第3話
夜まで待っていて欲しいと急にいわれてもやることなんてない。俺は畳の上で寝そべり、天井を眺めていた。
一人になって、この家が広いことに気付いた。こんなにもゆったりとできるのは休日のひと時である。子供が陽気に部屋中を駆け回り、それを愉快に聞く。目を瞑って休息をたしなむ。きっと妻が暴れすぎた子供たちを叱る声が耳に入っているだろう。そして、妻が麦茶を持ってきてくれて飲みながら雑談を交わすだろう。そうしていると子供たちが乱入してきて、困った顔をしながらも、疲れるまで庭か家で遊びに付き合う。
その情景が目蓋の裏に蘇る。少しだけ、哀しくなった。
こくり、こくり、と眠気が襲ってきて、ゆっくりとそれに身を投じた。
――「この桜の木花、お父さんのおじいちゃんが、植えた木で佐木山家をいつも見守ってくれているんだぞ」
親父はよくそんな事を俺に自慢げに話していた。それはもう耳にタコが出来るぐらいに聴いた。本人も、口が酸っぱくなるぐらい言い続けている。そんな父にため息をつく。それがいつもの光景だった。
父は単純明快で、いつも朗らかに笑っていた。そんな顔を見ると、つられて笑ってしまう。少しぬけていて、おっちょこちょいな面もあったが、時折真剣な面持ちに変わるときがある。そのギャップを見るのが可笑しく、好きだった。
親父は休日の時よく庭の手入れをしていた。泥だらけになって休日を過ごすのだ。手入れの時に親父の側に近寄ると、前文のような事を必ず言われる。もちろん他の草花について語られる時もある。正直、嫌だなと思う。だけど何故か足が勝手に出向いてしまう。作業をする父親を見るのが好きなのか、あの言葉を言われるのが好きなのか、どちらなのかは分からない。
俺が近くに寄ると、子供に戻ったような笑みを浮かべ、「襄か、お父さんの話を聞きに来たのか?」
「別に」
俺は素っ気無い返事をするわけだが。実はそうなのかもしれない。ちょうど近くにあった桜の木に腕を組んで寄りかかる。
親父はハハハと大笑いして、ごつくて大きな掌でわしゃわしゃと髪を乱すように撫でる。邪険に扱うが、内心では嬉しかった。
風が吹き、木々がかさかさと揺れて快音が耳を通って心に染みた。
「ハハ、この桜の木も笑っているぞ」
親父は桜の木を見上げ、突拍子もないことを言う。
「なに言ってんだよ。木が笑うわけないじゃん」
笑みを崩さず親父は言い張った。「いいや、笑ったさ。俺にはわかる。なんせ、生まれた時からの付き合いだからな」
「……でもさ、人間と同じように木が表情を出すわけないじゃん」
「そう思うか。お前も大きくなればきっと分かるさ。人間だって植物だって、同じ生き物なんだからさ。形はどうであれ、同じ表情を出せるんだ。それにな……」
「佐木山さん」
俺を呼ぶ声に目が覚めた。
辺りは既に暗く、日は既に落ちていた。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。腕を枕にしていた所為か、畳の跡がくっきりと、模様として描かれていた。
「いつ帰って来たんだ?」
一つ欠伸をしてから辺りを見渡す、どうやら俺と花三田の二人だけのようだ。
「ついさっきです。ちなみに杏梨は庭にいますよ」
フフフと歯を見せる。
「それで、何しに出かけていたんだ?」
よっこいしょと、年老いたなと自嘲しながら、手をついて立ち上がる。
花三田は朗誦しながら、大きなビニール袋を見せ付けた。中にはビールやおつまみがたくさん入っていた。
「花見……しませんか?」
一瞬、幻聴でも聞こえたと思ってしまった。耳を疑った。
「花見をしましょう」
「は? どこでだ?」
「もちろん決まっているじゃないですか。この庭で、ですよ」
言葉が詰まった。この男のセリフが白痴のように聞こえた。
「花見って……こんな枯れ木の下でか?」
「ええ。それがどうかしたんです?」と、一笑する。「毎年行っている大切な行事なんですよね? 今年だけやらないなんて筋が通りませんし、もったいないですよ」
「だけどよ、アレじゃあ……」
苦い顔をする。花見をするといっても主役の桜が栄えないのは何のあじっけもない。主役のいない舞台だ。
しばらく考えにふけった。花三田が期待している目で俺に訴えかけてくる。結局俺は折れて、「少しだけだぞ」と索漢とした花見に参加することを承諾した。
ブルーシートを広げ、その上に三人が腰を下ろした。
「杏梨は、お酒はだめだからオレンジジュースね」
