてくれる––––居てくれるだけで心強い存在で、カイン様がいたから私は行くことができたんです」


 私はカイン様の頬を両手で包みこみ目を見つめた。


 深い青色は不安気に揺れているが、それさえも愛おしい。


「カイン様、城に帰りましょう」


「帰り方が分かったのか?」


「確信はないので、何とも言えません―――でも、なんとなく、こうしたら帰れるんじゃないかっていう案があるんですが、試しても良いですか?」


 私はそう言って、背伸びをするようにカイン様の口に自分の口を近づけた。


 目を閉じ、ゆっくりと触れ合うと、全ての熱が唇に集まってくるような気さえしてくる。


 カイン様は一瞬驚いたように固まったが、すぐにカイン様の大きな手が私の後ろ頭に添えられたので、私はカイン様の頬から手をゆっくりと胸元まで下ろした。


 すると、不意に瞼に光を感じる気がしたので目を開けると、私の手首に付いているブレスレットが淡く光っている。


 カイン様もその様子に気が付き、声を発さず私に目を合わせたので、私はニコリと笑って言った。


「カイン様、これからも側に居て下さい。私……カイン様のことが大好きなんです」


 そう言い終わるか終わらないかのタイミングで私達は光に包まれた――――――

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