月の女神に捧ぐ花

あるかん

花言葉は「秘密の愛」

 帰りのSHRが終わると同時に私はさっさと荷物をまとめ、教室を飛び出した。

 クラスのオタク連中どもが今人気のバーチャル動画配信者「冷泉・マルガレーテ」が突如活動休止を発表したことについて大声で議論を交わし始めていたが、今の私にはそんなことに耳を貸す余裕はなかった。

 昇降口までダッシュし、靴を履き替えて再び全力ダッシュ。自転車のカゴに鞄を放り込み、唖然としている生徒たちを横目に、勢いよく校門を飛び出した。

 今日はバイトも休みだが、こんなに急いでいるのには理由があった。


 一刻も早く、父さんの不倫現場に向かわなければ……!


 きっかけは先週の月曜日。

 駅前の広場で街頭演説中の衆議院議員襲撃事件があったとかなんとかで下校に使う路線が終日運休になったことで、やむを得ず自転車で自宅まで向かっていた放課後のことだった。


 偶然通りかかった見知らぬアパートの一室に、私の父である三条院正輝さんじょういんまさきが周囲の目を窺いながら入っていくところを目にしてしまったのだ。

 電子機器メーカーで働く父が何故、平日の昼間に安アパートに……しかもやたらと周囲を警戒しながら……。


 間違いなく、不倫だ。


 しかも、大学近くのアパートということは相手はまさか女子大生?

 高校生の娘がいるというのに……我が父のことながら、ドン引きだ。

 幸いというべきかなんというべきか、お母さんはまだ父の不貞に気付いていないようだし、ここは私が一肌脱ぐしかない。なんとか父を説得し、思いとどまらせなければ……!

 

 私は熱い使命感に駆られながら自転車を漕ぎ、例のアパートの近くまで辿り着いた。

 手前のT字路で自転車を止め、そっと顔を覗かせてみると、薄いクリーム色の外観が見えた。

 2階建てのボロアパートで、玄関口には「メゾンマロニエ」と彫ってある。立地的にも、いかにも貧乏学生が住んでそうだ。

 呼吸を整えつつアパートの様子を見守る。

 今朝、お父さんは出掛ける時、お母さんに「少し遅くなるかもしれない」と言っていた。なので、今日ここに姿を現す可能性は高い。

 スマートフォンを開いて時間を確認する。全力で自転車を漕いで来たおかげで、先週より10分ほど早く着いたようだ。ここで見張っていれば、お父さんが部屋に入っていくところを見られるだろう……。万が一、お父さんが現れなくても不倫相手の姿が確認できれば儲けもの……

 なんて思っていたら、アパートを挟んだ奥の路地から、1人の男性が姿を現すのが見えた。

 思わず心臓が止まりそうになる。

 

 私のお父さんだ。


 今朝出かけた時のスーツ姿ではなく、上下スウェットというラフな格好だったが、間違いなく私のお父さんだった。変装までして再び現れるとは……!

 お父さんは慣れた様子でアパートの階段を登り、201号室に入っていった。

 予想していた光景ではあったが、改めて目の当たりにすると、胸の内から熱いものが込み上げてくる……そうか、これが「怒り」か。

 私は湧き上がる激しい感情に流されるままメゾンマロニエの階段を登り、201号室のドアノブを握った。鍵はかかっておらず、すんなり回ってドアが開かれる。

 キッチンの奥にある扉は開かれており、玄関から部屋の奥まで見渡せる。小さな部屋だ。

 ソファに座る人影が見える。人影の主は玄関が開いたことに気付くと、立ち上がってこちらを振り向いた。私はその人影に向かって怒鳴り声をあげた。


 「お父さん!こんなところで何やってんの!不倫なんて、お母さんが知ったら……ん?」


 そこまで言いかけて、私は突然、急激な違和感に襲われた。目の前の男は、まるで狐につままれたような顔で私のことを見ている。その顔は、間違いなく私のお父さんのもの……のはずなのに、何かがおかしい。一体なんなんだ、この違和感は。


 「えっ……お父さん……だよね?」

 「は?何言ってんだお前。お父さんって……そうか、あんた正輝の娘だな?」

 

 男はしばし困惑の表情を浮かべていたが、突然合点がいったように指を鳴らすと今度は苦々しげな目を私に向けた。


 「あの野郎、『誰にも言うな』って言ったのよ……」


 その時、私の背後で玄関の扉が開く気配がし、太陽の光と共にもう1つの人影が姿を現した。


 「す、すまない遅くなって……って、こ、木春!?」


 自分の名前を呼ばれ、私は思わず振り返る。


 「は?誰……って、え!?!?お父さん!?」


 そこに立っていたのは、なんと私のお父さんだった。ただし、こっちはスーツを着ている。

 私は咄嗟にリビングを振り返る。こっちにはスウェット姿のお父さんが立っている。

 え?何これ?分身の術?


