夏の約束

浅葱

夏祭りの日に

 夏に帰省するのは二年ぶりだった。

 大学二回生になり、「二十歳の夏の約束」を不意に思い出したのだ。



 駅から一時間に一、二本しかないバスに揺られて約一時間。そこから小学校の脇の砂利道を通って五分程歩くと実家が見えてくる。

 平屋建ての実家の裏は田んぼや畑が広がり、ぽつんぽつんと家が建っているのが見える。田んぼの畦道を通って雑木林を抜ければ国道がある。その先に商店街があるはずだが、相変わらずの田舎っぷりにほっとした。


「ただいま」


 曇りガラスの引き戸を開ける。カラカラと音がしたのを聞きつけたのか、台所から母の顔が覗いた。


「ああ、おかえり。暑かったじゃろ」

「東京ほどじゃないよ」

「そうかえ」


 台所に戻る後姿に声をかけて、荷物を玄関に置いたまま仏間に足を踏み入れた。

 祖父母の写真に挨拶をしていると、「荷物ぐらい持っていかんか!」と怒鳴り声がして肩を竦めた。


 チリンチリーン

 風鈴の音が心地いい。

 縁側に腰かけてぼうっとそれほど広くはない庭を眺めていると、母がお盆に麦茶とどら焼きを乗せて持ってきた。ほぼ家事を終えたのだろう、割烹着は脱いでいた。

 無言で麦茶を飲む。思ったより喉が渇いていたらしく甘いそれを一気に飲んだ。


「疲れたけえ?」

「母さんほどじゃない」

「子どもがなま言うでねえ」

「いてっ」


 コツンと小突かれる。どうも手が早くていけない。

 麦茶のおかわりを入れてもらった。

 ジージージー

 セミの声が汗を誘う。夏だな、としみじみ思った。


「東京はどうけえ?」

「人が多い。田んぼがない。空気が悪い」


 母はカラカラと笑った。


「だどもなかなか帰ってこんっちゅうことは魅力的なんだっぺよ」


 私は頷いた。確かにひどく魅力的な場所であることは間違いない。


「こっちはどう? 相変わらず?」

「変わらずじゃなぁ。ああ……だども、三好みよしさんちの琴音ことねちゃん、覚えとるか?」


 琴音と言われておかっぱ頭の幼なじみが浮かんだ。体が弱く、真っ白い肌をしていたのを覚えている。


「琴音ちゃん、中学ぐらいまでは病院行ったりきたりしとったじゃろ? やっと元気になったっちゅう矢先に交通事故に遭ってな。今入院してるらしいんよ」

「えっ……」


 さすがに驚いた。


「見舞いには……」

「病院の名前は教えてくれたんだども、見舞いは遠慮してほしいさ言われてな。もしかしたらけっこうひどいんじゃなかっぺか」


 絶句した。

 あの日の約束は。



 近所に住んでいたことと、琴音に兄がいたことが交流のきっかけだったと思う。

 妹の様子を見にまっすぐ帰らなければいけない兄。それに付き合っているうちに琴音ともいろいろ話すようになった。

 小学生の頃、一度だけ琴音と夏祭りに行ったことがある。

 あの日は何故か琴音がひどく積極的で、屋台の先にあるおやしろまで引っ張って連れて行かれた。

 琴音が白地に赤い金魚の浴衣を着ていたことを覚えている。


あきらくん。お願いがあるの」

「なんじゃ?」

「あたし体弱いけんど、もし二十歳まで生きられたら……彰くんのお嫁さんにしてくんな?」


 首を傾げて言う琴音は肌の白さもあいまって儚く見えた。


「なんぞ縁起でもないこと言うんじゃ……」

「お願い、約束して」


 真剣な琴音の様子に私は息を飲んだ。

 指切りげんまんを歌って、指を切った後の琴音はとても嬉しそうだった。



 あれから何年経っただろう。

 中学生になって琴音と会うことはほとんどなくなった。

 高校からは東京の私立に通う。そんな話も直接はしないまま。


 あれは冬の日だった。


「東京さ、行くんけ?」


 モコモコのマフラーをした琴音に声をかけられて驚いた。

 子ども同士の交流がなくても近所ということもあり、親たちが話をしていたのだろう。


「ああ、高校からな」

「そう……」


 確認する琴音はなんだか寂しそうに見えて。


「年に一度は帰省するけ……」


 思わず言わなくていいようなことを言ってしまい、内心うろたえた。


「……『約束』、忘れてないべ……?」


 琴音はそれだけ言い残すと速足で通り過ぎて行った。



 東京に向かう日、もしかしたら見送りにきてくれるかもしれないと思っていた。

 けれどそんなことはなく、どこかうぬぼれていた己に内心文句を言いながら私は旅立った。