紙コップにぽとぽととジュースを注ぎ、それを持たせた。さらに、俺達の分のオレンジジュースを同じく注ぎ、その場に置いた。これはナンだろうか。
俺は真上の情景を眺めた。あるのは冬のように禿げた枝を、大広くさせる桜の木でしかなかった。はたして、これを花見といえるのだろうか。ここらの周辺には花は植えられているが、緑の芝や石ころが主であり、これでは園芸の鑑賞会ですらままならない。
「楽しいのか? これ……」思わず文句が垂れた。
「ええ」微笑を浮かべる。「ちょうちんとか吊るせば雰囲気は出ると思いますよ」どこで手に入れてきたかは不明だが、祭りで見かける形のちょうちんを木にぶら下げる。
「まあ……ないよりかは、マシか」この花見にほんの少しだけ、色がついた。
「さて、そろそろですかね」
袋から五人分の缶ビールを取り出し、一本は俺に、もう一本は花三田自身が持った。
「準備が整いましたよ」
花三田に似つかないぐらいの大声を張った。力の篭った言い方だった。
しかしそれはどうも俺に向けられたものではない。花三田の視線などが俺ではなく、その後ろに向かっていたのだ。
怪訝の表情を浮かべながら振り向いた。そこには目を見張るものがあった。あっけらかんと、表情を無防備にさせた。
「つれねぇよな。誘ってくれればいいのに」
「まったく、酷い奴だな」
「大野……? 長島……?」
そこにいたのは、しばらく疎遠となっていた友人たちだった。
「ささ、みんな座ってください」
花三田が声を掛ける。
「今日はたんと飲もうぜ」
「久しぶりに酔いつぶれますか」
曇りのない笑顔で高笑いする。二人とも俺の肩を叩き、席についた。俺はあまりの出来事に硬直して身動きが取れずにいた。
「ど、どうして来たんだ……」
「何だよ、来て欲しくなかったのかよ」大野がふてくされた顔で言う。
「そういうわけじゃ……」
狼狽し、我を忘れてしまう。
「ボクが呼びました」
平然とした態度で言う。二人には缶ビールを渡す。
「この二人だけではありませんよ。後ろを見てください」
言われた通りに振り向いた。こんどもまた、やられたように面を食らった。
「あなた……」
粛然と立つ妻の姿が、そこにあった。
「……元子」
瞳孔を開けたまま、妻である元子から目線を外さぬよう、上半身を揺らさず静かに立つ。
「「パパー!」」
二つの甲高い響きが重なる。
「健……陽菜……」
幼い二人は足にしがみついたまま離れようとしなかった。
「あなた」
元子が側に寄る。叩いた跡がまだ消えずに残っていた。
「ごめんなさい」元子が深々と頭を下げた。
それは、本来なら俺が言うべきものである。元子がそれを掠れた声で先に言ってしまった。
「お、おい……」
戸惑う俺。それに関わらず、元子は言葉を続けた。
「私、あなたの気持ちを全然考えていなかったわ。あなたが本当に苦しんでいて、辛くて、悲しんでいる時に、支えられなかった。そういう時こそ、妻である私が支えてあげるべきでした。ごめんなさい」
「……俺の方だよ。謝るのは俺のほうだよ。仕事でいらいらしていて、その鬱憤を晴らすために手を上げてしまった。俺のほうこそ……すまない」
急に目頭が熱くなった。今まで堪えてきたものが全て吹き出る。目蓋を掌で覆い、涙を隠した。
俺の心が水となり音となり、溢れ出した。
右手に、心地よい重さが移乗した。そしてまた一つ、また一つと、重さが宿る。一つ一つ拾う。失くしていたと思っていた、あの重さを。暗がりに落とした重さを。今度はこぼさぬようにと抱きしめる。
――おかえり。
「みんな寝たぞ。お前は寝なくていいのか?」
あの幸せの時間はすぐに去った。もうあれから数時間経っていた。久しぶりのどんちゃん騒ぎだった。言葉を交わしつくし、かれるほど笑って、倒れるまで飲んだ。
今年の花見は、どの年にも無く、溌剌としていて、輝いていた。
「ボクは大丈夫です」
桜の木の下で、杏梨とともにそれを見上げていた。相好を崩しながら。
「お酒はもう大丈夫ですか?」
「まあ、なんとかな。お前は強いな」
「二本しか飲んでいませんから」ニコッと笑う。
「……はあ」そうかい。
「ため息なんてついて、どうかしたんですか?」
「ナンか、久しぶりに幸せな気分を味わったからさ」
花三田は一笑すると「それは良かったです」と言った。
「それよりさ、その子、杏梨ちゃんは寝なくても大丈夫なのか?」
「ご心配なく。まだ、ボク達には大切な仕事が残っていますから」