 私が混乱していると、スーツ姿のお父さんが声をかけてきた。


 「木春、お前どうしてここに……」

 「どうしてって……いやその前にこの状況は何!?なんでお父さん2人いるの!?」

 

 だが、その答えを聞く前に、私の身体は何かに引っ張られ、スウェットの左腕でヘッドロックを掛けられた。右側頭に何かが突きつけられる。スーツ姿のお父さんの顔面が青ざめるのが見えた。

 そこでようやく、私はスウェット姿のお父さんのそっくりさんに拘束され、頭に拳銃を突きつけられてることに気付いた。

 え、ちょっとやだ。これって私、人質ってこと?

 

 「ま、待て!木春には手を出さないでくれ!」

 

 お父さんの悲痛な叫びが狭い部屋にこだまする。


 「約束を破ったのはお前だろ?このことは誰にも言うなと言ったはずだ」

 「違う!木春がここにいるなんて俺も知らなかった!今朝だってお前の言う通り行動したんだ、今更約束を破るわけないだろう!?」

 「さあ、どうだかな……」


 何やら言い争いが始まる。どちらも同じ声色なのでややこしい。


 「ちょっと待って。ちょっと一旦ストップ……あのー、今スーツ着て玄関に立ってる方が私のお父さんなんだよね?じゃあ今こっちにいる人は誰なの?」

 

 状況を理解すべく、私は話に割って入る。


 「なんだ、俺のこと話してなかったのか。全く、酷い男だぜ……。教えてやるよ、俺は三条院博輝さんじょういんひろき。アイツの双子の弟だ」


 一瞬、室内がシンと静まり返る。訪れた静寂の中、男の言葉の意味を徐々に理解し始める。


 「え……えーーー!?お父さん、兄弟いたの!?しかも、双子だったの!?……え、なんで黙ってたの?」


 驚きと共に新たな疑問が羊の群れのように続々と押し寄せてくる。お父さんに兄弟がいたことなんて、全く知らなかった。なんでそんなこと黙ってたのか。

 すると、お父さんは節目がちになってぽつぽつと語り出した。


 「……博輝はお前が生まれる前に行方不明になって、死亡届が出されていたんだ。俺もつい最近まで生きていることを知らなかったんだ……」

 

 なるほど、そういうことだったのか。


 それならまあいいか。叔父さんがいたところで行方不明だったならどうせお年玉ももらえてないわけだし、秘密にされてたって一緒だ。

 そんなことを考えていると、頭の上から博輝叔父さんの声が聞こえてきた。


 「その様子じゃどうやらあんた、自分の本当の父親が誰かも知らないようだな」

 「!ま、待て!それを伝えるのは今じゃない!」


 博輝叔父さんの言葉に、お父さんが焦り出すのが見えた。お父さんはここに来てからというものずっと驚いた顔をしているが、ここにきて今日イチの狼狽顔だ。


 「え……?本当の父親って……私、お父さんの子じゃないの?」

 「ああそうさ。お前の母さん、ミユキと付き合っていたのは俺だ。お前は俺の子だ」


 なんということだ。私は思わず顔を見上げる。

 まさか、お父さんとは血が繋がっていなかったばかりか、今初対面でいきなり私に拳銃を突きつけているお父さんそっくりの人間が私の生物学上の父親だったなんて……

 次から次へと明かされる秘密に、ちょっと理解が追いつかない。


 「……すまない木春。今まで秘密にしていて。だが、決してお前を騙そうとしていたわけじゃないんだ。お前が20歳になった時、話そうと決めていた。それが、まさかこんなことになるとは……」


 そう言って、お父さんはがっくりと肩を落とし項垂れてしまった。

 あまりに荒唐無稽で突拍子もないこの話はどうやら本当らしい。


 ということは、お父さんはずっと血の繋がらない私を、そんなことは微塵も感じさせずここまで育ててくれていたのか……。そう思うと、なんだか胸に熱いものが込み上げてきた。

 私が内心感激しているのをよそに博輝叔父さん(いや、父と呼ぶべきか?)がべらべらと喋り出した。


 「俺はあの事件以来、記憶を失い別人として暮らしてきた……。しかし去年の暮れ、電車の中で偶然スーツ姿で仕事に向かう俺とそっくりの顔をした男を見たんだ……。それが正輝、お前だ。

 お前の顔を見た時、俺は全てを思い出したよ。

 お前は今仕事も順調で暖かい家庭を築き順風満帆な人生を送っている……。そこに居るのは俺だったはずなのに……。

 どうにかして、お前から全てを奪ってやりたい。そう思って、俺は今のお前を調べ始めた。今ネットで話題のバーチャル動画配信者、「冷泉・マルガレーテ」の正体がお前であることを突き止め、それをネタにここに呼び出して……」

 「いやちょっと待って!? え!? 今なんて!?」


 私は静かに博輝の独白に耳を傾けていたが、耳を疑う発言についツッコミを入れてしまった。

 え? 今のは私の聞き間違いだよね?


