キャサリン・スウィート・ドリーム

あおきひび

キャサリン・スウィート・ドリーム

 ショーパブ「カトリーヌ」に来客があったのは、閉店間際の明け方6時のことだった。

 酒瓶の散らかったバーカウンターを手早く清掃し、オカマがどうたらと管を巻く泥酔親父を叩き出し、締め作業も終わりの目処が立った。

 煙草を手にカウンターにもたれて、ヨシノはようやく一息ついた。上品に巻かれた髪の一束が、彼女の頬にわずかな影を落とした。物憂げな瞳が揺れ、紫煙は細くたなびいていた。

 ひとり残っていた店子のルーシィの、来客を告げる声が響く。訪ね人に心当たりもなし、ヨシノは化粧の具合を気にしつつ席を立った。

 照明の消えたホールを抜けて、エントランスに出る。金細工のドアノブをひねると、朝の日差しが眩しく差し込んでくる。

 そして、目の前に天使がいた。ピンクを基調としたロリィタドレスに身を包み、頭にはフリルのボンネットがふわりと載せられている。全身から甘やかな香気が漂っていた。朝日を後光の如く背に抱いて、天使がはにかみながら声を発した。

「すみません。キャサリンがここにいると聞いたのですが」

ヨシノはすぐに気づいた。そのためらいがちなボーイソプラノは、まぎれもなく彼女が「同類」であることを示している。こんな可愛らしい子、どこで見つけてきたのよ、まったくキャサリンったら……。

「キャサリンのお友達ね。さあ入って、たいした歓迎はできないけれど」

 その申し出にロリィタ少女は目を輝かせて、お礼とばかりにぺこりとお辞儀をした。ボリューミーなスカートがふわりと跳ねる。

 残りの仕事は私がやるからと、あれこれ訊きたげなルーシィを先に帰らせる。グラスを磨き帳簿をしたためる間、少女はカウンターに腰掛けて待っていた。滑らかな白いタイツを履いた脚は行儀良く揃えられ、足先には小さなエナメルのシューズが光っている。


「キャサリンのことね。さあ、どこから話そうかしら……?」

 カウンターからホットミルクを出しながら、ヨシノは思わせぶりに尋ねた。

 天使はマグカップを両手で持って息を吹きかけた。白い湯気がゆるやかに立ち上っている。一口啜ると、ふぅと息をついた。

「ここがキャサリンのお店なんですね。とっても素敵」

「奥にはステージもあるのよ。見る?」

「いいえ、今日はキャサリンに会いにきたので」

 ヨシノはわずかに表情を曇らせ、しかしそれを悟られまいと話題を変える。

「ここのこと、キャサリンから聞いたの?」

 ロリィタ少女は可憐な瞳をちょっと潤ませて、ためらいがちに言った。

「はい。来るのは初めてだけど、今日はどうしても、会わなきゃいけなかったから」

 その切実そうな眼差しが気にかかって、ヨシノは斜にしていた姿勢をまっすぐに据えた。

「……キャサリンはね、すごい娘よ。ここらじゃものすごい人気でね。イベントの日なんかは盛り上がってしょうがなかったわ。彼女目当てのお客も絶えなかった」

 ヨシノは昔を懐かしむように呟く。その姿があまりに寂しげなので、少女は不安そうに問いかけた。

「キャサリン、もうここにはいないんでしょうか」

「そうねぇ、確かに、ここにはいない。でも、私たちはみんな、彼女のことをずっと忘れられないのよ」

 ヨシノはおもむろに紙ナプキンを取り出し、ペンでさらさらと文字を書いた。そこにはとある場所の住所と地図が描かれていた。

「行ってあげて、今ならまだ間に合う」

 その言葉に天使はハッとして、素早く立ち上がった。メモを受け取ると、短くお礼を述べて、すぐさま店を飛び出していく。

 ヨシノはそんな少女の後ろ姿を、眩しそうに眺めていた。

「キャサリン、あんたってほんとに、愛されてるわね」


 病室のドアを開けると、そこは個室になっていた。窓際のベッドにはひとりの男性が横たわっている。カーテンからさらさらと風が吹き込み、柔らかな春の日差しが室内を淡く染めていた。

「キャサリン!」

 息せき切って飛び込んで来たのは、例のロリィタ少女であった。男性は驚いた様子で、ベッドから身を起こした。

「あなた……随分と素敵になったじゃない」

「ありがとう。キャサリンのおかげだよ」

 彼女はフリルのポシェットから、口紅をひとつ取り出した。

「あの日、キャサリンがいてくれなかったら、今のぼくはなかったんだから」

 目を細めて、ふたりは過去に思いを馳せた。

 あの時。葬式帰りの男は、公園のベンチに座り込む少年に声をかけた。傷だらけで泣きじゃくる少年に、男は鞄から出した口紅を彼に渡した。

 そしてこう言ったのだ。大丈夫、自分の心に正直でいなさい。このルージュをお守りにして、強く生きるのよ――。

「キャサリン、ぼく、立派に生きた。だから今度はぼくが、迎えに来たの」

 決然と告げる少女を前に、キャサリンはベッドの中で微笑みを返した。

「そう、じゃ、行きましょ」

 二人は手に手を取って、病室を後にした。その後ろ姿は陽光に溶けて、やがて虚空に消えていった。


 あくる日のこと。ヨシノが旧友の病室を訪ねると、そこには誰もいなかった。からっぽの部屋の中、ベッドサイドのテーブルには、古びたルージュがひとつ、きらりと輝いていた。

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キャサリン・スウィート・ドリーム あおきひび @nobelu_hibikito

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