 それから。

 年一、二回は帰省したが、琴音の姿を見ることはついぞなく。

 それでも心に残っていた『約束』だけがひどく鮮明で。



「そういやぁ、今夜は夏祭りじゃね」


 母の声にはっとする。どうやら追憶の海に沈んでいたようだった。


「おじさんたちも行く言うてるし、行って挨拶ぐらいしてきぃ」

「屋台とか手伝えないよ」

「んなことせんでもよかっぺよ」


 顔を出すだけでも喜ぶはずだと母はカラカラと笑った。

 地元の祭りだ。もしかしたら同級生にも会えるかもしれないと、私は行くことにした。



 田んぼや畑の中に家が点在する場所に満足な街灯などあるはずはなく、暗い畦道で懐中電灯を持って歩く。その先にある真っ暗な雑木林は短いが、小さい頃はとても恐ろしいと思ったものだった。

 田舎の夏は静かなようでいてうるさい。カエルの合唱。セミやいろんな虫の声がそこかしこから聞こえてくる。用水路に落ちる危険さえ回避できれば心細さとは無縁だった。

 雑木林を抜けた先に国道があり、そこでようやくオレンジ色の街灯が辺りを照らしはじめる。それを横切ると昔ながらの商店街。

 祭の音が聞こえてくる。ゆうに三十分も歩いただろうか。会場はその先だった。


 来たからといって何をするわけでもない。

 祭の屋台が並ぶ道をぼんやりと歩く。人混み、というほどでもない数。昔もこんなに少なかっただろうか。

 と、横を小学生ぐらいの浴衣を着た男の子と女の子が走りすぎていく。ふと目で追うとその子たちの頭に犬か猫のような三角の耳のようなものが見えた。


(ん?)


 そして浴衣の後ろについているふさふさの尻尾。


(あれは……)


 唐突に女の子が振り返る。その顔は琴音のものだった。


「琴音……!?」


 思わず追いかけた。

 確か入院しているのではなかったか。

 どうしてこんなところに。

 その小さい姿は。

 耳と、尻尾は。


 屋台の数はそれほどなく、その先のさびれた神社に辿り着くのはすぐだった。鳥居をくぐると、かろうじて祭の提灯だけが人気のない神社の境内を照らしていた。

 振り返ればきっと祭を楽しむ人々の姿が確認できるだろう。けれど何故かそうすることができなかった。

 二人はさい銭箱の前で手をつないで待っていた。果たして女の子の顔は記憶の中の琴音と同じだった。


「彰くん、約束覚えててくれたの?」


 喜色のにじむ琴音の声に、私は自分の行動が間違っていなかったことを悟った。


「どういうわけか、な。……琴音、待たせてごめんな」

「彰くんらしいさ」


 琴音はふふっと笑った。そして男の子に向き直る。


「賭けは私の勝ちさね」

「いまいましい。さきほどまで来るとは思うていなかっただろうに」

「でも彰くんは来てくれたわ」


 男の子はぐっと詰まったようだった。


「しかたない。……帰してやろう」


 その顔を見て私ははっとした。

 男の子は小学生ぐらいの頃の私と同じ顔をしており、忌々しそうに私を睨んだ。


「彰とやら、琴音を幸せにせなんだら承知せんぞ」


 そう言うとその場でくるんと前回りして唐突に姿を消した。あっけにとられる私に琴音は笑みを浮かべた。


「私もそろそろ戻らなきゃ」

「琴音」


 戻る、と聞いて嫌な予感が脳裏をよぎる。


「大丈夫、体に戻るだけよ。……明日は会いにきてね?」

「ああ……」


 すうっと琴音が姿を消そうとした時、私は『約束』をはっきりと思い出して叫んだ。


「琴音! 今すぐは無理だけど……卒業したら……っっ!!」


 琴音は本当に嬉しそうな笑みを浮かべ、今度こそ姿を消した。

 少し離れた祭の喧騒が戻ってくる。

 そういえばここに祀られているのはお稲荷さんだったように思う。


(そうだ。私は琴音がたまらなく好きだった)


 あの夏の夜を思い出す。

 指切りげんまんをした。

 あの時嬉しそうに笑んだ琴音の顔が浮かぶ。

 当然だとは思うが、琴音の外見も想いも変わっているだろう。

 お互いに幻滅するかもしれない。

 けれど琴音は覚えていてくれた。

 元きた道を戻る。

 虫の声。

 かえるの合唱。

 飛び跳ねるバッタ。

 田んぼを飛び回る蛍の光。


 明日は琴音に会いに行こう。



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