 「そうか、これも家族には秘密にしていたんだったな。お前も高校生なら知ってるんじゃないか?今ネットで話題のバーチャル動画配信者「冷泉・マルガレーテ」。その中の人がコイツだ」


 頭をハンマーでぶん殴られたような衝撃が走り、目の前の景色が歪んで見える。

 まさか、自分の父親がネットで美少女アバターの顔を被って夜な夜な生配信していたとは……。しかもそれが人気を博し、クラスのオタク達も熱狂している……。

 今日一のショックかも……目眩と共に、再び胸の内から熱いものが込み上げてくる。……違う、これは吐き気だ。


 どこか意識の遠いところから博輝の声が聞こえる。同時に私のこめかみ部分に鉄の筒が突きつけられる感覚が走る。


 「……とにかく、お前を公私共にめちゃくちゃにして金ふんだくってやろうと思ったが、まさかこんなに上手く転ぶとはな……。さあどうする、いくら血が繋がってないとはいえ、17年も育ててきた娘だ。こいつを殺されたくなかったら、そうだな……1000万円、現金で用意しろ」

  

 なんだこいつ正気か?

 話を聞く限り、一応私、こいつの実の娘なんだよな?

 それを人質に取って兄から金せびるとは……。目の前でお父さんが動揺しているのが見える。

 

 「どうした!早く用意しろ!まさか、できないって言うわけじゃないよな……?」

 「わ、分かった!今すぐ用意する!だから、まずはその銃を下ろしてくれ!」


 可哀想に、お父さんは今にも泣き出しそうだ。それに、1000万なんて大金うちにあるわけない。……いや待てよ、動画配信の収益があるのか……。

 おっといかん、余計なこと考えている場合じゃない。いくらお父さんの双子の弟とはいえ、こいつのやってることは完全に犯罪でどうしようもない小悪党だ。私の中でスイッチが入る。


 卑怯な悪め!決して容赦せん!


 「とうっ!」

  

 私は博輝の右手の甲に裏拳を叩き込む。「ギャッ!」という短い悲鳴とともに博輝は銃を取り落とした。私は足元に落ちた銃を手の届かないところに蹴り飛ばすと同時に、鳩尾にエルボーをかました。潰れた蛙のような呻き声とともに、私はヘッドロックから解放された。

 パッと振り返ると、お腹を抑えて膝をついてる博輝に向かって私はいつもの口上を唱える。


 「社会を蝕む悪党め!私が弾き飛ばしてくれる!くらえ!『モイスチャーシュート』!!」


 私の勇ましい掛け声と共に放たれた鋭いハイキックは博輝の顔面を捉え、後ろのソファごと部屋の隅まで吹き飛ばした。

 

 決まった……。


 つい、いつもの癖で決めポーズを取る。今日は観客がお父さんしかいないのが残念だ。そのお父さんも呆然としてるし……。

 

 「……はっ!こ、木春!怪我はない……うん、無さそうだな……。というか、どうしたんだお前……格闘技でも始めたのか?」


 あれ、お父さんちょっと引いてる?もっと心配してくれてもいいんだけど……。と思ったが、そういえばお父さんには言ってなんだった。それなら驚いても仕方ない。


 「あ、そうそう。実は私、バイト始めたんだ。ほら、西犬頭駅の近くにテーマパークできたでしょ?」

 「えっ!?バイト!?知らなかったな……テーマパークって、あの化粧品会社が運営してるとこか?」

 「そうそう。そこのイベントスタッフでさー。ヒーローショーでヒーロー役とかやってんの」

 「そうだったのか……ずいぶん本格的なアクションをするんだな……。しかし、まさか木春がバイトを始めてるとは……あれ、お前の学校バイト禁止じゃなかったか?」

 

 ドキッ。流石に鋭い。だから誰にも言わずこっそりバイトを始めたのに……。


 「……私が『美容戦隊ビューティファイブ』の『モイストレッド』であることは、学校のみんなには秘密だよ!」

 「あ、ああ……分かったよ……。あ、お前レッドなんだな」

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