花三田はオレの裾を引っ張る。先ほどまで花三田が立っていた位置に移動させられた。その位置からは桜の木が閲覧できた。まるで一対一で対面しているような奇妙な感覚だった。
「少しだけじっとしていてください」
花三田の声が掛かる。それと同時に、全く動きを見せなかった睦野寺が両腕をそろそろと上げ、唐突にオレの胸に押し当てた。当惑し、花三田と睦野寺を左見右見する。
だが、その当惑をあっさりと掻き消される驚嘆すべき出来事、いや、現象が起こった。
口があんぐりと開き、幻覚でも見てしまっている様な疑心に襲われた。
「な……何だ?」
睦野寺の掌から、光が瞬き始めたのだ――違う。俺の中からだ。神々しいほどの眩い光を放つ球体に近いそれは俺から沸き出ているのだ。するりと睦野寺の小さな両手の中にしっかりとそれは包み込まれていた。それを包む睦野寺の表情は赤子を抱く母に似ていた。慈愛に包まれていたのだった。
「こっちだよ」と、花三田が先導を始める。桜の木に誘導している。
俺は平衡し、ただただその成り行きを眺めているしかなかった。
次に、オレの人生経験の中で最も体験のしたことのない怪異が起きた。フィクションものに出てくるあの奇抜さを、この肉眼で現実として目撃した。それを簡略化、では無く、もう、そのままの表現の仕方をするのが正しい。
――桜の木に花が咲いた。
ホンの一瞬だった。睦野寺が木に触れた瞬間。瞬きをする少しの間だけで、先ほどまで見も一つも存在するはずのない枯れ木に花がともった。桃色の、誰もが魅了される美しさだった。風が吹くとヒラヒラと花びらが舞う。桃色の雪景色だ。
「六分咲きですね」
花三田が目の前で呟いた。
「これは……?」
驚愕している俺の問いに、一つ間を置いてから答える。
「これは、今の佐木山さんの心ですよ」
「俺の?」
「先ほどまでの枯れ木は、いわゆるボク達と会う前の心。そして今のあなたの心が、この六分咲きです」
「お、俺の心って……待て、何を言っているんだ?」
「心境ととっても構いません。そのほうがしっくりとくると思います。これは、杏梨の力です」
花三田の話についていけなかった。花三田は構わず、粛然と言葉を綴り続ける。
「杏梨は、目と声がだめです。それは前にお話しました。その代わりに、杏梨は人の心を他人もちろん物にも、彼女をパイプにして、それを届ける事ができるんです。それが、これなんです。杏梨を介してあなたの気持ちをこの桜の木に送りました」
「……」
「言いましたよね。人と人との心が繋がるように、人とモノも心が繋がっているって。大事にしているモノほど、その思いが強く反映されるのです」
俺は黙して、花三田の言葉に耳を傾け続ける。
「あなただってそうだと思います。もし、大切な人が傷ついたとき、自分も辛い。それと同じに、大切にしてくれた人が悲しんでいると、モノも哀しいんです。ですから、この桜の木は、あなたを憂い、そしてそのまま枯れてしまった。だけど、今のあなたはそうじゃない。そのように、この桜の木にあなたの心を通して、教えてあげただけです」
「……」
俺は桜の木を見つめた。
――それにな……。
あの時の親父の言葉が蘇る。
――この木は、俺達の親なんだ。子供が元気でいてくれるのが嬉しいんだ。例え植物でも、人の親と変わらない。子供が笑えば嬉しいし、泣いたら悲しい。一緒に感情を共有してくれるんだ。
「そうか……そういうことだったんだよな」
ゆっくりと桜の木に近寄り、抱きしめた。
「ありがとうな。心配してくれて。そうだよな。ずっと見ていてくれたんだよな。見守ってくれていたんだよな……」
そして俺は気付く。
何もかも俺の所為だったんだ。会社もそうだ。社長が威厳を無くしたら部下たちの士気が下がり、それがどんどん繁栄されて衰退していくんだ。俺はトップに立つにふさわしい威厳を見せ、なんの気兼ねもなく、堂々と構えていなければならなかったんだ。
――確かにそうだ。繋がっているんだ。見えないところで、心というものは。
「花三田」
「はい?」
「ありがとう。気付かせてくれて」
「……はい」
「杏梨ちゃんもありがとう」
無表情だったが、言葉は通じたようで、こくりと頷いた。
「もう少しだけ、頑張ってみるよ」
ささやかな風が息吹く。桜の木が踊る。まるで俺を応援してくれているような気がした。
――本当に、
「見事な六分咲きだ」
その桜はどれほど咲き誇るのか 春夏秋冬 @H-HAL
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